ブリュッセルからの絵はがき
2012年1月27日 15:30
2011年11月21日。午前10時過ぎ、パリ北駅から特急タリスに乗ってブリュッセルへ。日帰りの旅だ。
パリと同じくらいの温度だったが、少々底冷えしていた。すぐに電車やバスに乗ると身体が温まらないから、こんな時ほど歩くに限る。街の中心街の歴史地区までは地下鉄に乗ったが、あとは数時間あちこちをそぞろ歩きした。
これに先立つ一週間前のバルセロナ、さらに三日前にパリに着いてからも絵はがきを書いていないことに気がついた。友人や親類には書かないが、海外に出ると、留守番をしているスタッフには便りをするようにしている。ここまではがきを投函しなかったのは、他でもない、切手が買えなかったからだ。
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切手などどこででも売っていそうなものだが、実は、スペインでもフランスでもワインを買うよりもむずかしい。もちろん郵便局で買い求めればいいが、郵便局があちこちにあるわけではない。ふつうはタバコ屋で買う。だが、国際切手を置いていないところが多い。
運よく切手を売っているタバコ屋があり、その店でついでに絵はがきも買った。それでカフェに入り、カフェベルジーノを飲みながら、ささっとボールペンを走らせた。たわいもないことしか書いていないので、クローズアップされると恥ずかしい。近くのパッサージュのような通りに郵便ポストがあると聞いたので、投函しに行った。
そこにあるポストは壊れかけたような代物で、無事に集配してくれそうな雰囲気がまったくない。通りがかりの学生風の男性に聞いたら、これがポストだと言う。「だけど、一日に午後4時半の集配だけだから、明日になるね」と彼は付け加えた。時計は午後5時を回っていた。一日後の集配になるわけだし、何よりも信頼を寄せられない雰囲気のポストだ。というわけで、絵はがきを書いたという証明のために投函前に写真を撮ったのである。だから、消印が押されていない。
この絵はがき、25日には大阪に着いていたらしい。集配してから三日後とは・・・・・・。みすぼらしくて頼りないポストだったが、ブリュッセルの郵便局、案外しっかりしているようである。
石畳を歩くように・・・・・・
2012年1月10日 18:00
年末年始、別に慌ただしくもなかったが、気がつけば、流れに棹差すように時が過ぎていた。昨年の11月中下旬にはパリにいたのに、それが何だかはるか過去の出来事のように思えてくる。写真もろくに整理しないまま、ゆっくりと振り返る暇もなく今日に至った。
かと言って、別に重苦しい日々を送っていたわけでもない。ただ、いつになく、少々苛立つ場面に出くわす。何に対してかはよくわからないが、もどかしい。駅の階段を二段ずつ上がろうとしている割には足が上がっていないという感じ。
時間にも「ゆったり時間」と「急かされる時間」がある。おもしろいことに、前者の時ほどいい仕事が手際よくできる。後者のリズムに入ると「あれもこれも感覚」が襲ってきて、事が前に進まない。
こんな時、地を踏みしめるようにゆったりと「仕事の中を歩く」のがいい。靴底から地面の凹凸が伝わってくるように。たとえばそれが石畳なら、そこから街のメッセージを汲み取るように。歩いてこそ伝わってくるものがある。走ってばかりいては重要なものを見逃してしまう。というわけで、やり慣れた仕事、見慣れた光景や風情にもよく目配りして歩こうと思う(実際、昨日と一昨日はそうして街歩きでくつろいだ)。
〈写真〉2011年11月21日。昼前から黄昏時までブリュッセルの街をくまなく歩き続けた。車や電車やバスでは感知できない「地場」を足の裏で時々思い出す。
その一言の要否
2011年12月28日 15:25
あの一言は余計だったと思うことがある。他方、もう一言添えるべきだったと後悔することもある。料理の匙加減に似て、あと一言の有無の判断はやさしくない。悩んで悩んで結論が出なかったらどうするか。この場合は、「お節介精神」を発揮して一言を加えるようにしている。不足よりは過剰のほうが責任を取れそうな気がするし、経験的にもおおむねそうだった。
この前の日曜日、小ぢんまりとしたショッピングモールでエレベーターを利用した。貼紙がしてあった。「改修(調査)のため、屋上は17:00に閉まります」というお知らせの文面である。8Fから1Fへ降りるまでの間、ことば遣いをずっと睨んでいた。この文章を書いた人、どうして「改修」の後に括弧して「調査」としたのか、えらく気になってきたのである。
「改修のため」では何かしっくりこなかったのだろう。かと言って、「調査のため」でもズレているような気がしたのだろう。書いた本人には「何のために屋上を17:00に閉めるのか」がきっちりとわかっている。そして、おそらく「改修のため」と書いて、説明不足が気になったに違いない。「改修は改修なんだけれど、主として調査を主眼としているんだよなあ」と思い直して、「(調査)」という言い換えを補足した―と推理する。
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しかし、このお知らせを読む人たちにとっては、改修イコール調査ではない。いや、それどころか、改修なら工事含みだし、調査なら点検はあっても工事はないだろうから、「改修(調査)」には対立感も漂って、どうもしっくりこない。
こんな文面になった経緯を読み解いているうちに、この文章が「屋上が閉まる理由」を「屋上が閉まる時間」以上に過剰に意識していることに気づいた。理由などどうでもよかった。「屋上は17:00に閉まります」―これでいいのである。ぶっきらぼうと感じるのなら、「◯月◯日まで」と添えればよろしい。これでお知らせの役目は果たしている。
以前、オフィス近くの居酒屋のドアに「店主腰痛のため、しばらく休業します」という貼紙があった。「店主腰痛」は余計な一言である。一部の常連にとってメッセージ性が高いのかもしれないが、一般的には、休業の理由などよりも「いつまで休むのか」のほうが意味があるはずだ。迷ったらお節介の一言というぼくのセオリーが崩れるのは、その一言が自己弁護や言い訳に用いられる場合のようである。
ところで、その居酒屋、ずっと休業が続き、やがて別の店に変わった。気の毒なことに、店主の腰痛は治らなかった様子である。
立つか座るか
2011年12月 7日 17:15
ブログを始めてから三年半。これまでは最長でも五日ほどしか空かなかったが、初めて一ヵ月もごぶさたしてしまった。海外に出てiPadからアップすればいいと気軽に思っていたが、思ったほどうまくタイピング(タッピング?)できない。そもそも長い記事を書くタイプなので、二、三行書いて「ハイ、おしまい」で片付けられない。億劫になって、手軽に投稿できるfacebookになってしまった。
帰国後ずいぶん反省して一念発起したのだが、それからすでに一週間以上も経っている。ネタ不足か、行き詰まりかと自問するも、そうでもない。書きたいことや少考してみたいことはいくらでもあるのだ。よくよく考えて、どうやら息の長い文章を綴る習慣が元に戻らないという結論に落ち着いた。徐々に取り戻そうと思うが、同時に、この機会にあっさりと書くスタイルに変えてもよさそうな気もしている。
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閑話休題。イタリアでもフランスでもそうだが、喫茶店(バールやカフェ)でコーヒーを飲むときに、立って飲むか座って飲むかという選択肢がある。カウンター内のバリスタに注文し、カウンターの上に出されたエスプレッソやカフェラテをその場で飲むのが立ち飲み。座って飲むのは、日本の通常の喫茶店のスタイルと同じ。まず気に入ったテーブルに座り、注文して運んでもらう。
同じものを飲んでも、座って飲めば料金は立ち飲みの2.5倍か3倍になる。テーブルでは席料が加算されるシステムなのだ。観光名所近くのカフェに入ると、強引に観光客にテーブル席を勧めてくる。店にとっては当然の作戦。カウンターで飲めば180円ほどのカフェ・クレームがテーブルでは520円になる。というわけで、よほどゆっくりとくつろぐ気がないときは、ぼくはカウンターに直行して注文する。
パリ3区のボーマルシェ通りに面したカフェの看板。一行目には「カウンターでのプチ・デジュネ」とあって2ユーロ。ホットドリンクとトーストとジュースのモーニングセットをカウンターで飲んで食べれば210円とは格安だ。トーストがクロワッサンかブリオッシュに、ジュースがしぼりたてのオレンジに少々格上げされるものの、ほとんど同じメニューをテーブル席で注文すると6ユーロと3倍になる(ちなみに一番下の8.9ユーロのメニューは、ビュッフェ、すなわち食べ放題)。
毎日同じカフェにやってくる常連は、仕事の前にさっと立ち飲みして1ユーロ前後を置いて出ていく。観光客やカップルはだいたい座っている。座って通りを眺めたりお喋りしたり本を読んだりしても、普通のカフェなら250円か300円だから、日本の喫茶店よりもだいぶ安い。なお、チップを置いていくという習慣もここ数年でだいぶ薄れてきたような印象がある。
人口爆発!
2011年11月 4日 15:00
ぼくが生まれ、小学低学年時代を送った1950年代、日本の人口は世界5位だった。社会科で教わった中国、インド、アメリカ、ソ連、日本という順位をよく覚えている。現在に至るまで、上位の三国は変わっていない。ソビエト連邦が解体してからはインドネシアがずっと4位。ブラジル、パキスタン、バングラデシュ、ナイジェリアなどが追い越し、日本は現在10位である。ランキングマニアはどう言うか知らないが、ぼくはこの数字を見てすごいと思っている。FIFAのランクより上だ。
初めて「人口爆発」を耳にしたときは物騒な表現だと感じたものの、人間の数など一気に増えるものではない、仕掛けた爆弾が爆発するのとはわけが違うという受け止め方だった。ところが、産業革命の頃からではなく、有史以来からのグラフを見てみると、「右肩上がり」などは悠長な表現であることがわかる。ぼくの生まれた1950年代から急激に垂直と言ってもいいほどの方向に向かい始めているのだ。
そして、ついにと言うべきか、予想通りと言うべきか、わずかこの半世紀で2倍以上に膨らんだ人口が、去る10月31日に記念すべき(?)70億人に達したのである。少子化の懸念が強いわが国にしても昭和初期から見れば倍増している。予測では7、80年後にはその水準に戻るらしいが、それでも現在のフランス、イギリス、イタリアなどと同じ6000万人前後だ。そうなる頃、これらの国の人口はさらに減少しているはずである。
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西暦1800年の頃の世界人口は10億人だったそうだ。二百年で7倍である。紀元前、人口が1億人増えるのに要したのは2500年。ところが、今では10億人増えるのにわずか12年という爆発ぶりである。人類が70億人をカウントした翌日の11月1日の午前8時、すでに25万人近くが増えていた。人口増加とは「誕生者-死亡者」であるから、実際はもっと大勢の赤ん坊が生まれていることになる。
文化の日の昨日の午前8時には70億にプラス61万人だった。4日の今日の午前中に見たら、80万人を超えていた。明朝には100万人を超えているはずである。関心がおありなら、http://arkot.com/jinkou/ を覗かれるといい。《世界人口時計》なるものだ。その時々の心理によるが、刻々と増えていく数値を見ていると不思議な気分になってくる。また、何事かを考えようとしている自分に気づく。なお、人ではなく、お金が湯水にように流されていく刻一刻を体感したければ、こちらの《日本借金時計》。馬鹿らしさを通りすぎて笑ってしまうだろう。http://debt.blogp.jp/
見えるもの、見えないもの
2011年10月31日 17:45
辞書にはまだ収められていないが、ぼくがよく用いることばに《偶察》がある。文字通り「偶然に察知すること」で、観察とは対照的な意味をもつ。注意深く何かへ意識を向け、その対象をしかと見るのが観察だ。偶察とは、その観察の結果、意識を向けた対象以外のものに気づくことである。観察と偶察、決してやさしい話ではない。週末の私塾ではこれをテーマにして、「見えざるを見る着眼力」について話をした。
ぼくたちは何かを見ているつもりだろうが、実は、いつもじっくりと見ているわけではない。見慣れた対象における小さな変化に気づかないし、インパクトのある"X"に気を取られているときは、すぐそばの目立ちにくい"Y"が見えていない。体力や気力が消沈すると目線が外部に向かう余裕を失う。まなざしは自分の内面ばかりに向かうことになる。
ところが、さほど意識も強くないのに、心身の具合がいいとよく見えよく気づく。主観的かつ自覚的に観察するぞなどと意気込まなくても、自然体でものが見えてくる。暗黙知を極めたプロフェッショナルはそんな軽やかな観察に加えて、偶察にも恵まれるのだろう。たしかに、ある店の主人は顧客の立ち居振る舞いをよく見ているし、服装や髪型の変化に気づいていそうだ。しかし、逆に、これでよしと主人が考えている店の装いの不自然さに顧客のほうが気づいていることもあるだろう。
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どの本に書いてあったのか忘れたが、「森を横切って長い散歩をした時、私は空を発見した」というロダンのことばをぼくはノートにメモしている。いい歳をして、ロダンはそのとき初めて空を見た? そんなバカなことはない。何度も空を見ていたはずである。この文章は次のように続く。
「それまでは、私は毎日この空を見ていると思っていた。だが、ある日、はじめてそれを見たのだった。」
あることを以前見たつもり、あることを毎日見ているつもり。それでも、ある日突然、それまでの観察はまったく観察の名に値しないことを知る。今見ている空に比べれば、ぼくがこれまで見てきた空など空ではなかったという、愕然としつつも、身体に漲る爽快な感覚。見ることだけでなく、味わうことにも考えることにもわかることにも生じる、「目から鱗の瞬間」だ。そして、見えたり見えなかったりという能力に喘ぎ、見たり見なかったりという気まぐれを繰り返しているかぎり、目から鱗は剥がれ続けるのだろう。
語句の断章(18)
2011年10月26日 20:15
【散髪(さんぱつ)】
こんな話、ちょいちょいと検索すればすぐにわかることなのだろうが、別に「真実」を知りたいわけではない。ただ勝手な推理推論を楽しもうと思うだけである。何かにつけて自分勝手に振る舞えない当世だ、想像するくらい意のままにしても罰はあたらないだろう。
このことば、東日本ではあまり使わないと聞いたことがある。東の「床屋」、西の「散髪屋」という構図だが、そんなに鮮やかに東西に分かれているのだろうか。
子どものときからずっと思っていた。今も不思議でならない。なぜ、「髪を整えようとしているのに、髪を散らかす」と言うのだろうか。どう考えたって不思議である。「散」という文字は、散乱や散逸や離散と言うように、まとまりがない様子を示す。決して好ましい意味とは思えない。実に「散々」である。散歩や散策は良くも悪くもないが、気まぐれ感は漂っている。
にもかかわらず、手元の国語辞典は散髪を「髪の毛を刈り整えること」と定義し、「理髪」とも書いている。ちょっと待てよ。理髪や調髪なら「きれいにする」だから納得もする。整髪もおそらく「乱れた髪をきちんと整えること」だろう。ぼくには散髪は乱髪と同類のように響く。いずれも見映えのよい髪の様子の正反対に思えてしかたがない。
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想像を超えて空想もしくは妄想してみることにする。散髪というのは、どうやら頭上の髪の毛の状態を示す用語ではなさそうだ。刈っている途中に髪が落ちていく様子、もしくは刈った後の床に散乱した毛髪のことを散髪と呼んだのに違いない。理髪は頭上でおこなわれ、そのマイナスされた分が床の上に散らばる。ヘアスタイルをきれいにするというよりも、きれいにした結果の、後片付けに力点が置かれたことばなのかもしれない。
しかし、じっと見ていると、この「散」という用法がなかなか魅力的に思えてきた。気を整えるために邪気を捨てるという意味で「散気(さんき)」と使えなくもない。実際にあることばだが、「散語(さんご)」なら表現を練り上げるために無駄なことばをそぎ落とす意味で使ってみる。散食(さんしょく)や散読(さんどく)なども新鮮味がある。余分を捨てて、整食、整読するというニュアンスが漂う。いいかもしれない。
批判精神と自己検証
2011年10月21日 12:00
【続き】
批判に弱い人間と付き合っていると疲れる。棘を抜き、辛口表現をオブラートで包む必要があるから。いつも顔色をうかがい傷つけまいと差し障りのない寸評でお茶を濁すことになる。疲れるだけならまだ我慢するが、こんなうわべの物分かりの良さを演じていると、こっちの脳が軟化してしまう。付き合いが続くものの、お互いに成長できる見込みはまったくない。
以前アメリカのコミュニケーションの専門家が書いた本を読んで愕然としたことがあった。「部下が出来の悪いレポートを持ってきた。あなたはどうコメントし、対応するか?」というような設問がある。四択。「こんなもの話にならん!」や「もう一度やり直しだ!」の類が最初の三つの選択肢になっており、四番目が「きみは普通この種のレポートは上手だが、今回はちょっと残念なところがある。一緒に考えてみようじゃないか」のようなコメント。著者はこれを正解としている。優しさにもほどがある。
「きみ」という部下がこの種のレポートが普段から下手だったら、どうするのか。「ちょっと残念」も「とても残念」も採択できないという点では同じだ。こんなところに「物は言いよう」などという法則を適用するのは場違いなのである。ぼくも「ダメ! やり直せ!」には与しない。自力でやってダメだった人は、しかるべき助言もなしに再挑戦してもたいていダメである。だから「一緒に問題検証すること」には賛成だ。けれども、プロフェッショナルどうしなら、少しでもダメなものを褒めてはいけないのである。生意気なことを言うようだが、白熱教室のマイケル・サンデルの設問やハーバード大学の学生の答えにも同種の骨の無さを感じて情けなくなる。
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共感と賞賛し合うだけの甘い関係を求める人たちが少しずつぼくの回りから減っていく。寂寞感に耐えかねないなどということはないから、去る者を追わない。しかし、よく考えてみよう。評価してもらうことと批判されることは二つの別のことではない。弱点や問題点を指摘され、納得すれば反省して対策を立てればいいだけの話だ。批判精神が横溢する関係に身を置くようにすれば、仮に批判者が不在でも自己チェックする習慣が身についてくる。自己検証能力は希少なヒューマンスキルの一つなのである。
事実認識、知識、意見、価値観、方法、生活習慣・態度、人生観、人間性・人格・・・・・・批判の対象はいろいろである。事実誤認を指摘され意見を批評されるのはいいが、矛先が人生観や人間性に向けられるとグサッとくる。しかし、対象などどうでもいい。要は、批判者の批判行為が善意か悪意か、助言か非難か、啓発か否定かをよく見極めればいいのだ。空砲と実弾の区別がつかない鈍い感覚こそを大いに自省すべきだろう。
別に硬派を気取っているわけではない。ある人にとって軽いことが、別の人にとって重いことくらい百も承知である。ある人は批判を受け止めるし、別の人は批判を聞き流したり苛立ったりする。プライドなのか別の何かがそうさせるのかわからないが、批判の負荷に耐えられなければ高みに到ることなど望めないだろう。リーダー側に立ち始めたら、誰かからの批判機会は当然減る。ここを境にして裸の王様度が強くなる。だからこそ、その時に備えて日頃から自己検証力を高めておかねばならないのである。自分が自分に一番辛い点数をつけるということだ。最近のリーダーを見ていると、自画自賛が過ぎるとつくづく思う。ちょっとハードワークするたびにマッサージや温泉やご馳走などのご褒美とは、自分に甘すぎるのではないか。
批判からの逃避
2011年10月18日 11:15
この話が当てはまる人々に老いも若きも男も女もない。「批判からの逃避」には二つの意味が込められている。一つは「批判することからの逃避」であり、もう一つは「批判されることからの逃避」である。対話にあって波風を立てないよう、批判することを避けてひたすら共感し同調する。これによって今度は批判されることを回避できる。
以前このテーマについて某所で話したときに、「批判と批評との違い」を尋ねられたことがある。即座に回答しかねる問いだが、ぼくも老獪な一面を持ち合わせているから、「非難と対比すれば、批判と批評は同じ仲間だ。この話に関しては同義と思ってもらっていい」と伝えた。後日辞書をチェックしてみたら、さほど苦し紛れの対応でもないことがわかった。批評がより価値論議に向けられるものの、批判も批評も物事の長所・短所を取り上げるという点では共通している。非難の「欠点や過失を取り上げて責めること」とは根本が違う。
批判でも批評でもいいのだが、とりあえず批判にしておく。この批判がいつの間にか「非難」と同義になってしまったかのようである。ぼくにとっては批判は改善・成長を視野に入れた、問題解決の処方箋である。問題を解決するためには問題を明らかにせねばならない。問題を明らかにするとは原因を探ることである。その原因探しと問題解決に助言をしようとするから批判するのである。どうでもいいことを取り上げて、どうでもいい人間にわざわざ改善や成長のための批判をするはずがないではないか。
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批判は非難ではない。ぼくにとっては批判されることも批判することもつねに良薬である。苦くて刺々(とげとげ)しい毒舌であっても毒ではない。ところが、「それって批判ですか?」「そう、批判」「ひどいなあ、いきなり非難するなんて」「非難じゃない、批判。全然違うものだ」「ケチをつけるんだから一緒ですよ」という類のやりとりが、嘆かわしいことに現実味を帯びてきた。
ストレートな話し方をするほうなので、辛辣な毒舌家と受け取られることが多いが、ぼくなどは穏健で温厚な「ゆるキャラ」だ。批判と非難の区別もつかない連中は、批判の中身に耳を傾けず、批判の語り口に神経を尖らせている。彼らにとってきつい表現は非難であって、助言などではないのだろう。
批判は成長の踏み台であり、非難は意見攻撃、ひいては人格否定につながる責めの行為だ。この違いがわからない者に助言しにくくなってしまった。批判から逃避する彼らはどうなるか。結局は差し障りのない関係を保ちながら、甘く低いレベルで折り合ってしまうことになる。切磋琢磨しようと思えば棘の一つや二つは刺さる。だが、そんなものは繰り返し慣れてしまえば、すぐに免疫ができる。批判というのは一種の人間関係ゲームなのである。逃げたらダメ、避けたらダメ。 《たぶん続く》
類型を好む人たち
2011年10月11日 15:00
昨今ほとんど集まりに出ないが、かつてはよく集いを主宰してもいたし、よく招かれもした。義理と形式を絵に描いたような会合に顔を出すこともあった。そんな席でたまたま隣に座った人が「どこどこの誰々と申します」と名乗ることがある。自己紹介してくる人に知らん顔は失礼なので、つられるように名を告げる。但し、明らかに一過性の出会いでぼくは社名や職業名まで紹介しない。
話しかけてきた人がさらなるひと言ふた言続けることが稀にある。「今日出席した理由は何々で・・・・・・」と言うから、「そうなんですか・・・・・・」と相槌を打つ。それ以外に応対の方法を思いつかない。たった一度きりだが、自己紹介の後に唐突に「ところで、あなたの血液型は何ですか?」と聞いてきた男がいた。会合のテーマは「献血」ではなかったが、赤十字が協賛団体なのかとバナーに目を向けたほどだった。「O型ですが、それが何か?」と言うと、長く深い話にされてしまいそう。かと言って、「初対面のあなたに血液型を明かす筋合いはない!」などと偏屈になることもない。「O型です」と言って、後は黙った。彼もうなずいただけだった。何のために聞いてきたのだろうか。
血液型や何月生まれや星座が話題になることがよくあるが、別に不快にならない。好きな人はどんどん話題にすればよろしい。ぼくは輪に入らない。四種類や十二種類に人間を分けてみたところで、何かがわかるわけでもないと思っている。かと言って、分けることに批判的でもない。どうぞご自由に、というわけだ。
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広辞苑などでは類型の定義を「一定種類に属するものごとに共通する形式」としているが、そうではないだろう。最初からそんな種類に属しているのではなく、いろんなサンプルから共通特徴を少々強引に抽出して型を作りラベルを貼ったのである。だから、「私は水瓶座なので・・・・・・」とか「B型のあなたは・・・・・・」という、はじめに類型ありきのプロファイリングは手順前後である。まあ、星座や血液型などはいいだろう。だが、「私は慌て者。だから・・・・・・」などと自ら看板を立てる連中は、それに続けて己の欠点を見事に正当化する。一見ダメそうな慌て者に理があるような論法を組み立てる。
「オレは根っからの感性派なので・・・・・・」の類には辟易する。「感性派なので、理性のことはよくわからん。腹が立てば怒るし、共感すれば涙を流す。理屈を超えたところで人間どうしは心を通わせるのだと思うんだよな」と一、二行のコピーで一本筋を通すように話をまとめ上げる。ぼくは心中つぶやく、「あんた、それって仮説の論法で、結構理屈っぽいと思うけど」。
誰かにどこかで感性派という類型を教わったのか、あるいは「お前は感性派だ」という天啓があったのか知らないが、十人十色の人間に一言で済ませられるようなラベルが先験的に貼られるわけがない。おびただしいサンプルのことごとくに言及できないから、類型という方便を編み出したにすぎないのである。ともあれ、感性派と理性派などという二元論的類型など不器用極まりない。そんな単細胞的に自分をブランディングする必要はない。類型はつねに変わるのだ。



