とても不思議な感覚を引きずっている。この違和感はぼくだけのものなのか、あるいはそんな印象を受けた人が他にもいるのだろうか。先週のあの静岡を襲った震度6弱の地震に関してだ。「これは東海大地震ではない」と専門家が言うのである、というか断言するのである。東海大地震はマグニチュード8を想定している、今回の地震はそんな規模ではない、ゆえに「東海大地震はまだ起きていない」。
現実に存在するかどうかわからないけれど、欲しいシャツがあり、そのイメージもはっきりしているとき、いま店で品定めをしているシャツを「これは違う」ということはありうるだろう。「理想があって、その理想に適わない現実」という構図ならうなずけるのだ。しかし、地震はシャツではない。「欲しいシャツ」を探すように、誰も地震を待望しているわけではない。未来に起こるであろう《X》の基準を人間が勝手に規定して、現実に起こっている《Y》がその基準を満たしていないから、このYは失格と言っているみたいに響いてしかたがないのだ。
「YはXではない」と聞けば、YをXに照合した結果、YがXに合致していなかった―このようにぼくは解釈する。このとき照合したXはふつう過去のデータでなければならない。簡単な例を挙げれば、「これはペンではない」と言うとき、展開は「これをいろんなペンと照合したけれど、ペンらしき痕跡はない、ゆえにペンではない」のはず。ペンは過去または現在に存在していなければ照合することができない。現実を未来と照合するなんて、ぼくのちっぽけな経験則をはるかに超越している。
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地震予知の世界ではこんなふうに表現するものかと納得するしかないのか。でも、くどいようだが、「東海大地震」を「ほぼ確実に想定できるゴール」として設定しているような気がする。そして、震度6弱のあの地震はまだゴールに達してはいないと聞こえてきてしかたがない。モノが字義に追いついていない、あるいは現実が想定に追いついていない。ひいては、想定のほうが先に行って東海大地震を待っている状況・・・・・・。
理念が行動を待っている。刑法が事件を待っている。予知が大地震を待っている。何か変ではないか。棒高跳びのバーが5メートルのところにあって、それを跳べなかったから「失格」みたいになってはいないか。棒高跳びのバーはぼくたちに見えているのだ。それがゴールであり一つの基準なのだ。だから、それをクリアしなければ当然失格―この言い回しには何の問題もない。
地震は見えない。しかも未来形なのである。それを予知して、その時点から逆算して、現実に発生する地震に「ブー」とハズレを示す。「来たぁ~、これだ、ピンポーン」といつかなるのだろうが、それは地震を予知できたことになるのか。現実が想定に追いついてピンポーンかもしれないが、関係者の予知に関しては「ブー」ではないか。思うに、「予知」に毒されているから、「これは東海大地震ではない」という違和感のある言い回しになってしまっている。ところで、こんな違和感を抱くのは、ぼくの感覚のほうが「揺れている」からだろうか・・・・・・。




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