遊びの時間、時間の遊び

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 人生の出発点には「無意識の生きる」がある。やがて意識が強くなってくると幼児期には「遊ぶ」。よく遊んでから(あるいは同時に)よく学ぶ。学童になるまでは「よく遊び」が容認される。やがて小学生も高学年になると、いつの間にか「よく学び(しかる後に)よく遊ぶ」が奨励される。いや、そうしないと社会的存在として生きていくのがむずかしくなってくる。一番いいのは「学びイコール遊び、遊びイコール学び」だろう。学びと遊びが混在し可逆的になり一体化すれば、さぞかし毎日が楽しいに違いない。

 大人になれば「よく働き(そしてご褒美として)よく遊ぶ」がセオリーになる。この順番でなければならない。ろくに働きもせずに遊んでばかりいれば社会が認めてくれない。ホイジンガやカイヨワを持ち出して遊びを正当化するまでもない。誰が何と言おうと、遊びの時間は人生にとって不可欠だ。だが、仕事とのバランスを崩してまで追い求めるのは筋違いというもの。少なくとも時間とエネルギーにおいて、遊びが仕事を凌駕するのはまずい。もちろん仕事と遊びに一線を画しにくい職業が世の中に存在することも認めたうえでの話だが・・・・・・。

 仕事を滞らせたり職場に遅刻することがあっても、遊びの予定をしっかり押さえて待ち合わせには絶対に遅れない人がいる。そんな人間は仕事が嫌いで遊びが好きなのだと単純に結論づけるわけにはいかない。ここには遊びが仕事以上に「真剣さ」を要求する性質を帯びていることがうかがえる。御座なりな仕事のルールに比べて、遊びのルールが厳格に定められるのも周知の事実である。遊びに費やす時間とエネルギーを仕事に向ければ、もっと容易に課題も達成できるのではないか―これは皮相的な見方なのだろうか。

☆ ☆ ☆

 いっそのこと仕事を遊びとして捉えればいいのに・・・・・・と思うのだが、先に書いたようにそんなに都合のいい職業に誰もが就いているわけではない。仕事は仕事なのである。遊び心はあってもよいが、遊びとは違う。けれども、仕事中の「遊びの時間」は慎むべきだが、「時間の遊び」は大いに作るべきだろう。時間の遊びとは、歯車の遊びのようなものだ。ガッチリと組み合わさった歯車は動かない。ほんの少しの余裕がなければ歯車は機能しない。この余裕のことを遊びと呼ぶ。

 時間にも遊びがいる。これを「時間の糊しろ」と考える。たとえば、今週の水曜日、オフィスのミーティングルームでスタッフの一人が午後6時まで得意先を迎えての会議をおこない、午後6時からぼくの勉強会である《サビルナ会読会》が始まる。ここに時間の糊しろはない(会議は早く終わることもあるが、長引くこともある)。偶然そうなってしまったが、遡れば時間の遊びを作れなかった失敗である。これが仕事と仕事どうしになっていたら、この余裕の無さは時間の重なりをもたらしトラブルの要因になる可能性がある。時間に糊しろがないと、納期、タイミング、段取りなどに思わぬ狂いを招く。

 今日の1時間は明日の1時間よりも糊しろが大きい。余裕の質が違うのだ。同じ一日、いや午前中だけでも時間の質は変わってくる。たとえば、午前9時の新幹線に乗るとき、8時まで自宅にいて本を読むのと、8時に駅に着いて本を読むのとでは、後者のほうが糊しろがだいぶ大きい。なぜなら、自宅を出るという動かせない一工程を後回しにしては落ち着いて本など読めないからである。創造性が低い無機質な工程をなるべく早めに片付けておくべきなのだ。糊しろは読書の時間に遊びをもたらしてくれる。時間の遊びは遊び心の仕事を可能にしてくれる。それはまたリスク管理にもつながってくるのである。  

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プロフィール

岡野勝志(おかのかつし)
1951年大阪生まれ

企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長
企画アイディエーター
岡野塾主宰

ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。
マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人材の課題に対して、「即答即決アイディエーティング」をおこなっている。

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