2009年12月アーカイブ
人の企て、人の営み
2009年12月31日 19:00
講師ばかりが集う年一回の会合があった。「業界」の集まりにはほとんど顔を出さないが、例の事業仕分けで仕分け人を務めた方の講演があると聞いて出席した。子細は省略するが、舞台裏の話も聞け大いにためになった。「予算は事業につぎ込むのではなく、人に託すもの」とぼくは常々考えている。どんなに崇高な理念を掲げ緻密に練り上げられた事業であっても、資金運用の才覚がない人材が担当していては話にならない。事業が金を食い潰すのではない。金をムダに遣うのもうまく活用するのも人である。こんな思いをあらためて強くした。
人と金の関係のみならず、この地球上で生じる自然現象の一部も含めた出来事や生業(なりわい)は人が企てるものだ。そして、人が営んでいるものでもある。一人一人は自分を非力だと思っているが、非力の集合と総和は想像を絶するエネルギーとして世界の動因になっている。社会や国家をうまく機能させているのも人なら、危うくしているのも人である。ここでの人とは、匿名の人間集団なのではない。個々の人間のことだ。個人の企て、個人の営みが成否の鍵を握っている。
「企業は人なり」の主語と述語を入れ替えて、「人が企業なり」とするのが正解なのだろう。《人間は万物の尺度である》とプロタゴラスが語ったとき、人類全般ではなく、一人一人の考え方や生き方が念頭にあったはずである。幸せも不幸も、仕事の成否も、社会の良し悪しも、すべて「個人の仕業」なのだ―このように考えるのでなければ、ぼくたち一人一人は当事者としての自覚もせずに、無責任を決めこんで生き続けていくだろう。
☆ ☆ ☆
リーマンショックも自分のせい、長引く不況も一人一人のせい―こう思いなしておかないと個人としての対策も行動も取りようがない。理不尽を批判するのは大いに結構だが、同時に他人事ではなく己にも責任の一端があることを肝に銘じておかねばならない。自分のせいではなく他人のせいなのだと誰もが信じていたら、いったいどこの誰が有効な対策を立ててくれるのか。他力を過大評価しすぎることなく、また自力を過小評価しすぎることなく、企て営む。
ぼくは過ぎ行く年を大いに振り返り反省もするが、来年の抱負について多くを語らない。来年こうしようと雲の上の可能性のようなことを決意表明したものの、叶わなかったときの後悔とマイナスエネルギーが大きすぎるからである。理想が低くて夢のない人間? そうではない。理想や夢の前に、確実にできそうなことを日々着実にこなそうと思うだけである。この延長線上にしか理想も夢もない、と思っている。
誰もが知っているにもかかわらず、日々流されて忘れてしまう古典のことばがある。ほとんど真理とも思える二つの箴言は二千数百年も前に語られた。生活と仕事をすっぽりと包み込んでいる市場経済を、ぼくたち一人一人がどのように生きるかのヒントになってくれるはずだ。デルフォイの神殿に祀られたアポロンの神に捧げた箴言、それはソクラテスが終生強く唱え続けたものであった。
汝自身を知れ。
身の程を超えるな。
ブリコラージュな読書
2009年12月30日 19:00
今年1月からスタートしたサビルナ会読会が昨日7回目を迎えた。忘年会も兼ねメンバーが拙宅に集まっての勉強会だった。自分自身が取り上げた本も含めて、この一年で60冊前後の書評を聞いたことになる。仲間が読んだ書物のレジュメを読み話を聞くだけで、ある程度概要がつかめる。今年ぼくは百冊以上の本を乱読したと思うが、本の読みっぱなしはほとんど何も残らない。読書の効果を維持しようと思えば、再読するか、この会読会のように仲間に読後感想を語るのがいい。
自分がどんな本を読んでいるかを公開するのは憚(はばか)るが、敢えて今年会読会で紹介した書物を紹介しておく。村上陽一郎『やりなおし教養講座』、ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』、布施英利『君はレオナルド・ダ・ヴィンチを知っているか』、入不二基義『足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想』、安部公房『内なる辺境』、マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』、眞淳平『人類が生まれるための12の偶然』。
もちろん上記の7冊がぼくの今年のベストというわけではない。安部とポランニーのは古い本で再読、入不二のはアメリカから帰る機中での読書、他のもだいたい出張中の車中での通読である。感動した本というよりも書評しやすくて興味を覚えてもらえるような本を選んだつもりだ。同じ本をみんなで読んで感想を述べ合うのもいいが、それぞれがお気に入りの本を選んで解説するのは評論の学びになる。ぜひ来年も、できれば毎月一回のペースで続けていこうと思っている。一気に大勢は無理だが、新メンバーも歓迎したい。
☆ ☆ ☆
講座のほうは今年12のテーマで新たに書き下ろし語り下ろした。新作講座のための準備は大変だが、そのテーマのために新しい本を読むことはほとんどない。ぼくが参考にするのは手元にあって再読した本や、その本から要所を抜き書きしたノートやメモである。具体的な目的のために本を読むことはめったにない。そういう意味では、ぼくの読書法はエンジニアリングではなく、ブリコラージュである。ブリコラージュ(bricolage)とは、計画的・意図的ではなく、偶然的に断片を拾ってきて念のために残しておく寄せ集めのようなものだ。
特別な目的のために情報を集めていては知の構造が限定される。知の本質には「ゴールの棚上げ」があると思っているので、手当たり次第に「いずれそのうちに役に立つだろう」ぐらいの気持で本を買い求め適宜読んでいる。いまここで手に入る知識を寄せ集めて試行錯誤しながら組み立てる創造や知のあり方がブリコラージュ。去る10月に百歳で亡くなったレヴィ=ストロースの構造主義の根幹の一つとなる概念だ。
究極的には、何かをするのは別の何かのためなのだろう。しかし、本を読む、考える、話をするなどの行為は何かのための前に、そのこと自体をしているのだ。本を読んでいるのである、考えているのである、話をしているのである―こうした行為が先にあって、結果的に何かのためになっているのである。ぼくは行為の向こうに何も見ないようにしている。会読会や講座のために読書をしない。読書は読書という行為以外の何物でもない。
「目的もなく、そんなことができるのか? 何かがあるんだろ?」と聞かれれば、「忘我的集中が楽しい」としか答えようがない。「そんなことに意味があるのか?」と問われれば、「うん、あるでしょうね。いずれそのうち・・・・・・」と答える。誰かに話してやろう、どこかで使ってやろうという魂胆を頭ごなしに否定はしないが、自分自身が楽しめないものを他人に伝えるほど厚かましい話はないと思っている。冬のために薪を集めるのではなく、ふだんから集めてきた薪が結果的に越冬に役立つ―そんな読書が気に入っている。
ウィーンの寒い朝の思い出
2009年12月27日 22:00
大阪の寒さなどたかが知れている。明日は冷え込むと天気予報が報じるので備えて外出すれば、何のことはない、日向ではポカポカしていたりする。講演や研修で全国に赴くが、冬場はだいたいシーズンオフになる。とりわけ雪国への真冬の出張はほとんどない。山陰や北陸で豪雪に見舞われて列車遅れを経験した程度だろうか。ぼくは厳冬の雪降る北国をまったく知らないのである。
ぼくがもっとも凍てついたのは3月上旬のウィーンの朝だ。前日の午後5時頃に街に入った。時差のせいか感覚が鈍っていたのだろう、さほど寒さを感じることなく街をうろついていた。ところが、翌朝、ホテルの窓外の光景が白へと一変していた。ビュッフェで腹ごしらえした後に外に出てみたら、昨夜の気温とはまったく違う。ありったけの服を重ね着して万全の防寒態勢で地下鉄駅へ向かった。
目指したのは8駅か9駅西南西方向に位置する、ハプスブルク王朝の離宮「シェーンブルン宮殿」。同名の地下鉄駅を降りて雪道を歩く。宮殿の入口までほんの数分なのだが、この時に感じた凍えがぼくの生涯一番である。ウィーンは北緯43度の札幌より5度も北に位置する。つまり、北海道最北端よりもさらに北である。にもかかわらず、3月のウィーンの平均気温は3.5℃(最低)、10.2℃(最高)で、札幌の-4.0℃(最低)、4.0℃(最高)よりもはるかに暖かい。しかし、あの凍えようは尋常ではなかった。
☆ ☆ ☆
シェーンブルンとはドイツ語で「美しい泉」を意味する。マリア・テレジアの時代の1693年に完成している。この宮殿内では美しく花が咲き誇るので、ほとんどの写真や絵葉書は春先から夏にかけて撮影しているのだろう。実際、手元に残っている入場券には緑に囲まれた宮殿が写っている。それはそうだ、ここは「夏の離宮」なのだから。しかし、ぼくにとってシェーンブルン宮殿はすっかり冬のイメージと連動してしまっているかのようだ。
凍てついた分、宮殿内のカフェで飲んだミルクたっぷりのメランジェ(ウィーン版カプチーノ)は温かくて格別にうまかった。
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(左)早朝、ホテルの窓を開けてみた。透明な冷気に触れると同時に、一変した冬景色が目に飛び込んできた。
(右)地下鉄駅への道すがら。歩道に雪は積もっていないが、静けさと相まって突き刺すような寒さが襲ってくる。
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(左)宮殿の入口。
(左)噴水も花壇も真っ白になっている宮殿の裏手。小高い丘の上にグロリエッテがある。ここにはレストランとカフェがあるらしく、また屋上から俯瞰する宮殿方面の景観が絶景らしい。さすがにこの雪では歩けない。夏場に坂を上がった人は、猛暑でばてたと言う。寒すぎるのも暑すぎるのも困る。
「決め」の時、年末
2009年12月24日 15:30
その年が良くても悪くても、時は流れて年は変わる。カレンダーがあるかぎり、節目と決別することはできそうもない。何はともあれ、今年の舞台に幕を降ろさねばならないし、降ろすや否や新しい舞台の幕が開く。うやむやの幕切れは新年に憂いを持ち越すから、反省も含めた気持の決算、近未来を見据えての気持の決心をしっかりしておくに越したことはない。そう、「決め」ておかねばならない。
決めと言えば? 野球のピッチャーなら「決め球」と答えるだろう。ご承知の通り、全球が決め球だと決めの効果がない。一人の打者に決め球は一球のみ。いや、勝負どころでは1イニングに一球ということすらあるかもしれない。早すぎる決め球は功を奏さない。また、遅すぎる決め球というのは存在しない。決め球は一球しかなく、その一球で決められなかったら、その後はない。「決められなかったので、もう一度決めます」という言い逃れもありえない。決めるとなれば、決めるしかないのだ。
格闘技なら決め技ということになる。そうそう、決め台詞(ぜりふ)というのもある。特定の場面で何度も繰り返され、観客が心待ちにしているフレーズも決め台詞と言うが、「そろそろ出るぞ」と予感でき「待ってました!」とワクワクするようなら、決め台詞などではなく「決まり文句」と呼ぶのがふさわしい。座右の銘に近いものは決め不足なのだろう。決め台詞にはタイミングと、場合によっては、即興性がなければならない、とぼくは思う。
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年越しそばなどいつ食べても同じはずなのに、晦日に食べるとなると「決めそば」になる。年越しそばには、これにて打ち止め、以上、終わりというようなニュアンスが出てくる。しかも、タイミングは絶対条件だ。クリスマスの日に年越しそばは落ち着かない。ところで、そんなに押し詰まってからの食事ではなく、ぼくには日々、今日のランチは「これしかない」という、《決めランチ》がある。もちろん、決めランチと言うくらいだから、毎日あってはいけない。多くても週に一回、できれば月に二回くらいが望ましい。
たいてい前日の夕食後に「明日のランチはこれだ!」と浮かぶのが決めランチ。あるいは当日の朝食後に「今日のランチは、つべこべ言わずに、あれで決まり!」という具合。前の週に「来週の金曜日はビフカツ」というインスピレーションが湧き立つときさえある。決めランチの日の午前中に誰かから電話があって、別のランチを食べる破目に陥ることもある。決めランチを楽しむのは基本的に一人なので、誰かと一緒になればそこまで意地を張れない。「ランチ? いいよ。でも、今日は絶対○○を食べるつもりだから、それでよければ一緒に行こう」などと注釈つけるのは大人げない。
決めランチのつもりで店におもむくのだが、店のほうで出すメニューがぼくの期待に応えて見事に決めてくれるとはかぎらない。だが、これはやむなし。先週か、昨日か、今朝に、あの店であのメニューを食べようと決めにかかったぼくの責任である。自慢するわけではないが、ぼくが決めランチをして訪れる店はだいたい寿命が長い。つまり、そのような店はおおよそ評判がいいのである。惜しいことに、よく決めそばをしていた蕎麦屋が閉店を決めた。勝負に出る決めとは違って、勝負を諦める決めには哀愁が漂う。
縁あって知る、ちょっといいことば
2009年12月22日 23:00
先月の下旬にぶらぶらと歩いていたら、寺の壁に黒白の幕が張ってあった。興味本位で近づけば吉祥寺とある。黒白幕は12月12日の義士祭に備えてのものだった。播州赤穂だけでなく、浅野家ゆかりということから大阪下町のこの寺にも墓があるわけだ。詳しくもなく調べもしていないが、内蔵助良雄の座右の銘が碑に刻まれていた。「全機透脱」だ。全機も透脱も『正法眼蔵』に出てくる熟語だが、合成した四字熟語は見当たらないから、内蔵助の造語かもしれない。大きな辞書にも載っていなかった。
『正法眼蔵第二十二』を少し読んでみたら、難解でよくわからない。前後の文脈にこだわらず、「全機現に生あり、死あり」という、一番わかりやすかった箇所だけ都合よく注目する。「すべてのものの働きに生と死がある」という意味だ。透脱のほうは、「諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。その透脱といふは、あるひは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。」という二つの文で冒頭に出てくる。透脱は「縛られることのない、完全な自由」のように思われる。
全機透脱―メッセージに重厚な意味が込められた、揮毫向きの四字熟語ではある。三十年以上も前の話だが、勝海舟の『氷川清話』の中で「虚心坦懐」ということばに出合った。ずいぶん気に入って筆で書いたりもし、わけのわかった顔して話したりもした。ところが、四代前の劇場系首相が頻繁に使うようになってから、縁遠くなってしまった。はしゃぐ人には合わないことばだからだ。あの人には「人生色々」という四字熟語のほうが似合っていた。心にわだかまりがない様子を現わす虚心坦懐には、どこか全機透脱に通じるものを感じる。
☆ ☆ ☆
『氷川清話』を読んだ頃の蔵書は手元に一部しか残っていない。十数年前に本が増えてしかたがないので、要らないものを処分しようとした。ところが、間違って不要でないものまで処分してしまった。再読したい本は買うが、価格がまったく違う。当時150円ほどで買った文庫本が800円くらいになっている。しかし、思想系の叢書などは古本をバラ買いすると安い。先週買ったスピノザの『エティカ』など100円だった(中央公論社の世界の名著シリーズで、ライプニッツの『モナドロジー』も入っていて、お買い得だ)。
『エティカ』は大部分定理という形で書かれていて、一見すると難解そうに見える。しかし、実際はやさしく読める本だ。箴言集として読めばいい。次から次へと共感する名言が現れてくる。この種の本をよく読んでいた若い頃、目的もなく、将来使ってやろうという野望もなく、お気に入りのことばをせっせとノートに書き写していた。まったく記憶の片隅にもないつもりだったが、再び通読してみると覚えているものなのだ。何年経過してもよい、本はやっぱり二度読むべきなのだろう。ちょっといいことばをいくつか紹介しよう。
「喜びとは、人間が小さな完全性からより大きな完全性へ移行することである。」
「自由な人間は、けっしてごまかしによって活動せず、常に誠実に行動する。」
「人があれもこれもなし得ると考える限り、何もなし得る決心がつかない。」
文字通り読んでもいいし深く読んでもいい。最後の一文には大いに共感する。「何でもできる」という思いが、強い意志の表れではなく、単なる「意地」であったりすること。あれもこれもは結局どれにも手をつけないということ。実行可能性の高いことよりも、成功しそうもないことを人は掲げようとすること。
控えめな情報、強い意見
2009年12月21日 15:00
一度目を通している新聞を一ヵ月分まとめて再び拾い読みして、おもしろそうな記事があれば切り抜く。「おもしろそうな」のレベルを相当上げておかないと、何でもかんでも気になってクリッピング作業が負担になる。三週間分なら五つ、六つの記事がよい。なぜクリップするのかとよく人に聞かれるのだが、残しておいて仕事に役立てようという魂胆で切り抜くのではない。ぱっと見ておもしろそうな記事を、切り抜きながら読み返しているのである。読み返しと切り抜きは一つの行為になっている。
ある記事のくだりに「レストランで必ず出てくるグリッシーニ(イタリアのスティック状のパン)は、店によっておいしさが違った」とある。たまたまグリッシーニのことを知っていて自宅でも時々口にするぼくと、まったく知らない人とでは、この情報への反応はだいぶ違うはずだ。人はまったく知らないことでも信じたり疑ったりすることはできるが、疑うにしても何が間違っているかを指摘することはできない。ただ怪しいと感じるだけである。
たとえば、一週間で百万円が倍になる新しい金融商品のことをまったく知らなくても、危険センサーが働いて怪しいと疑うことはできる(危険センサーがまったく機能しないため詐欺の被害者になる人たちも少なからずいるが・・・・・・)。しかし、上記のグリッシーニの情報にはさしあたっての危険はなさそうだから、「ああ、そうなのか」と読み流しはしても、強く疑うことはないだろう。正しいか誤りかと言えば、この情報は間違っている。「必ず出てくる」と、きっぱりと表現したために生じた誤りである。
☆ ☆ ☆
グリッシーニは食事の前の「おつまみ」だ。パンの一種ではあるが、長さ20~25cmの太いポッキー状のクラッカーを想像すればいい。ぼくの経験では、グリッシーニを出す店のほうが少なく、どこのレストランでも「必ず出てくる」ものではない。この体験的情報を「必ず」で紹介してしまうと、虚偽になってしまう。なお、「店によっておいしさが違った」は著者の意見なので、こちらはどんなに強く主張してもらってもいい。但し、「店によっておいしさが違った」と言うと、グリッシーニが店ごとの自家製のように聞こえる。レストランで出すのはほとんどの場合、数本単位で包装してある市販品だ。おっと、グリッシーニ論ではなかった。
情報というものは、何から何まで調べて用いるわけではない。だから、体験ならその範囲で表現し、情報のサンプルが少なければ控えめに一般化するのが望ましい。つまり、経験であれ引用や知識であれ、情報を持ち出す時点では「過度の確信」を込めてはならないのである。学者が発表したり論文を書いたりするように神経質になることはないが、自分が例外的または特権的に知りえていることを紹介するときは慎重であるべきなのだ。
これに対して、情報から推論して導き出す意見は、説明や理由がつくかぎり、好きなだけ強調すればいいのである。いや、そもそも「弱い意見」や「軽い意見」や「とりあえず意見」などの控えめな意見があってはならない。流行語を借りれば、「草食系意見」は断じてありえないのだ。意見はすべて包み隠さず明快で、大いに強くなければならない。声の大きさではなく、毅然とした強さだ。情報ばかりが強気に威張っていて、声の消え入りそうな意見で収束する話しぶりが最近目立つが、嘆かわしいかぎりである。
運勢占いのメッセージ
2009年12月17日 16:45
自分の星座が何であるかぐらいは知っている。水瓶座である。家族の星座もかろうじて言える(と思う)が、何月何日生まれが何座になるのかについてはわからないし、星座の順番を正しく言うことはできない。ぼくはこの歳になって恥ずかしいことなのかもしれないが、干支にもあまり関心がない。正しい順番に十二支を言えるとは思うが、諳(そら)んじようとしたことは一度もない。もちろん、自分の干支は知っている。
ニュースを目当てに朝にテレビをつけることが多いが、支度と朝食をしながら聞き流す程度である。どこのチャンネルでも星座占いの時間帯があって、あなたの今日の運勢を「予知」している。最高の日であるか最悪の日であるかをきっぱりと告げているのには感心する。一昨日の朝、いつもとは違ってちょっとしっかり聞き、実際に画面上の文章も読んでみたのである。いやはや、とてもおもしろいことに気づいてしまった(熱心な星座ファンには当たり前のことなのだろうが・・・・・・)。
○○○座の今日の運勢が「今日も一日笑顔で人に接しましょう」という内容であるのに対し、□□□座が「パソコン操作のミスに注意しましょう」だったのである。十二の星座すべてを同一人物が占星しているに違いない。にもかかわらず、この二つのメッセージ間の異質性は高い。前者は老若男女どなたにも当てはまる。ところが、後者はパソコンを使う人に絞ったメッセージになっている。□□□座でありながらパソコンを常習的に使わない人たちは何を占ってもらったのだろうか。
☆ ☆ ☆
昨日と今朝も見てみたら、チャンネルによって占星術のスタイルが違うことがわかった。恋をよく芽生えさせたり失恋させたり、会議をうまく運営させたり、意外なところからお金が入ってきたりと占ってみせる。出勤前の若い女性をターゲットにしている傾向が強いと見た。関心事は金運、恋愛運、仕事運に集中している。いや、よく考えたら、それ以外に占ってもらうことなどそんなにないような気もしてくる。
毎日十二の星座を占うということは週5日としても60種類のメッセージになる。一年にすれば膨大だ。たとえ週間占い専門でも年間で数百種類に及ぶ。繰り返しのパターンやひな型があるのかどうか知らないが、それにしてもその日やその週の運勢を一、二行でコピーライティングするのは生易しい仕事ではない。察するに余りある。
人類を四種類や十二種類に分類すること自体に無理があるのは誰もが承知している。八卦のほうではそのことをわきまえて「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と謙遜するのだろうか。別に皮肉っているつもりはない。それどころか、多数のサンプルをいくつかに分類して傾向や特徴を示すのは、別に占いの世界だけにかぎらず、心理学でもマーケティングでもやっていることだ。ちなみに今日のぼくの運勢を数値化すると76点だった。一日を振り返ってみたら、ぴったり76点のような気がしないでもない。
やめられないこと、続かないこと
2009年12月15日 16:45
一ヵ月ほど前の日経のコラム記事に、劇作家の別役実が随筆に書いた話が紹介されていた。それによると、別役は毎日186回タバコをやめようと考えるらしい。どんな計算でこの微妙な数字になるのか。一日3箱60本吸うのだそうである。ポケットから箱を出し一本取り出すときに「やめよう」と思い、くわえるときにも「やめよう」と思い、火をつけるときにもう一度「やめよう」と思う。一本につき三回やめようと思うのだ。それが60本だから180回。あとは、店でタバコ代を払うときと品物を受け取るときの2回で、これが3箱なので計6回。
一年で67,890回もやめようと考えるのだからすごい。さらに、それだけ考えるにもかかわらずやめないのがもっとすごい。タバコや酒などの嗜好品の常習性は周知の通りだが、やめようとしてやめられない習慣は誰にもある。やめようとかやめたいと思いながら続けてしまう執着力と言うかエネルギーが、続けたいと思いながら続かない対象にはなぜ働かないのだろう。やるぞと決めたストレッチ体操が続かないのに、かっぱえびせんはなぜ「やめられない、止まらない」のだろうか。不思議である。
「あきらめましたよ どうあきらめた あきらめきれぬとあきらめた」という都都逸があった。未練心をユーモラスに紡いでいるではないか。タバコか酒か博打か忘れたが、「やめました ○○○やめるの やめました」というパロディも何かで読んだことがある。ぼくたちは欲望に満ちていて、新たにチャレンジしたいことがあれこれとありそうなのだが、そっち方面は続きにくく、また最初の第一歩が重くて踏み出せない。他方、悪しき習慣と自認していることがなかなかやめられない。「や~めた、真面目に働くの、や~めた」というのはありそうだが・・・・・・。
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このブログで時々取り上げる読書やノート、さらには語学や音読訓練などの習慣形成について、よくコツを聞かれる。習慣形成全般について語る資格はぼくにはない。続けていることよりも挫折経験のほうが多いからだ。夏場になると毎年ヨガを取り入れた経絡体操を三ヵ月くらい朝夕やってみるのだが、秋が深まると億劫になって挫折する。こんなサイクルが数年続いている。その他いろいろ、うまくいかない。
世間では軽々と《継続は力なり》と言うが、毎日5分、一日1ページを甘く見てはいけない。そんなに易々と達成できるなら、この格言の発案者は「継続は力なり」などとは言わず、「継続は誰でもできる」と語ったか何も言わなかっただろう。継続にはある日の一頓挫がつきものである。その一日を例外として処理できれば、継続心を「断続的(切れたり続いたりの)状態」に止めることができる。問題は、その一つの例外が二つ、三つとなって常態化してしまうことだ。つまり、「たまたまできなかったという反省」から「やっぱりできそうもないという信念」への変化が起こるのがまずい。
だから、三日坊主は最初から「継続は力なり」などと力まないほうがいい。いきなり晴天を望むのではなく、「晴れ時々曇り」あたりからスタートすればよろしい。《切れたり続けたりは、何もしないよりもまし》という心得である。以上がぼくなりのコツの薀蓄である。いや、実はコツなどではない。マズローの欲求階層的に言えば、最上位である「自己実現の欲求」などを持たないのが賢明だ。むしろ、最下位の「生理的欲求」にしてしまうほうがいい。そう、トイレに行くように続けるのである。
また一年が巡った・・・・・・
2009年12月11日 17:00
先週取り上げたオフィス近くのお寺の「今月のことば」が新しくなった。そのメッセージには、おそらく誰もが「あ、イタたたた・・・・・・」とつぶやき共感するはずである。
「そのうちそのうちといいながら 一年がたってしまいました」
耳が痛いどころではない。後悔と反省が身体じゅうのすべての神経を逆撫でする。「一年」、つまり365日だから堪(こた)えるのである。これが「あっという間に一時間が過ぎた」だったら平気だろう。その一時間が24倍になる一日でも、「今日は早かったなあ」でおしまい。一日や一週間の時間の流れで猛省するほど、ぼくたちはヤワではない。ヤワではない―褒めことばではなく、「鈍感」という意味である。
話が一週間の50倍、一日の365倍になってしまうと、もはや「ドキッ」ではすまない。相当やばいことであると思ってしまう。たとえば、新聞に気に入った記事があれば、その日のうちに切り抜いて手帳にはさんでおけばいいのに、明日に先延ばし。明日になれば、また明日。ええい面倒だ、今度の土曜日にまとめてクリッピングだ! こうして一ヵ月、二ヵ月分の新聞が溜まる。それでも忍耐強く記事を探して切り抜いた時期もあった。今では、そっくり処分して、「いい記事などなかったのだ」と自分に言い聞かせている。
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新聞の切り抜きをサボるくらい何ということはない。しかし、この「そのうちに」という癖の伝染性は強くて、他の課題や目標にも影響を及ぼす。こうして年がら年中、「今日の一瞬一瞬」を適当に流し、明日があるさと期待して、やがて来週、来月となって「そのうちそのうち」と二度繰り返し、気がつけば一年が経っていた、というストーリーが完結する。
さらに、もっとすごい恐怖が将来にやって来る。「そのうちそのうちといいながら十年、二十年が経ちました」と意気消沈しなければならなくなるのだ。一年くらいなら年末に忘年会でスカッと忘れ、正月を迎えて知らん顔しておけばいいが、十年、二十年になるとさすがに焦る。いや、焦るなどという甘い表現では追いつかない。もはや「取り返しがつかない無念」に苛(さいな)まれる。
「悟りを求める前、一年はあっという間に過ぎ去った。悟りを求めようと努めたら、一年はゆっくりと過ぎていくようになった。やがて悟りに達したあと、一年はあっという間に過ぎ去るようになった。」
これはぼくの創作。悟っても一年があっという間に過ぎ去るのなら、悟らなくてもいいのだ―こう手前勝手に解釈してもらっては困る。悟りの前の一年に中身はない。悟りを求めているときは意識するので、一年が充実して長くなる。悟りに達したあとは、一年も永遠も同じ相に入る。いつも至福の瞬間だからあっという間に過ぎ去るのである。こんなメッセージを自作して自演するように心掛けているのだが、「そのうちに」と棚上げした事柄が少々気になる年末だ。悟りへの道は長く険しい。
アイデアの鉱脈はどこにある?
2009年12月 9日 12:00
塾生のTさんが『アイデアは尽きないのか?』というタイトルでブログを書いていて、しかも記事の最後に「結論。アイデアは尽きない」と締めくくっている(ブログの更新が滞り気味なので、もしかするとアイデアが尽きているのかもしれないが・・・・・・)。とにかく、師匠筋としてはこれを読んで知らん顔しているわけにはいかない。もちろんイチャモンをつけるために沈黙を破るのではない。その逆で、この種のテーマが常日頃考えていることを整理するいいきっかけになってくれるのだ。なにしろ、ぼくのブログには"IDEATION RECIPES"というカテゴリがある。当然これから書くこの記事はそこに収まる。
アイデアは尽きないのか? 「アイデアは尽きない」という意見に同意したいものの、正しく言えば、この問いへの答えは不可能なのだろう。アイデアは誰かが何かについて生み出すものである。そのかぎりにおいてアイデアが尽きるか尽きないかは、人とテーマ次第ゆえ結論は定まらない。当たり前だが、アイデアマンはどんどんアイデアを出す。しかし、その人ですら不案内のテーマを与えられたらすぐに降参するかもしれない。
たとえば「世界」についてアイデアを出す。これなら無尽蔵に出せそうな気がする。世界という要素以外にいかなる制約も制限もないからである。時間が許されるかぎりアイデアが出続ける予感がする。但し、ここで言うアイデアには単なる「観念」も多く含まれ、必ずしも「おもしろい」とか「価値ある」という条件を満たすものばかりではない。
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世界というテーマはあまりにも大きすぎるので、身近な例を取り上げよう。たとえば「開く」。「開く」からひらめくアイデアは、「開閉する」についてのアイデアよりも出やすいだろう。「ドア」という具体的なテーマになると、「開閉する」にまつわるアイデアよりも少なくなってくるだろう。「ドアのデザイン」まで絞り込むと、アイデアはさらに少なくなることが予想される。「アイデアは尽きないか否か」という命題は質にはこだわっていないようだから、量だけに絞って論じるならば、テーマが具体的であればあるほど、また要素が複合化すればするほど、アイデアは出にくくなると言えそうだ。
「10-□=3の□を求めなさい」というテーマで、□に入る答えをアイデアの一種と見なすなら、「7」が唯一のアイデアとなり、これ一つで「尽きてしまう」。極端な例でありアイデアという言い方にも語弊があるが、テーマが小さく具体的になり制約する要素が増えれば増えるほど、アイデアは尽き果てることを意味している。つまり、下流に行けば行くほど、求められるのは「1+1」のアイデアのように、量でも質でもなく、「正しさ」のみになってしまうのだ。最近の企画術や発想法はかぎりなくこの方向に流れている。つまり、おもしろくない。
テーマを提示する側が、自分が評価しうるレベルに命題表現を設定してしまう。アイデアを出そうと張り切っても、大胆なアイディエーションへの冒険をさせないのである。「何かいいアイデアはないか?」と聞くくせに、尋ねた本人がすでに「正解の方向性」を定めているのである。こういう状況では「アイデアは尽きる」。Tさんの「アイデアが尽きない」という結論を証明するためには、テーマの上流に遡らねばならない。そこで、時間のみ制限枠にして、ただアイデアの量だけを目指して知恵を蕩尽(とうじん)してみるのだ。いいアイデアは、このようにして出し尽くされたおびただしいアイデア群から生まれるものだろう。
集中と没頭のオーラ
2009年12月 8日 15:30
「集中力のある人、ない人」で二分するなら、ぼくは集中力のある部類に属すだろう。あくまでも周囲の人たちとの比較による自認であって、証明はできない。敢えて言うなら、ここぞというときいつも我を忘れているから。言うまでもなく、我を忘れていたことに気づくのは我に返った後である。我を忘れているときには我はそこにはいないから、忘我を感じすらしていない。「ごめん、仕事の邪魔をしないで。いま我を忘れているから」と答えるのは集中力不足を物語る。我を忘れていることを意識できているあいだは我を忘れていない。
集中しすぎてトイレを我慢することもよくあるが、膀胱炎を患うまでには至らない。食事を忘れるくらいは「朝飯前」だ。但し、集中力を睡眠領域にまで持続させようとはしない。世間ではこれを「徹夜」と呼んでいるらしいが、経験上は深夜が集中力漲る仕事を約束してくれたことは一度もない。仮に徹夜作業に没頭できたとしても、そのツケは翌日または翌々日に巡ってくる。そもそも、集中は常態ではないので、ずっと続くことはない。集中という非常事態の後には、何らかの放心状態がついてくるものだ。
「いまお忙しいですか?」と聞かれて、返事をしているうちはまだまだ集中不十分。「ええ、少し」とか「何か?」と答えられるのは、仕事を流していたり仕事に醒めているからである。生返事という返し方もあるが、これも集中不足の表れだ。ほんとうに没頭するくらい忙しいときは、質問が耳に入らないし、聞こえたとしても返答のしようもない。誰かに「いま何してる?」と電話で尋ねて「運転中」や「会議中」と返ってきたら、運転や会議に集中していない状況である。だいたい、集中していたら携帯に応答しない。
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サッカー選手が試合中に、「ただいまシュートを打っているところ」と誰かに語ったり自分に言い聞かせたりすることはありえない。戦闘の最前線にいる軍人にマイクを向けて、「いま何をされていますか?」とインタビューしたら撃ち殺されるかもしれない。「いま? 戦争中です」と親切に答えてくれる軍人がいたら、きっと元お笑い芸人だったのだろう。同様に、「いま顧客満足中」、「いま地球にやさしくしているところ」、「バッターボックスで150キロの速球を打つ瞬間」などの返答はないし、あってはならない。
人がある対象に没頭しているとき、敢えてそのことを誰かに伝えようとはしない。それどころか、没頭しているのだから、客観的説明を意識の最前線に位置させているはずもない。自分が他人によってよく中断されるタイプかそうでないかをよく考えてみればよい。仕事中に邪魔させない、中断させない、割り込ませない存在になるためには、ふだん調子よく軽々と返事をしていてはいけないのである。いや、「そこに入っていない」から返事ができてしまうのだ。つまり、他人に遠慮させるだけのオーラが出ていない。オーラは「仕事に没頭する人」というブランドイメージによって滲み出る。
背筋をピンと伸ばしてキャンバスに向かうピカソの存在感。あの光線を放たんばかりの強い眼差し。我を忘れることによって、絵筆や絵具が我と一体化し、キャンバス上からアトリエの隅々までオーラが充満した。さらには、棟方志功の板に顔を沈めて魂を彫り込んでいくあの氣はどうだ。ぼくはテレビで見た一心不乱の姿に感応し「没頭の精神性」に揺さぶられた。ピカソも棟方も機会あるごとに展覧会で鑑賞しているが、作品を包み込む我を忘れたオーラは色褪せることはない。
少々苦心する年賀状テーマ
2009年12月 7日 22:20
師走である。師走と言えば、年末ジャンボ宝くじ、流行語大賞、M1などの新しいイベントが話題をさらうようになった。昔ながらの風物詩は息が絶え、街も人心も季節性と縁を切っている様子である。忘年会は景気とは無関係にそこそこ賑わうのだろうか。ぎっしり詰まった忘年会のスケジュールを自慢する知り合いがいる。年末に十数回も仰々しい酒盛りをするとは、忘れたくてたまらない一年だったのだろう。何度でも忘年会に出るのは自由だが、その数を威張るのはやめたほうがいい。
かろうじて粘っている年代物の風物詩は紅白歌合戦と年賀状くらいのものか。いずれも惰性に流れているように見える。惰性に同調することはないのだが、年賀状をどうするかという決断は意外にむずかしい。紅白はテレビを見なければ済むが、年賀状は双方向性のご挨拶だ。自分がやめても、年賀状は送られてくる。数百枚の年賀状をもらっておいて知らん顔する度胸は、今のところぼくにはない。というわけで、年賀状の文面を考えるのは今年もぼくの風物詩の一つになる。正確に言うと、その風物詩は今日の午後に終わった。
ぼくの年賀状には十数年続けてきた様式とテーマの特性がある。四百字詰め原稿用紙にして5枚の文章量に、時事性、正論、逆説、批判精神、ユーモアなどをそれぞれ配合している(つもり)。長年の読者(敢えてこう呼ぶ)はテーマの癖をつかんでいるだろうが、来年初めて受け取る人は少し困惑するはずである。即座に真意が読めないのは言うまでもなく、なぜこんなことを年賀状に書くのかがわからないからである。同情のいたりである。
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一年間無為徒食に過ごしてこなかったし、後顧の憂いなきように仕事にも励んできた(つもり)。だから、生意気なことを言うようだが、書きたいテーマはいくらでもある。にもかかわらず、昨年に続いて今年もテーマ探しに戸惑った。先に書いたように、逆説と批判精神とユーモアをテーマに込めるのだから、燻(くす)ぶっている時代に少々合いにくい。「こいつ、時代や社会の空気も読まずに、何を書いているんだ!」という反感を招かないともかぎらないのだ。だからと言って、ダメなものをダメとか、美しいものを美しいと唱える写実主義的テーマも文体も苦手なのである。
思いきってスタイルを変えようかとも思った。ほんの数時間だが少々悩みもした。しかし、腹を決めて、昨年まで続けてきた流儀を踏襲することにした。そうと決めたら話は早く、今朝2時間ほどで一気に書き上げた。テーマを決めたのはむろんぼく自身である。しかし、前提に時代がある。自分勝手にテーマを選んで書いてきたつもりだが、このブログ同様に、テーマは自分と時代が一体となって決まることがよくわかった。
今日の時点で年賀状を公開するわけにはいかない。というわけで、二〇〇九年度の年賀状( 2009年賀状.pdf)を紹介しておく。大半の読者がこの年賀状を受け取っているはずなのだが、文面を覚えている人は皆無だろう。それはそれで何ら問題はない。気に入った本でさえ再読しないのに、他人の年賀状を座右の銘のごとく扱う義務などないのである。さて、年初から一年経過した今、再読して思い出してくれる奇特な読者はいるのだろうか。
標語の読み方
2009年12月 4日 10:00
オフィス近くの寺の外壁にガラス張りの掲示板がある。そこに住職の筆になる平易な標語が収まっている。毎月一回新しい短句がお目見えするが、通りすがりにしばし足を止めて見るのが習慣になっている。よそ行きに捏(こ)ね回した文言ではなく、さりげない日常語でしたためられているので、瞬時にメッセージがわかる。先月から張り出されていたのが、「言いあうより話しあい 話しあいより聞き上手」という標語だ。
わかりやすい。わかりやすいが、文字面だけを読んではいけないと感じた。言いあい、話しあい、聞き上手を比較話法で示しているのだが、コミュニケーションの心得として読むか、人間関係のあり方として読むかによってだいぶ解釈が変わってくるのだ。言いあいとは「言い争い」のことなのだろう。言い争いよりも話しあいのほうが人間関係上は好ましい。その通りである。そして、話しあえるためには双方ともに相手の声に耳を傾ける聞き上手であるべきだ。これにも異論はない。
ところが、たとえば対話でも会議でもいいのだが、実際のコミュニケーション状況で「言いあい<話しあい<聞き上手」という比較級的な格付けは可能だろうか。これでは聞き上手どうしが一番いいということになってしまう。コミュニケーションにあっては、激論、談論、会話、傾聴、質疑応答など、どんな局面も現れる。何かが別の何かの上位などではなく、すべての要素を孕(はら)んでいる。「~より」ではなく「~も~も」が現実であって、「現実はまずい、だから聞き上手という理想を求めよ」と言い切ってしまえないのである。なぜなら、聞き上手が必ずしも優位の理想ではないからだ。
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論理の世界の推論にもこれとよく似た見損じが生じる。ぼくたちは当たり前のように慣れてしまっているが、「Aである。Bである。ゆえにCである」という推論がつねに「A→B→C」の順次で成されると思っている。これは、他者に説明したり客観化するときの手順であって、実際には並列的にA・B・Cを処理していることが多いのだ。たとえばマーケティングミックスの4Pにしても、一つ一つ順番に、または個別に製品(product)、価格(price)、流通(place)、プロモーション(promotion)を画策していくわけではない。仮に局所戦術を立てるにしても、すべての要素に目配りしておかねばならない。
もちろん「PとQはどちらがより重要か?」という問いもそれに対する答えも成り立たないわけではない。そのように問うのもいいし、答えるのもかまわない。しかし、「PよりもQ」と言えるためには文脈の指定が必要なのである。ある状況を特定してはじめて、カルシウムがビタミンCよりも重要という比較話法が成り立つ。そのような付帯状況を示さなければ、つまり一般的には、「カルシウムとビタミンCはいずれも重要だ」としか言えない。
さて、言いあい、話しあいよりも聞き上手を上位に置く標語。比較話法の読み方もさることながら、「聞き上手」の読み方にも気を遣いたい。これを「聞き役に回る」と受け取っている人たちが圧倒的に多いのである。熱心に人の話を傾聴しているように見えても、実は頷いているだけ、調子を合わせているだけという場合が目立つのだ。「聞き上手」のポイントは「聞く」にあるのではなく、「上手」にある。つまり、コミュニケーション上手だから聞けるのである。単に聞くだけで上手に程遠いのがぼくたちの常なのだから、やっぱり言いあいも話しあいも併せてやらねばならないのである。
はい、いいえ、わかりません
2009年12月 3日 16:30
きわめて限られた場面での話である。どんな場面かと言うと、仕事の現場や会議での意見のやりとりである。たとえば誰かが何かを主張する。その主張へはおおむね「同意する」「同意しかねる」「何とも言えない」の三つのリアクションがある。あるいは、誰かがその主張に対して「~ですか?」と質問する。この場合も、「はい」「いいえ」「わかりません」の三つの応答が考えられる。話をわかりやすくするため、後者の応答パターンを取り上げよう。
「あなたは仕事をしていますか?」への応答は「はい」か「いいえ」のどちらかである。「わかりません」は考えにくい。「シゴト? ワカリマセン」と外国人が答えるケースは無きにしもあらずだが、質問の意図がわかる人なら「はい」か「いいえ」で答える。「わかりません」が返されるのは、「あなたは仕事が好きですか?」の場合。「仕事はしているが、好きかどうかがわからない」または「仕事をしたことはないので、好きかどうかがわからない」のなら、「わかりません」と答える以外にない。
問いかけが、たとえば「以上の私の提案に対して、賛否と理由を聞かせてほしい」という、少々議論含みになってはじめて三つの反応の可能性が生まれる。そして、答える人は「はい」「いいえ」「わかりません」と方向性の表札を示し、しかるのちに理由を述べる。意見交換のあとに表札を変えてもいいが、理由も明かさないまま表札を「いいえ」から「はい」へ、「はい」から「いいえ」へところころと変えるのはよろしくない。なお、「わかりません」には理由はいらないという意見もあるが、そうではない。「わからない」だけで済ますのは「関与しない」と受け取られかねない。「わからない」と答えても、「何がわからないか」を説明する責任を負うべきだろう。
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現時点でわからないことは、どうあがいてもいかんともしがたい。だから、「わからないこと」を素直に「わかりません」と答えるのを躊躇することはない。むしろ、下手に見栄を張ったり背伸びをしてまで「はい」や「いいえ」で答えてしまうと逆に問題を残してしまう。但し、何かにつけて「わかりません」を繰り返していると、「なんだ、こいつは! バカの一つ覚えみたいに・・・・・・」ということになり、頼りないプロフェッショナルとの烙印を押されてしまう。もちろん、意見のやりとりを前提とする会議のメンバーとしての資格もやがて失うことになるだろう。
誰だって、プロフェッショナル度が高まるにつれ、「はい」か「いいえ」かの二者択一のきつい局面で決断することを求められるようになる。かと言って、毅然とした空気を全身に漲らせて「はい! いいえ!」と力むこともない。決死の覚悟になるから、意見撤回できなくなるのだ。軽やかに「はい」または「いいえ」を明示して、思うところを素直に語ればいいのである。
三つのリアクションの他に、実はもう一つ、どうしようもない、論外のリアクションがある。それは「無言」だ。無言は「いいえのひねくれた変形」。黙秘も法律上はれっきとした権利だが、一般人の共通感覚的には印象が悪い。ぼくの経験では、ダンマリを決め込む人間のホンネは「ノー」である。ホンネが「イエス」ならば、ふつうは「はい」と表明するものである。もちろんイエスマンもいるし、儀礼的な「うなずき」もあるが、黙っている者はそのいずれでもない、「陰のあるレジスタント」だ。なお、複数回繰り返す「はい」と「わかりました」には注意が必要だ。ともに「承っておきます」というニュアンスに近い。
複雑と単純のはざま
2009年12月 2日 14:15
テレビドラマはめったに見ないが、ある番組をBSハイビジョンで見終えてそのままつけっぱなしにしていたら、『坂の上の雲』が始まった。毎週同じ曜日同じ時間帯に拘束されてしまうシリーズドラマに熱心ではないので、普段はすぐにチャンネルを変えるか電源を切る。だが、このときに限ってエコに反してテレビをつけたまま雑用したり本を読んでいた。画面には時々目を向ける程度だったが、音声は当然耳に入ってくる。
たまたま「その場面」ではテレビの前に座り込んでお茶を飲んでいた。秋山好古が上京してきた弟の真之と飯を食っている場面だ。兄が酒を一気に飲み干し、その茶碗を弟に渡す。弟が櫃から飯を盛って漬物をおかずにして腹へと流し込む。茶碗は一つ。やりとりの台詞は細かく覚えていないが、一つの茶碗に象徴される生活スタイルを「身辺を単純に」と描写していたのが印象に残った。しばらくして電源を切ったが、就寝前に身辺単純を「シンプルライフ」に読み換えて、ぼく自身の日々の生活をなぞったりしていた。
というのも、偶然なのだが、その前日にノートに「思考複雑、言論明快、行動単純」という表題で次のようなメモを、文章未推敲のまま記していたからである。
「それぞれの四字熟語に異論がないわけではない。場合によっては、思考も言論も行動もすべてシンプルをモットーにしてもいいわけだ。しかし、思考単純、言論単純、行動単純と書き換えてみると、どうしても思考単純だけには納得がいかない。なぜなら、思考の特権は現実から乖離して『何でもどんなふうにでも巡らせる』という自由自在性にあるからだ。自由自在性は複雑をも意味する。どんなに複雑に思考をしても、誰にも迷惑をかけることはないだろう。翻って、その複雑思考をそっくりそのまま言論化すれば他者が困り果てる。ゆえに、若干の複雑さが残るにしても、言語は明快であることが望ましい。また、社会での協働という観点に立てば行動もわかりやすほうがいいだろう。現実側から並べ換えると、『シンプルに行動し、わかりやすく対話し、そしてしっかり考える』ということになる。」
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一昨年までぼくは『シンプルマーケティング』を標榜して何度も講演していた。今でもこれが拙いとは思っていないが、誤解を招いたかもしれないと反省している。シンプルであるべきは手法としてのマーケティングである。そのことを訴求したいがために、ぼくは市場そのものを「売り手と買い手、商品・サービスと貨幣」の四要素を中心に見るべきだと提言していた。弁明が許されるなら、決して「四要素のみ」と言ったわけではない。さらに付け加えるならば、売り手も買い手も人間であるからコミュニケーション・消費・欲望なども含んでいるし、商品・サービスには技術・便益・満足などが関わり、貨幣には金融・価値・家計などの要素が無関係ではない。四要素は周辺へと広がる。中心には周縁がついてまわるのである。
実に複雑な現象をとらえて単純に考えることはできない。複雑な事柄は複雑に考えて扱うしかないのである。しかし、科学がそうしてきたように、複雑怪奇に潜む本質をシンプルな法則でまとめようとし、誰かに伝え誰かと行動して方策を立てるのは人の性(さが)である。複雑な要素を秘めているはずのゲーム(たとえば競馬、囲碁・将棋、サッカーなど)に必勝法や定跡を模索しようとする心理同様、つかみどころのない市場の中にぼくたちは「確かなマーケティング法則」を発見したいと願っている。
単純化は人間能力の限界から来るものなのだろう。複雑を単純に見立てようとするのは、言論と行動のための方便にすぎない。何かを解決するために誰かとコミュニケーションしたり行動したりしようとすれば、複雑な現象を解体して「単純に箇条書き化」することは絶対条件なのである。しかし、しばし解決を棚上げし、言論や行動をも括弧の中に入れてしまえばどうだろう。ぼくたちがいる市場は複雑であり、いかなる手立てを講じても単純に思考することはできそうもない。億単位の売り手と買い手に商品とサービス、兆単位の貨幣・・・・・・複雑をあるがままに複雑として見つめることは無駄ではない。この作業を経たのちにはじめて、シンプルマーケティングが「身の丈に応じたマーケティング」ということが明らかになるだろう。
「散歩」という一つの生き方
2009年12月 1日 10:30
必要があればタクシーには乗るが、ぼく自身は車を運転しない。というか、車を生涯一度も所有したことがない。歩行者として車への偏見が少しはあることを認めよう。テレビコマーシャルで「エコ減税」や「助成金」を視聴するたび、「それなら、靴こそエコの最たるものではないか。ぼくの靴に助成金を出してくれ」と大人げなく一言申し立てている。
世間には『散歩学のすすめ』という本があり、ウォーキングがファッションの一つと見なされ科学的に効能を説かれることもある。歩くことに目的を置くことも置かないことも自由。「なぜ山に登るのか?」「そこに山があるから」という古典的問答があったが、これに倣(なら)えば、「なぜ歩くのか?」という問いへの模範応答は「そこに道があるから」になるのだろうか。登山家と歩行家は同列なのだろうか。歩行一般について言えば、たぶんそうである。
しかし、歩行一般から離れて目を「散歩」に向けてみると話は一変する。散歩は車に乗らない人間の代替手段でもなければ、左右の脚を交互に前へと送る無機質な機械的運動でもなく、ましてや健康や気晴らしという目的を特徴としているわけでもない(なお、散歩の定義に「健康や気晴らしのために」という表現を含めている辞書があるが、センスを疑ってしまう。おそらくその項目を書いた学者は、恐ろしく想像力に欠けているか、一度も散歩をしたことがないのに違いない)。
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遊歩や漫歩は散歩の仲間であるが、速歩や競歩や闊歩などはまったく別物だ。散歩にあっては道も行き先も別にどうだっていいのである。散歩や遊歩や漫歩の言い換えとして、ぼくは「そぞろ歩き」という表現が気に入っている。ちなみに、「そぞろ」は「漫ろ」と書く。つまり、漫歩に近いのだが、漫歩と言うと「万歩計」のようで、そこに健康ウォーキングの意味合いが入ってくるのが嫌味である。
散歩の向こうには目的も方向性もない。朝になれば起きるのと同じく、散歩も日々の摂理である。散歩がまずあって、その結果その効能を「気晴らしになった、爽やかになった、健康になった」と感想を述べるのは勝手である。しかし、散歩に先立ってゆめゆめ目的や効能について語ってはならない。「なぜ散歩するのですか?」に答えてはならない。答えた瞬間、散歩を手段化したことになるからである。
散歩は、車、バス、電車などと同列の移動手段なのではない。「半時間歩いて焼肉店に行くときは手段になっているではないか!?」と反論されそうだが、それは散歩ではなく徒歩である。焼肉店に向かって歩き出した瞬間、それはもはや散歩と呼べる行為ではない。すなわち、散歩とは他の交通手段と比較しえない、自己完結的な行為そのものなのである。目的や意義に先立つア・プリオリな行為なのである。ゆえに、「散歩学のすすめ」は成り立たず、「散歩のすすめ」のみが本質を言い当てる。
言うまでもなく、「正しい散歩」という概念すらもない。とにかく「一歩を踏み出す」。いや、こんな力強い大仰な表現は散歩にふさわしくない。靴に履き替えて左足でも右足でも気に入ったほうの脚をとりあえず動かしてみる。「どう歩くか」も不要である。ただひたすらそぞろに歩くのである。もうやめよう。「散歩かくあるべし」を語れば語るほど、散歩の意義付けになってしまい、やがて目的論に発展しかねない。


