2008年8月アーカイブ

週刊イタリア紀行No.7 「フィレンツェ(1) 花の都の序章」

2008年8月31日 21:30

 何回の連載になるかわからないが、今回からフィレンツェを綴る。これまで紹介してきたヴェネツィアやシエナ同様、この街も歴史地区と呼ばれる中心地はおよそ2キロメートル四方に収まっている。

 よく知られている通り、フィレンツェはルネサンス発祥の地である。当時を偲ぶゆかりの名所や芸術作品には事欠かない。同時に、ここは「花の都」とも呼ばれる。フィレンツェ(Firenze)はその昔、ラテン語で"Fiorentia"という名前だった。このことばの頭のFiore(フィオーレ)が花を表す。先般日本人観光客の落書きでニュースになった、フィレンツェ歴史地区の象徴であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂も「花の聖母寺」である。

 日本からイタリアへの直行便はミラノかローマに向かう。だから、個人旅行の本にはこの二つの都市を拠点にした旅指南の記事が目立つ。しかし、世界遺産を含めた遊覧密度の高さで言えば、フィレンツェの立地はミラノやローマより優れている。なにしろシエナ、サンジミニャーノ、ルッカ、ピサ、アレッツォなどの街へ楽々半日旅行できてしまうのだ。

 コンパクトな街だが至宝が凝縮しているフィレンツェ。過去2泊3日、4泊5日で二度訪れていたが、2007年3月に9日間滞在した。オルトラルノという、中心街から見ればアルノ川の南岸のサン・フレディアーノ地区のアパート3泊。その後は、名所シニョリーア広場に面した隠れ家的ホテルが予約できたので、そこに5泊。

 フィレンツェに泊まって市中をくまなく歩き、さらにバスと電車で周辺を巡る計画を立てた。計画というと緻密なようだが、天気と相談しつつ気の向くまま、足の向くままが基本。イタリア語で気に入っていることばに"passegiata"がある。訳せば「散歩」なのだが、当てもなく同じところを行ったり来たりというニュアンスが強いから「そぞろ歩き」がぴったりだ。今日は有名どころを概観するが、次回からのフィレンツェ紀行はそぞろ歩きに似て、行き当たりばったり。日によって、あるいは歩いてくる方向によってルネサンスの花の都が変える表情を見ていただこう。

☆ ☆ ☆

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〔左2点〕サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のツーアングルショット。Toscana1 162.jpgToscana1 179.jpg 

〔上〕大聖堂の正面からの光景。イタリア的なゴシック建築の典型を見ることができる。赤屋根のクーポラの右手前に聳えるのがジョットの鐘楼。2003年には息を切らしながら500段のクーポラに上って街を展望した。今回は鐘楼から一望してみた。〔右上〕鐘楼から眺めるクーポラと背後に広がるフィレンツェの街並み。

Toscana1 058.jpg〔左〕南岸に位置するミケランジェロ広場から見渡すアルノ川。アルノ川に架かる橋が有名なポンテ・ヴェッキオ(イタリア語で「古い橋」という意味)。Toscana1 057.jpgのサムネール画像

〔左〕同じ場所からカメラを右にずらすと対岸の「チェントロ」という歴史地区の街並み。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラと鐘楼の位置関係がよくわかる。

アルファベットに要注意

2008年8月29日 08:00

 昨日"thunderbird"の話を書いた。日本語には、この英語特有の"th"の音を正確に表わす文字がない。幸か不幸かという話ではなく、単純にない。英語の"think"も"sink"も「シンク」とカタカナ表記するしかすべがない(「アイ・シンク・ソー」と日本語風に発音したら、「私はそう考える」ではなく「私はそのように沈む」という意味になる)。だから、英語に不案内な人が「サンダーバード」が"s"で始まると推測するのもやむをえない。

 少し英語ができる人でも、"bath"と"bus"で英語のダジャレができると思ってしまう。日本語ならどちらも「バス」だが、音はまったく違う。母音にいたっては、日本語には「あ、い、う、え、お」の5種類しかないから、それ以上の数の母音が存在する英語やフランス語をカタカナ表記で学んでも、実際に発音してみるとまったく違うものになる。

 嘆いてもしかたがない。少々の発音ミスは大目に見てもらうとしよう。しかし、綴りのミスは事前に辞書で調べたりしてチェックができる。それでもなお、念には念を入れたつもりがスペルミスを見落とすこともある。

 三十代前半まで海外広報分野で英文ライティングと編集の仕事に従事していた。日本人二人、ネイティブ三人で一冊数十ページの広報誌を出稿間際まで校正しても、一つか二つのミスを見つけられないことがあった。しかし、見出しなどの短文や単語だけ独立して書かれている場合には、間違わない。そんな目立つところで失態をおかすと、プロ失格である。

☆ ☆ ☆

 英語はもちろん、フランス語やイタリア語で表記する店が増えてきた。おもしろいことに、フランス語やイタリア語の綴り間違いは少ない。まったく知らないことが多いので、よく調べるのだろうと想像できる。やっかいなのは英語だ。「少し知っている」あるいは「間違うはずがない」という油断がある。

 会社近くで二、三度行ったショットバー。店名を掲げているのはもちろんだが、その店名の下に"Cash on derivery"と書いてある。酒やつまみを注文して、テーブルに運ばれてきた時点で現金を支払う「キャッシュ・オン・デリバリー」だ。このデリバリーが正しくは"delivery"である。そう、"r"ではなく"l"なのだ。日本人の苦手な「ラ行」の典型的なミス。

 先週は洋食屋さんの看板に"Lanch"というのを見つけた。もちろん"Lunch"でなければならない。日本語では「あ」は"a"と一致し、"u"を「あ」と発音するなんて店主は気づいていない。「あれ、実はローマ字なんです」という言い訳は通用しない。ローマ字なら"Ranti"または"Ranchi"である。看板を見ているだけで、なんだかまずいランチに思えてくる。

 理髪店の看板が"Barbar"だったり、ごていねいにも"Bar bar"と二語に分けていたりというのにお目にかかった経験があるだろう。これではまるで「バーという名のバー」ではないか。辞書を引けばすむことだ。そうすれば、"Barber"に辿り着ける。美容院の"beauty parlor"も要注意。時々"o"が"e"になって"parler"と綴られているのがある。

 英文併記の名刺をお持ちの方、この際、姓名にくっついている肩書きを点検しておくことをお薦めする。"President"が"Present"になっていたりすると、社長の存在が贈答品だ。"Manager"が"Moneyger"になることはまずないだろうが、そんなミスがあると、その肩書きの部長か課長は守銭奴と見なされるだろう。

「聞こえる」が「聞く」に変わる

2008年8月28日 12:00

 あなたはたまたまそこに居合わせていた。そして、積極的に聞こうとしたわけではなく、たまたま会話が「聞こえて」きた。たまたま立っていた場所が物陰だったりして、会話していた連中がふとあなたの存在に気づく。「まさか立ち聞き?」と詰め寄られる。「立ち聞き」とは別名「盗み聞き」。なんだか会話泥棒みたいだ。

 「立ち聞きなんて人聞きの悪い!」と韻を踏んで反論している場合ではない。「勝手に聞こえてきたのであって、聞いたのではない」という無実を証明するのはたやすくないのだ。関心のないことは聞こえてこないものだぞ、聞こえてきたのは耳をそばだてていたからだろう、そしてそこには悪意があったに違いない―という具合に論理を運ばれ冤罪の一丁上がり。

 こんな経験はないが、遠距離特急内では「座り聞き」が生じる。こっちはおとなしく指定席に座っている。読書に集中するか寝不足を補うために睡眠を取るのが常だ。しかし、時折り前部か後部の座席から会話が「聞こえて」きて邪魔される。意に介さないでおこうとすればするほど、余計に耳が鋭敏になる。そして、情けないことに、たまたま聞こえてきた話を聞き流そうとしているにもかかわらず、気がつけばいつの間にか身構えて、発言権と拒否権のないまま聞き役に回っていることがあるのだ。

☆ ☆ ☆

 大阪発富山行き特急サンダーバード。後部座席からの夫婦の会話が聞こえてきた。

 「サンダーバードって何?」 「さあ・・・・・・」 「サンダーバードの他に雷鳥という特急もあるわ」 「・・・・・・」 「辞書に載ってるかな?」 (ご婦人、おそらく携帯電話を取り出している) 「和英で見るの、英和で見るの?」 「カタカナやから英語やろ。英和やな」と夫。 (しばらくして)「載ってないわ」 「・・・・・・」

 ここで話は別の方向へ。その後の会話はまったく覚えておらず、上記の会話の部分だけは正確に文字で再現できるほど鮮明に記憶に残っている。

 「(携帯の辞書に)載ってないわ」の瞬間、お節介を焼いてしまった。「サンダーバードって、Sで始まりませんよ。Thですよ、"thunderbird"って入力しないと出てきませんから。ちなみに"thunder"は雷で、"bird"は鳥だから、単語を直訳すると『雷鳥』になります」

 もちろん、座席の後ろを振り返って、見ず知らずの夫婦にこんな口をはさむわけがない。無言のお節介だ。雷鳥とサンダーバードは、厳密に言えば、同じ鳥ではない。サンダーバードは「雷神鳥」というアメリカ北米の巨大な鳥だ。しかし、ことばが酷似していることに気づいてほしかった。いや、気づかせてあげたかった。 

 こんな思いに到るぼくは変わり者なのか。喫茶店の隣のテーブルで「小泉さんの前の総理大臣って誰だった?」に対して三人が必死になって思い出そうとし、何分経っても正解が出てこない場面に居合わせたあなたは、たぶん知らんぷりをするだろうが、心のどこかで「森さんですよ」と告げたくならないか。

 道に迷っていそうな人に声をかけてあげるのは難しくない。あるいは、「地下鉄はこっちよ」と彼女が彼に言い、カップルが間違った方向に歩こうとしていたら、一言「あっちですよ」とアドバイスするのも朝飯前だ。だが、こと知識に関しては、ドアをこじあけるようにわざわざ会話の中に入ってまで授けるものではないのだろう。

 「勝手に聞こえてきたこと」を「意識して聞く」。「勝手に見えてきたもの」を「意識して見る」。もしかすると、「偶察力(セレンディピティ)」というものはこのようにして磨かれるものなのかもしれない。 

その一言、聞いてあげます

2008年8月27日 12:00

 いただいた手紙や感想文を読み返すことがある。つい忘れてしまいがちな教訓や心理を思い起こすのに格好の材料になってくれる。

 

 「企画と発想」に関する手紙がもっとも多い。この分野では目からウロコのエピソードをふんだんに盛り込んでいるので、自分のアタマの硬さを嘆いたり、問題に気づいたり、これからの決意を強めたりという感想が目立つ。これに次ぐのが「ディベート」にまつわる書状。こちらは、悟りから喜怒哀楽、感動から誤解・錯覚まで、メッセージの趣旨とトーンは色とりどりだ

 

 長年ディベート指導に携わってきたので、批判や不満を聞いてあげる度量はまずまずだと思う(人徳にはあまり自信はないが・・・・・・)。そのせいか、誰にも明かせないことをこっそり告げ口したり懇願したりしてくる人は結構いる。

 

 「過日のディベートの試合で負けたが、先生はどう思われるか?」と録音テープを同封してきた手紙。「勝敗には決してこだわらないが、あの審査員の人格否定の発言は許せない!」と叫ぶ手紙。「必勝法を教えていただきたい」という、厚かましく幼稚な手紙。まずまずの度量のぼくは、それなりの回答を考えて返信する。時間を食うこともあるが、仕事の一環だと自分に言い聞かせている。

 

 これらは実際に試合に出て議論をしたディベーターからのものだが、「試合後にディベーターと聴衆に取り囲まれて恫喝のことばを浴びせられた。正直、身の危険を感じた」という審査員からの直訴状もある。

☆ ☆ ☆

 

 手紙ではないが、研修の一ヵ月後に提出するアンケートの自由書き込み欄に次のようなコメントがあった。市の職員研修に参加した中堅職員である。

 

 「たまにはディベートもどきを友人としています。効用としては、課題への接合を意識して仕事をしていること。少しアタマの回転が上がってきたような気分です。回りにいる人たちが今まで以上にアホに見えるのは気のせいではなさそうです。」

 

 これなど、いいところに気づいてくれている。ディベートは、自分自身が賢くなるというよりも、自分も含めた人間の怠慢とアホ化現象に気づく絶好の機会を提供してくれる。しかしながら、ぼくは次のような一般的警告を発しておいた。

 

 「ディベートを勉強すると、ディベートのできない人々がバカらしく見えてくることがあります。しかし、この感覚に溺れてはいけません。あなたには当てはまらないでしょうが、他人のアホさ加減を目の当たりにして自分が賢いと勘違いする中途半端なディベート学習者が多いのも事実です。」

 

 ディベートには功罪がつきまとう。勝敗を決めるから真剣に学ぶという「功」の一方で、勝敗が相対的優劣であると錯覚する「罪」がある。他人のおバカさんぶりは、決して自分の偉さ・賢さではない。 

災いを転じて福となす

2008年8月26日 15:00

 毎日または隔日に一つの記事、あるいは週や月にいくつの記事などと決めているわけではない。「ねばならない」という強迫観念をブログに持ち込むつもりもない。書くという行為は、ぼくにとって意地や決意などではなく、(1) 自分の考えをまとめ、(2) よければ想定した読者に読んでもらい、(3) その人にインスピレーションのヒントか少し愉快な時間を提供できればいい、という動機から来ている。

 日曜日に出張から戻ってきて、すでに下書きを完了していた『週刊イタリア紀行』のブログを仕上げようと思ったら、不具合が発生。不具合の原因は専門的でよく理解できないが、ついさっき回復して解決したという連絡を受けた。どなたからかコメントも入っていたが、それが消えてしまって申し訳ない。同時に、ぼくの下書き原稿も消えてしまい残念である。

 人生や命に別状がないから無茶苦茶に残念がることもない。大した災いでもないが、「災い転じて福となす」に倣おうではないか。そう思い直して、下書きした原稿をあのまま公開しないでよかったと考えることにした。しかし、そう考えるためには、あの原稿の欠陥なり問題を見つけなければいけない。それは、ある意味で批判を加えることでもある。次のように振り返り自己批判した。

 実はフィレンツェを取り上げたのだが、何回シリーズという構想なしで一回目を書いた。ちょっととりとめなく序章を書き、思いつくままアルノ川の南岸の話に発展させた。あれはまずかったかもしれない・・・・・・。それに、「花の都」というタイトルをつけていたにもかかわらず、ルネサンスについて一言も触れていなかった。それも検討不足だ。文章の推敲も不十分だったかもしれない・・・・・・。

 ここまで反省して、ちょっと待てよ、何か変だと気づいた。「災いを転じて福となす」は、下手をすると、単なる楽観主義になってしまうのではないか。失敗してもこれでよかったんだという安堵感が漂っていていいのか。あの原稿、あれはあれで書けていたではないか、それなのに根掘り葉掘りで欠点探しをしているのはおかしいぞ。

 冷静に考えれば、消えた災いが福になると信じるのはただのお人好しだ。だいいち福になんかなっていないじゃないか。なにしろほぼ出来上がっていた原稿が消えたのだ。もう一度時間を費やさねばならないのだ。もっと悔しがらないといけないはずである。

 いま「費やさねばならない」と書いた。冒頭の「ねばならない」という強迫観念だ。この思いはまずい。今回の一件、決して福ではない。だが、「災いを転じてネタとなした」ことを不幸中の幸いとしておき、ここでやめるのが災いに終止符を打つタイミングだろう。 

滑稽極まる鼓舞

2008年8月22日 10:00

 誰しも褒められたい。褒められて照れることはあっても、貶(けな)されるよりはいいだろう。ところが、褒められても決してうれしくない時がある。分相応ならいいのだが、「そこまで褒められるほどのことはない」と自覚しているのに、過剰に賞賛される場合だ。

 実力や実質以上に人を褒めちぎることを「ほめごろし」という。褒めちぎれば、バカにしたり無能化したりするのと同じ効果がある。ちょっとした出来に対して、そのつどこまめに「すごい!」とか「わぁ~」とはしゃぐのがいるが、不自然であり不愉快である。こんなのにかぎって、冷蔵庫ネタ漫才のチュートリアル徳井みたいに、冷蔵庫の色が銀色という当たり前に対して異常なリアクションを示し、冷蔵庫のドアが両開きというユニークさに対して素知らぬ顔をするのだ。

 お互い現実にそぐわない賞賛には気をつけよう。「感動したから賞賛している」などと言えば聞こえはいいが、小さな感動の大安売りはみっともない。安易に褒めあったり感動しあったりしていると、組織も人間も成長しない。レッドカーペットの「満点大笑い」のレベルの低いこと、開いた口がふさがらない。アマチュアが笑えない芸に対して同業のプロたちが大笑いしている。空しい賛辞、空しいリアクション、空しい爆笑が相手の値打ちを落とす。

 褒め言葉とよく似た機能をもつのが「鼓舞」である。見ての通り、鼓を叩きそれに合わせて舞うこと。「士気を鼓舞する」と使うように、やる気や意気を奮い立たせることだ。

 自分自身を鼓舞することばには「何が何でもやり遂げる」、「絶対勝つ」、「断固闘う」などがあるが、代表格は「頑張る」。これらに共通するのは、意気込みだけで何をどうするのかという策がまったくないことだ。何かにつけて頑張るを繰り返されると耳にタコができる。自分に向けようが他人に向けようが、空っぽの鼓舞というのは具合が悪い。反省を込めて告白すると、ぼく自身が誰かに「頑張ってください」というときは、だいたいにおいて相手が舞うことなど期待していない。そう、このことば、すでに虚礼化しているのだ。

☆ ☆ ☆

 鼓舞の何がそんなに気に入らないのか? と言われそうだが、実際に置かれた状況があり、まったくふさわしくない鼓舞がその状況にかぶせられたとき、悲しくなるほど滑稽に見えてくるのである。

 何度も会社を潰してきた知人が「死にものぐるいで必ず這い上がってみせます!」と真顔で語ったとき、つい「そんな決死の覚悟なんてしなくていいじゃないですか、ボチボチやれば」と言ってしまった。残酷な言い方で気の毒だけれど、現実と決意の落差が滑稽だった。「今年こそ頑張ります」という年賀状の決意表明にも飽き飽きしている。達成しえない決意をよくも二十年間公言し続けられるものだ。

 次の文章を読んでいただきたい。

 「情熱と誇りを懸けて・・・ 執念で勝利をもぎとれ 優勝候補の欧州王者と 意地と決意の最終決戦  このままで終われない 日本の威信を懸け激闘」(毎日新聞テレビ番組欄)

 浮いた鼓舞だが、これから初戦が始まる状況ならばギリギリ許せる。しかし、すでにアメリカとナイジェリアに負けて一次予選敗退が決まったあとの対オランダ最終戦に向けての鼓舞なのだ。敗れた日本サッカー五輪代表の情けない姿をいっそう浮き彫りにするだけではないか。「ロスタイム3分! まだ2点は取れる!」という実況の空しさ同様、現実を正しく踏まえない鼓舞やガンバリズムがいかに滑稽か、わかっていただけるだろうか。 

性懲りもなく「嘘」

2008年8月21日 12:00

 えっ、まだ続く? と呆れ返られそう。しかし、今回で嘘の話にはピリオドを打ちたい。これは嘘ではない。嘘ついたら、針千本飲んでもいい。

 そうそう、「嘘ついたら針千本飲~ます」なんていうのは、あまりにも現実離れしていて脅し効果もなければペナルティにもならない。「死刑百回!」なんていうのが恐くも何ともない、ただのギャグであるように。

 小生意気な子どもは「それなら、針千本用意してよ」と逆襲して親を困らせるかもしれない。相手をよく見て脅すべきだろう。子どもには「嘘ついたらカレーライス食べさ~せない」とか、若い女性には「嘘ついたら不細工にな~る」とか、社員には「嘘ついたら社長にす~るぞ」とか(社長業は貧乏くじであることが多いから、罰効果はあるかもしれない)。

 どうしても針を飲ませたいのなら、本数を示さずに「嘘ついたらとんがった針飲~ます」がいい。個人的には口に入れることがまずありえない針よりも、口中で使う爪楊枝がいいと思っている。「嘘ついたら爪楊枝飲~ます」は現実味を帯びており、食後に必ず爪楊枝を使うオヤジ世代には有効だ。

☆ ☆ ☆

 さて、なぜこれほど執拗に嘘について綴ってきたのか。それには理由がある。

 昨年マスコミで報道された偽装事件約50件、水面下では注意や指導レベルの小さな嘘がうようよしていただろう。商品ではなく、公的な虚偽の発言まで含めたら、おそらく数え切れるものではない。嘘の本質をもっともよく表わしている表現、それは「嘘を嘘で固める」だ。これは「小さな嘘を大きな嘘で固める結果、嘘が人間を支配する状況」である。あるいは、「少しだけ赤みを帯びた嘘が真赤な嘘に変貌していく過程」である。

 嘘について考えれば考えるほど、嘘と真実の境界がわからなくなってくる。もう一度嘘の定義を確認しておこう。「有利な立場に立ったり話を面白くするために、事実に反することをあたかも事実であるかのように言うこと」。面白くするための虚偽は良しとしよう。大笑いした後で嘘だったとわかっても誰も被害を受けない。問題は「有利な立場に立つための虚偽や事実の歪曲」である。

 安く仕入れて高く売りたい―これは有利な立場に立つための欲求だ。そこでXというブロイラーをY産地鶏として売る。ばれる。その他の小さな嘘も暴露される。ブランドが失墜する。やがて廃業・倒産に追い込まれる。有利な立場に立つための所業が不利な立場、いや取り返しのつかない絶命を招く。嘘は割に合わない。

 嘘と誇張の違い、嘘と省略の違い、嘘と解釈の違いなどはきわめて微妙である。事実のすべてをことばにすることはできない。有利な立場に立つために、事実の一部を誇張したり、一部を省略したり、解釈を変えたりすることは日常茶飯事である。ここまでは"滑り込んでセーフ"としなければ、生活もビジネスも成り立たない。しかし、これらの行いが当の相手を不利な立場に追い込んだ時点で"タッチアウト!"

 「他人を不当に不利な立場に陥れるために、事実に反することをあたかも事実であるかのように言うこと」 という新しい定義が嘘の悪質性を見極める判断基準になるだろう。陰に回ると誰かの悪口を言って評判を落とすのを趣味にしている連中がいるが、ほぼ例外なく大嘘つきである。

嘘つき考アゲイン

2008年8月20日 10:30

 夏風邪のようにしつこいが、引き続き嘘と嘘つきの話。

 手元にある辞書で嘘の定義を調べてみたら、「有利な立場に立ったり話を面白くするために、事実に反することをあたかも事実であるかのように言うこと」と書いてある。話を面白くするための事実歪曲も嘘ということだ。

 そうならば、ぼくの知り合いの大阪人はほぼ全員嘘つきということになる。笑わせるためには手段を選ばない。他人の身の上に起こったことをあたかも自分のことのように話したり、実際は自分のことなのに「オレの知り合いでこんなヤツいてますねん」と切り出すのに何のためらいも感じない。

 嘘や嘘つきにまつわる諺はいくらでもある。「嘘から出た実(まこと)」や「嘘も方便」などは、嘘を堂々と正当化する。「実」と「方便」のほうを強調することによって嘘の責任を軽減しており、「えっ、嘘って結果オーライでいいの?」という安心感と誤解を与えてくれる。

 これに対して、「嘘つきは泥棒の始まり」というのもあって、こちらは批判的である。泥棒の始まりって何だろう? 不自然な表現である。プロ野球選手の始まり、タクシー運転手の始まり、学校の先生の始まり・・・・・・何をすれば、それぞれの専門の始まりになるのだろうか。嘘つきは泥棒の初心者? 開業直後の泥棒? もうすでに泥棒をしてしまっているのか? 「嘘つきは前科一犯」と言わないところを見ると、正真正銘の犯罪者ではないのだろう。

☆ ☆ ☆

 嘘つきと泥棒以上に密接な関係にあるのが、嘘つきと博識である。もしかすると、「嘘つきは博識の始まり」のほうが的を射ているかもしれない。道徳論者なら怒り心頭に発するだろうが、嘘つきには物知りが多いのも事実だ。なにしろ「嘘八百を並べる」のだ。知識が豊富でないと、なかなかできることではない。

 学生時代、当時流行していたダンスパーティーで、これまた当時もてはやされていた医学生を装った男がいた。「大阪大学医学部です」と偽ったものの、「ご専攻は?」と女子大生に聞かれてしばし沈黙。慌てて「ネズミの解剖しています」と答えてあえなく沈没。もちろん、その彼女との二曲目のダンスはなかった。

 プロの嘘つき、すなわち詐欺師にも浅学な者と博識な者がいる。当然後者が一流のプロである。一流どころは、知識が豊富で想像力もたくましい。医者になりきったり政治家になりきったり弁護士になりきったり・・・・・・。医学、政治、法律などの専門知識を蓄えておかなければならない。加えて話力も必須だ。浅学非才や話し下手では嘘をつけないし、ついたとしてもすぐにばれてしまう。

 嘘つきを賞賛はしない。しかし、その道の博識を備えた「徹底したなりきり」を学ぶべきだ。事実の歪曲を肯定しているのでもない。しかし、事実の誇張やアレンジ、あるいは一部事実の隠蔽をやみくもに否定できるだろうか。広告、プレゼンテーション、経営理念、約束・・・・・・機能と構造はかぎりなく嘘に似ている。騙すのか、訴求するのか―違いはこの一点。

発想を鍛える手軽な方法

2008年8月19日 11:00

 「うちの社員は型通りな発想しかできない。何か妙案はないだろうか?」 一年に何度かこんな質問がある。「たとえ型通りであれ、発想できるならひとまず良しとすべきでしょう」と答えることにしている。

 何かを思い浮かべることができる、しかし出てくるアイデアがで「どこにでも転がっていて平凡」―こんなことはアイデアマンと呼ばれる人にもしょっちゅう起こる。何十回、何百回発想しても99%は型通りであることがほとんどだ。だが、アイデアマンが凡人との違うのは、型を自ら崩したり壊したりして新しい発想に転換できる点である。

 発想法や創造技法をいろいろと試してみた。試してみたうえで実際の企画研修でも演習に使っている。ブレーンストーミング、チェックリスト法、強制連想法、シネクティクス、NM法・・・・・・。収束向きと拡散向きがあるので、何でも使えばいいというわけではない。ほとんどすべての技法に共通するのは、「いま知っていること」から「未だ知らないこと」を導くという点だ。「既知から未知へ」を可能にする、あの手この手の人為的仕掛けの法則化である。

☆ ☆ ☆

 日常茶飯事手軽に発想を鍛える方法がある。それは、テーゼに対するノーを敢えて意識する「アンチテーゼ発想」。ある種の常識、価値観、慣習、意見、視点に対して対極からアマノジャクな揺さぶりをかけたり茶化してみたりするのである。ホンネは棚に上げておく。

 たとえば、メダルに手が届かなかった五輪選手が、この四年間苦しかったこともあったと振り返る。「辛かっただろうなあ」といったんはこのコメントを素直に受容する。そして、しばし腕を組んでから「ちょっと待てよ」。「過去四年間を振り返ったら、誰だって苦しいことくらいあるさ。ぼくにだってあった。ただマスコミがその苦しみを聞いてくれないだけ」とひねくれてみる。

 たとえば、菜食主義者がいる。他人に自説を押しつける偏狭な心の持ち主ではない。豆腐と野菜を巧みにアレンジして仕立てた「ハンバーグ」が好物だと言う。「鰹節でダシをとった味噌汁もタマゴも口にしない徹底した菜食主義。忍耐強いなあ」と褒めてあげる。そのうえで、「肉食をとことん断つのなら、わざわざハンバーグ風にしなくてもいいじゃないか。やっぱりまだ未練があるに違いない」と皮肉ってみる。

☆ ☆ ☆

 たわいもない「くすぐり」である。高等な批判精神とは無縁だ。ちょっと口をはさむだけの話。それを意識してやってみるうちに、絶対と思えたものが絶対でなくなり、ダメなものがダメではなく、時代遅れが実はオシャレだったり・・・・・・というようなことが浮かび上がってくる。

 ぼくたちがふだん見ているものはたぶん偏っている。立場によって、思想によって、好みによって偏っている。コインの表側だけしか見ていない。振り子が左右に思い切り振れている様子が見えていない。アマノジャクなアンチテーゼ発想は、実は見えないところを無理に見ようとする想像力の源泉になのである。 

週刊イタリア紀行No.6 「シエナ(3) 広場はアート空間」

2008年8月17日 10:00

 鳥瞰、つまり高い所から鳥の目線で地上や景色を眺めるのが好きだ。だから旅行でどこかに出掛けると少しでも天空に近づこうとする。その街に塔や鐘楼があれば、階段がたとえミシミシときしる木製であれ狭い石段であれ、とりあえず上る。イタリアの都市はほぼ間違いなく一つや二つの高所を備えているので、時間さえあれば欠かさず挑戦する。

 ところが、実は高所恐怖症気味なのである。階段を上に行くほど足がすくむし、ガラス張りでなく手すりだけの屋上に立つと膝がゆるんでくる。カメラを持つ腕を突き出しているときなど腰が少し引けている。それでも上る。それだけの価値があるからだ。

 自分を叱咤してマンジャの塔からの景観を楽しみ、恐々階段を下りた後にはカンポ広場を見渡してエスプレッソを飲む。数百年間にわたって大きく変化していないこの広場 に人々がそぞろ集まる。いつも同じところを歩き同じ光景を眺めて何の意味がある? こんな、物事の実用性を前提とした問いに出番はない。習慣化した行いには、本人にしかわからない格別の快楽があるのだ。

 広場のある街がうらやましい。とってつけた公園ではなく、広場。貝殻状の形状といいアートな色合いといい、シエナの広場は至宝である。至宝の恵みを享受し続けるために、住民は我慢と禁欲に耐える。コンビニに代表される、無機的な利便性に走らない。窓枠はもちろん、留め金一つでも「修復」と考える。自分の部屋でも勝手なリフォームをしてはいけない。

 流行とどう付き合うか?・・・・・・カンポ広場のバールでエスプレッソを飲みながら、行き着いた問いである。一歩遅れ気味に生活するのが賢明なのかもしれない。 《シエナ完》  

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〔左〕カンポ広場に面して並ぶ二軒のカフェ。

〔右〕ゆっくり腰かけてマンジャの塔を眺める。 

 

 

 

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〔左〕バールは"Bar il Palio"ずばり「喫茶競馬」。〔上〕受皿も砂糖袋もご当地のアクセントがきいている。 

 

Toscana1 325.jpg Toscana1 324.jpg Toscana1 274.jpg 〔左〕広場近くの通り。いびつな構造の建物だが落ち着いた色の統一感。 〔中央〕ひしめく建物の間を歩く。ついカメラをタテに構えてしまう。〔右〕比較的モダンな店頭ディスプレイのトラットリア。

もう少し嘘の話

2008年8月16日 10:00

 昨日に続く嘘の話をもう少し。

 掃除のおばさんのようなあからさまな嘘は例外。あれは一種のギャグである。嘘はおおむね巧妙に組み立てられるものだ。偽装がまかり通り、詐欺の罠に嵌まる。いずれバレるのだが、摘発されるまでに相当数の被害が発生する(なお、嘘というものはバレることによって「市民権」を得る。バレなかったら誰も嘘として取り上げてくれない)。

 はたしてその人間が嘘つきかどうかを見破ることなどできるのだろうか? 顔色やしぐさをよく見て、使っていることばをよく聞き、深層心理のヒダにまで分け入ればわかるものだろうか? とことん性悪説的に人間を観察しないかぎり、無理である。

 「よく考えているか?」と確認したら「はい」と返事されて信じてしまい、後になって「そいつがまったく考えていなかった」ということがわかる。「わかっています」「ちゃんとやっておきます」という嘘にどれだけ騙されてきたことか。

 「明日から心を入れ換えます」という決意表明を決して信じてはいけない。ほんとうに心を入れ換える気のある人間は「今すぐに心を入れ換えます」と言うものだ。「明日から」と先送りする輩は絶対に心を入れ換えることはない。なぜなら、翌日になった時点でもそいつの決意表明は依然として「明日から心を入れ換えます」であり、毎日毎日、執行猶予一日分が必ず延長されるのである。

☆ ☆ ☆

 「折れた煙草の吸がらで、あなたの嘘がわかるのよ」と中条きよしが歌った。あの歌詞のヒロインは天才だとつくづく思う。なにしろ折れたタバコの形状で嘘を見破るのだ。すごいじゃないか!? いや、嘘だけではなく、「誰かいい人できたのね」と真実まで見抜いてしまう。もしかして彼女は超一級の心理カウンセラー?

 これだけ世の中に偽装や詐欺がはびこるのはなぜだろうか? 騙す側と騙される側は、売り手と買い手の関係同様に、市場原理の法則で動いているのだろう。騙される側(=消費者)がいなくなれば、騙す側は廃業するか倒産する。騙す側も懲りないが、騙される側も懲りない。ゆえにリピーターが多い。

 中条きよしの『うそ』の歌詞は、1番から3番まである。1番の最終フレーズは「哀しい嘘のつける人」。2番が「冷たい嘘のつける人」。そして3番がなんと「優しい嘘のうまい人」と嘘つきを賞賛する。このヒロイン、嘘を見破る達人であると同時に、騙されることに酔いたがる常連さんなのかもしれない。

ギャグのような嘘

2008年8月15日 10:30

 夏風邪が長引いて約10日。仕事をしたり外出したりと普段の生活に支障はない。のどのエヘン虫が咳を仕掛ける。それが少し苦痛だ。

 あまり抗生物質系の薬には手を出さないことにしている。そこで医薬品のドロップをせっせと舐めてみるが効かない。「痛いのど、せきに効くドロップ」と箱には書いてあるのだが、効かない。これって嘘つき広告にならないんだなあ。

 いろんな嘘を聞いたり、嘘つきな人と出会ったり、自ら他愛もない嘘をついたり、嘘も方便とか何とかこじつけたりもしたことがある。でも、「激うまラーメン」が不味くても虚偽罪で訴えられないんだなあ。「頑張ります!」と言いながら決して頑張らない社員を業務不履行でクビにはできなんだなあ。まあ、そんなルーズさのお陰で、「この講座で能力パワーアップ!」とアピールする自分自身もだいぶ救われてはいるけれど・・・・・・。

☆ ☆ ☆

 その昔、職業的嘘つき(つまり詐欺師)ではなく、とてもノーマルな仕事をしていながらよく嘘をつく人がいた。ビルの掃除のおばさんである。

 ぼくより30歳ほど年上だったと思う。暗い人ではなかったが孤独な様子だった。廊下で会うたびに労をねぎらい少し立ち話をしたりした。この人の話を数ヵ月ほど聞いてあげた結果、人付き合いが少ないため「嘘の在庫」をあり余るほど抱えていることがわかった。

 おばさんの断片の話を拾ってつなぎ合わせていくと、「五年前に亡くした主人を一年前に入院させ、しばらくして手術させ、その一週間後に見舞い、さらに次週に退院させ、その次の週にもう一度亡くし、先週の日曜日に生き返らせて一緒にお芝居を見に行った」というような一身上の都合が出来上がる。

 目と目が合って、「今朝は早いですね」とでも声を掛けようものなら、もうどうにも止まらない。「朝が早いと言えば、私なんか若い頃には牛乳配達と新聞配達をしていましたよ」。これに「ほほぅ」とでも相槌を打つと、「今ではお掃除のおばさんだけれど、昔は中学の教師だったし、その後は大手の保険会社で女性スタッフの指導員もしていました」と続く。

 共用部分の灰皿を掃除しながら、「火には気をつけないとね。昔、市民消防団の団長をやっていた頃には夜遅くまで巡回していました」。「へぇ、そうなんですか?」と応じれば、「体力が必要だったけれど、病院の婦長の経験もあったから健康には自信がありましたよ」とエンドレス・キャリアウーマン・ストーリー。

 トータルすれば、このおばさん、主人を数回亡くしており、職業は10数回変わり、子どもが20数人いて、本人は10種類くらいの病気にかかり延べ数十年間入院生活を送ったことになる。最初の二、三回はユニークな人だと思っていたが、あまりにも短期間のうちに「嘘八百」をさばいてしまった。冗談と嘘は休み休み言うのが正しい。

小さく縮めて考える

2008年8月12日 10:30

 昨今は研修や講演を主な仕事にしているが、本業は企画である。ざくっと言うと、企画は価値を高めたり付け加えたりする仕事であるため、大きくとらえたり足し算で進めていくものだと思いがちだ。たしかに初期の段階ではそういう要素もある。マクロな見方の企画。それをぼくは"ANDの企画"と呼ぶ。

 しかし、冷静に考えれば、ぼくたちのアタマはあまり遠大向きではない。天の川とアンドロメダ星雲が30億年後に一つになるという説を聞いてもピンと来ない。何億光年の未来が見えたらすばらしいだろうけど、一年、いや一寸先も怪しい視界しか持ち合わせないのが凡人だ。大きく構想するのはたいせつだが、小さなことを見失ってしまうリスクのほうが大きい。

☆ ☆ ☆

 今から7、8年前、アメリカのある中学の先生が発端となった、世界を100人の村に縮小する話を覚えているだろうか。この村は57人のアジア人、21人のヨーロッパ人、14人の南北アメリカ人、8人のアフリカ人で構成されている。有色人種が70人で白人が30人。この村の6人が富の59%を所有し、50人が栄養失調に苦しみ、1人が瀕死の状態にある。この村で大学教育を受けたのはわずか1人。周辺ではこんなに普及しているパソコンだが、実はこの村には一台しかないという話。

 比喩ではあるが、現実を何かに大きくなぞらえる比喩ではない。現実よりも極端に縮小する比喩であり、これにより本質がより見えやすくなる。スポーツもゲームも起源においておそらく何かの象徴であり、縮小版だったのだろう。ある経済学者は麻雀を「閉じた経済における4ヵ国貿易」という具合にたとえていた。

☆ ☆ ☆

 少々粗っぽくても、何かをはしょって思い切りわかりやすくしてみる。足すのではなく引き、膨らますよりも縮めてみる。こういうミニチュア化を"ORの企画"と呼ぶ。この種の発想は比喩と相性がいい。

 世界の66億9358万の人口(8月12日午前10時現在)を100人と仮定するように、地球の歴史46億年を1年365日のカレンダーにたとえる。つまり、元旦に地球が誕生し、いまちょうど大晦日でまもなく新年を迎えるところ。

 人類の歴史500万年。これは地球の1年カレンダーの0.4日に相当する。人類は大晦日の午後2時~3時の間に生まれ、いま除夜の鐘を聞いている。新参者もいいとこだ。ちなみに恐竜の祖先は12月10日前後の生まれで、12月26日に滅びたことになる。

 とてもマニアックなシミュレーションだ。しかし、漠然と大きなことを考えるよりはよく見える。発想のきっかけになってくれるかもしれない。「こんなことをして何の意味があるのか?」という問いを発する人は企画という仕事に不向きである。 

週刊イタリア紀行No.5 「シエナ(2) 色で魅せるゴシック都市」

2008年8月10日 12:30

 シエナを描写するぼくの表現に落ち着きがないのを自覚する。実感を的確に表せないもどかしさがあり、どこか空振りしているような気分だ。弁解させていただくならば、シエナに関する紀行や説明は、専門家の手になるものでも少し誇張されたような印象がある。

 一観光客ならはしゃぎ気味に思いをしたためるのもやむをえないだろう。しかし、実ははしゃいでなどいない。むしろ神妙な心持ちからくる「詩的高揚」とでも言うべきものである。

 お付き合いしてから四半世紀、高松在住のY氏は、平成19年の年賀状でシエナの思い出を綴られていた。その二年前にお会いした折に、ぼくはシエナの話を披露した。Y氏が刺激を受けて60歳半ばの身体に鞭打って出掛けられたのか、まったく別の好奇心だったのかは確かめていない。ぼくの高揚感にどこか似通っているその年賀状の文章を紹介してみたい。

☆ ☆ ☆

 シエナの街並は、中世の面影が色濃く残っている。赤煉瓦の幾何模様が美しいカンポ広場がそれだ。

 この広場は、貝殻の形をして、放射状に広がっており、しかも中心に向かって、低く傾斜しているので、浅い巨大な半円のすり鉢に見える。この奇妙な形の広場の真ん中に立つと、夏の眩しいほどの光の乱舞と広場をとりまく、ドゥオモ・宮殿・塔の幻想的な美しさで酩酊する。そして、ここで毎年行われる、中世から伝わる騎馬競争に巻き込まれる幻想にとらわれた。

 人々の歓声、馬のいななきの中で、私は中世の世界にタイムスリップした。

―イタリア・シエナのカンポ広場にて―

☆ ☆ ☆ 

 シエナの建造物の色合いは赤褐色でもなく茶褐色でもなく黄褐色でもない。それは、シエナブラウンという独特の土色である。現在ではいろんな商品にこのカラーが使われているが、それぞれ微妙に違うように思う。何が正真正銘のシエナ色か? それは写真を見て判断してもらうしかないが、写真とて再現精度にバラツキもある。いずれにせよ、光と影と色を絶妙に調和させる街と、後景としてその街を包み込むトスカーナの丘陵の趣には見とれてしまう。

☆ ☆ ☆

   Toscana1 283.jpg   Toscana1 289.jpgのサムネール画像              

〔左〕奥に向かってゆるやかに傾斜するカンポ広場には、赤褐色に見える煉瓦が敷き詰められている。

〔右〕広場のもっとも低いところにどっしりと構える市庁舎の煉瓦色もシエナ独特だ。  

Toscana1 301.jpgのサムネール画像 Toscana1 297.jpg
〔上〕画面右上の端に大聖堂を配した街並みの一部。細い通りを隔てて建物が密集しているのがわかる。この濃いベージュがぼくのイメージするシエナの土色。

〔右上〕ところが少し角度を変えて遠景を取り込むと赤褐色の煉瓦色に見えてくる。

Toscana1 295.jpgのサムネール画像

〔左〕少し靄のかかった街の周辺の丘陵地帯。まさに中世の空気そのもので満たされた幻想的な風景だ。

〔下〕マンジャの塔の最上部から見下ろすカンポ広場。修復を繰り返しながら、魅力ある街、絵になる街を保存する。シエナに「新築」はありえない。すべて"レスタウロ"(リフォーム、リノベーション)である。

Toscana1 304.jpg

ことばは尽き果てない?

2008年8月 8日 10:00

 昨日に続くことばの話。ことばが有限か無限かという学術論争があるらしいが、一個人からすれば答えは決まっている。一生涯で知り尽くせないだろうから無限である。

 辞書の編纂者には当てはまらないかもしれないが、普通は知らないことばは知っていることばよりも圧倒的に多いだろう。二十代の頃、無職の時代があってよく本を読んだ。ついでに辞書も読んだ。引くのではなく「読む」。ア行から始めてサ行の途中までいく。当然挫折する。またしばらくして挑戦する。同じくへこたれる。だから、ぼくはア行からサ行までの語彙はタ行以降よりも多いはずである。

 暇だからできたことだろう。だが、この習慣は意外に続いていて、何か調べるために辞書を使うというよりも、適当なページを繰って関連することばを渉猟したりする癖は今もしみついている。ビジュアル辞典や類語辞典の類はそんな行き当たりばったりの「ことばの海の遊泳」にぴったりだ。

☆ ☆ ☆

 何年か前に、「競馬場で走る馬」という表現を耳にした。テレビの手話ニュースだったと記憶している。これには腰が抜けるぼどびっくりした。「サラブレッド」の説明に使われたのではなく、唐突に出てきたからである。そこまで言わなくても、サラブレッドでいいではないか。そのことばを知っているという前提は決して高いハードルではない。妥協するとしても、「競走馬」で十分である。

 「陸上競技場で走る人」「柔道着で格闘する人」はいずれも人を説明する表現である。それぞれ陸上選手、柔道家という固有の言い回しがあり、まったく不満なく通じる。会社員を表現するのに「会社で働く人」では違和感があるし、「市役所で働く一番偉い人」といちいち言わずに、市長というほうが便利である。

 相手はこのことばを知らないだろう、難しいと感じるだろう、それならあらかじめわかりやすく説明調でいくか―こんな配慮を親切心とは言わない。そもそも辞書の定義に近い表現を使ってわかりやすくなるのは稀である。

 「太陽の光線をあらゆる波長にわたって一様に反射することによって見える色のワイシャツを着てお越しください」。「白いワイシャツ」のことだが、「白」がわからないだろうと予測してこんな言い回しをする人はいない。「黒の反対の色のシャツ」という人もいない。白を知らない人はたぶんワイシャツということばも知らないだろう。

 話し手や書き手は傲慢になってはいけない。できることなら、聞き手や読み手が参照できる範囲のことばを使うのが望ましい。しかし、受け手側を甘えかせすぎるのも考えものだ。すべての人間は未知のことばと対峙して今までやってきた。「ママ」も「ワンワン」も未知だった。何度も使っているうちに意味や概念の輪郭がはっきりしてきて、「ママ」が自分の母親であり「パパ」とは異なること、「ワンワン」は四足で毛の生えた動物だが、どうやら「ニャンニャン」とは同じ仲間ではないことなどを知るに至るのである。

 ことばは尽き果てない。知らないことばがいっぱい。だからこそ愉快なのであり、コミュニケーションは深遠なのである。

ことばを知れば視界良好

2008年8月 7日 10:00

 ぼくたちは知らないことを「ことば」や「体験」によって知る。体験できなければ、とりあえずことばで説明を受けて知ることになる。絶対とは言わないけれど、ことばの数と知識の量はおおむね比例する。意味のない多弁やおびただしい空言は批判されるべきだが、ことばが少なければ小さな世界観しか持てないだろう。

 ある人が「たこ焼き」の話をしたら外国人に「それは何だ?」と聞かれた。

 「水と出汁で溶かした小麦粉を鉄板の丸い凹の部分に流し込み、そこに小指の第一関節くらいの大きさに切った茹でた蛸、ネギ、揚げ玉、紅しょうがなどを入れてよく熱し、機を見計らってアイスピックみたいな道具でくるりとひっくり返し、球のごとく仕上げる。それにソースか醤油を刷毛で塗って青のりと鰹ぶしを振りかけて、やけどしないように食べる」。

 その人は上記の内容を英語で説明しようと試みたが、説明しようとすることばの中に、スライスした蛸、揚げ玉、紅しょうが、ネギ、青のり、鰹ぶしなどのわが国固有の名詞がふんだんに含まれ、にっちもさっちもいかなくなってしまった。

 ことばでは説明しきれない概念がある。たこ焼きは説明するものではなく、体験してもらうものである。好き嫌いはさておき、試食したうえで、それが「たこ焼き」であることを覚える。次回から誰かと会話するとき、わざわざ「水と出汁で溶かした・・・・・・」と延々と語らなくても、「たこ焼き」という四字で済ますことができる。

☆ ☆ ☆

 話し手は極力わかりやすいことばを使うべし―これに異論はない。なるべく相手の辞書機能に合わせた説明をすべきだろうと思う。しかし、相手が知らないという理由でことばをどんどん因数分解していっても限度があるし、わかりやすくなるという保障もない。

 あまり聞き手市場になってしまうと、話し手の持ち味が損なわれてしまう。テーマから話が逸脱して、ことばの定義ばかりしてしまうことになる。たとえば、ぼくの私塾で「質と量」の話をするとき、ぼくはそれ以上は説明しない。質と量の概念をわかっているという前提で話をする。たこ焼きとお好み焼きの違いも取り上げない。そういう聞き手のボキャブラリー・レベルを想定して話をする(この"ボキャブラリー・レベル"ということばは微妙。「語彙水準」と言い直しても、よけい分からなくなる人がいる)。

 わからないという理由だけで、初耳のことばを拒絶しないことだ。概念が不明であっても、とりあえずなじんでみる。子どもたちは意味がわかってからことばを覚えるのではなく、訳がわからないまま語感やリズムでまずことばを覚え、それから徐々に意味の輪郭をはっきりさせていく。大人も例外ではない。

シニフィアンとシニフィエ

2008年8月 6日 10:00

 難解なソシュール言語学の話をするつもりはない。ただ、マーケティングにおける記号(ひいてはネーミングやブランド)の意味について一考してみようと思う。

 シニフィアンとシニフィエ? 響きは、児童文学に出てくる少年少女の名前みたいだ。実は、そうではない。シニフィアンとは記号表現、シニフィエとは記号内容のことであり、それぞれ専門的には「能記」、「所記」と呼ばれる。

 ぼくはメガネをかけている。このメガネというものは、(1) 聴覚がとらえる「メ、ガ、ネ」という音(シニフィアン)と、(2) 「眼鏡」という概念(シニフィエ)の二つが一つの記号となって、実際に手に取ったり掛けたりする「$(眼鏡)」を表わしている。

 身近なことばに置き換えると、ことばとモノが表裏一体ということ。「((電話)」という実体のモノを、日本語では「デ、ン、ワ」と発音することばで、英語では "telephone"(テレフォン)と発音することばで、それぞれ名付けている。元来、モノとしての「(」と「デンワ」または「テレフォン」との間には、こうでなければいけないという理由などなかったはずだ。それでも長い歴史の中で繰り返され、さも必然であるかのようにモノに音声が染み渡っている。

 御法川法男(みのりかわのりお)と聞いて、その人物の顔が浮かばなかったらシニフィアンとシニフィエが表裏一体になっていない。顔をモノと言っては失礼だが、この場合、ことばからモノを参照できないのだ。「この名前の人、だ~あれ? えっ、みのもんた? な~んだ」。これでやっと表裏一体になる。モノとことば、つまり人と名、場所と地名、商品とネーム、企業と社名などは、シニフィアンとシニフィエが一つの記号を醸し出している。

☆ ☆ ☆

 もともとは必然ではなかったのに、繰り返し使っているうちに内容と表現がしっくりと融合してくる。いま椅子に座っているが、この「イ、ス」という音と物体の一体感はどうだ。とてもよくなじんでいる。「尻置き」でも「腰休め」でも「スワール」でも違和感がある。

 使いこんでいるうちに名が体を表わすようになる成功パターンがある一方で、繰り返し使っても何年経ってもしっくりこない場合がある。マーケティング的にはネーミングやブランディングの失敗ということだ。男性かつらに「バレーヌ」や「ズレニクイーノ」はダメだろうし、「ゲリラ特攻隊」という整腸剤は遊びすぎだろうし、「酔ったついでに・・・」という焼酎はいろんな意味でやばいだろう。

 ユニークな記号が注意を喚起し訴求力をもつのは事実だが、同時にネーミングには共通DNAみたいなものがあって、そこから逸脱すると受け入れてもらえなくなるのだ。

 シニフィエに対してこれ以上ないシニフィアンを探し当てる。これがコンセプトの言語化であり、商品のネーミングであり、メッセージのコピー表現なのである。とらわれぬ発想、すぐれた語感、そして膨大な語彙がこの仕事のバックボーンになる。 

やめてほしいことアラカルト

2008年8月 5日 10:00

 暑中見舞のシーズン。手書きの下手な文字で「暑ぅ~、お元気ですか?」という類のメッセージをしたためて毎年ハガキを送ってくれる人がいる。まず見舞ってくれることには感謝。それに字が下手なのも許せる。だが、誰かに念を押されなくても、暑さを重々承知しているので、猛暑や盛夏を倍増させるような「暑ぅ~」はやめてほしい。それに、その他大勢の方々にも一言。開口一番「お暑いですね」以外に何か挨拶のことばを交わしていただきたい。

☆ ☆ ☆

 たこ焼きや食いだおれを大阪の特徴の一つというニュアンスでPRするのなら許せる。だが、「たこ焼きイコール大阪名物」とか「食いだおれイコール大阪名物」などと、消すに消せない烙印を押すのはやめてほしい。大阪からはるか遠方に住んでいる知人は、「大阪人の主食はたこ焼き」という冗談を誰かに聞かされて鵜呑みにしているし、偽装された食品や衛生上お粗末なものを大阪人が食い倒れることが「食いだおれ」の語源と信じている。

☆ ☆ ☆

 春先に道でばったり会った人がいる。数年ぶりの再会だった。久しぶりではあったが、特別に懐かしさを感じる相手ではない。だが、お茶に誘われた。別れ際に彼は右手の親指と小指を伸ばして耳にあてがい、いわゆる電話のポーズをしながら、「また、近いうちに連絡します」と告げた。それから数ヵ月経つが、電話もメールもない。愛想と儀礼の「連絡します」はまだ許せる。しかし、連絡する気もないのなら、あのとってつけたような大袈裟なポーズはやめてほしい。

☆ ☆ ☆

 たまに仲間と居酒屋に行くことがある。酒は強くも弱くもなくほどほどだが、一週間くらい飲まなくても平気だから酒好きの部類には入らない。居酒屋であれレストランであれ、「飲みに行く」のではなく「食べに行く」。ぼくに関して言えば、飲食ではなく「食飲」が正しい。だから「まずお飲み物のご注文からお願いします」はやめてほしい。食べたいものをじっくり選んでから、それに合った酒を決めたいのだ。食べ物も決めずに「とりあえずビール」なんていうのは食の文化度の低さを示すものだ。

☆ ☆ ☆

 プロ野球をテレビ観戦する。一打逆転という緊迫の場面。ピンチに交代した中継ぎ投手が手元を狂わせてデッドボール! そのとき十人中九人の解説者がこう言う、「当てられたバッターも痛いでしょうが、当てたほうのピッチャーはもっと痛いですね」。発想不足、表現不足、感性不足。あのコメント、やめてほしい。「解説者もマンネリでしょうが、聞いているほうはもっとマンネリです」―これ、おもしろくないでしょ? 

週刊イタリア紀行No.4 「シエナ(1) トスカーナに独座する街」

2008年8月 3日 09:30

 諸説いろいろあるだろうが、ぼくの読んだある本には「ヴェネツィアのサンマルコ広場、バチカンのサンピエトロ広場、シエナのカンポ広場がイタリアを代表する三大広場」と書かれてあった。ここにフィレンツェのミケランジェロ広場も付け足しておきたい。広場そのものはたいしたことはないけれど、街並みを美しく見せてくれる点ではピカ一かもしれない。

 そして、当たり前のことだが、今回紹介するシエナを取り上げた観光ガイドや紀行文や歴史・文化の本はことごとく「シエナのカンポ広場がイタリア一、いや世界一美しい広場である」と絶賛する。美しさというものは、表現するにしても感知するにしても主観的だから、目を見張る美しさ、理性的な美しさ、しっとりした美しさなど、どんな美しさであってもよい。ぼくのカンポ広場に感じる美しさは「比類のない」という意味になるだろうか。

 二度シエナを訪れているが、初めて行った2003年はデジカメではなく、しかもモノクロのフィルムで光景を収めた。それはそれで間違いではなかったが、なんだかドキュメンタリーな空気を醸し出しすぎていて、シエナの夢想的な空間や上品な街並みが欠けてしまった。フィレンツェに約10日間滞在した2007年3月に再訪して撮ったのが今回の写真である。

 食とワインと言えばトスカーナ。トスカーナと言えばフィレンツェ。そのフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅そばのバスターミナルから南へ約1時間、城壁に囲まれた丘にシエナがある。ここは2キロメートル四方のこじんまりした街だ。他のイタリアの都市同様、ここにも目を見張るドゥオーモ(大聖堂)がある。ゴシック建築と床に張り巡らされたモザイクが有名だ。

 しかし、シエナを取り上げるのはドゥオーモのためではない。やはりカンポ広場なのだ。そして、そのカンポ広場に聳え立つマンジャの塔からの景観である。そのパノラマ図は次回の楽しみに取っておき、今回はひとりトスカーナの丘に佇む超然としたシエナの第一幕を眺めていただきたい。

☆ ☆ ☆

Toscana1 272.jpg

Toscana1 273.jpgToscana1 275.jpg〔左〕700年の歴史をもつシエナの通り。

〔中央〕昔の習俗を甦らせれば、あっという間に中世へとタイムスリップしてしまう雰囲気がある。

〔右〕通りを遊歩していると、シエナの象徴に出くわす。ローマの建国にまつわる双子の赤ん坊に狼が乳を与えている像だ。 

Toscana1 280.jpg〔左〕ヴィーコロという薄暗い小さな街路の一つに入ると光の空間が借景のように姿を現わす。くぐり抜けるとカンポ広場だ(ソフトな赤茶色の建物が市庁舎)。  Toscana1 286.jpg

〔左〕市庁舎に隣接するマンジャの塔。この塔の狭くて急な階段は身体にこたえる。しかし、400段上り詰めればご褒美が。シエナの街の造形とトスカーナ地方の特徴的な山間農村の遠景がパノラマのように見渡せる。Toscana1 287.jpgのサムネール画像

Toscana1 317.jpg〔上〕塔の前から振り返って見るカンポ広場。ゆるやかな傾斜が不思議な広がり漂わせる。

〔右上〕マンジャの塔の中ほどまで上ったところから見下ろしたカンポ広場。水色に見えているのがガイアの泉。シエナは治水技術にもすぐれた都市だった。この広場に砂を敷き詰め17地区が対抗して毎年7月と8月に競馬(パリオ)が開かれる。

P1020362.JPG

 〔左〕絵葉書。シエナの17地区はコントラーダと呼ばれ、すべての地区が動物を意匠した美しいシンボルマークを有している。

(上段左から)鷲、芋虫、かたつむり、フクロウ、竜。

(二段目左から)麒麟、ヤマアラシ、一角獣、雌狼、貝殻。

(三段目左から)ガチョウ、イルカ(波)、豹、サイ(森)、亀。

(下段左)象(塔)。(下段右)牡羊。

食事と薀蓄の密な関係

2008年8月 1日 10:00

 知人がブログで鰻に関する薀蓄を傾けていた。興味津々、文章を追ってみた。

 「鰻は腹より尻尾が美味しい。そこで、うな重は左手前に鰻の腹、右奥に鰻の尻尾が来るように配膳する。そして左手前つまり腹から食べ始めて、最後に右奥つまり尻尾を食べるのが流儀だそうだ」と料理専門家の話を紹介する。

 なるほど。しかし、そんなに尻尾が旨いなら、尻尾ばかり四切れほど乗せてあげるのが最上の顧客満足なのではないか。あまり上等な鰻を食べないので、尻尾は少し堅いというイメージがある。だからぼくなら尻尾は遠慮する。

 紹介された話にケチをつけているのではない。鰻という食材はご飯との相性によって成り立っていると思う。「鰻巻き(うまき)」というタマゴとのコラボレーション料理や、キュウリという意外な仲間と組む「うざく」や「細巻きのうな胡」というのもあるが、ウナギサラダやウナギ五目ラーメンなどにお目にかかったことはない。鰻を無理やりに使ったヌーベルの冒険レシピがないこともないが、たいていは失敗作だ。

 要するに、うな丼であれうな重であれ、せいぜいお吸い物と漬物がつくだけで、ひたすら鰻とご飯を食すことを強いられる。しかも、値が張るわりにはあっという間に食べ終わる。遠目に見たら、チープな牛丼を食っているように見間違うかもしれない。

 だからこそ、鰻は薀蓄を必要とする。背開きだの腹開きだの、やれ国産はこうだ、山椒はこう振れ、腹から始めて尻尾で終われ・・・・・・となるのである。主役はもちろん鰻だが、共演して主役を引き立てるのが薀蓄だ。そう言えば、鰻のタレを自慢する店主が多いが、あのタレの主成分も「昭和初期からのつぎ足し」という薀蓄ではないか。

☆ ☆ ☆

 一週間前、敬愛するM先生とA先生、それにM先生の子息ご夫婦と、鱧会席をいただく機会があった。M家とはよく会っているが、A先生にお会いするのはかれこれ五年ぶりである。二十年前に知り合って以来、まったく変わっていないのに驚いた。おそらく何か妙薬を使っておられるに違いない。

 鱧のしゃぶしゃぶのほか、鱧づくしの小皿料理、ふぐのてっさなど色とりどりの味を堪能した。招待を受けていたので、さらに旨さが増したような気がする。一品目は三種盛り。「ハモと茄子のハーモニーです」と店の人。ダジャレでありイマイチの芸だが、ツッコミは入れずに口に入れた。鱧は淡白である。だから梅や酢味噌のほか、少し濃いめのタレや紅葉おろしやネギと合わせる。

 この席でも薀蓄が名脇役、いや、先の鰻の話とは違って、こちらは「会席の 薀蓄一番 鱧二番」という風情で、薀蓄が堂々の主役を担った。昔の小さなエピソードから仕事観へ、遊びの話からジョークへと縦横無尽の談論風発にあっという間の2時間半。この夜にかぎって、鱧は地味な存在であった。

 ことばが次なることばを呼び起こし、イメージが貪欲に広がる。ああ言えばこう言う、さわやかな負けず嫌い。笑いのフォンの大きさを競って記憶をまさぐり、あの手この手の話題をひねり出す。嫌味な自慢話の吹聴になるか、それともサービス精神に満ちた薀蓄の披露になるかは紙一重。そのギリギリの綱渡りが楽しい。非生産性的な生真面目に出番はない。食のシーンでは、愉快精神が「どうだ!」とばかりに旺盛な生産性を発揮してくれるのだ。

プロフィール

岡野勝志(おかのかつし)
1951年大阪生まれ

企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長
企画アイディエーター
岡野塾主宰

ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。
マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人材の課題に対して、「即答即決アイディエーティング」をおこなっている。

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