「散歩」という一つの生き方

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 必要があればタクシーには乗るが、ぼく自身は車を運転しない。というか、車を生涯一度も所有したことがない。歩行者として車への偏見が少しはあることを認めよう。テレビコマーシャルで「エコ減税」や「助成金」を視聴するたび、「それなら、靴こそエコの最たるものではないか。ぼくの靴に助成金を出してくれ」と大人げなく一言申し立てている。

 世間には『散歩学のすすめ』という本があり、ウォーキングがファッションの一つと見なされ科学的に効能を説かれることもある。歩くことに目的を置くことも置かないことも自由。「なぜ山に登るのか?」「そこに山があるから」という古典的問答があったが、これに倣(なら)えば、「なぜ歩くのか?」という問いへの模範応答は「そこに道があるから」になるのだろうか。登山家と歩行家は同列なのだろうか。歩行一般について言えば、たぶんそうである。

 しかし、歩行一般から離れて目を「散歩」に向けてみると話は一変する。散歩は車に乗らない人間の代替手段でもなければ、左右の脚を交互に前へと送る無機質な機械的運動でもなく、ましてや健康や気晴らしという目的を特徴としているわけでもない(なお、散歩の定義に「健康や気晴らしのために」という表現を含めている辞書があるが、センスを疑ってしまう。おそらくその項目を書いた学者は、恐ろしく想像力に欠けているか、一度も散歩をしたことがないのに違いない)。

☆ ☆ ☆

 遊歩や漫歩は散歩の仲間であるが、速歩や競歩や闊歩などはまったく別物だ。散歩にあっては道も行き先も別にどうだっていいのである。散歩や遊歩や漫歩の言い換えとして、ぼくは「そぞろ歩き」という表現が気に入っている。ちなみに、「そぞろ」は「漫ろ」と書く。つまり、漫歩に近いのだが、漫歩と言うと「万歩計」のようで、そこに健康ウォーキングの意味合いが入ってくるのが嫌味である。

 散歩の向こうには目的も方向性もない。朝になれば起きるのと同じく、散歩も日々の摂理である。散歩がまずあって、その結果その効能を「気晴らしになった、爽やかになった、健康になった」と感想を述べるのは勝手である。しかし、散歩に先立ってゆめゆめ目的や効能について語ってはならない。「なぜ散歩するのですか?」に答えてはならない。答えた瞬間、散歩を手段化したことになるからである。

 散歩は、車、バス、電車などと同列の移動手段なのではない。「半時間歩いて焼肉店に行くときは手段になっているではないか!?」と反論されそうだが、それは散歩ではなく徒歩である。焼肉店に向かって歩き出した瞬間、それはもはや散歩と呼べる行為ではない。すなわち、散歩とは他の交通手段と比較しえない、自己完結的な行為そのものなのである。目的や意義に先立つア・プリオリな行為なのである。ゆえに、「散歩学のすすめ」は成り立たず、「散歩のすすめ」のみが本質を言い当てる。

 言うまでもなく、「正しい散歩」という概念すらもない。とにかく「一歩を踏み出す」。いや、こんな力強い大仰な表現は散歩にふさわしくない。靴に履き替えて左足でも右足でも気に入ったほうの脚をとりあえず動かしてみる。「どう歩くか」も不要である。ただひたすらそぞろに歩くのである。もうやめよう。「散歩かくあるべし」を語れば語るほど、散歩の意義付けになってしまい、やがて目的論に発展しかねない。

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プロフィール

岡野勝志(おかのかつし)
1951年大阪生まれ

企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長
企画アイディエーター
岡野塾主宰

ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。
マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人材の課題に対して、「即答即決アイディエーティング」をおこなっている。

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