結局、本をどうすればいいのか?

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 用語の定義にあたっては、パスカルが「定義される用語が定義することばの中に含まれてはいけない」という法則を示している。「読書」を「本を読むこと」とした時点で、「読」ということばが使われているので、パスカル流の定義にはなっていない。とはいえ、こんな厳密な法則を適用していくと、ほとんどの「天使の辞典」は成り立たなくなる。

 それにひきかえ、「悪魔の辞典」は楽だ。何でもありである。世間では異端視されているだけに、余計に気楽である。「なるほど」という妥当性を実感する回数は、言うまでもなく、悪魔のほうが天使よりも多い。

 ここ数週間のメモを繰ってみた。読書に関しての気づきはさほど多くない。「読者にとって本は二種類に分かれる。傍線を引くか、引かないかである」という意見を書き、別のところでは、「本は編集視点で物語と非物語の二つに大別できる」と記している。自宅の書棚もオフィスの書棚も、まだこんなふうに分類して並べてはいないが・・・・・・。

☆ ☆ ☆

 読書についてぼくの最新の定義を紹介しておこう。

 【読書】「本の体裁に編集された外部の情報と自分のアタマの中に蓄えられている内部の情報を照合すること」。この中の「照合」がわかりにくいかもしれない。老舗の天使の辞典である広辞苑によれば「照らしあわせ確かめること」。えらく差し障りなく定義するものだ。そのくせ、さきほどのパスカルの法則には堂々と反している。

 不満はさておき、本の情報と自分のデータベースを照らし合わせるのが読書である。まったく重ならないこともある。取り付く島がないほど面倒見の悪い本か、自分のデータベースが貧弱すぎるかのいずれかだろう。たいていの書物と自分の知識は、程度の大小あるものの、重なるものである。重なる部分を確認したり記憶を新たにしたり。本に攻められて一方的に情報を刷り込まれたり、何とか踏ん張って持ち合わせの知識で対抗したり。コラボレーションしたり完全対立したり。好きになったり嫌いになったり。照合とは、縁の捌き方でもある。

☆ ☆ ☆

 出張中の三日間、読書について書いてきたが、キリがない。けれども、今月からスタートした書評会は「本をどうするのか」への一つの方向性を示すものになるだろう。最後に「本は買ったり読んだりするものではなく、書くものである」というユダヤ格言を紹介しておく。まったく同感であり、これまで売れない本を二冊書いているが、この十数年間は読者側から修行をだいぶ積んだので、三冊目を書いてみようという気になっている。 

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プロフィール

岡野勝志(おかのかつし)
1951年大阪生まれ

企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長
企画アイディエーター
岡野塾主宰

ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。
マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人材の課題に対して、「即答即決アイディエーティング」をおこなっている。

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