肉好きグルメの二字熟語遊び

肉牛 にくぎゅう 牛肉 ぎゅうにく

(例)「肉牛は食肉用の牛であり、生きた動物であるが、牛肉と呼ばれる時点では死んでいる。」

肉牛と二項対立の関係にあるのは、たぶん乳牛である。肉牛は肉を食用にされたり加工されたりし、乳牛は乳を飲用にされたり加工されたりする。
一般人が買うのは肉牛ではなく、屠畜されて部位に分けられた牛肉である。ちなみに牛肉料理の人気ベスト上位は焼肉、ステーキ、ハンバーグ、すき焼き、しゃぶしゃぶだそうだ。できればビーフシチューとローストビーフも加えて欲しい。

食肉 しょくにく 肉食 にくしょく

(例)「肉と言えば、関西では牛肉、関東では豚肉ということになっているが、他に鶏肉、羊肉、山羊やぎ肉、馬肉も食肉である。食肉を好んで食べることを肉食という。」

肉食と二項対立を成すのは草食である。肉類を好んで食べ、肉を主として食べる習性のある動物を肉食動物という。人間は雑食だが、肉類を好む者を肉食主義者、野菜類を好む者を菜食主義者と呼ぶ。おそらく人間を肉食動物や草食動物とは呼びづらいので、主義者と言うのだろう。ベジタリアンの知人は何人かいるが、食事を共にしたことは一度もない。

眼肉 がんにく 肉眼 にくがん

(例)「鮪の頭を調理する時、わが肉眼を見開いて鮪の眼の回りの眼肉をじっと見る。」

鮪の眼肉のユッケ

鮪の眼肉は滅多に流通しないが、ごく稀にスーパーで売られていることがある。魚類の眼の回りの肉では鮪が最も希少だ。鮪の眼玉の回りの肉を牛肉に見立てて細切りにし、味付けして卵の黄身をのせると、牛肉のユッケ以上の味に化ける。もちろん煮付けても上等だ。
眼は、それが人のであれ魚のであれ、よく似ている。じっくり見ていると、見返されているようで不気味になってくる。


〈二字熟語遊び〉は、漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても意味のある別の熟語ができる熟語遊び。例文によって二つの熟語の類似と差異を炙り出して寸評しようという試み。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になることもある。熟語なので固有名詞は除外する。

クリニックの内科医は診た

夕方からよく鼻をかんでいた。喉の奥のほうが痒い。何とか眠れたが、朝になると鼻がグズグズ、痰がよく詰まるようになった。熱は36.6℃、身体はだるくなく関節痛もない。自分では使ったことはないが、こういう症状を誰かが「鼻風邪*」と言った。

*鼻風邪は急性鼻炎の別名。ウイルスや細菌、埃や粉塵、化学物質などが鼻の粘膜に感染し、急性の炎症を起こしている状態。原因の約9割がウイルスである。

これは耳鼻咽喉科の案件だと思ったが、ひとまず懇意にしているかかりつけの内科の医師に診てもらうことにした。耳鼻咽喉科の診察券が見当たらなかったのも内科を選んだ理由の一つだ。

「今日はどうされましたか?」
「何だか鼻風邪のようなんです」
「自分で勝手に鼻風邪などと決めつけたらいけないですよ」
医師、カルテを見る。
「これまで鼻炎の所見をしたことはないですな。鼻風邪だったらウイルスが原因ですがね……。後で測りますが、熱は?」
「平熱です」
「咳は?」
「ほとんどないです」
「喉の痛みは?」
「痛みはないです。痒みはあります」
「鼻水や鼻詰まりは?」
「鼻はグズグズしていて、喉に痰がたまります」
「鼻風邪とか鼻炎だとか言って来られる患者さんが増えていますが、コロナも流行していますよ。検査しましょうか?」
PCR検査ですか?」
「いや、抗原検査なら結果がすぐにわかります」

そう言って、医師は鼻腔に細い綿棒を入れた。ウェっと軽くえずきそうになった。数分後。

「コロナじゃないですね。喉を見せてください」
「アアア~」
「ほんの少し腫れています。アレルギー症状を抑える鼻炎の薬、痰を出す薬、そして念のために鎮痛解熱の薬を処方しましょう。とりあえず4日分。毎日朝昼夕の食後に各1錠飲んでください」


翌週。
「よくなりましたか?」
「鼻水と痰がよく出ました。服用3日後からよくなったような気がしますが、今週中に完治したいので、もう少し飲んでみます」
「では、同じ薬を4日分出します」

喉の痒みが取れた。鼻炎はよくなったような気がするが、相変わらず鼻をよくかみ、痰をよく出している。鼻と喉が連携プレーをして鼻水と痰を出しているのがよくわかる。

鼻と喉から異物を追い出すように促すのがもらった薬の作用なら、先週違和感を覚えた時点で鼻水が出て痰が出たのは自己免疫が働いたからだろう。あのままでもよくなったかもしれないし、やっぱり薬が効いてくれたのかもしれない。ともあれ、今回はクリニックの内科医が症状を診て薬を処方した。耳鼻咽喉科の医師なら症状をどう診て何を処方しただろうか。処方の違いに興味津々だ。早くよく似た症状に罹りたいという衝動に駆られている。

㊟本作は一部事実に基づくフィクションです。

われ語り書く、ゆえにわれ思う

(……)すべてをと考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する〔ワレおもウ、故ニワレリ〕」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理としてためらうことなく受け入れられる、と判断した。(ルネ・デカルト『方法序説』)

ルネ・デカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」は、是非や賛否で片づけるのではなく、考察の一つの材料にするのがいいと思ってきた。「何もかもが虚偽でも、そう考えている自分の存在だけは確かである」――そうであるなら、われ笑う、われ食らう、われ歩く、われ一風呂浴びるのいずれの行為の場合も、「われ在り」が自覚できているような気がする。

われ思うの前に何かがあるはず。思うことができるのは、その前に語ったり書いたりするからではないか。つまり、「われ語り書く、ゆえにわれ思う」が経験的には真理と思われる。

「われ在り」が自己満足であってはならない。われは他者によって認知される存在でなければならない。他者に自分の思いが伝わっていなければ、自分の喜怒哀楽もわかってもらえない。他者は慮ってくれはするが、実感を共有してくれているとはかぎらない。だから「われは語り書く」のである。語ったり書いたりすれば、われの思いに耳を傾け、われがそこに在るのを見て取ってくれる可能性が高まる。ただぼんやり黙ってそこにいるのとは違って、語ったり書いたりすれば少なくとも「われはよりはっきりと在る」ことができるはずだ。

われ語らずして、またわれ書かずして、思考は存在しえないだろう。

デカルトは「われ思う、ゆえにわれ在り」を哲学の第一原理とした。これが第一原理としてもっともふさわしいと証明したのではなく、とりあえず第一原理としたのである。そこで、この第一原理から、韻を踏んで第二原理を導いてみた、おもしろおかしく……。

われ思う、ゆえにわれ在り。
Ware omou, yueni ware ari.

Kare omou, yubeni wake ari.
彼思う、夕べにワケあり。

この第二原理の意味が悩ましく、解釈がいろいろと分かれる。

古代ローマ人の話を聞く

――あなたがいつの時代の政治家にも求めたい改革とは何でしょうか?

第一に情報公開だろう。政治や行政に携わる者は、己たちが交わす議論、おこなうスピーチなどを民衆に公開するべきだ。発言者は言論の責任を負う。責任とは何事も包み隠さないことなのだ。
第二は政治と金の問題。とりわけ政治家と官僚につきものの賄賂に見て見ぬ振りをしてはいけない。いつの時代も金が不正に動く時、汚職まみれの政治家が出てくる。
第三には失業対策と雇用促進だな。たとえば遊閑地があれば、放置していないで農民に再分配する。いとも簡単に食糧と仕事を確保できて、一石二鳥だ。

――文明国家の多様性についてはどのようにお考えでしたか?

文明主義に悲観的な向きもあるが、文明を健全に機能させる方法はある。すなわち、文明の上位に気高い精神性を置くことだ。
文明とは国家を超大にするシステムではない。それは、異民族が固有の文化を維持しながら共存し続ける「ルール」にほかならない。繁栄した国はいずれも異民族を取り込み、技能や適性に応じて活躍の場を与えたのである。
多民族、多文化、多芸術などの多様性を誇り、常に異種なる価値に開かれた社会こそが健全で、変化の活力となる。権力者が長期的な覇権に安住するような風土は不幸だ。

――指導者としての自身が生涯貫いた精神は何だったのでしょうか?

わが時代のわが母語に“CLEMENTIA”ということばがあった。「寛容」を意味する。強引かもしれないが、私は「自らの考えに忠実に生きること」を何よりも大切にしていた。自分は裏切られたが、それは自らの考えに忠実に生きた証だと考えて寛容を貫いた。
寛容の精神と決断は不可分の関係にある。裏切られて暗殺される5年前、覚悟の決断をした。ローマ帝国の同じ支配地でありながら、市民権は川の北側の人々には与えられていなかった。私はローマに再帰するべく、ルビコン川を渡った。あの時の大きな賭けは今もなお「さい・・は投げられた」と伝えられているようだ。

――後付けになりますが、自己紹介をお願いします。

ユリウス・カエサルが刻まれたデナリウス銀貨

私はガイウス・ユリウス・カエサル。紀元前100年生まれだから、キリストよりも1世紀も前の人間だ。暗殺により56歳没。共和制ローマ末期の政務官だった。
古典ラテン語ではCaesarと綴り、カエサルと発音した。フランス語ではセザール、現代イタリア語ではチェーザレと、それぞれ呼ばれる。英語圏はどう言うわけか、私をシーザーと読んでいる。イタリアにない例のシーザーサラダはメキシコ発祥で、アメリカや日本でよく食べられているが、私はあのサラダとは何の関係もない。

 

酷暑の街歩き

わずかな凸凹の道でもつんのめることがある。たいてい左足の着地時に起こる。よそ見歩きして油断すると危ない。年寄りだけではない。先日、前を歩いていた若者もつんのめっていた。暑さでやられている時の足取りの重い歩行は要注意だ。

階段の2段上がりができると思っていたら、いつの間にかできなくなっている。やろうと思えばできるが、無理は禁物。身体の動きに関して言うと、昨年までできていたことが今年しづらくなっていることに気づく。日々平均8,000歩ほど歩き、フィットネスを小1時間しているにもかかわらず。

できると思っていることができないのは身体の動きでは実感できる。実感して少々落胆する。同じことが脳でも起こっているはずだが、脳の場合、あることを思い出せない時に「あれは何だったかなあ」と苦笑いで済ませてしまう。ところが、脳の働きが階段2段上がりができなくなるような状態になっているかもしれないのだ。そう思うとぞっとする。

不要不急で外出するな、自宅にいるなら24時間ずっと部屋を冷やせ、水分はこまめに補給せよなどの熱中症対策には耳を傾けるが、はたして涼しい自宅に閉じこもって水分ばかり補給していてよいものか。熱中症予防と引き換えに運動不足や感覚障害や胃弱症状に悩まされそうな気がする。と言うわけで、酷暑でも欠かさず最低2時間は外出するようにしている。

メトロの最寄駅まで歩き、数駅――場合によっては10駅以上――向こうの、あまり馴染みのない駅で降りる。行き当たりばったりもあるが、大阪メトロが配布しているリーフレットを事前に読んでおく。日傘を差して、なるべく日陰を求めて歩き、旧跡や神社仏閣を訪ねる。メトロで行って歩き、メトロで帰ってくる。ランチを兼ねて外出すれば所要34時間。金曜日の歩数は15,000。辛いほど暑かったが、夕方の42℃の風呂が心地よかった。

土曜日の昨日はメトロを使わずに近場を歩いて8,000歩。地下街や商業施設の地下通路を利用して暑さをしのぐ。古本屋、カフェ、文具店に入り、あまり歩かない通りに足を踏み入れる。碑や看板や建物の写真を撮る。今日は午後3時現在、まだ外に出ていないが、身体に渇を入れるために夕方に外出する。焼肉を考えているが、写真のホルモン店ではない。

函入り上製本を手に取る

昨日、「いつもの古書店」に寄った。以前は頻繁に、そして大量に買い込んでいたが、本棚が飽和状態になっているため最近は買い控えをしている。ひいきにして大枚をはたいてきた古本屋はついに冷やかす場所になった。

店頭にぎっしりと並べられた中に『旅人』という、文庫サイズの詩集を見つけた。初耳の詩人/歌人の有本芳水ほうすい。拾い読みした。表現の奇をてらわず、場面に素直に感応して素直にすっと入って来るうたを綴っている。薄っぺらな文庫本だから、まあいいか。買うことにした。50円。申し訳なく思う値付けである。

古本屋では150円や100円の文庫本が売られ、新品時は高価だったはずの単行本ですら10500円で平積みされるセールもある。単行本は場所を取るし携行して読むのも不便だが、持ってけ泥棒のような値が付けられた掘出し物をよく買ったものだ。

上記の6冊などはどれもはこ入りの上製本。読了した本もあれば、拾い読みしたまま放置している本もある。まったく開きもせずに本棚に置いたままの本もある。ただし、買ったままで読んでいない本でも、何度か手に取ることがある。装丁を楽しむためだ。

古本屋で売られている函入りの本には、函がかなり劣化したものと新品同様のものがある。前者はよく読まれた本であり、後者は贅を尽くして装丁したもののあまり売れず、新古本として並んでいる本である(さもなければ、売りさばいた人がとても丁寧に扱っていた)。

函入りの本を頻繁に手に取って函から本を引っ張り出していると、本も函の角も傷む。本の蒐集マニアは何度も何度も本を函から出したりしない。ぼくは蒐集マニアではないので、古本屋で買った函入り上製本をさほど丁寧に扱わないが、大半の図書館のように購入時に函を捨てたりはしない。

本は立ち読みするもの、買うか買わないか逡巡するもの、買って読むもの、買って本棚に入れるもの、途中で読むのをやめるもの、まったく読まずに放置するもの。忘れていけないのは、本はデザイン商品だということ。装丁もカバーも函も本を構成する要素なのである。

語句の断章(69)姑息

姑息こそくは、近年の国語調査ではいつも誤用ランキングの上位に入っている。令和3年度の文化庁の「国語に関する世論調査」でも、姑息の意味を「卑怯ひきょう」とした人は73.9パーセント、「一時しのぎ」とした人が17.4パーセントだった。本来の意味は一時しのぎだが、誤用の卑怯が浸透してきたため俗用として広く使われるようになってしまった。

姑は「しゅうとめ」だが、他に「しばらく」という意味がある。息は「休む」であるから、姑息は「しばらく息をついて休む」。これが転じて「一時の間に合わせ」や「一時しのぎ」が正用となった。しかし、ほとんどの日本国民は姑息を「ずるさ」だと思っている。

一時の間に合わせやその場しのぎだから、姑息は「おざなり」に近い。抜本的に策を講じるのではなく、適当に繕って用を済ませてしまうのである。たとえば、お客が来た時に、座布団を出そうとしたら破れていたのでひっくり返して裏面を使うとか、障子の破れを適当な紙切れで貼って隠すとか。

姑息の出典を調べていたら、儒教の基本的な経典の一つ、紀元前に編纂された『礼記らいき』に行き着いた。

君子の人を愛するや徳をもってし、細人さいじんの人を愛するや姑息を以てす。
(君子は徳によって人を愛するが、心の狭い者は場当たりで他人を愛する)

なるほど、ずるいとか卑怯とかではなく、適当な、行き当たりばったりという意味である。

なお、因循いんじゅん姑息という四字熟語もある。古くからの習慣にこだわったり従ったりして一時逃れをすること。たしかに、昔からの伝統やしきたりを持ち出してその場しのぎの言い訳に使う場面にはよく出くわす。

甑に坐するが如し

「○暑」の○には猛、酷、極、厳、大、炎などが入る。また、「▢熱」の▢には極、焦、灼などが入る。詳しく調べればそれぞれに固有のニュアンスがあるかもしれないが、いずれも「ものすごく暑い/熱い」を意味する。

それではよくわからないので、「地獄の釜蓋かまぶたが開いたような暑さ」などとたとえる。しかし、釜蓋はわかるが地獄が想像できない。他に何かないかと辞書で調べてみたら、故事成語辞典で一つ見つけた。「こしきに坐するが如し」がそれ。

米を蒸すのに使われた古代の甑

甑は蒸し器。そこに座れば下から蒸し焼きにされてしまう。そんなはなはだしいにも程がある暑さ/熱さを甑に坐するが如しという。この表現は韓愈の詩、『鄭羣贈簟ていぐんてんをおくる』の次のくだりで出てくる。

原詩〉自從五月困暑濕 如坐深甑遭烝炊
〈読み下し〉五月より暑湿しょしつくるしみ、深甑しんそうに座して蒸炊じょうすいに遭うがごとし
〈意味〉五月の頃から暑さと湿度に悩まされるが、その苦痛は深い甑の中に座って蒸されるようなものだ。

今年の7月の平均気温は平年のプラス3℃。いつも40℃で沸かしていた風呂の湯を43℃にするとよくわかる。わずか3℃プラスだけでどれだけ熱くなるか、見くびってはいけない。

昨年も一昨年も猛暑だったが、今年がそれを凌いでいることを、気象予報士に解説してもらうまでもなく、自分の脳がわかっている。平年との違いを猛暑、酷暑、極暑、炎暑、厳暑、大暑などでは言い表せない。「甑に座するが如し」が言い得て妙なのは、わが国の暑さが高湿度とセットになるからだ。

暑いにはすでに「気温が高すぎる」という意味が内蔵されている。そして、限界を超えると「暑苦しい」になり、甑に座って「蒸し暑い」になる。極熱、焦熱、灼熱などは熱の不快感。対して、蒸されるような熱気を「いきれ」という。ものの本によると、日本の夏の蒸し暑さを表わすには「溽暑」がぴったりとのことだ。はたして「じょくしょ」と正しく読み、かつ意味もわかってもらえるだろうか。

超ショートドキュメンタリー×4篇

フォカッチャ食べ放題?

この日が二度目の入店。牡蠣フライ、ハンバーグ、サラダが盛られたランチプレートに焼きたてのフォカッチャが食べ放題。ひねった棒状のフォカッチャは珍しい。注文を終えると、熱々のがまず1本出てくる。ランチプレートが運ばれる前にぺろり。プレートが出るタイミングで「お替わり」を所望する。

ところが、2本目がなかなか出て来ない。プレートが終わる頃にようやくお替わりが来た。食べ放題なのに、フォカッチャ好きなのに、前も今回も2本どまり。この店の食べ放題とはお替わり1回? はたして次回は記録更新なるか。

日本一寒いはずなのに……

20年以上前になるが、帯広で研修を済ませて後泊した。明けて翌日に帰阪の予定だったが、「陸別でもう1泊しませんか? 小さな別荘を持っているんですよ」と研修主催者に誘われた。返事の前に「明日の切符をください」と言って、誰かに変更手配をさせた。「陸別はここから近いですよ」と言われたが、途中温泉に寄り道して3時間ほどかかった。

6月の陸別の朝、キタキツネの姿を見ながらトイレで用を足した。トイレは別荘の外、冬かと思うほど身震いした。陸別の売りは「日本一寒い町」。過去最低気温-38.4℃7月の平均気温18.5℃。それなのに、去る723日に35℃超を記録した。いずれ日本はどこで暮らしても、夏と冬の二季にして高温と低温の二刀流になる。

トウモロコシ、シャインマスカット、イチジク

事務所の隣りが府立高校。花や観葉植物の手入れに余念がない。1ヵ月半程前に背の高い植物がお目見え、てっきりヒマワリだと思った。今月に入ってそれがトウモロコシだとわかった。日当たりのよい場所なので、これからの生長を楽しみにしている。高校の隣りが寿司屋が入るビル。ビルの1階と2階部分をシャインマスカットが覆う。

自宅に近づいて表通りから裏通りに入るとイチジクの木。先日、三代目桂春団治似の家主と初めて会話をしたが、「いま65歳。このイチジクは自分が小さい時からここにあった」とおっしゃる。特に手入れはしていないということだが、る実は年々少なくなっているらしい。

トウモロコシ、シャインマスカット、イチジク……漢字にすると、いずれも難読字であり難書字である。玉蜀黍、麝香葡萄、無花果。

いろいろなクラッカーあります」

店のガラス窓の貼紙に書いてあった。「いろいろと言うけど、クラッカーなんてたかだか34種類だろう」と思って、もう一度貼紙を見て店の様子を窺った。「パーティーグッズ」の店だった。

数字の二字熟語を遊ぶ

数字を含む二字熟語の数は限られているが、あることはある。あることはあるが、字順逆転すると意味不明になるものが多い。数少ない例から3つ選択。

五七ごしち七五しちご

(例)五七の五文字と七文字を並べ替えて七五にしても意味が変わらないという人がいるが、ニュアンスと調子は見事に変わる。

俳句は五七五、短歌は五七五七七。たとえば、「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」という和歌は、五七を二度繰り返して七で終わる。
「恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」は都々逸で、七七七五。下線部の〆は七五調だ。
七五調は浄瑠璃の特徴。近松門左衛門の『曾根崎心中』の名調子が有名。

あれかぞふれば暁の
七つの時が六つ鳴りて
残る五つが今生こんじょう
鐘の響きの聞きをさめ
寂滅為楽じゃくめついらくと響くなり

五音と七音の韻律は日本人に快く響く。五七調は荘重で、七五調は軽やかな調子と言われる。声に出してみてこその韻律である。

十二じゅうに二十にじゅう

(例)ちょうど感をあまり覚えない十二なのに時間やカレンダーには不可欠。他方、ちょうど感があるのに二十という数字はわが国では二十歳はたちの他に出番が少ない。

十進法に比べて十二進法は使いにくそうに見えるが、時計盤の文字、1ダース、年十二ヵ月、十二支、星座で身近にお世話になっている。二十という数字は、20ドル紙幣や20ユーロ紙幣など、世界では貨幣の単位としてスタンダードである。

万一まんいち と 一万いちまん

以前取り上げたが、例文を新たにして書いてみた。

(例)「万一そんな事態になったら……」とは通常ありえないこと――めったにないこと――を仮定している。他方、一万は昨今さほど珍しいものではなくなった。

千を10倍、百を100倍、十を1,000倍にするとそれぞれ一万になる。一万の大きさを説明するのにこれ以上詳しい方法は見当たらない。こんなに大きな数字なのに、一万円という文字は見た目が軽い。祝儀袋に「壱萬圓」と画数の多い漢字を使うのは貫禄を示すためである。


〈二字熟語遊び〉は、漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても意味のある別の熟語ができる熟語遊び。例文によって二つの熟語の類似と差異を炙り出して寸評しようという試み。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になることもある。熟語なので固有名詞は除外する。