2008年6月アーカイブ

ことば~慣用と誤用のはざま

2008年6月30日 12:13

 最近めっきりテレビの雑学クイズ番組が増えた。クイズが嫌いではないぼくはつい見てしまう。超難問に答えて一喜し、知らない事柄のおびただしさに愕然として一憂する。正解率の低いのが冠婚葬祭系のマナーだ。この齢にして、これまで実生活で慣習を受け継ぐという環境にはなかった。かろうじて知っているしきたりの一部は体験によるものではなく、本や耳学問によるものである。

 相手の気分を害するほど失礼でなければいいではないか―これがホンネ。冠婚葬祭の正統流であろうと亜流・間違いであろうと、相手がすでに何とも感じていないことが多々ある。祝儀袋にまつわる小さなルールが善意をしいたげるなんて、理不尽もはなはだしい。この種のマナーはほどほどでよい。そう思っている。

☆ ☆ ☆

 微妙なのはことば遣いのほうだ。「正確で効果的な使用」はあっても、絶対的な「正用」などというものは存在しない (なお、この「正用」は「せいよう」と入力したら表示されたのだが、手元にある二冊の辞書にこの用語は掲載されていない)。本来の正しい用法などと言ってみたところで、本来をどこまで辿るかによって変わってくる。語源まで遡れば、ほとんどのことばは本来から乖離している。大多数がその間違いを認知したら「明らかな誤用」とするしかないのだろう。

  ディベートを指導していた頃の話。ディベートには耳慣れない用語がいくつかあって、講義で説明しても実際に使うときに間違ってしまうケースがある。

 反対尋問(はんたいじんもん)。この読み間違いはないが、「はんたい・・・」まで言いかけて黙る人がいる。反駁はんばく。「反発」のことだろうと勝手に解釈して、十人に一人くらいの割合ではんぱつと言う。他の人が「ばく」と発音しているのに気づいてやがて修正する。証拠(しょうこ)や論拠(ろんきょ)はさほど難しくない。

 ぼくのディベート指導史に残る「大笑い誤用」の一つは、「肯定側」と「立論」の合成語である「肯定側立論」。もちろん「こうていがわ りつろん」と読む。これを「肯定」と「側立論」に分けて「こうてい そくりつろん」と声高らかに読み上げてくれた男性がいる。ここまで器用に間違われると、「きみ、間違いだよ」とは指摘できない。とりあえず聞き流しておいて、講評のときに「こうていがわ りつろん」と強調して誤用した人に悟らせようとした。彼、悟らなかった。否定側でも「ひてい そくりつろん」と言っていた。

 もう一つは、これを超えた満点大笑い。同じく因縁の肯定側立論だ。この女性はちゃんと「肯定側」と「立論」に区切ってくれた。区切ったうえでこうていがわ たてろん」と読んだ。ジャッジたるものあまり笑いころげてはいけない。笑いを押し殺したために喉が詰まって窒息しそうになった。立論が立つどころか、寝転んでしまった。この女性に何を悟らせる必要があるだろう。《羞恥心》の新メンバーに推薦したい。

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 誤用が多数派を占めれば慣用になる。ぼく以外のみんなが「たてろん」と言い出して、「りつろんという読み方はおかしいよ」となれば、こっちが誤用扱いされてしまう。たとえば、「間、髪を入れず」を使うときは本当に勇気がいる。「かん、はつをいれず」だ。これが「間髪入れず」と表記され、「かんぱついれず」と読まれる(実際、今「かんぱつ」と入力したら出てきた)。この種の類例は多数ある。

 誤用は人の常。ぼくもしょっちゅう間違う。そしてかつて誤用であったものが常用になることに寛容であろうと思う。しかし、「間髪入れず」に王座を譲ってはいけない。「間髪」などという髪はどこにもない。まるで「ヘアフォーライフ」みたいではないか。「間、髪を入れず」は「間に髪の毛一本も入れないほどすばやく対応する」というのが「本来」の意味だ。

 「失礼ですが、さっき『かん、はつをいれず』とおっしゃいましたね。差し出がましいようですが、あれ『かんぱついれず』ですよ。立場上、お気をつけて」。いつかこんな注意を受ける日が来るだろう。「あ、ご親切に、ありがとう」のあとに、「でも、本来は・・・・・・」と付け足すかどうかは、相手を見定めて決めることになるのだろう。   

アイデアを探るツール~入門編

2008年6月27日 21:52

 「お客さま、新大阪ですよ。」 乗務員さんの声がよく聞き取れなかった。「えっ、何とおっしゃいました?」 「あのう、新大阪に到着しています。」

 駅に停車しているのは、窓の外を見ていたのでわかっている。ぼくはその駅をてっきり京都だと思っていて、微動だにしていなかった。今日の午後、東京からの下りの新幹線のぞみの車中だ。名古屋を出たのは覚えているが、完全に京都が抜けている。熟睡していたのではない。熟考していたのだ。集中していて完全に我を忘れていた。新大阪止まりの列車だったので、乗り過ごさずに済んだ。

☆ ☆ ☆

 しょっちゅうこんなことは起こらない。複雑思考のときほど起こらない。複雑すぎると意識が散漫になって集中できなくなる。ネタが少なくて単純思考しているときほど案外のめり込む。今日は「座標軸思考」をしていた。AとBという二項対立、XとYという別の二項対立を単純に組み合わせるだけだ。

 「A→有言」とすると、「B→不言」。「X→実行」とすると、「Y→不実行」。AB軸をタテに、XY軸をヨコに十字を描けば、4つの組み合わせができる。すなわち、有言実行、有言不実行、不言実行、不言不実行。それぞれについて、真面目にかつ不真面目に思いを巡らしていたら、京都駅が抜けるほど深いところに入っていたというわけである。ざっと次のように・・・・・・。

 ちょっとひねってみたい気はするけれど、やっぱり有言実行が一番でしかたがないか。道徳論者みたいかな? でも言葉というシナリオにしたがってアクションを起こしているのだから、他者は理解しやすいだろう。午前11時にうかがいますと約束して、その時間に来るなら、ひとまずいい人と評価できる・・・・・・。

 有言不実行はよくやり玉にあがる。「口ばっかり」と呆れられる。周囲にも結構いるもんだ。みんな6時に来てくれよと言っておきながら、自分だけ来ないヤツ、いるなあ。でも、評論家のほとんどはこれで生計を立てているのだからおいしい生き方かもしれん・・・・・・。

 不言実行。「男は黙って何々」という逞しさがあるが、思いつき・デタラメの可能性もある。約束もしていないのに、突然やって来られては困る。無断拝借というのもこの部類か。何も言わずに事を運ぶのだから、危ない匂いもする・・・・・・。

 約束もしないし、やって来ることもない。可否の判断とは無縁か。ちょっと待てよ、何も言わず何もしないという不言不実行は、ミスをすると罰せられる職業においては完璧な方法論ではないか。いや、死人だって何も言わず何もしないぞ。あ、そうか、不言不実行な仕事ぶりの連中は「生ける屍(しかばね)」なんだ・・・・・・。

☆ ☆ ☆

 とまあ、こんなふうに考えるわけである。アイデアが出るとはかぎらないが、アイデアマンを志願するビギナーにとっては思考習慣につながるはずだ。AとB、XとYのそれぞれに対立または並立するキーワードを入れるだけ。就寝前にこれをやると眠れなくなるので注意していただきたい。それと、列車の終着駅周辺に住んでいない人は乗り過ごすことがあるので気をつけたほうがよい。    

なくてもよい饒舌な情報

2008年6月26日 09:31

 饒舌な情報を批評すると、「お前が書いていることが一番ジョーゼツだ」と反発を食らいそうだ。言わぬが花か? しかし、言っておきたい。よく遭遇するのは、どうでもよいことについて多弁で情報過多であり、由々しきことについては寡黙で情報不足という場面である。

 雄弁な虚礼というのがある。「このたびはご多忙中にもかかわりませず、また、あいにくの雨にもかかわりませず、遠方よりお越しいただき、私どものために貴重なお時間を賜りまして心より感謝申し上げます」という類の、腹の中と落差のあるメッセージ。あまり誠意も感じないが、むしろ何かのパロディのようでつい笑ってしまいそう。これを聞いているあいだは目のやり場に困る。

 さらに。軽い好奇心から「これ何ですか?」と料理の隅っこにある素材を尋ねたら、地産地消の話から有機栽培の話へ、料理人になった経緯から生い立ちまで延々と聞かされ、箸はじっと止まったまま。聞きたいのは素材の名前と一言の添え言葉だ。

 まだある。在来の特急に乗ってから数分間続く車内アナウンス。ただいま沿線でキャンペーンをしていますとか、ナントカカードをご利用くださいとかのコマーシャルメッセージはいい。営利の鉄道会社だから手短に宣伝するくらいは許容範囲としておこう。

 しかし、駆け込み乗車はいけない、タバコは遠慮しろ、携帯はマナーモードだ、網棚に手荷物を置き忘れるな、トイレは何号車へ、ご用があれば車掌へ、どこどこへ行くなら次の駅で乗り換えよと続き、挙句の果ては「本日はご乗車いただきましてありがとうございます。ごゆっくりおくつろぎください」。これでは、くつろげない!

☆ ☆ ☆

 自己責任というものがある。社会は「知っていて当然」という前提で動かねばならない面もある。すべての人々に均一なメッセージを押し付けることはないだろう。わからなければ聞けばいい。同時に、マナー違反という例外に対してはそのつど注意すればいい。

 饒舌とまではいかないが、「列車は5分遅れて到着しました。お急ぎのところ、みなさまにはご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます」もなくてもよい。所要2、3時間のうち5分なんて許される誤差ではないか。少なくとも、ぼくには謝ってもらわなくてもよろしい。

 対照的な話だが、ローマからパリへの飛行機が強風で運休したとき、カウンターで受けた説明は「ローマからアムステルダムに行ってもらう。トランジットは30分だから急げ! アムステルダムからは上海へ。上海から関空。はい、これがチケット」でおしまい。「お気の毒」と同情はしてくれるが、「申し訳ない」とは決して言わない。

 話を戻す。饒舌のきわめつけは、「当列車はただいま三河駅を定刻通りに通過いたしました」。いらない、聞きたくない、興味がない! この情報はマイク経由客席行きではなく、どうかスタッフ間の確認で済ましてほしい。

 日本人は寡黙? いや、世の中は饒舌な人々で溢れているではないか。その彼らが都合が悪くなったり、会議での決議になるとダンマリを決めこんでしまう。

 今日から新幹線で出張。ジョーゼツの旅。

美術とカフェと街角

2008年6月25日 08:00

 今年の3月2日のパリは格別な日だった。正確に言うと、そんな格別な日は毎月一回やってくる。もともと常時無料の美術館があちこちにあるのだが、加えて、毎月第一日曜日は有名美術館や博物館の多くが無料なのである。美術・歴史ファンにはありがたいサービスだ。

 2006年10月には無料でルーヴル美術館に入場した。奇しくも引退した名馬ディープインパクトがロンシャン競馬場の凱旋門賞に出走した日である。

 今年は午前にピカソ美術館、夕方の閉館前にオランジュリー美術館と決めた。ピカソのほうは開館前の9時30分に並ぶ。ルーヴルとは違い、その時間なら列は十数人程度だ。オランジュリーは一時間近く待たされた。みんな同じ思惑だったのだろうか。モネの睡蓮に人が集まるが、ここはそれ以外にもルノワール、セザンヌ、ユトリロ、モディリアニ、ゴーギャンなどの作品が居並ぶ。日本なら、これだけで十や二十の美術館ができてしまうだろう。

 ピカソ美術館の後に予定外だったカルナヴァレ博物館へ(ここは年中無料)。パリの歴史資料館だが、もともとは貴族の住んでいた館。浅田次郎『王妃の館』ファンご存知のヴォージュ広場は、ここから東へ200メートルのところにある。

☆ ☆ ☆

 閑話休題―長い前置きになってしまった。今日はパリ美術案内ではなく、粋なカフェの話である。

 昨日も紹介したが、ぼくはエスプレッソびいきだ。「苦くて濃くて少量」をめぐって好き・嫌いが分かれる。自宅で淹れるエスプレッソも会社近くの店で飲むエスプレッソもおいしい。それでもやっぱり美術鑑賞の後のパリのエスプレッソは格別な気がする。

  フランスでは café と綴り「キャフェ」と発音する(イタリア語では caffè となり、f が一つ増え、「カッフェ」と音が変わる。見落としがちだが、e のアクセントの向きも違う)。こんな薀蓄はさておき、予定外で訪れたカルナヴァレ博物館近くのカフェの佇まいが気に入った。

ピカソ美術館近くのバール.JPGのサムネール画像

P1010749.JPGのサムネール画像のサムネール画像

(左)自然の緑が織り成す色合いは美しいが、人工的な緑色のコーディネーションで感嘆する場面にはめったに出合わない。このカフェの緑は抑制がきいていて落ち着く。何よりも「こちらでお召し上がりですか?」 「お砂糖は一つでよろしいですか?」などと聞いてこない。ここで注文したのは、言うまでもない、エスプレッソである。店内でも飲める。しかし、少し肌寒いながらも屋外のテーブルに座ることにした。目の前は博物館の裏庭だ。

(右)グラスに入って運ばれてきた。パリのエスプレッソはイタリアのものより量は多く、ややマイルドだ。めったにないが、このカフェでは水も出してくれた。わが国のお店には、注文から出来上がりに至るまでのつまらぬ質問などやめて、時間と空間と芳醇な味わいを提供するカフェ文化を研究してもらいたい。そっとしておいてほしい珈琲党の願いである。

はい。はい。はい。

2008年6月24日 17:04

 週に一回、出社前に近くのカフェに寄ることがある。自宅でも一杯飲んでいるので、注文するのはたいてい濃くて少量のエスプレッソかカフェラテである。ちなみに、カフェラテはエスプレッソコーヒーに泡立てたミルクを注ぎ、カフェオーレはふつうのコーヒーに温めたミルクを混ぜる。今朝はアイスカフェラテを注文した。

 「アイスカフェラテ、ください」 (千円札を出す)

 「店内でお召し上がりですか?」

 「はい」 (一度目)

 「千円からでよろしいですか?」 (「よろしかったですか」よりはマシか)

 「はい」 (二度目)

 「シロップはお付けしますか?」 

 「はい」 (三度目)

☆ ☆ ☆

 一人で来たので、さすがに「一杯ですね?」とは聞かれなかった。そう聞かれていたら、「はい。はい。はい。はい。」になっていたわけだ。四度でなく、三度で済んだことが「せめてもの慰め」とは情けない。こんなロボット仕掛けみたいなやりとりにうんざり。

 職務質問時ですら、「はい」以外の会話はあるに違いない。熟年オヤジが朝から「はい。はい。はい。」を強制されて、これじゃまるで教師に諭されているオコチャマの気分だ。前の二つの「はい」には我慢しよう。しかし、ぼくもぼくの知り合いもシロップに関しては十中八九「はい」である。ホットコーヒーに砂糖を入れない人たちも、アイス系になるとシロップを使うことが多い。たぶんこの店でもきっとそうだろう。

 いや、「うちでは十中八九までいかなくて、十中六七です」と言うかもしれない。それでもだ、シロップにイエスという頻度が過半数以上ならば、黙ってシロップをトレイに置けばいいではないか。そして、シロップを使わない人に「あ、それいらないよ」という一言をもらえばいい。ぜひそうしていただきたい。これにより、ぼくは二回の「はい」で朝を過ごせるし、シロップのいらない人も「はい以外の会話」を楽しめるというものだ。

 明日のブログでは、今年3月に体験したパリのカフェの粋を紹介したい。  

仕事の中の寄り道

2008年6月23日 17:50

 あまりノスタルジーに浸るほうではないが、仕事に集中しつつも考えがまとまらないときには過去に遡ってしまう。何かを調べるのではなく自力で考えようとしたら、アタマに頼るのは当然だ。そして、そこにあるのは未来の情報ではなく、おびただしい過去の情報である。

 過去を再生すると、切ない光景や思い出も混じってくる。すると、本題から脱線してしまって仕事が座礁する。机まわりを整理し始めたのはいいが、写真アルバムに見入ってしまう体験が誰にもあるだろう。懐かしさは仕事の邪魔になる。

 脱線はよくない。特に夕方以降にこんな状態になると、精神的にも疲れる。翌朝にもストレスを持ち越してしまう。とはいえ、まったく寄り道もしないような仕事は愉快ではない。

☆ ☆ ☆

 その日の寄り道はキャラメルだった。時々飴を転がすが、無性にキャラメルを舐めたくなってわざわざ買ってきた。紙をめくって一個口に入れる。箱から手のひらに乗るような小さなカードが出てきた。おまけ? G社でなくM社だからおまけではないだろう。ずいぶん昔っぽい濁ったカラーの岩だらけの風景写真。写真の下には「過去と歴史の違いは、何?」と、なんだか哲学めいた問い。クイズ? (クイズ好きだからそう思ってしまう。)

 「過去は現在から切り離された時間であり、歴史とは現在に連なる時間」と自答してみた。行き詰まったあげく休憩を兼ねてキャラメルに寄り道したのに、なんというアタマの使わされ方だ。と思いながらも、カードを裏返してみる。

 裏面にはキャラメル名が印刷されていて、8本の線が引いてある。メモ欄? 表面の問いに対応するような文字はいっさいない。もしかして、別紙に何か書いてあるのかもしれないと、念のためにもう一度箱の中を覗いてみた。何もない。

 おいおい、何のための問いだったんだ? 岩だらけの風景との関係はどうなんだ? カードの「企画意図」は? 「これだけは言っておく」と吐き捨てて何も言わずに去っていく新喜劇ギャグとかぶっっている。キャラメルの箱に向かってぼやいた、「答えも教えろ!」 

 ノスタルジーを色濃く練りこんであるキャラメルは気分転換によくないことがわかった。こんなことを思い出しながら、今日の寄り道は目薬にしておいた。  

謙虚なヒアリングと潔いアンサー

2008年6月22日 22:53

 二十歳前からディベートを勉強し、三十歳前後から広報の仕事に身を置いた体験から、『PRと交渉』という、一見すると異なった二つのテーマを一本化して講演することがある。自分の中では同じ範疇のテーマとして折り合っているが、「なぜPRと交渉?」とピンとこない人もいるようだ。

 PRというのはPublic Relations(パブリック・リレーションズ)のことで、「広報」と訳される。パブリックというのは不特定多数の一般大衆ではなく、「特定分衆」という意味に近い。共通の利害や関心などに応じて対象を「特定の層や特定のグループ」に絞り込むのがピーアール上手だ。だから、「広報」よりも「狭報」と呼ぶほうが本質をついている。

 絞り込んだ各界各層に望ましいイメージを広めて好ましい関係を構築しておく。この点でPRはリスク回避やリスク軽減の基盤をつくるものだ。対照的に、交渉はリスク発生やリスク直面にあたっての処し方にかかわる。いずれも、企業(または行政)の対社会的組織活動である。ニコニコPRしてコワモテ交渉していたら矛盾する。一度イメージダウンすると交渉で失地回復するのはきわめて難しい。ぼくの中ではPRと交渉は一本の線でつながっている。

☆ ☆ ☆

 「話し下手だが聞き上手」という日本人を形容する言い回しは、まったくデタラメである。同質性の高い社会で生まれ育った人間は、人の話にあまり真剣に耳を傾けない。質問にもしっかりと答えない。

 謝罪のことばもワンパターンだ。不祥事の当事者の謝罪の様子を見て、テレビの視聴者は「こんなことで共感が得られるはずがないのに・・・・・・」と呆れ返る。しかし、当事者側に立ったら「申し訳ありませんでした」以外に選ぶことばはない。「頭が真っ白でした」というのは、新手の苦肉の策だったかもしれない。

 商売人としてブランドに安住せず、ブランドを信用の証にする。顧客より上に行かない、かと言って、へりくだり過ぎることもない。つねに人々の暮らしをよく見つめ、人々の意見に耳を傾ける。質問を歓迎し的確に応答する。謙虚さと潔さのバランス。特定顧客におもねることなく、すべての顧客に等距離関係を保つ。こうした取り組みをしていないから、一部の人々から不評が広がる。一部の人々の大半は内部の人々だ。経営者と従業員の関係はパブリック・リレーションズなのである。

 「世論を味方につければ、失敗することはない」とはアブラハム・リンカーンのことばだ。常連さんの意見よりも大きな概念―それが世論だ。

 一部老舗の商売道では当たり前とされる「一見さんお断り」(ぼくの自宅の近くには「素人さんお断り」というのもある)。近未来ライフスタイルや今後の市場再編を冷静に予見したら、そんな偉そうなことをほざいている場合ではないだろう。  

思考軸が変わるきっかけ

2008年6月20日 22:52

 人生には方向転換する契機というものがある。それまで慣れ親しんだ思考の地軸が揺らぐ瞬間だ。ひねくれたものの見方がまっとうになる場合もあれば、「清く正しく美しく」の欺瞞性に気づいてアマノジャクにシフトする場合もある。今回の話は後者だ。

 いろいろと紆余曲折はあったものの、中学生時代までのぼくは「普通に」生きてきた。ここで言う普通というのは、常識に逆らわないで、流れに掉さす生活スタイルという意味である。それまでほぼ固定していた軸が、この一件以来、タテからヨコへの大変動を起こす。

 中学の卒業式。道徳と常識をこねたらこんな人物が出来上がりそうな校長先生が、挨拶のスピーチで「諸君、私とジャンケンをしましょう」と言い出す。手を上にかざして「ジャンケン、ポン」。卒業生は条件反射のようにグーやチョキやパーを出す。いったい何事が始まるのかと、戸惑ったり興味津々になったりして次の先生の「オチ」に注目する(この歳の頃からオチへの期待感をつのらせるDNAが大阪人にはある)。

 校長先生 「パーを出した人。その人は、これからの人生を寛容な包容力で生きていくでしょう。チョキを出した人は、目の前の困難を切り拓いていくはずです。そして、グーを出した人は、強い意志をもって自分自身を貫くのです。」

 パーが包容力、チョキが開拓力、グーが意志力。これを聞いた直後、さほど斜めにものを見なかったぼくの思考軸がアマノジャク軸へと転化したのだ。「何、それ? 占い? 人生の美学? これから高校に進学して、その後に大学受験も控えて、そんなきれいごとで生きていけるのだろうか?」 これがぼくの批判精神の最初の芽生えだった。

☆ ☆ ☆

 団塊世代の次世代であるぼくは、どちらかと言うとペシミスティックだった。これからの三年間は勉学の競争で明け暮れねばならないという不安心理に染まっていた。だからこそ、そんな美しい、みんなハッピーなんてありえない! と内心反発したのである。

 しかし、結果的にぼくはこの転機に感謝している。他人のマネをしたり常識的考え方に安住しない発想を持ちえたからである。絵を描くのも鑑賞するのも好きだったぼくは、写実的な絵からシュールな抽象画に傾いていった。俳句から川柳へ、受験勉強から遠回りな独学へ、ベストセラーや推薦図書から一風変わった読書へ。このように正統軸から異端軸へと好奇心の矛先を変えた。

 仕事柄、新しいものを次から次へと生み出さねばならない現在も、この姿勢を維持しようと努力はしている。歳を重ねるにつれ、気がつけば常識や正統側に回っていることもあるが、自らに警鐘を鳴らして、敢えて逆を行く場合もある。

 中学卒業式で、ぼくはグー、チョキ、パーのどれを出しただろうか? 正直言って、覚えていない。もしかすると手を挙げていなかったかもしれない。出していたとすれば、間違いなくチョキだっただろう。理由? とっさにジャンケンを迫られたら、チョキを出す癖は今も変わっていないから。 

二十年前の「異脳種交流の勉強会」

2008年6月19日 15:23

 自分自身が中心となって立ち上げた最初の勉強会は「Plan+Net(プランネット)」という、ワークショップ形式のレクチャラーズ・プログラムだった。スタートしたのは1988年で、約5年続いた。

 当時と現在の時代テーマというか、関心事の相違をチェックするのに興味深い点があるので、順不同で列挙してみた。もちろんそのすべてのレクチャーをぼくが担当したのではない。ぼくが主宰したものには◎をつけておく。

 人間細胞論  本当の自分と偽りの自分  僕の美術教師時代  賢い税金の話  速読のポイント  世相批評座談会  裁判のABC  ◎たとえれば楽し  女性能力開発法  ストラテジスト  生命と科学に感動  教育マーケティング  ◎ゲームのルール学  商業空間新情報  おでんパーティー  ビートルズの社会学  ◎英会話独習の秘術  バリ島の音楽論  家族関係の活性化  リカちゃん大研究  キリストと釈迦について考える  少女マンガ論  モータースポーツ文化論  フランスのロック・ポップス  お米が育つ過程  美しくボディビル  百人一首の魅力  ◎異端と正統の境界  流れを読む占星術  自己実現を設計する  ◎絵本の世界への誘い  ◎ディベートで知的武装する  無人島サバイバル報告  ◎十人十色の発想学  ダービー馬の誕生  必殺セールス術  スポーツに日米の違いを見た  意外に簡単、「個人輸入」  寺と町の栄枯盛衰  ああ、ユーゴスラビア旅情  インド、まるごと  若者心理を考える―曖昧さの研究  現代音楽史とその周辺  恐い、恐くない、成人病  1920年代の光と翳  模倣の美学  ◎大阪の下町情緒って何だろう  欧米建築レポート  人生の資金設計  ◎頭脳を爆発させる  フェミニストかく語りき  時代劇教壇  カルカッタの冒険  映画は最高!

 驚かないでほしい。以上がすべてではない。総開催数のわずか4分の1である。なんと週一回というハイペースで開いた勉強会だったのである。テーマのバリエーションが豊富で、おもしろい切り口・着眼も垣間見える。会員には専門家もいればアマチュアもいた。会費はコーヒー1杯ついて1回500円。レクチャラーは全員手弁当だ。あらためて、なかなかの人材に囲まれていたという実感を強くする。

☆ ☆ ☆

 この勉強会のユニークさは、「聴く・学ぶ」もさることながら、専門・趣味・自論について小一時間薀蓄を傾けてもらうことにあった。だからこそレクチャラーズ・プログラムなのである。話の内容については質問や批評も出る。和気藹々としたムードもあったが、挑発的な一言で真剣な空気に一変する場面もあった。

 話してみて初めてわかることがある。話してみてこそ己の思考が明快になることがある。レクチャラーとしての立場がもっとも大きな学びになると信じて、有志が集まってお互いに発表の機会をつくったのだ。もちろん、これだけのテーマにくらいついて傾聴するのも相当なもの。だから聞き手にはボーダレスな知への、尋常でない好奇心が不可欠だった。賛同してくれた会員も最多で100名近くなり、常時20名近くの会員が出席した。

 この趣旨に近い試みは今の時代も有効だと思っている。もはや週一というエネルギーはないが、月一、二回の1時間ちょっとの勉強会なら再現できるかもしれない。

 ところで、ぼく自身のテーマの本質に変遷はあっただろうか? 底辺に潜む考え方はあまり変わっていないような気がするが、「十人十色の発想学」で蒔いた種は現在も育てている。第3期を迎える私塾の大阪講座は明日開講するが、そのテーマが「発想(ひらめき)の極意」というのは決して偶然ではない。

たまには小銭(2)~感傷編

2008年6月18日 15:02

 アイスコーヒー代を支払って、午後への繰越金は759円。さっきまでズッシリ感があった小銭入れがいくぶん軽くなっている。札入れやキャッシュカードだけを使い、預金通帳の数字をにらんでいるだけでは、このアナログ感覚はわからない。

 正午になった。この研修では講師用の弁当は出ない。弁当が出ないからこそ、少しばかり心配していたのである。ランチタイムの食事処を教えてもらい、かけうどん350円、きつねうどん450円、喫茶店のピラフ650円などとそろばんをはじきながら歩く。

 「コンビニに行けば悩むことなし」。わかっている。一日くらいおにぎり2個で我慢することもできる(いや、ランチそのものをパスしてもいい)。しかし、そんなことをすれば、朝のあの小銭への安堵と執着の体験価値が半減してしまうではないか。ここまできたら、小銭と対話しながら、その有り難味を噛みしめるべきだろう・・・・・・かたくなにこう考えた。

 普段は千円ちょうどか、少しお釣りのある程度のランチをいただく。オフィス近辺では平均すると値段はそんなものだ。あまりにも慣れてしまっているので、高いとか安いという値踏みはいちいちしない。

☆ ☆ ☆

 レストラン街に行って、とても驚いた。ぼくが立ち止まったほとんどの店のランチは700円~1000円だった。いや、別に驚かなくても、普段通りである。しかし、759円からすればことごとく贅沢な品々に見えてきた。ちなみに、ハンバーグ定食850円、トンカツ定食780円、海鮮丼1000円などは超豪華ランチに見えてきた。

 価格720円以上には目を向けないようにした。昨今メニューはすべて消費税込みというのは常識。だが、万が一730円のランチを頼んで、お勘定時に「消費税は別になりま~す」と言われたら、766円になってしまう。買物ゲームは7円でも超えたら、ゲームオーバーだ。

 というわけで、根気よくひたすら600円台を探す。そして、ついに「肉じゃが定食619円」を見つけた。ちゃんと税込みと書いてくれている。一目惚れである。肉じゃがとお惣菜一品にではなく、この619円に惚れた。中途半端な619円に「愛情とやさしさ」を感じた。お釣りの1円に対してまたもや「儲けた」という気分になった。

 ご馳走さまでした。残りは759-619=140円。食事だけして会場に引き返すのも切ない。自販機で120円の缶コーヒーを買う。残り20円(10円硬貨1枚、5円硬貨1枚、1円硬貨5枚。こんな至近距離で硬貨をまじまじと見つめたのは何年ぶりだろう)。

 研修指導も無事に終えた。朝から夕方までの小銭にまつわるいろんな思い。小銭をにぎりしめて駄菓子屋に通った昭和30年代の、あの懐かしい光景が帰途につく電車の中で甦ってきた。 

たまには小銭(1)~安堵編

2008年6月17日 14:24

 研修指導初日の朝、駅のホームに降り立った。しばらくして上着のポケットに財布がないのに気づく。一瞬ドキッがあったのは認めるが、沈着冷静なぼくは自宅に確認する。財布は自宅に忘れていた。すられたり落としたりしたのではないということがわかって、ひとまず安心している自分がいた。

 まだ時間の余裕はあるが、引き返すと間に合わなくなる。「初対面だけど、先方の担当者に借りればいいか」とか「ICカードのおかげで帰路の乗車賃は心配なし」などと思いながら、目的地に到着する頃にはもう割り切っていた。「千円ほど貸してもらえますか? 実は・・・・・・」と脳裏でリハーサルまでしている自分がいた。

 「もしかして」と鞄の外側のポケットを覗いてみた。あった、小銭入れ! 「地獄で仏」という、場違いで大袈裟な比喩をしている。そこは駅のコンコースだ。午前8時45分頃で通勤ラッシュの終盤。小銭入れから小銭をこぼさぬよう、ていねいに取り扱いながら「概算見積」してみる。五百円硬貨が目に入り、その他いろいろある。やった、千円はあるぞ! 大人げなく喜んでいる自分がいた。

 安堵。こうなると身勝手なもので、「開始までまだ半時間以上ある。アイスコーヒーでも」と欲望がよぎる。当然一杯200円ほどのチェーン店カフェを探す。でも、近くにそれらしき店は見当たらない。やむなく会場近くの喫茶店に入ることにする。表にディスプレイがなく値段は不明であるものの、400円までだろうと見立てをした。

 アイスコーヒーを注文し、一口含み、置かれた伝票を見ると390の数字。ほくそ笑んで10円儲けた気になっている自分がいた。再び小銭入れを宝物を扱うように取り出して、正確に数えてみる。1149円。ランチもしのげそうだといい気になっている。「1149は3で割り切れる」とアホなことを考えて、すっかり余裕を取り戻している。こういうのを「現金なやつ」と形容するのだろう。

招かれざる通信

2008年6月16日 18:58

 もう二年も前から付き合っている。付き合いたくて付き合っているのではなく、馬鹿げた対応をさせられている。人間ではない、「間違いファックス」である。ファックスの差出人も、送り状に書かれている宛先も名の知れた企業だ。しかし、縁も接点もまったくない。控え目に間違いファックスと言ったが、ぼくにとっては招いた覚えのない「スパムファックス」に等しい。

 さっき帰宅したら、着信していた。しばらくごぶさただったが、宛先は同じ、差出人も「前科一犯」であった(宛先はいつも同じだが、差出人は数ヵ所ある)。

 内容は注文表だ。差出人が宛先のメーカーに注文しているのである(書いているうちに、腹が立ってきたので菓子メーカーというところまで暴露しておこう)。たいてい「至急」というところにチェックが入っている。ごていねいにも差出人に電話をした。「宛先間違いです。ずっと迷惑しています。何度も電話したりファックスを送ったりして促しています。まったく改善されません。迅速に対応してください」。そっちも至急だろうが、こっちも気分的には至急だ。

 こんな電話をして、自分らしくないと嘆いている。ぼくを知っている人は、「そんなもの、放っておけばいいのに」と諭すかもしれない。しかし、キャンペーンシーズンか何か知らないが、年に数回は何枚も、それこそ週に2回も3回もやってくるのである。放っておいて、「注文したのに届かないだろ、ハハハ」と高笑いするほどもはや余裕はない。我慢には限界というものがある。

 最初の頃はファックスで注意を促していた。効果がないので、担当者に直接電話をして「間違いファックス」であることを告げた。電話では見えないが、平身低頭で謝罪したので、もう大丈夫だろうと思った。それでもやってくる。たちが悪い。差出人が複数なので、これでは間に合わないと考え、宛先にメールを送った。広報か苦情係みたいなところにである。一年半くらい前のことだが、いまだに返信はない。

 まあ、有名企業の対応なんてこんなものなのかもしれない。「紳士的クレーム」に対しては機敏な対応を取らないのである。少し脅し気味に怒気を込め、文字にできないような侮蔑語や罵倒語をふんだんに連発しないかぎり、効き目はないのだろう。「お客さまサービス」や「パブリックリレーションズ」などお題目にすぎない。

 ここまでずっと親切に紳士的対応をしてきた者として、企業名公表というような幼稚なリベンジはしない。こんなことで、品格を落とすわけにはいかない。迷惑ファックスにからむ全企業の商品を買わず、サービスも利用しない―こんな地味なレジスタンスはどうか。実は、この地味な作戦が積もり重なっていくのが企業にとっては一番の恐怖なのだ。 

「どちらとも言えない」と「わからない」

2008年6月15日 15:53

 明日から二日間、行政での「ロジカルシンキング研修」を担当する。研修で使用するテキストの小演習の一つをご紹介しよう(効果的な設問に書き換えるのがこの演習のねらい)。

 「あなたはコーヒーをよく飲みますか?」という問いがあり、回答欄が「はい」「いいえ」「どちらとも言えない」の三択になっている。アンケートではよく「どちらとも言えない」とか「わからない」という、第三の選択肢が設けられているのはご存知の通り。これが問題で、極端な話、半分以上の回答者がこのボックスにチェックを入れたら、集計しても参考材料にならないのだ。

 麦焼酎「二階堂」は、ぼくが気に入っているコマーシャルだ。「イエスとノー。その間にはなにもないのだろうか?」 この語りを耳にするたびに、「そんなことはない。何でもあるでしょう」と内言語でつぶやくぼくだ。しかし、こと上記のアンケートに関するかぎり、「はい」と「いいえ」の二者択一にしないと意味がない。もっと言えば、設問も「あなたはコーヒーを一日に3杯以上飲みますか?」と具体的にしたほうがよい。論理思考というのは、現実的には少々ありえなくても、あるいは少々ぎこちなくなっても、「どちらかと言えばイエス」「どちらかと言えばノー」と極論しないと成り立たないことがある。

 イエスと答えたら「なぜ?」と、ノーと答えても「なぜ?」と、それぞれ説明を求められる。それが嫌だからイエス・ノーを避ける。「どちらとも言えない」なら説明を免れる。説明の責任から逃げたければ「わからない」がいい。だから、みんな「わからない」で済ませる。

 「甲乙つけがたく、五分五分」―実は、この意見こそ、もっとも説明を要するものなのだ。そういう組織風土や社会的風潮をつくらないと、ロジカルシンキングに出番はない。

経験の差は優位性とはかぎらない

2008年6月14日 14:50

 「経営に口をはさむのは10年早い!」と、社長にたしなめられている社員がいた。よく聞いてみると、想像ではなく経験でものを言えということらしい。

 ある対象を理解するうえで、対象の中に入れという「同化思想」や「経験主義」が幅をきかせる。それはそれで一目を置くに値する。しかし、それは決して唯一の理解方法ではない。「古代ローマ人を理解するために、古代ローマ人でなければならない」のならば、歴史など存在しなくなる。

 もしかすると間違った引用をしているかもしれないが、2001年4月のノートに「シーザーを理解するために、シーザーである必要はない」というメモがあって、引用がマックス・ウェーバーの『理解社会学のカテゴリー』となっている。この本は学生時代に読んでいる。なぜ、7年前のノートに書いているのか思い出せない。

 さて、このことば、裏返せば、「シーザーでなくても、シーザーを理解することができる」というメッセージだ。冒頭のように社員を叱るのは、「経営者でなくては、経営を理解することができない。もっと経営の勉強してから話せ」と言っているに等しい。

☆ ☆ ☆

 経験は「餅は餅屋」というプロフェッショナルをつくる。だとしても、そのプロ自身が未経験の周辺世界をどう理解すればいいのだろう。想像力を使わなければどうにもならないはずではないか。

 社員を理解するためにもう一度社員に逆戻りした経営者は、ぼくの知り合いにはいない。社員に逆戻りしなくても社員の気持が理解できるという自信があるからだろう。なかなか虫のいい話である。それならば、「経営者でなくても、経営を理解することができる」という意見も受け入れるべきではないか。

 経験の差をかざしていれば安泰。だから、上に立てば立つほど、経験至上主義に走ってしまう。何十年の経験、何百年の歴史を一気に縮めてしまう可能性が想像力にあることも認めておきたい。そのほうがもっと広い視野で経営を理解できるだろう。

コマーシャルを楽しみ、学び、遊ぶ

2008年6月13日 21:26

 「長持ちするやつか、遠くまで飛ぶやつか、今夜はどっちのキンチョールがええんや?」 「ヤラシイわ?」 「ヤラシイやろ」

 「ヤラシイわ?」「ヤラシイやろ」が、ぼくの周囲の会話の中でポンポン飛び出す。簡単なやりとりなのだが、こんな絶妙な居直りの逃げ道があったのかと、つい感心してしまう。「すごいね?」に対して「すごいやろ」と自画自賛するほうが「ヤラシイ」。「ヤラシイやろ」と自嘲気味に居直るほうが、実は「ヤラシクない」ところがおもしろい。

 ただ、コマーシャルほど好き嫌いの激しいものはなくて、ぼくがおもしろいと思うほどおもしろいと思っていない人も多々いる。そもそもインパクトの強いコマーシャルであるためには、賛否両論という要素が不可欠である。

 どういうわけか知らないが、印象に残っている7、8年前のコマーシャルがある。「カラシレンコン、イガラシレイコ」に覚えがあるだろうか? 「和イスキー 膳」をたしなむ真田広之が、あてのカラシレンコンから、語感の類似している昔の彼女「イガラシレイコ」を思い出す。赤いドレスに身を包んだ、プライドの強い高慢ちきなイガラシレイコ。「どう似合う?」と腰に手をあてがい、気取るイガラシ。そのポーズを見て、真田、間髪を入れず、無表情に言う。

 「全然(=膳膳)」。

 その瞬間、つかえていたものがスゥーと下りていく快感。フラれた男性諸君の「ざまあみろ!」という声がテレビの中から響いてくるようだった。

 何十か何百かに一つの確率かもしれないが、秀逸なコマーシャルは仕事に役立つし、コミュニケーションの凝縮性に学ぶことも多い。なにしろ1秒当りもっとも高価な無料の教材なのだから、あまりケチをつけるべきではない。来週もまた、誰かが喉の奥から「ヤラシイやろ」と絞り出して笑わせてくれるだろう。誰かの一人がぼくである可能性も否定できない。 

論より証拠???

2008年6月12日 20:30

 諺は嫌いなほうではない。諺を自分なりに解釈するのが発想のトレーニングに役立つようなので、時々立ち止まってみる。諺の多くは反面教師でもある。「XはYである」になるほどとうなずく一方で、「XはYではない」にも一理ありと共感する。長年ディベートの指導をしてきたので、そういう見方が習性になっているのかもしれない。

  「論より証拠」が口癖になっている人もいるだろう。ディベートにおいては、論の質や流れを評価できないジャッジがついつい証拠びいきになってしまう。証拠の中身をしっかりと見てくれればまだしも、証拠の量で議論の勝者を決めてしまう(ちなみに、ディベートでは証拠のことをエビデンス=evidenceと呼ぶ)。

  証拠を並べ立てた議論はおもしろくない。まるで調査報告を聞かされているみたいだ。証拠は必要。しかし、5分の主張のうち4分が証拠の引用というひどい立論スピーチは退屈である。証拠至上主義になると、論理思考、臨機応変の表現、理由づけがおろそかになる。

  「証拠より論」という逆説を100%持ち上げる勇気はないが、「論も証拠も」という新説があってもよい。証拠なき論を「空論」と批判するのなら、論なき証拠に「空知」という皮肉を献上しようではないか。  少しニュアンスは違うが、「論より証拠」が「花より団子」に通じるように感じる。いずれも実利優先の命題だ。最近ディベートの審査がおもしろくなくなってきたのは、まずいお団子をたらふく食べさせられるばかりで、議論に花がないからだろう。

 気分的にはディベート指導の一線を退いたつもりではあるが、個性的な花が咲き競うようなディベートを愛でてみたい―内心、そう思っている。

三日坊主が試される一冊のアイデアノート

2008年6月11日 16:07

 「三日坊主」をどう評価すればいいだろうか? 常識的には、三日坊主は飽き性の別名である。「あいつは何をやっても、三日坊主だからな」というコメントが褒め言葉とは思えない。三日坊主は「石の上にも三年坊主」に比べて、365分の1の忍耐力というのが相場だろう。

 しかし、そういう対比的な見方をするならば、即席焼きそばが出来上がる3分間に苛立つ人間よりは忍耐強いと言える。「よくぞ三日も続けたもんだ」と褒めてあげてもいいし、「マンネリズムに陥らない君の見切り力はすばらしい」と感嘆してあげてもいい。

 十年は経つだろうか、昨年閉塾した私塾『談論風発塾』で、日記を書き込める文庫本サイズの手帳を塾生約20名に配ったことがある。1月スタートで誰が年末まで続けられるかという、三日坊主フィルター実験だ。「零日坊主」という厚かましい鈍感君もいたが、おおよそ半数が三日坊主から一週間坊主に終わった。二、三名が3月頃まで頑張り、最終的には一名だけが6月まで続いたように記憶している。

 断続的にではあるが、二十代後半から約30年間、アイデアや気づきや観察内容をノートにしてきた。ことノートに関するかぎり、三日坊主は何の価値も生まない。それなら零日坊主のほうがうんとましだ。なぜか? 三日間をムダにし、手帳の残りページを破棄し、飽き性な自分への嫌悪感が残るからである。

 ノートという習慣が形成できない人へのアドバイス。

 1.ノートを脳の外部メモリと考える(このメモリなら、紛失しないかぎり記憶は消えない)。      脳図              

 「のうと=ノート」とはこれなのだ。脳の出先機関である。日々の記録が、単なる足し算ではなく、シナプス回路のように変幻自在に文脈をつくってくれる。

 2.学習量と記憶率と活用度を損得で考える(学んだことを忘れたら損、覚えたことを使わなかったら損という、いやらしいそろばん勘定)。「アイデア創造のためには、たくさんの情報や知識を手元に置いておく」。月並みだが、発想技法に共通するセオリーである。 

聞き上手の話

2008年6月10日 16:53

 話すことに関しては達者だと自負する二人。

 いつもわれもわれもと喋るので、口論が絶えない。二人は猛省して、『聞き上手』に関する本を読んだ。皮肉なことに同じ書物だった。

 後日、精読した二人が再会した。

 お互い睨みあって一言も発しない。

 延々と時間が過ぎ、日が暮れた。それでも二人は口を開けようとしなかった。

 二人が読んだ本にはこう書いてあった。

 「相手を尊重して、先に喋ってもらうこと。それが聞き上手の第一歩だ」

 ☆ ☆ ☆

 聞き上手というのは、質問上手であり、傾聴力にすぐれているということ。寡黙だけれど聞き上手という人にはあまり出会ったことがない。

 「議論は知識のやりとり、口論は無知のやりとり」。これは、あるアメリカ人コメディアンのことばだ。以前の二人は無知のくせに喋るから口論になっていたのだろう。無知のまま聞き上手に変身することなどできない。知識をバックボーンにして少々のユーモアで味付けすれば、口論は議論へと止揚する。

 人間誰しもわがままに自分に酔う。この習性をよく理解すれば、マーケティングセオリーにも応用がきく。

 顧客はエゴイストである。

 顧客はナルシストである。 

コンセプトをアイディエーションへと結実させる

2008年6月 9日 10:41

 「アイディエーターって何ですか?」 本ブログのぼくのプロフィールを見て、こう尋ねてきた人がいる。

 実は、名刺には、代表取締役、企画コンサルタント、ワークショップレクチャラーと三種類の肩書きが印刷されている。その人は、名刺とブログ上での肩書きの違いに気づいたようだ(この名刺はまだ千枚以上残っているので、もったいないの精神であと二年は使うつもり)。

 さて、30年近く企画の仕事をしてきた。また、企画発想をテーマにしたセミナーや研修を20年近く数百回させてもらっている。コンセプト(concept) またはコンセプション(conception) は企画がらみで頻出する用語だが、アイディエーション(ideation)ということばはあまり見聞きすることがないだろう。いずれも概念(化)や観念(化)という意味を共有している。調べていただければわかるが、英和辞書では厳密に峻別した定義にはなっていない。

 ぼくは、コンセプトを企画の拡散段階の働き、アイディエーションを企画の収束段階の働きとして勝手に位置づけてきた。「何かいいコンセプトはないか?」という場合は発想を広げている。しかし、「見つかったコンセプトはどこに落とし込めばいいのか?」となると、形にすることが課題になっている。コンセプターという和製英語が気に入らないので、これまで企画コンサルタントと自称してきた。だが、相談に乗り、課題を自社に持ち帰って熟考して提案をするという一連のコンサルティングは、こと企画に関しては賞味期限が切れてしまうと判断した。

 古代ローマの剣闘士グラディエーター(gladiator) をふと思い出し、英語のネイティブスタッフに「アイディエーションということばがあるのだから、アイディエーター(ideator) は絶対OKだろ?」と問えば、直感的に彼は「ノープロブラム」と言い、念のために調べてくれた。まだまだニッチなことばだが、使用事例もあることがわかった。それなら、コンサルティングからアイディエーティングへと自分のサービスを変えてみようと思い立った次第。

 アイディエーターは、現場で課題と闘う人である。斬れば血の出るような実践的アイデアを、問われたその場で一番搾りして提供する。「この企画どう思います?」に対して、複数オプションを即答して、有力アイデアを即決する。とても大変だが、真剣勝負である。

 「知の剣闘士」よろしくアイディエーターという肩書きがとても気に入っているのだが、即答即決したらお金にならないのではないかという不安が横切る。その仕組みは、これからコンセプトをアイディエーションに落とし込んで考えていかねばならない。「お願い、誰か相談に乗って!」と泣き言はこぼせない。

空気の読めない「お邪魔します」

2008年6月 8日 09:21

 「お仕事中、お邪魔します。私、・・・・・・」

 ドアをトントンと叩く音が聞こえ、「ハイ」と応答したら、ドアが開いて、その営業マンは喋り始めた。よくある切り出し方、よくある口調、よくある服装の立ち居振る舞い。こっちは中断されたくないPC作業の真っ最中だったので、上目づかいで「何か?」とぶっきらぼうに尋ねる。

 「突然の訪問者」は冒頭の1、2分は丸暗記しているので、「ご用件は?」と聞こうが「何か?」と聞こうが、お構いなく話し続ける。「こんなやり方で成果が上がるのだろうか・・・・・・」―あまり頻繁に飛び込みセールスがやって来て仕事の邪魔をしてくれるので、10年ほど前に『セールスマンの通信簿―うちのオフィスにやってきた50人の話し方・売り方』という本を真剣に書いてみようと思ったくらいだ。

 彼らのステレオタイプな文言は次の通り。

 1. 「私、このたびこの地域の担当になりましたので、ご挨拶にうかがいました」(地域の担当? 知らない会社の人事異動事情を知ったってしかたがないじゃないか)

 2. 「ご多忙だとは存じますが、少しお時間いただけますでしょうか?」(察しの通り忙しいので、パンフを置いていってくれればよろしい)

 3. 「私、新入社員研修の一環で、企業訪問させていただいています」(つまらないことさせるね、どこの研修会社?)

 4. 「代表者の方は、いらっしゃいますでしょうか?」(あ、代表は出掛けています、と代表のぼく)

 彼らに共通する特徴は、社交辞令的でフォーマル過剰、にもかかわらず空っぽのテンションだけが高い。少し興味を示す振りをして話しかけても、カジュアルトークができない。何よりも苛立つのは、用件が後出しであり、やっと用件を言い出したと思ったら、その用件そのものがまったく不明であることだ。

 どう好意的に解釈してあげても、新人の飛び込みセールスにプラス面が見えてこない。ガンバリズムの醸成? そうかもしれないが、それって顧客には関係ない。

 「私のプロフィール」なるものを置いていった別のセールスマンがいたそうだ。彼が訪ねたのは、どう見たって、資産のない小さな小物のお店である。その店に「資産運用」の話である。そのプロフィールにはこう書かれていた―「先の読める人間を目指しています」。おいおい、そんなことよりも、当面の空気を読める人間になりなさい! 

ゆったりとした時間も食べるスローフード習慣

2008年6月 7日 08:00

 その時、たしかに時間はゆったりと流れていた。もちろん食事に満足したのは言うまでもない。しかし、時間も至福であった。

 2006年9月の終わりから10月半ばにかけて、フランス、イタリア、スイスを旅した。イタリアでの拠点はミラノ。ある日、北東へ列車で約1時間の街、ベルガモへ出掛けてみた。正確に言うと、この街は二つのエリアに分かれている。駅周辺に広がる新市街地のバッサ(Bassa="低い"という意味)と、中世の面影を残すアルタ(Alta="高い"という意味)だ。バッサはアルタへ向かうバスから眺めることにし、ケーブルカー駅へと急いだ。ここから標高約336メートルの小高い丘アルタへ。

 足早に街を散策する。ランチタイムに地産地消のスローフードを堪能しようとするくせに、「足早」とは日本人特有の習性か!? 情けない。なにはともあれ、しばらくしてベルガモ名物料理店らしきトラットリアに入る。ハウスワインの赤を頼み、じっくりとメニューから三品。どれも一品千円見当である。

Bergamo1.jpgのサムネール画像

Bergamo2.jpgのサムネール画像

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〔左〕お店自慢のご当地チーズの盛り合わせ。芳醇な風味が鼻に広がり、舌と喉元に滲みていく。〔右〕前菜は生ハムとサラミの盛り合わせ。濃い赤身の薄切りは濃厚な猪の肉。脂身のハムは見た目はガツンときそうだが、思いのほか淡白だ。

〔左〕餃子のようなラヴィオリの一種。うろ覚えの記憶ではアニョロッティ。ひき肉、チーズなどを詰め込んでいる。 

 

☆ ☆ ☆

  以上のスローフードにたっぷり2時間。日本では考えられない間延びした時間だ。ちなみに"slow food"はイタリアで造語された英語。イタリア語では"cibo buono, pullito, e giusto"というコンセプトで、「うまくて、安全で、加減のよい食べ物」というニュアンスになるだろうか。

 かつてのイタリア料理のように大量の前菜、大量のパスタ、ボリュームたっぷりのメイン料理にデザートとくれば時間がかかるのもわかる。しかし、これもすでに過去の話。一品か二品をじっくりと2時間以上かけて食べるイタリア人カップルやグループが多数派になりつつある。現在イタリアでもっとも大食なのは日本人ツアー客だ。朝も昼も夜も大食いである。残念ながら、ドカ食いとスローフードは相容れない。大量ゆえに時間がかかってしまうのと、意識的に時間をかけるのとは根本が違う。

 スローフードは"slow hours"(のろまな時間)であり、ひいてはその一日を"slow day"(ゆっくり曜日)に、さらにはその週を"slow week"(ゆったり一週間)に、やがては生き方そのものを"slow life"にしてくれるのだ。

 ベルガモの体験以来、ぼくの食習慣は変わっただろうか? 正直なところ、まだまだ道は険しい。でも、少しずつではあるが、毎回の食事に「時間」という名の、極上の一品をゆっくり賞味するよう心掛けるようになった。

牛乳を飲むか、牛乳を配達するか?

2008年6月 6日 15:29

 もう15年も前の話である。人間ドックで「健康心得ガイド」なるものをもらった(もちろん、そんな古い小冊子はすでに手元にはない)。しっかりと記憶に残っているのが、紹介されていた英国のジョークだ―「牛乳を毎日飲んでいる人よりも、牛乳を配達している人のほうが健康である」。

 ともすれば運動よりも栄養指向に傾きかけていたぼく自身への警鐘と受け止めた。それにしても、なかなかの命題である。このジョークは「ことばの階層」について、二つのことを教えてくれている。

1.具体性

 だれが読んでも、「運動>栄養」という図式を自嘲気味に納得してしまう。もし、階層上位の「運動は栄養よりも健康体をつくる」となっていたら、「ちょっと待てよ」と保留者が続出し、是非論にまで発展しかねない。「環境保全か社会貢献か?」というような四字熟語を用いると、二項対立してしまうのだ。

 ある企業では、「環境保全 vs 社会貢献」とご丁寧にも"vs"を入れたため、排中律の激論になってしまった。階層下位の「自然を守る」と「ゴミを拾う」にしておけば、「森へ行って空き缶を集める」という折衷もありえただろう。

2.軸移動

 飲料を「配達物」として機敏にとらえたユーモアの味付け。軸をずらされて苦笑する。牛乳は飲料のみにあらず、運ばれるものでもある。牛は草を仕入れ、体内で乳を生産し、その乳を人間が盗み、水増しして売りさばき、瓶に詰め込むという一連の別シナリオが見えてくる。

 事物には人間が意図した特性と、意図はしたが忘れかけている特性と、まったく意図していない特性がある。これら三つの特性を冷静に眺めれば発想も豊かになるに違いない。

新しい発想に「異種情報」と「一種情報」

2008年6月 5日 12:15

 来る6月20日開催の私塾のテーマは「発想(ひらめき)」。そのテキストの編集中に、先週の『リーダーの仕事術』というセミナー時に出てきたある質問を思い出した。「どうすればひらめくようになるのか?」―質問者の気持ちを汲んであげれば、「アイデアがどんどん出る人間になりたい」ということだろう。難問だが、実は頻度の高い古典的な質問なのである。

 数ある発想技法に共通する模範解答は、「異種情報の組み合わせ」。ぼくも常々そう感じている。そこで、オウム返しのように、「ジャンルの違う情報どうしを組み合わせると新しいアイデアが生まれますよ」という意味の返答をした。

 よくよく考えてみると、とても軽くて無責任な回答だった。意味なく異種情報の組み合わせを繰り返しても、ある日突然アイデアマンになれる保障などない。情報を食材にたとえてみれば、牛肉、玉ねぎ、豆腐、しらたきを入手しても、すき焼に辿り着けないかもしれないし、たとえマグロという一つの素材しか手元になくても、新しい料理のアイデアを生み出せることだってある。

 今回のテキストにも異種情報融合の話を書いているし、組み合わせの方法をいくつも紹介している。でも、ちょっと不十分と反省し、「一種情報の複数解釈」と抱き合わせで解説することにした。一つの情報にできるだけ多くの複数価値を見出すこと―実は、こっちのほうが、「どうすればひらめくようになるのか?」という初歩的質問に対しては、より適切で有効な手立てなのだ。

プロフィール

岡野勝志(おかのかつし)
1951年大阪生まれ

企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長
企画アイディエーター
岡野塾主宰

ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。
マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人材の課題に対して、「即答即決アイディエーティング」をおこなっている。

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