「音」を紡ぐように二字熟語遊び

風は見えないが、樹々の葉が揺れ動く時に風を感じる。葉が揺れてれて木の梢から時々音が生まれる。見えないが、音は方々から聞こえてくる。音は物が振動して波になって奏でられる。また、音は文字としても紡がれる。音はおもしろい

音楽 おんがく 楽音 がくおん
(例)「何千人という学生を指導してきたが、音楽楽音の違いを的確に言えた者は一人もいない。音楽は芸術であり、楽音は楽器の音なのだ」」

少々苦し紛れの例文だと認める。解説は辞典の助けを借りることにしよう。
音楽とは「心の高揚・自然の風物などを音に託し、その強弱・長短・高低や音色の組み合わせによって聴者の感動を求める芸術」。聴き手が感動してこその音楽なのだ。他方、楽音とは「人間の耳に快感を与え一定の高さのものとして認識される、弦楽器・管楽器などの音」。これも快感を与えないといけないのだ。

大音 だいおん 音大 おんだい
(例)「もっと大音を響かせるようにして名乗りたまえ。君の声は音大卒とは思えないほど小さく弱々しいぞ」

辞典に大音という見出しはない(大音声や大音量ならある)。以前、何かの本で「大音を出す」という表現を見た。昔は「大音上げて名乗る」などの言い回しがあったという。
音大でボイストレーニングをすれば大音を響かせるようになれるだろうか。ところで、わが国には約80の音大があるそうだ。美大が30校だから、音楽という芸術の人気ぶりがわかる。

音波 おんぱ 波音 なみおと
(例)「ロマンを感じさせる文学的な波音は、実のところ、水中を伝わる音として知覚される、物理的な音波という波動にほかならない」

ものが振動すると音波が生じる。音波は空気中や水中を伝わる。水中を伝わる音波が波音だ。波は音を連れて、押し寄せては砕け、そして引いていく。上田敏の訳詩集の題になっている『海潮音』もまた波音。洒落た響きがある。

音声 おんせい 声音 せいおん
(例)「口と喉と胸を使って言語を形作るのが音声なら、声音はいったい何ですか?」「うーん、声音とは……こえ・・のことだよ」

音声は音がことばとして発せられて声になる。それなら声音も同じではないかと思い、辞書を調べてみたら「個々に、またその時々によって変わる声」と書いてあった。結論:音声も声音もこえ・・である。


〈二字熟語遊び〉は、漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても、意味のある別の熟語ができる熟語遊び。例文によって二つの熟語の類似と差異を炙り出して寸評しようという試み。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になることもある。熟語なので固有名詞は除外する。

カタカナ語の記憶再生

カタカナ語に対する風当たりが強い時代があった。読みづらいし意味不明だとこき下ろされた。日本人なら日本語で書けとも言われたが、日本語に訳してもわからないものはわからない。それなら、原語の発音に近いカタカナで表記して別途意味を覚えるほうが手っ取り早い。カタカナが少々目障りなのは我慢するとして。

文化庁のサイトにカタカナ語の認知率/理解率を調査したデータが載っている。使用頻度上位10語は下記の通り。

■ストレス  ■リサイクル  ■ボランティア  ■レクリエーション  ■テーマ  ■サンプル  ■リフレッシュ  ■インターネット  ■ピーク  ■スタッフ

日本語として市民権を得たものばかり。ほとんどの成人は認知して意味を理解し、かつ自ら使えるはず。ところが、全120語中の頻度下位の10語になると一気に難度が上がる。

■モラルハザード  ■リテラシー  ■タスクフォース  ■バックオフィス  ■エンパワーメント  ■メセナ  ■ガバナンス  ■エンフォースメント  ■インキュベーション  ■コンソーシアム

英語ができて時事に少々精通していればある程度は認知できそうだが、日常生活では出番が限られた用語ばかり。しかし、ビジネスや高等教育の現場では時々出てくる。

記憶しづらいのは固有名詞だ。固有名詞はある種の記号なのでコトバとイメージを一致させる必要がある。興味のない人名、地名、店名などのカタカナ語は覚えづらい。他方、固有名詞の記憶が得意なオタクたちは、お気に入りの外国のスポーツ選手、俳優・歌手、街の名などは何十何百という単位で覚え、ものの見事に再生してしまう。


一度では覚えられそうにないワインや料理、植物、店名などを愛用の手帳にメモするようにしている。そのおかげでシッサスエレンダニカという観葉植物を覚えた。しかし、これは例外で、何度読み返しても忘れ、時間が経つとまったく再生できなくなるのがほとんど。

手帳のページを繰ったら、コスパのいい白ワインの名前が出てきた。

カンティーナ・ディ・モンテフォルテ/クリヴス・ソアーヴェ・クラシコ 

調べれば「カンティーナ・ディ・モンテフォルテ」はイタリアのヴェローナに本部を置くワインの団体だとわかる。そこが手掛けた白ワインが「クリヴス・ソアーヴェ・クラシコ」。くっつけると長くて覚えにくくなる。名前を知らずともワインは飲めるから支障はない。なのに、なぜ名前を覚えるのか。人差し指で「これ」と言うだけではつまらないからだ。

別のページ。2年前に初入店したモンゴル料理の店の料理名が記してある。店の名前は覚えている。3文字なのに「グジェ(羊の胃袋)」は忘れていた。他に「チャンスンマハ(塩茹での羊肉)」と「ツォイビン(羊肉と麺の炒め物)」。カタカナを見たら思い出すが、自分では再生できない。

海外滞在中に自分が撮った街の写真を見れば街の名前が言える。店の名前も割と記憶できるほうだが、バルセロナで入った老舗バルの名前は何度確認しても忘れてしまう。最初“El Xampanyet”の綴りを見た時にXエックスつながりでXeroxゼロックスの綴りと音を連想して「エル・ザン・・パニェット」と読んだ。それが今も尾を引いている。正しくは「エル・シャン・・・パニェット」(スペイン語ではなく、カタルーニャ語の発音)。

カタカナ語は面倒だが、カタカナの名と写真を結び付けると覚えやすい。また、何度も見、何度も発音し、関連する表現をセットとして覚えると忘れにくい。以上、カタカナ語の月並みな覚え方のコツをまとめたが、これは語学全般に当てはまるコツと同じである。

「道なり」と「アンチ道なり」

シニアの生き方として、一つに「道なり」があり、もう一つに「アンチ道なり」がある。

道なりはよく使うことばだが、オフィスに所蔵している78種類の辞典のうち、見出し語として載せているのは広辞苑と旺文社の国語辞典のみ。愛用の新明解は収録していない。広辞苑は次のように記載している。

みち・なり【道形】 道のまま、それに沿うこと。「――に行けば駅に出る」

シニアの生き方で言えば、歩んできた道の流れに逆らわず、過去と同様に今日も明日も道のそのままの形に進むこと(そうすれば幸福駅(?)に辿り着く)。1日の大半をこれまで通りにルーチンをこなすことに費やしていれば、余計なことを考えることもなく、その範囲ではやるべきことをこなせて物忘れも何とか防げる。

はっきり言って、そんな生き方はマンネリズムであり惰性的生き方であるが、今さら「惰性に流されるな!」と叱咤されても、シニアには逆効果になることが多い。物体が今までの法則通りに運動を維持しようとするように、シニアの惰性も慣性法則の一つであり、道なりに沿って進むのが自然だ。

いや、惰性はよくないと思うのなら、1日のルーチン日課の大枠を維持したままで、新たな日課――初めての趣味や生活の創意工夫――に励んでみる。これまで経験したことのない新鮮味を覚えたり感動の瞬間を味わえたりできるかもしれない。何よりも脳の老化を遅らせることができる。

但し、背伸びのし過ぎは禁物。まずは道なりを徹底することが肝要だ。習慣的にやっていることを続けるだけで集中力を維持することができる。そして日々、少し残念に思う惰性的に過ごす時間の範囲内でアンチ道なりを試みる。アンチ道なりはこれまでの生き方の一部方向修正である。

ところで、道なりを徹底するには、何が自分にとっての道なりかをわきまえておく必要がある。道なりとは上図で「これまでの――から――へと無理なく・・・・進むこと」であり、アンチ道なりとは三叉路で「――から――へと急転回・・・すること」である。惰性的な行動を改めて能動的な生き方にシフトするにしても、道なりを全否定しているわけではない。一部のアヴァンギャルドなシニアがアンチ道なりで成功していても、憧れるべからず、安易に真似ようとするべからず。基本はとどまらないこと、そして道なりに進むことである。

抜き書き録〈テーマ:短編小説〉

小説の抜き書きをすることはめったにないが、今回は短編小説の「つかみ」と「結び」に注目してみた。長編とは違って、短編ではつかみで緩むことは許されないし、だらだらと物語を結ぶわけにもいかない。『教科書名短編――人間の情景』(中公文庫)所収の作品からつかみと結びをいくつか取り上げる。

📖 つづみくらべ」   山本周五郎

 庭さきに暖かい小春日の光があふれていた。おおかたは枯れたまがきの菊のなかにもう小さくしか咲けなくなった花が一輪だけ、茶色に縮れた枯葉のあいだから、あざやかに白いはなびらをつつましくのぞかせていた。

庭や花に不案内な者でも――そして、たとえ文字から想起するイメージが鮮明でなくても――姿と色が情景として浮かび上がるような気がする。庭の全体や他の花は見えてこない。しかし、文字が紡いだところだけははっきりと見える。次の文が続いて音も聞こえてくる。

 お留伊るい小鼓こつづみを打っていた。

この一文が、作品の中身のほとんどをジャンプして、下記の結びの3行につながっている。

 「いィやあ――
こう・・として、鼓は、よく澄んだ、荘厳でさえある音色を部屋いっぱいに反響させた。……お留伊は「男舞」の曲を打ちはじめた。

こう・・として澄む」とは、耳を澄ますの意。中学の国語教科書にしてはハイレベルだ。指導する教師も大変に違いない。

📖 前野良沢まえのりょうたく   吉村 昭

 入口の戸をたたく音がしている。
書見台と対していた前野良沢まえのりょうたくは、医書からをはなした。淡いで文字を追っていたかれの目は充血している。

戸をたたく音と部屋とが対比される。ほぼ闇のような空間の沈黙が破られ、人物のただならぬ集中が途切れる。抽象語がない。いきなりの抽象語はつかみに向かない。

📖 「高瀬舟たかせぶね」    森 鴎外

 次第にふけて行くおぼに、沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水のおもてをすべって行った。

森鴎外には叙述的な書き出しが多い印象があるが、それだけにここぞという時の叙情が光る。この短編の結びで音は聞こえないが、動きとともに色の変化が見える。水面に朧月の色が少し滲みているはず。


錚々たる作家の手になる12の短編から、選んだのはわずかにつかみが2つ、結びが2つ。表現候補がおびただしいだけに、物語の劈頭へきとう掉尾ちょうびは悩ましい。

Undo、取り消す、元に戻す

正月の2日の書き初めを長らく習わしとしてきたが、今年は書かなかった。いや、書けなかった。したためる言葉も決め、硯も墨も半紙も用意して実際に筆を取って書いてみた。しかし、仕上がらなかった。何度書いても一文字だけうまく書けず、半紙をクシャクシャと丸めては捨てるを繰り返すばかり。諦めた。

何枚も書き損じているうちに、昔に比べて書き損じのダメージが小さいことに気づいた。以前は半紙を何枚も墨で汚してしまう後ろめたさを感じたものだ。墨文字が消しゴムで消せたらと望んだこともある。今は、満足するまで何度もやり直せばいいという感覚になっている。もしかすると、パソコンのワードやパワーポイントの手軽なUndoアンドゥ(元に戻す)やRedoリドゥ(やり直す)機能に慣れたせいではないか。親戚の家ですき焼きをご馳走されることになり、伯父が何もかも仕切った。砂糖を入れても甘くならない。「まだ足りないか……」とつぶやきながら、伯父はさらに足す。甘くなるどころか塩辛くなっていることに気づいたのが三度目の味見。入れていたのは砂糖ではなく、塩だった。一からやり直すことはできるが、今調理中の鍋の具の味は元に戻らない。

コーヒーをテーブルの上でこぼしたら、コーヒーはカップに戻らない。テーブルの上を拭いて、もう一度コーヒーを淹れてカップに注ぐことになる。ところが、パソコンの世界では打ち込んだ文字や作った図形を、ボタン一つで「なかったこと」にできる。操作を簡単に取り消して一つ前の状態に戻し、その状態からやり直しができる。書き初めで言えば、墨が消えて半紙が白紙に戻るのである。何度でもやり直せる。

バーチャル世界でのマジックのような取り消しとやり直しが、リアル世界でもまるで何事もなかったかのようにボタン一つ、指令一つで行われるようになった。その最たるアンドゥとリドゥが米大統領の関税の上げ下げだ。本来なら由々しき25パーセントが一晩で上げられ、そして次の日に下げられる。有機的現実が無機的に変えられる様子は、まるでパソコン上での操作を見ているような感じである。

漁港の街を歩く

隣県の和歌山に出掛けた。7年ぶりになるが、その時は仕事だった。今回は和歌山市の漁港の風景を眺めようと思い立った次第。

ところで、海際の入江に続く急峻な丘に集落ができ、世界一美しい海岸の街と称されて世界遺産になったのが南イタリアのアマルフィ。ナポリとカプリを23年前に訪れたが、長距離バスはサレントから内陸を走ってプーリア州に向かったため、サレントの先の海に面した街、ポジターノとアマルフィを眺めるチャンスに恵まれなかった。

アマルフィ(イタリア/カンパーニャ州)

和歌山市のホームページで「日本のアマルフィ」と形容されていた漁港を知る。雑賀崎がそれ。「さいかざき」と読む。メトロ→JR快速で和歌山駅へ、そこから巡回バスに乗り換えて雑賀崎まで、自宅からの所要2時間半。街歩きの歩数は約15,000歩と大したことはないが、復路は1時間か2時間に1本のバスに合わせるのに少々苦労した。

雑賀崎の地形は写真で見るアマルフィに似ている。住居が肩を寄せ合うような密度の高い集落、急な坂、狭い路地と階段、高台からの桟橋と港の眺望。雑賀崎にはアマルフィのような優雅さはないが、漁村の日常生活と素朴な風情が感じられた。

よく知られた山部赤人やまべのあかひと万葉秀歌がある。

若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴鳴き渡る
(わかのうらに しほみちくれば かたをなみ あしへをさして たづなきわたる)

雑賀崎はその和歌浦わかのうら景勝地の一角を占める。雑賀崎を詠んだ、藤原卿ふじわらのまえつきみの一首も万葉集にある。

紀伊の国の雑賀の浦に出で見れば海人の燈火波の間ゆ見ゆ
(きのくにの さひかのうらに いでみれば あまのともしび なみのまゆみゆ)

昼間なのであいにく漁師の燈火も小さな漁船も波間ごしに見えなかったが、高台の沖見の里からの眺望と海辺からの住居群の景観を撮り収めた。

細い坂道を上り切れば集落と海の眺望が開けた。
ブラタモリだったら岩肌を見てウンチクが語られたはず。
小1時間かけて隣町の和歌浦のバス停を目指す。

食事処を探したが、魚料理のメニューが見当たらない。漁港で獲れたての魚が買えると書いてあったが、朝に出た船が戻ってくるのはおおむね午後3時。そんなには待てない。魚料理を楽しみにしていたのに、エーゲ海料理の店で豚肉のスペアリブを食べることとなった。

翻訳という「書き換え」

言語Aの文章が言語Bで見事に言い表されニュアンスまで汲み取っていればよい翻訳である。ところが、言い換える際の解釈間違いや大胆な超訳で意味不明の事態が頻繁に生じる。たった一つのことばの違いでも文の訳がひるがえる。

久しぶりの英日翻訳を終えた。一部翻訳ソフトでチェックしたが、まだまだ信頼はできない。原文がフランス語で、その英訳からの翻訳作業。時間がかかるのは覚悟の上で、フランス語も参照して翻訳の精度を上げるようにした。

さて、翻訳とは「書き換え」である。日本語の文章をブラッシュアップすべく別の日本語に書き換えるが、それと同じことを二国語の間でおこなうのが翻訳だ。


先日、四川料理の店に入った。四川だから辛いのをある程度覚悟していたが、注文した56品のうち、まずまず辛かったのは前菜の干し豆腐と野菜の和え物だけだった。辛さを謳ったと思われる店のスローガン「将麻辣迸行到底」とは程遠かった。

漢字そのままである程度推測できたので、比較的わかりやすい中国語である。将(ニ)は漢文で習った、今まさに何々せんとす。「~しようとしている」「~の予定」の意。麻辣は見ての通りの、ヒリヒリと痺れる辛さ。迸行は「ほとばしる」。到底は「最後まで」、超訳すれば「とことん」か。そんな見当をつけてスマホの翻訳ソフトを使ってみた。中国語の英訳は和訳よりも精度が高い印象があるので、まずは英語から。

Spread the spicy flavor to the end.

スパイシーな香りが最後まで広がる(続く)。たぶん原文が言いたいのはこういうことなのだろう。まともである。英語訳にはバリエーションが少なく、他の翻訳案も似たり寄ったりだった。

It’s going to be a hot mess.

別案のこれには驚いた。熱い(≒辛い)混乱? めちゃカラ? うんざり? お手上げ? 良からぬ文章と判断したようだ。さて、中日翻訳はどうか。

①スパイシーな味わいを最後まで引き立たせる
②スパイシーな味わいが最後まで広がります

①と②の違いは動詞。安易にスパイシーという語に逃げるのは感心しないが、麻辣の辛さをとことん堪能する感じは出ている。困った時は直訳が無難だと思われるが、スローガンとしては調子が平凡で訴求力が足りない。

③どこまでもスパイシー
④辛さがずっと続きます
⑤スパイシーなアクションを最後までやり遂げる

③は省略し過ぎ。ニュアンスを汲むのが面倒くさかったのか。④も手抜きしている。⑤はひねり過ぎ。スパイシーなアクションと言ったら、花椒や唐辛子を鍋にぶち込んでいる調理の様子になる。アクションと訳したら「やり遂げる」で締めくくるのもやむをえない。

⑥ぴりぴりした辛さを噴き出してよく徹底的にします
⑦辛辣さを最後までほとばしる
⑧麻薬を底まで運ぶ

これら⑥⑦⑧は滑稽三部作。どれもAI翻訳以前の辞書の学習機能に問題がありそうだ。人間の学習者と同じく、だいたい滑稽な翻訳は辞書と文法の欠陥に由来する。⑥の「噴き出して」と「徹底的にします」は辞書の語彙不足。麻辣を辛辣さと訳した⑦、麻薬と訳した⑧は、そもそも元の文章が料理や味付けのことだと判断できていない。

言語A→言語Bの翻訳においては、おおむね言語Bの表現力が問題になる。中日翻訳でも英日翻訳でも、日本語表現の拙さゆえに珍訳が生まれてしまうことが多いのだ。なお、勇み足をするAI翻訳は、滑稽さにおいてすでに人間の迷訳・珍訳を超えている。

本と書架の風景

著名人のエッセイを収録した『書斎の宇宙』(高橋輝次 編)は、書斎、机と机の周辺、原稿用紙や筆記具についてのこだわりと思い出と葛藤を語るアンソロジー。机上についての話がおもしろい。木山捷平は「机の上」と題した小文の冒頭で「本日只今現在、私の机の上にあるものを、無作為列記法によって右から順々に記述する」と宣して、すべてを書き尽くす。

机の上の目に入るものを枚挙するのは簡単だと思ったが、実際にやってみると、机上には雑多なものがおびただしいことに気づく。根気が続かないし、やっているうちにバカらしくなって断念した。同じ章の「机上風景」では井伏鱒二は眼鏡、灰皿、硯箱、文鎮、ペンを取り上げる。これだけなら、ざっと見渡せばいいからできそうだ。

机上風景があるのだから、書架風景もある。本と本棚についてはキャリアだけは長いので少しは語ることができる。20183月にオフィスをリフォームしようと思い立ち、ついでに読書室を設けることにした。以前からオフィスにあった数千冊から3,000冊ほどセレクトし、そこに自宅の蔵書約5,000冊を合わせて所蔵することにした。同年6月に開設。


開設してから今年の6月で丸7年になる。新たに購入したり寄贈を受けたりして所蔵図書は増え続け、別室の2室の書架にも合わせて1,000冊以上保管している。気がつけば、ほぼ空っぽになった自宅の書斎でも再び1,000冊程度の蔵書状態になっている。本をどうするかという問題は永遠に解決することなく、それどころか、年々深刻化する。

自然の風景を眺めればストレスが消え去るように、書架風景も煩わしい本の増殖問題をしばし忘れさせてくれる。本と自分、自分と本棚の間には距離がある。絶妙の距離感を覚える時、本をよく読み、本棚に頻繁に手を伸ばすようになる。一度遠ざかってしまうと、読書室で本棚を眺めることもなくなり、読書も億劫になる。

本を読まなかったわけではないが、この1年はおそらく今世紀で最も本と本棚との縁が薄かったように思う。最近ようやくその気・・・になってきた。本を買ってすぐに読まず、ひとまず本棚に入れる……狙いもなく適当に未読本や既読本を本棚から取り出す……読んだ本を本棚に戻す……本に触らずに背表紙を眺める……こういう行動はその気になった時に現れる。

語句の断章(64) だいたい

都会の住宅地の公園に日時計がある。棒のかげがだいたい・・・・1030分あたりに落ちていた。腕時計を見ると、若干の誤差がある。若干? 23くらい・・・か。日時計の時の刻み方はおおまか・・・・だが、この程度・・の差なら、おおらかで許容範囲である。

散歩から帰って書いた十数年前の小文。日時計が時を告げている珍しい場面に遭遇して日常生活の「質感」に触れた気がして新鮮だった。デジタル時計のような杓子定規な几帳面さからは生まれてこない、天然の悪意のない大雑把にほっとした。

「だいたいやねぇ」は評論家の竹村健一の口癖だった。芸人がよくモノマネをしたのは茶化す意味もあったはず。だいたい、ざっくり、大雑把に見て……などの物言いはいい加減だとして時々厳しい目が時々向けられる。しかし、枝葉末節にとらわれず、主だった部分と意図さえ押さえておけば、日々の生活で大事に到ることはほとんど・・・・ない。


上記のように、だいたいには類語の仲間がいろいろある。類語が多いのは頻度が高いのと同時に、ニュアンスがきめ細かく分化してきたからである。明言を避けて少しだけ不透明にできるから、だいたいの仲間を重宝する人たちも少なくない。

「頃」もそんな仲間だ。「頃あいを見計らう」と言えば、ある時ちょうどではなく、その前後を指している。ここでは「ころ」と読む。ところが、頃を「ごろ」と読むと、見頃とか食べ頃のように、ちょうどよい程度を表わす。なお、英語のアバウトはだいたいの仲間に加わって久しいが、つねに適当感と無責任感がつきまとうので要注意だ。

上でも中でも下でも、二字熟語遊び

今日は「上、中、下」で遊んでみた。

上船 じょうせん 船上 せんじょう

(例文)「陸から船に乗り込むのが上船。いったん上船したら、下船しないかぎり船上にいることになる。船上にいると言えば、説明しなくても船中にいることを意味する。」

船上とは文字通り船の上のことだが、船に乗っている状態である。船上で食事と言っても、必ずしも船のデッキに出て食べているとはかぎらず、船室内での食事かもしれない。
上船は船に乗り込むという一義以外に意味はない。しかし、船上は多義語である。なお、上船は乗船とも書く。ほぼ同義である。

 道中 どうちゅう 中道 ちゅうどう

(例文)「道中、行く先々でいろいろなハプニングがあったが、極端に無理をせず、まるで中道を歩む修行僧のごとくやり過して無難に長旅を果たした。」

中道という用語を見聞きすることが少なくなった。左でも右でもなく、極端に走らずに穏当おんとうであることが中道だ。無難で特徴がないと皮肉られることもある。
他方、道中とは長旅や行程のこと。道中という語感は行く先々の土地柄やエピソードを連想させる。『東海道中膝栗毛』をテーマにした道中双六は滑稽だろうが、中道双六があるとしても、イデオロギーや政治の話ばかりではさぞかし退屈に違いない。

下地 したじ 地下 ちか

(例文)「いい仕事に就きたければ、技能や教養の下地を整えなさい。秘密組織に入ったりトンネルを掘ったりレアメタルを掘り当てたりしたければ、地下に潜りなさい。」

何かを最終的に仕上げる前段階として下地という準備がある。見た目、それは仕上げの面の下に隠れている。壁の下地も化粧の下地も隠れている。
下地と同じく、地下も地面の下に隠れているので直接見えない。隠れていて見えないものには
怪しいものが多いが、稀に大当たりもあるから地下に行く者は後を絶たない。


〈二字熟語遊び〉は、漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても、意味のある別の熟語ができる熟語遊びである。例文によって二つの熟語の類似と差異を炙り出して寸評しようという試み。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になることもある。熟語なので固有名詞は除外する。