色々な色合い

街歩きをすると標識や看板が目に入る。立ち止まってしばし眺めることがある。文字だけでなく、デザインや色遣いもじっくり見る。少々違和感のある店名でも色合いがよければ、良さそうな店に見える。総じて言うと、派手な色調ならつかみが力強いが忘れやすく、むしろシンプルなほうが記憶に残るような気がする。

日が短くなった。午後六時頃になると空が赤みを帯びる。夜ごと同じ赤ではないし、稀に蒼ざめたような夕暮れに巡り合わせる。歓楽街に足を向けなくなって久しいが、歓楽街の外れをたまたま歩いた折り、西の空がネオンにけがされたようにどす黒く変色していた。憐れんだ。

ラジオを聴いている時、音声にイメージを足していることに気づく。ある種の関連付けと照合作用。視覚にもよく似たことが起こる。単色の形に対してバーチャル絵具で着色しているのだ。モノクロームの色彩化。先日夜景を撮ろうとして手ぶれした一枚の写真がちょうどそんな感じだった。カラフルなものばかり見ていては想起する力が弱まる。

旅先で油彩のような雰囲気のカフェに入った。壁やテーブル、カウンターや椅子、所狭しと並べられた色とりどりのボトル。そこに注文したコーヒーとケーキが運ばれて新しい色が加わる。絵が変わった。味を褒めちぎっていたら、「これ飲んでみる?」と言って、昼間なのにデザートワインをグラスに注いでくれた。さらにこの一品の色が加わり、また絵が変わった。旅先だと敏感だが、日常ではその時々の変化する絵模様にあまり気づいていない。

バル地下の一画でりんごが売られていた。2手に取りレジへ。レジ横に水槽が置いてある。見ていると砂の中から頭が出た。さらに、ひゅるひゅるという感じで首と胴の一部が現れた。妖艶な紫の背景にコミカルな動作。「チンアナゴ」という珍妙な名前らしい。砂の色なのか照明なのか、高貴なはずの紫が可笑しさを増幅していた。

あの時見上げた空のあの雲は、ゆっくりと流れて細く薄く尻尾をなびかせていた。絵筆を静かにやわらかに運んで、手さばき鮮やかにすっと紙から離したような感触の一筋の線。青と白だけで見事な筆さばきだった。写真はないが、記憶にしっかりと刻まれている。

諺のお勉強㊦

キリスト教とともに日本に伝わり定着した諺。大浦天主堂で拾った聖書由来のなじみのことば、その続き。


狭き門
聖書の前にアンドレ・ジイドの小説で知った。狭き門ならさぞかし通りにくそうだとおおよそ見当がつく。「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きくその路は広く、これより入る者多し」。救いへの道、天国への道は困難を覚悟しなければならない。
ある局面で難易二つの選択肢がある時、易しい方法を選びたくなるのが人情だが、それではいつまで経っても成長しない。長い目で見れば、分かりやすそうでも理解できたとは言えず、分かりにくいけれどいずれ理解への道が開かれる。読書などその最たるもの。

求めよ、さらば与えられん
この後に「探せよ、さらば見つからん。叩けよ、さらば開かれん」が続く。求めても小遣いが増えなかった、何日かかっても探し物は出てこなかった、叩いてもトイレのドアは開かれなかった……等々の経験、数知れず。結果はともかく、
解決の可能性としては、何もしないよりは求めて探して叩くほうに賭けてみたいと思う。
あんぐりと口を開けて餌が与えられるのを待つのを許されるのは雛だけ。成人なら自ら取りに行かねばならない。引きこもっているよりは散歩しているほうが少なくとも気分はいい。

目から鱗
十数年程前まで、てっきりわが国で生まれた諺だと思っていて、調べもしなかった。「鱗」という一字のせいである。「地に倒れ目が見えなくなっていたサウロに、使いのアナニヤが目が見えるようになるという主イエスのメッセージを伝えると、目から鱗のようなものが落ちた」というエピソードに由来する。
そこに正解や発見やヒントがあるのに気づかないのは、遮っている何かがあるから。その何かとは、実は己の目に張り付いた鱗。別名、「固定観念」。ところで、「目から鱗が落ちた」と目をパチクリさせるわりには、翌日に大きく変わる人はそんなにいない。

働かざる者食うべからず
働きたいけれど、職がなかったり病気していたりして働けないことと、働けるのに働かないことを分けておかねばならない。ただ、働かざる者であっても、目の前で腹を空かして泣きついてきたら知らん顔はしづらい。一般的な善人の、見て見ぬ振りできぬ弱みにつけ込んでくるしたたかなズルが後を絶たない。無為徒食や放蕩三昧を戒めるいい方法がことば以外にあるのだろうか。

豚に真珠
「神聖なものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたに噛みついてくるだろう」という話が〈山上さんじょう垂訓すいくん〉の一つとして出てくる。いま、ペットとしての犬、ありがたい食材としての豚を思えば、時代は変わったと言わざるをえない。
価値は人が決めるものなので、ある人にとって値打ちがあっても別の人にとっては無価値ということはよくある。いろんなケースがあるので、「豚に真珠」という諺一つに一般化できそうもない。したがって、スパゲッティは食べるがピザに見向きもしないA子には「A子にピザ」、旅行嫌いのB男に対しては「B男にGo To 割引」などとカスタマイズするのがよい。

砂上の楼閣
「砂の上に家を建てても、雨が降ったり川が溢れたりすると形を成さなくなる」に由来。国宝として残っている楼閣は何度か見ているが、たしかにどの楼閣も砂の上には建っていなかった。見た目が立派でも基礎がいい加減ならダメという戒めだ。有名料亭や旅館に「○○楼()」や「□□閣」が多いが、いかにも立派そうな雰囲気が漂っている。基礎がどうなっているのかチェックしたいのは山々だが、散財するので行くことはない。

(了)

諺のお勉強㊤

長崎の大浦天主堂を訪れてからまもなく2年になる。佐賀で仕事があった。翌日に長崎在住の友人に会う予定のつもりが、友人のお母様が亡くなり急遽キャンセルに。切符とホテルの変更が面倒なので一人旅することにした。高校二年の3月以来の長崎。

天主堂の一室、キリスト教布教とともに日本に定着した11の諺が紹介されている。新約聖書マタイによる福音書由来のことばが多い。ノートにメモしていたので読み返し、ちょっと断想してみた。


新しい酒は新しい革袋に盛れ
ぼくの定番企画研修では「コンセプトとコピー」の章でこれを引用している。新しいぶどう酒を古い革袋に入れてはいけない……そんなことをすると袋が張り裂けて酒がほとばしってしまい、袋は使いものにならなくなる。と言うわけで、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるのが正しい。まあ、古風なラベルを貼った年代物のボトルにボジョレーヌーボーを入れたら値打ちがなくなるようなものだ。「新しいコンセプトは新しい表現で包め」というルールを導くエピソードとして気に入っている一言いちげん

風にそよぐあし
「人間は一本の葦であり、自然のうちでもっとも弱いもの。しかし、それは考える葦である」というパスカルの『パンセ』の名言も聖書のこのことばに由来する。葦が群生している場面をじっくり観察したことがないので、そよぐ様子があまりイメージできないが、葦は風の吹くままにそよぐらしい。その姿は他人の言いなりになりがちな人間のようにか弱い。そう言って突き放すのではなく、だからこそ「罪の救いがもたらされる」と結ばれてほっとする。

笛吹けど踊らず
「ノリが悪いなあ」とか「テンション低いなあ」というガッカリ感無きにしもあらず。あれこれと考えて段取りし(うまく演出もしたつもりだが)、居合わせる人たちは誘いに乗ってくれない。打てど響かず、のれんに腕押しに近い心理模様が読み取れる。ところで、ぼくは河内音頭の歌詞も節まわしも好きだが、ライブ演奏に合わせて盆踊りに参加したことがない。みんなが踊り、自分だけが踊らなくても、必ずしも乗り気がないとか誘われ下手とは限らないので、主催者はがっかりしなくてもいいと思う。

人はパンのみにて生くるにあらず
こういうやさしい表現の諺ほど曲解されたり意味が揺れたりする。言うまでもなく、「朝食はパンだけじゃなくてコーヒーも」という意味ではない。ここでのパンは食用としてのパンではなく、モノの象徴である。つまり、物質的満足に生きるのではなく、精神的な拠り所も必要だということ。では、その精神的な拠り所とは? 神のことばである。ぼくはクリスチャンではないので、「神のことば」についてはよくわからない。しかし、ことばに生きるということは常々実感している。

汝の敵を愛せよ
自ら発したり書いたりしたことはない。この諺を見聞きするたびに、言うだけなら容易だとつくづく思う。「悪意をもって自分を迫害する者に対してこそ、慈愛をもって接しなければならない」というのが本意。かなり人間ができていても難しい。米国大統領選を取り巻く状況で敬虔なキリスト教信者らがそうしているようには見えない。ところで、「自分を愛してくれる人を愛することは誰にでもできる」というのがこの前段にあったと思うが、自分を愛してくれる人を愛さなくなったから諸々の問題が生じ、週刊誌がスクープを流すのである。

(㊦に続く)

肉食生活序説

よくある肉食主義の話ではない。「序説」と題したが、将来本論を書く予定はない。肉食の生活と文化に関する今日限りの読み切り。


刺身と焼きで馬肉を食してから4年以上経つ。行きつけの店の仕入れ先は熊本。20164月の熊本地震以降に品薄が続いたので、遠ざかってしまった。ところで、馬のみならず、市場で手に入るか店で出てくるなら、たいていの肉は生命の恵みに感謝しながら食べてきた。牛、豚、羊、山羊、猪、鹿、熊、兎、鴨、雉、雀、七面鳥、鳩、うずら、等々。

自らが買って調理すれば、それが何の肉で何という料理かわかっている。店では「骨付きラムのオリーブオイル焼き」とか「アンガス牛の肩ロースのレアステーキ」などと注文するから、何を食べているのかを知っている。では、何の肉かわからないままに料理を食べることができるか? 以前この問いに、知人が「何の肉かどの部位か知らなくても、出されたものが美味しければ大丈夫」と言った。はたして肉の身元がわからぬままナイフとフォークを動かせるものだろうか。

たとえば、縁あってパプアニューギニアに旅したとする。そこで肉の名称も部位もわからないものが出てきて、一片をつまんで口に運べるか。「パプアニューギニアだと無理かもしれない。日本なら信頼性が高いから安心して食べられると思う」とその知人は言った。しかし、かつてのミートホープみたいに表示した肉以外のものが混入しているケースがありうるではないか。一流ホテルでさえ偽った。

肉の名称に限らず、名とは文化である。ぼくたちは肉を食べるが、同時に肉にまつわる文化も味わっている。そして、文化ゆえのコメントをする。「さすがのカイノミだ、半焼けでもいける」とか「ビンタの歯ごたえがいいねぇ」とか言いながら頬張ると、いっそううまくなる。厳密なトレーサビリティは求めないが、肉と部位の名と料理名を知ってこその食文化だろう。


以前、なじみの焼肉店でいつもの「熟成赤身」を注文した。運んできた店員が「こちら生でもいけますから」と言うので、隣席の連れと話しこみながら、一切れに塩を振って生食したら、うまいことはうまいが、いつもの感触とは違う。「これ、熟成赤身?」とカウンター越しに店長に聞けば、「上ツラミですね」。どうやら注文したのが前後したらしい。肉をよく見ればわかる違いだ。お喋りしていると料理はよく見えず、よく味わえない。食事は会話をしながら楽しくと言うが、黙って集中するほうが絶対にうまい。

食の本はかなり読んでいる。本棚にはグルメ紀行や食の歴史が並んでいる。とりわけ「肉」の話への興味が尽きない。「日本では縄文遺跡からクマ、キツネ、サル、ウサギ、タヌキなど約六〇種の陸上動物の骨が出土し、これらを食べていた。シカとイノシシが最も多い」(北岡正三郎著『物語 食の文化』)。このくだりを読むだけで、十分に刺激的である。

奈良時代以降、野生動物の摂食が禁じられ、肉食を忌む慣習が江戸時代中期まで続いた。19世紀初めになってようやく猪、鹿、熊、狸などの薬喰くすりぐいが広がり、「ももんじや」という、今で言うジビエ料理店が現れた。

禁止されていた頃は、猪をヤマクジラと呼んだ。咎められそうになったら、「わたくしどもが食しておりますのは鯨でございます」と逃げるためだ。四足動物ご法度の時代、当然ながら兎もNGだった。一匹、二匹と呼ぶと怪しまれるので、替わりに一羽、二羽と呼んだのは有名な話。その名残で今も兎をそう数える。兎の肉に舌鼓を打ちながら、鶏を食べているようにカモフラージュしていたわけである。

アイデアとデフォルメ

もう半世紀も前の話。知る人ぞ知る――しかし、当時はともかく、今となっては知らない人が圧倒的に多い――エドワード・デ・ボノが提唱した〈水平思考〉が一世を風靡した。水平思考とは、ありきたりな論理手順を踏む〈垂直思考〉の限界に挑戦した発想。考えるにあたって、深さよりも広さを優先し、掘り下げるのではなく見晴らすように考える。

デ・ボノは著書の中でアイデアが生まれる背景について、「個々の人々の心の内面で演じられた情熱があった。その情熱がアイデアを本物にし、ついに人間社会を変貌させる原動力になった」と語っている。対象を変えたいという願望が情熱を帯び、そのような願望を逞しくしていれば、考えるのと同等かそれ以上に〈偶察〉の機会に恵まれる可能性がある。

アイデアの海を思いのまま遊泳してみたいと願っても、おとなしくて平凡なことばでアイデアを引き寄せることはできない。経験的認識に偶然が作用してアイデアらしきものが触発されたとしても、それはいったいどんなもの? と尋ねられたら、ことばで示さねばならない。アイデアはことばによって揺り動かされ誇張されて形になる。


誰かのアイデアをみんなで共有する段になると、わかりやすく伝わるようにと意識するあまり、穏やかなトーンの表現になりがちだ。その結果、本来見所のあった「尖がったコンセプト」が均されてしまって、ゆるゆるになる。

そもそも既存の価値観から逸脱するからこそアイデアなのだ。どこかで聞いたことがあるとか、素直に受け入れられるとか言われたら、そんなものはアイデアではない。アイデアは平凡に対する非凡であり、テーマに対するアンチテーゼであり、常識や既存の知識では理解しづらい異種性を特徴とする。それゆえに評価の前に違和感が先立つ。

まっとうに表現してしまうと、どんなにすぐれたアイデアも月並みに聞こえてしまう。ちょっと過激じゃないか、毒気が強すぎるという文句、大いに結構。これで大丈夫? と不安を感じてもらえれば半ば成功なのだ。そう、デフォルメしてちょうどいいのがアイデア。是と非が、可と不可が相半ばし、リスクが内蔵されているのが斬新なアイデアの宿命である。

秋が来て夏が終わる

散策をテーマにしたコラムを依頼された。「川岸の樹々の移ろいに気づく秋。暑さから解放されて一息つける今なら、遠くの野鳥のさえずりも枝葉のそよぎも聞こえてくる」と書き始め、ふと思う。川岸も樹々もさえずりも四季を選ぶわけではないが、どういうわけか、秋との相性がいい。ある日の街歩きを思い出した。

セーヌの川岸にて(2011年秋)

セーヌ川に沿ってエッフェル塔に近づき、シャン・ド・マルス公園の落葉絨毯の上を踏み歩いた。秋はほどよく深まり、物語が始まりそうな気配が漂っていた。いや、ある散策者にとっては物語の終わりだったかもしれない。あの歌詞のように。♪ 枯葉よ~

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名詞には意味が備わる。音が刻まれる。意味と音が重なり合って色が見える。「秋」には意味があり、“aki”という音があり、そして色がある。こうして秋は、春や夏や冬との差異を感知させる。

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ボードレールに「秋の歌」という詩があり、その一節に「きのふ夏なりき、さるを今し秋!」(堀口大學訳)というくだりがある。別の表現もある。「昨日きそ夏なりき、今し秋」(斎藤磯雄訳)。「昨日で夏が終わり、今日から秋」というわけだが、実際はこんなふうに時系列的に感覚がシフトするのではない。今日秋を感じたから、昨日夏が終わったことにしたのである。

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近年、秋が短くなった。少なくとも、短く感じるようになった。遅れてやって来て足早に去る秋。去る前に早めの名残りを惜しんでおくのがいい。出会った次の日から送別会のリハーサルが始まる。

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秋の夕焼けは美しい。日が暮れなずみ、やがて夕焼け空になる頃、メランコリックになる人がいる。ぼくの場合は昼食を軽めにしているので、夕焼け頃になると空腹が先に来る。精神的作用を催す夕焼けよりも生理的作用を刺激する夕焼けのほうがつねに優勢である。

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今年特有のキャンペーン、いよいよ“Go to Eat”が本格化した。価格が25%分還元されればそれだけ過食になりかねない。豊穣の秋はご馳走の過剰に注意。名前の長さに比例してカロリーが高くなる料理がある。これまで出合った一番長い料理名は「地産ポークと有機無農薬野菜のガーリック炒め、小野さんのレモンイエロー有機卵の半熟目玉のせ」。文字数の多さに比例してガッツリ系だった。

九月の述懐

「紙一重の差」などと言うが、対戦して仮に10連敗したら、僅差ではなく大差なのではないか。いや、一つの対戦に限れば紙一重の差で、それが10回続いただけと苦しい弁。いったい紙一重とはどのくらいの差なのか……誰も知らない。

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先日、ビストロで食事をした。食後にコーヒーの香りのする熱い白湯が出た。いかに料理がよくても、最後の一杯のコーヒーがお粗末ならリピートしない。店を出てコンビニの100円コーヒーで口直しをされたら屈辱的である。

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九種二貫ずつの刺身の盛り合わせ、850円。「うまい!」の前に「安い!」と迂闊にもつぶやいてしまった。〆に注文したうちわエビの味噌汁が200円。また「安い!」と言いかけて思いとどまる。自ら料理の値打ちを下げてはいけない。「真心のこもりし味覚秋近し」と詠んでお勘定してもらった。

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焙煎のアロマを微風が運ぶ。この季節、窓を少し開けておけばカフェに看板はいらない。
焙煎のアロマを微風に乗せてぼくを誘ったはずなのに、カフェのプレートはまだ“closed”

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自分が使う喋りの技と同じ技でころりと丸め込まれてしまうのが人の常。

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縁があるか縁がないか。あるギョーカイでは「あの人を知っている」と「あの人を知らない」の差は決定的である。だからこそ自ら縁を求める者が後を絶たない。しかし、縁は成り行きに任せるのがいい。縁があればありがたく思い、縁がなければ「縁がなかった」と思えばすむ。縁とはそういう類のものだ。

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ほとんどの民族は文字を発明した。記憶に自信がなかったから。
同じ理由から、人類は付箋紙を発明した。できることなら脳に直接貼り付けたいのだけれど、さすがに無理なので、やむをえず本やノートに貼っている。付箋紙ごときで格段に仕事がはかどったり記憶がよくなったりするはずはないが、付箋紙を貼ろうと意気込めば、見過ごしがちだったものが稀に見えることがある。

注の注の注(reprise)

『注の注の注』と題して一文を書いたことがある。あれから10年が過ぎ、よく似たことがデジャブのように繰り返された。今から書く文章は前の文章とは異なるが、同じテーマなのでrepriseルプリーズ(反復)と「注」のつもりで補った。注の注の注とは、付箋紙に付けた付箋紙に付けた付箋紙……のようなイメージ。

先日再読した本は、一冊のうち本文が3分の1、残りの3分の2が注釈・解説・あとがきという割合だった。全ページが縦書きの二段組みで、上段に本文、下段に脚注という割り付け。脚注を読まずに本文だけ読むとさっぱりわからないので、本文を23行読むたびに脚注を読むという具合。本文をスムーズに読ませようと意図したはずの脚注が、逆に本文の読みを中断させるという構造的問題を抱える書である。

類は友を呼ぶように、注は注を呼ぶ。注のための注が呼び寄せられ、そのまた注も続いてやってくる。いつまでたっても本題に入り込めないもどかしさ。本文という本線から脱線しても、おもしろさや期待感が薄まらないならいいが、そうはならない。説明という迂回は集中力を断線してしまう。


ありそうもない話だが、ふと妙なことを考えた。もしかするとこの本は、最初に注釈が書かれたのではないか……注釈が仕上がってから、それぞれの注釈にふさわしい本文が書き足されたのではないか……と。いや、最初にとりあえず文章を書いてみて、書き終わった後に本文と注釈に仕分けしたのではないか……とも考えた。

ていねいに注を付ける著者には親切でお節介な人が多いのだろう。また、読者便宜ではなく、自分にとって理解しづらい箇所を自分のために補っている人がいるかもしれない。これは翻訳者に多い。哲学書などは先人の知を暗黙の前提にしているため、不案内な読者への補足説明は不可欠になる。とは言え、できるできないにかかわらず、本文で何とか完結させる努力の一端を示してほしいものだ。

注の注の注があるのなら、「まえがきのまえがきのまえがき」も「あとがきのあとがきのあとがき」もありうる。同語を繰り返すのが面倒なら、トリの最後を大トリと呼ぶように、大まえがきや大あとがきと呼べばいい。最後を締めくくる注を大注おおちゅうと名づけよう。大注に辿り着く前におそらく本文読みは挫折しているに違いない。

じれったいジレンマ

二つの事柄が葛藤する様子をジレンマと呼ぶが、実際に葛藤しているのは人の心だ。ある人にとって二つの事柄が相反しているように見えても、別の人には両立する事柄であったりする。たとえば、生活と仕事のジレンマに苦しむ人がいれば、その二つは本来調和するのであって決してジレンマではないと平気な顔して言い放つ人もいる。

誰にでも同じジレンマがあるわけではない。二つの事柄が両立しないのみならず、片方だけでもうまくいかないこともある。思うようにならずイライラする。もどかしい。そう、事柄の問題ではない。ジレンマとはじれったい心理状態にほかならない。

理想と現実は二項対立としてよく語られる。たいてい一致しない。では、理想と現実が葛藤する状態はジレンマなのだろうか。現実を放棄するわけにはいかないから、頭の中のある種の「絵空事」を諦めるか描き直すしかない。理想に現実を近づけるのが難しいと判断すれば、いとも簡単に理想を捨てるのが人の常。では、懐疑と決断はどうか。この二つはジレンマの関係にあると思われる。同時に成り立ちがたく、また、迷ったり疑ったりしていると決心はつかない。他方、決断してしまうとあれでよかったのだろうかと後になって疑心が追いかけてくる。〈?〉と〈!〉の間を行きつ戻りつするのはジレンマだ。


昨今もっとも顕著なジレンマと言えば、”Go to トラベル”だろう。国民に旅してもらって観光を活性化させたい……しかし、新型コロナ感染が恐いのでほどほどに……密は困る、東京の人も困る、東京へ旅するのも困る……いや、ちょっと落ち着いたから、東京も、ま、いいか……。まるで駄々をこねる子どものような政策ではないか。したいとしたくないが葛藤している。

経済と安全、経済と秩序など、そもそも経済は「何か」と折り合わないのが相場である。経済には他の要因を抑え込んで強引に事をすすめていくところがある。経済はわがままな上司に似て、ペアを組んだら言うことを聞くしかない。したがって、コロナ対策と経済のジレンマ関係においては、有無を言わずに経済重視になる。コロナに一喜一憂しないという覚悟だ。いや、安全対策を講じると言うが、マスクと消毒液と人数調整以外に目を見張るような対策はまだない。

経済よりも観光や芸術や文化を優先して持続可能な安定を築いてきた時代や街もある。しかし、観光や芸術や文化もウィルスや病気には勝てない。しばらくはじっと我慢するしかない。我慢を続けられるかどうかは、ポリシーといくばくかの貯金次第。つまり、経済的メリットが出ている時にこそどう振る舞うかが問われるのだ。それはある種の危機管理でもある。

饒舌と手抜きトーク

論理思考は手間がかかる。とことん凝ると、物事をわかりやすくするはずの論理思考が論理主義・・・・へと変貌し、狂信的な様相を呈する。学生時代に熱心に論理学を勉強した結果、自明の事柄を偏執的なまでに証明せねばならないことに辟易した。そして、論理とはくどくて冗長であるという印象だけが強く残った。

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドとバートランド・ラッセルの共著『プリンキピア・マテマティカ全3巻』はくどさの最たるものだと専門家に聞いたことがある。手に取ったことがなければ今後もまったく読む気もないが、1+1=2」の証明に至るまでに約700ページを費やしているそうだ。そして、最終巻の最後にようやく実数の存在が証明されるらしい。確かめる気がまったくないので、「そうだ」と「らしい」で許してもらうしかない。


論理的な語りは雄弁の条件の一つだが、饒舌という第一の特徴を見逃してはいけない。ほどほどにしようとしても、饒舌とはすでに抑制がきかなくなっている状態なので、「ほどほどの饒舌」というのがない。では、寡黙な省エネ話者のほうがましかと言えば、いやいや、饒舌以上に厄介な存在なのだ。ことばの過剰は適当に引き算すれば済む。しかし、ことばが不足なら足し算せねばならない。足すのは体力と気力を要する。

省エネ話者による手抜きトークへのわが述懐
そもそも他人の思惑などわからないと思っているし、語られなかったことを推理しようとするほど暇ではない。そんな面倒くさいことはせずに、相手が話したことを真に受けるようにしている。適当に喋ったかタテマエだったかは知ったことではない。語られたことのみを材料にして自分の思いや考えを継いでいく。後日、相手が思い違いだ、錯覚だと言いかねないし、無粋な奴だと思われるかもしれないが、やむをえない。かつて隠れた心理を読もう、ホンネとタテマエを見極めようと苦心したこともあるが、読みも判断もよく間違った。間違いは自分だけの責任じゃないのに……。と言う次第で、話しことばはたいてい額面通りに受け取るようにしている。

さて、語りについてだが、言うべきことや思うところを寄り道せずにストレートにことばにすればいい。しかし、必死に伝えようと意識しすぎると論理に力が入り、やっぱり回りくどくなる。ここで落胆してはいけない。常にとは言わないが、迷ったらことば足らずよりも饒舌を選ぶべきだ。饒舌が過ぎて終わるような人間関係は元々脆弱なのである。寡黙だったらとうの昔に終わっていたはずだ。