2010年6月アーカイブ
知はどのように鍛えられるか(2/2)
2010年6月29日 12:15
言うまでもなく、知とは「既知」である。既知によって「未知」に対処する。たとえば、ぼくたちの知は問題と認知できる問題のみを想定している。そして、問題を解決するべくスタンバイし、これまでに学んだ法則あるいは法則もどきにヒントを求めようとする。このようにして、程度の差こそあれ、ある種の「なじみある問題」は解決を見る。しかし、解決されるのはルーチン系の問題がほとんどで、真に重要な問題は未解決のまま残されることが多い。ぼくたちが遭遇する重要で目新しい問題の大半は、つねに想定外のものであり、法則が当てはまらない特性を備えている。
バリアもハードルもハプニングのいずれもなければ、大概の問題は何事もないかのように解ける。いや、勝手に解けることすらあるほど、苦労なく対処できる。経験の中に類似例があれば、ぼくたちの解決能力は大いに高まる。「この道はいつか来た道」や「この道は前とよく似た道」なら、誰だって既存の法則や解法を水先案内人よろしく活用して、目をつぶって歩いて行くことができる。だが、話はそんなに簡単ではない。現実世界はバリアだらけ、ハードルだらけ、ハプニングだらけなのである。
高齢者住宅や民家型デイケアセンターの設計を手掛ける一級建築士の友人がいる。「あまり大きな声では言えないが・・・・・・」と断ったうえで彼はこう言った。「正直な話、バリアフリーの行き届いた住宅というのは万々歳というわけにはいかないのだよ。床も壁も敷居にも凹凸がないから、お年寄りは危険の少ない環境で暮らしている。安心感を持つことはとてもいいことだけれど、長い目で見ると甘やかされた状態に安住することになる。ところが、一歩外に出れば小さな凹凸がそこらじゅうにあるだろ。バリアフリーに慣れきった感覚はほんのわずかな起伏にも対応できず、ちょっとつまずいただけで転んでしまうことがあるんだ。」
☆ ☆ ☆
この話を聞いてぼくは思った、「これはまるで知のありようと同じではないか」と。問題解決の知に限定すれば、ぼくたちは認識できる問題だけを対象とし、そのうちでも解けそうなものだけに取り組む。時間に制約があればなおさらそうなってしまう。解けそうにないと判断すれば、問題集の巻末模範解答を覗き見るように、その道の誰かに答えを求めようとする。あるいは類似の先行事例に倣(なら)おうとする。この状況での知は、バリアフリー環境で甘やかされた「要介護な知」にほかならない。そもそも調べたらわかることをソリューションなどとは呼ばないのである。
「わからない→考える→まだわからない→さらに考える→それでもわからない→外部にヒントを探す→見つからない→誰かに相談する」。これだけ手間暇かければ、知はそれなりに鍛えられもしよう。答えが見つかることが重要なのではなく、答えを見つけるべく自力思考することが知的鍛錬につながるのだ。昨今の問題解決は「わからない→誰かに相談する」あるいは「わからない→調べる」など、工数削減されつつある。思考プロセスの極端な短縮、いや不在そのものと言ってもよい。甘ったれた練習をいくら積んでも、バリアだらけハードルだらけハプニングだらけの現実世界では右往左往するばかりである。
以上のことから、本番よりも甘いリハーサルが何の役にも立たないことがはっきりする。こと問題解決の知に関するかぎり、普段から難問に対して自力思考によって対峙しておかねばならないのだ。その鍛え方を通じてのみ、本番で遭遇するであろう「未知の問題」への突破口が開ける可能性がある。ぼくは、この知をつかさどる根底に言語を置く。言語を鍛え、対話と問答を繰り返して形成された知こそが有用になりうる。事変に際して起動しない知、アクセスできない知は、知ではないのである。
知はどのように鍛えられるか(1/2)
2010年6月28日 14:15
自分では正論だと思っていつも書くのだが、正論を聞かされたり読まされたりする側はさぞかし面倒臭いのだろう。インスタントな学びなどない、学びとは厳しいものであるという趣旨のことをいつぞや書いたら、「そんな硬派なことばかり語っているから、あなたの話はとっつきにくいのです。もっとオブラートに包まないと」と指摘された。「いい歳になってオブラートなんかいらないだろう」と言ったら、「その通りですが、正論は可愛げがないのです」とも言われた。いつの時代も意見はちょっと胡散臭いくらいがちょうどいいのだろうか。
千や万に一つの成功事例を取り上げて、誰もが容易に成し遂げられるかのように「法則」に仕立てる風潮が強くなっている気がする。困ったものだ。たしかに法則そのものは誤っていないのかもしれない。しかし、よく目を凝らせば、そこらじゅうにいる誰もが実践できるような法則ではない。艱難辛苦を要する。しかも、立ちはだかる壁が怠慢という、手に負えない内なる敵であったりする。この際、はっきり認めておこうではないか。簡単にマスターできることは簡単なことであり、なかなか身につかないことはむずかしい。「簡易ハウツーによる高度な知の無努力達成」などありえないのだ。
何年にもわたって学んできたのに、満足できるほど身につかないヒューマンスキル、とりわけ上手に読み書きし、しっかりと考える力などは、左にあるものを右へ動かすような単純学習では身につかないのである。また、単発知識を記憶するのはさほど難しくはないが、記憶した知を統合したり、別の何かへと連想を逞しくしたり、あるいは臨機応変に応用したりするなどのリテラシー能力は「道なり学習」ではものにならない。
たとえば、『「思考」が運命を変える』という書物でジェームズ・アレンが説く法則を実践できれば見違えるような結果を期待できるだろう。しかし、その肝心の思考は誰かから学べるものではなく、その知の働きは自力に委ねられる。また、『グズをなおせば人生はうまくいく』(斎藤茂太)での話もほぼ絶対の法則だと思う。しかし、人生失敗の根源であるグズそのものがなかなか直らないし、誰にも直してもらうわけにはいかない類いのものだ。なお、この二冊は昨今のトンデモ促成本とは質が違う。誤解があっては困るので申し添えておく。
☆ ☆ ☆
『英語は音読だ!』(岩村圭南)という本があるらしい。これを紹介するNHK出版のサイトでは、次のように謳っている。
「音読なくして英語は話せるようにならない! 音読をくり返すことで、正しく発音するための口の筋肉が鍛えられ、同時に、まとまりのある内容を表現するための会話の引き出しが増えます。さらに、CDをくり返し聞くことで正しい音を聞き取るリスニング力も身につく。『英語を話せるようになりたい』―あなたのその願いは、音読を続ければ必ず叶えられる!」
ぼく自身が手に取りすらしていないから、この本を推薦するわけではない。だが、少なくともここに書かれている紹介文には賛意を示しておきたい。古い拙著の中でぼくも次のように書いた(『英語は独習』)。
「ただひたすら読むこと―目が慣れ、口が慣れる。文字と音声が体の一部になってくる。たいていの人は、この感触がわかるまでにギブアップしてしまうのです。試してみればわかりますが、意味すら十分に理解できていないのに、同じ文章を何度も何度も、それこそ百回以上も声に出して読むのは苦痛以外の何物でもありません。(・・・・・・)そう、この只管朗読こそが将来英語が続けられるかどうかのリトマス試験紙になるのです。」
答えははっきりとわかっている。テレビのコマーシャルで「英語は音読」と唱える某予備校の英語教師も正しい(同じコマーシャルで二人目の英語教師が言う「英語はことばだ。ことばは誰でもできる」は励ましとしてはいいが、厳しい鍛錬を前提とせずに言っているのであれば怪しげなメッセージとなる)。英語のみならず、語学一般、最強の学習が音読であることに疑問の余地はない。音読以外の方法としては、現地で生まれて話しことばをどっぷり浴びることくらいだろう(ならば、この国のほとんどすべての人々は人生一度きりの機会をすでに失っている)。語学における音読は、繰り返しの重要性を物語る。
この只管法則による習慣形成は知の鍛錬一般においても証明できる。但し、ただひたすら繰り返す日々のノルマはとてもきついのである。昨今の胡散臭いベストセラーには、入口をオブラートに包んで招き入れ、最終ゴールイメージまで「容易であること」を装う傾向がある。書物だけではなく、平然と講演でもそう言ってのける講師がいる。「このやり方なら、誰でもできます!」と幻想を植え付けるのはほとんど詐欺罪に等しい。並大抵ではないことを強調して、学ぶ側に覚悟を決めさせることこそがよき導きではないのか。
自分を語り込む
2010年6月26日 14:30
挨拶とほんのわずかな会話を交わしただけ。しかも、それが初対面だったとしよう。そして、それっきりもう会うこともなさそうだとしよう。こんな一過性の関係では、そのときの第一印象が刷り込まれる。やがて印象も薄れ記憶から遠ざかってしまうかもしれないが、もしいつか再会することになれば、そのときは記憶に残っている「原印象」を基に接したり会話したりすることになる。
第一印象というのは、付き合いが長くなるにつれて「第一」ではなくなり、それまでの印象は会うたびに塗り替えられていく。第一印象の第一は一番ではなく、「最初の」という意味である。だから、一度だけ会っておしまいなら、その一回きりの印象、すなわち第一印象(イコール最終印象)によって人物のすべてを描いたり全体像を語ったりすることになる。但し、何度か会う関係になれば、再会するたびに第二印象、第三印象・・・・・・第X印象を抱くことになるから、印象は会うたびに更新されていく。
「あいつ、こんな性格じゃなかったはずなのに・・・・・・」とあなたが感じる。だが、それは必ずしも実際にあいつの性格が変わったことを意味しない。ほとんどの場合、あなたのあいつに対する印象が変わったのである。あいつの印象は良い方にも悪い方にも変容するだろう。だからと言って、あいつが良くなったり悪くなったりしているわけではない。むしろ、前に会ったときからのあなたの見方・感じ方が変わったと言うべきかもしれない。
☆ ☆ ☆
二者間においてどのようにお互いが印象を抱くかは興味深い。お互いが正真正銘の素(す)の状態で対面することはほとんど稀である。AがBの印象を抱く時点で、BもAの印象を抱いている。AがBに抱く印象には、BがAを見ての反応が含まれている。つまり、AがBから受ける印象はすでに「Aを経由」しているのである。AとBの関係は出合った瞬間からAとBの相互反応関係になっていて、独立したAとBという状態ではないのだ。あなたが彼に抱いた印象は、あなたに反応した彼の印象にほかならない。鏡に向かった瞬間、鏡の向こうの自分がこちらの自分を意識しているという感覚は誰にもあるだろう。あれとよく似ているのである。
第一印象の良い人と良くない人がいる。一度きりの出会いにあっては決定的になる。しかし、何度も会うごとに良い人だったはずがさほどでもなく、逆に良くなかった人が好印象を回復していくことがある。黙して接していたり傍観していたりするだけなら、印象変化は立ち居振る舞いによってのみ生じる。それはビジュアル的もしくは表象的なものにすぎない。見掛けの印象にさほど興味のないぼくは、多少なりとも踏み込んだ対話や問答を積み重ねて印象を実像に近づける。いや、実像など永久にわからないことは百も承知だ。しかし、お互いに対話の中に自分を語り込まねば印象はいつまでも浮ついてしまう。
沈黙は決して金などではない。むしろ「金メッキ」でしかない。かと言って、沈黙の反対に雄弁を対置させるつもりもない。ぼくが強調したいのは、自分らしく問い自分らしく答え、自分らしく自分を語り込んでいく対話の精神である。表向きだけの付き合いなら装えばいいだろうし、束の間の関係なら形式的に流せばいいだろう。本気で人間どうしが付き合うのなら、ハッピーに空気を読むだけではなく、棘も荊も覚悟した時間と意味の共有努力が必要だろう。
自分を語るのではなく、自分を「語り込む」のである。語りと語り込みの、関与の違い、まなざしの違い、相互理解の違いはきわめて大きい。
楽なように見えてきついこと
2010年6月24日 10:30
私塾大阪講座の今年度第1講が今日の午後に始まる。昨年までは午前10時から午後5時半までだった。ぼくにとってはまったく長丁場ではないが、昼食を挟んでの7時間半の思考鍛錬は慣れない人にはきつい。というわけで、本年の全6講は午後1時半スタート、6時半終了の5時間に変更した。午後からという気楽さ、二度か三度の休憩を挟んでの5時間は取り組みやすい。
しかし、この変更は「気楽にやれて、取り組みやすそうだ」というカモフラージュにすぎない。時間短縮は時間密度の高まりを意味する。なにしろ、ぼくの場合、時間量に合わせて講座を企画し話しているのではない。こんな講座でこういう学びと鍛錬機会を得てほしいと構想して、その内容をすべて盛り込むのが流儀(?)なのだ。したがって、時間の多寡で内容は大きく変わらない。短時間になればそれだけきついというわけである。
☆ ☆ ☆
道具は便利である。カンナは木材の表面を滑らかにしてくれたし、自動車は徒歩一日かかる場所へほんの一、二時間で連れて行ってくれるようになった。いろんな便利があるが、最たるものは出来の良さ、負担軽減、そして時間の効率だろう。とりわけ携帯電話や最新IT機器がこれら三つに関わる不便を便利に変えたのは間違いない。
ところが、便利になった一方で、人間から何かを引き算するのも近年の道具に共通する特性だ。カンナあたりで止まっている道具のほとんどは、見事な出来映えを可能にし、使い手の作業の負担軽減とスピードアップに寄与している。他方、携帯やIT機器はどうか。これらを使わなかった時代の人々に比べて現代人が格段にいい仕事をしているとは思えない。また、仕事を楽々こなしているようにも見えないし、短時間労働で切り上げて余暇を楽しんでいる様子もうかがえない。
ぼくは楽になるためだけに道具を使うまいと心に決めた。道具は自分一人で達成できない仕事の質や生活の質の向上に用いるべきだろう。道具の価値を効率的便利だけに置くのをそろそろやめたほうがよさそうだ。道具に囲まれて送る日々の仕事や生活は、逆説的にとてもきついのである。
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「きみが何をしたいのか?」を問うことは、「きみが他者、ひいては世間に何を施したいのか?」を問うことと同じである―こう言っておいて、あとは知らん顔したら、彼は意味がわからないようで苦悶していた。
「何をしたいのか」は願望である。この願望が現実に叶うためには、好き勝手であっていいはずがない。その願望が行動になることを他者が求めてくれないかぎり、願望が実現する場所はない。人間社会というのはそうなっているのである。自分のしたいことは他人が求めることと同じであり、願望と施しは表裏一体でなければならない。
これは他者や世間のニーズに合った願望を持てということではない。そういう迎合的・反応的行き方をするならば、もはや願望ではない。「自分のしたいこと」が始めにありきでいいのである。その願望が他者や世間への施しにつながるように実現させる努力をするのだ。「夢や希望を持て」と訓を垂れるのは簡単だが、したいことをすることは実はとてもきついことなのである。
表現にみる発想の違い
2010年6月23日 09:45
日本語でも外国語でも初めて見る用語や不確かな単語は辞書で調べるのがいい。推測は危険である。推測のひどい形が、他人から尋ねられ、知ったかぶりしてでっち上げるケースだ。その昔、ビールを飲まない英語教師が、「先生、ビール瓶のラベルに書かれている"エル、エー、ジー、イー、アール"はどういう意味ですか?」と生徒に聞かれた。その教師は"l-a-g-e-r"と人差し指で綴り、「それは、より大きな、つまり大瓶という意味だね」と捏造した。
言うまでもない、"lager"は「ラガー」というドイツ語由来の「貯蔵」ということばだ。低温で貯蔵熟成させるビールの総称であって、"larger"(より大きな)とは綴りが違っている。捏造した教師はその場を切り抜けることはできなかった。なぜなら、尋ねた女子生徒が「そうなんですか。でも、小瓶にもその綴りが書かれているんですが・・・・・・」と追い討ちをかけたからである。生兵法は怪我のもと。その道のプロと言えども、いや、その道のプロだからこそ、知らないことは確かめねばならない。
外国語に関して言えば、和製英語にたくさんの落とし穴がある。ぼくは1970年代の前半に数年間英語教授法の研究に携わりながら自らも英語講師として現場で授業を担当していた。ぼくが英語を学ぶ前から「ナイター」や「サラリーマン」などの和製英語はふつうに使われていた。なかなか創意工夫された表現だとは思うが、前者が"night game"、後者が、まったくイコールのニュアンスにはならないが、"employee"か"office worker"である。さきほど和製英語ランキングというサイトを覗いたら、「オーダーメイド」、「スキンシップ」、「コンセント」の三つが上位を占めていた。それぞれ順に"custom-made" "personal contact" "outlet"が正しい英語と書いてある(但し、私見では、スキンシップ(和)とパーソナルコンタクト(英)を単純対応させるのは危険。文脈的翻訳が必要だろう)。
☆ ☆ ☆
和製英語に厳しい向きもあるが、文化比較の材料になっておもしろい。もともとの英語が日本風土でなじめないとき、特に発音しにくいときにこなれるようにアレンジされる。連日サッカーの試合で盛り上がっているが、あの「ロスタイム」は和製英語である。試合の前半・後半のハーフ45分間のうちに「ケガなどによって中断され、失われた時間」を意味している。とてもわかりやすいが、不思議な表現だと思わないだろうか。「ロスタイム3分」というのは、「失われた時間は3分」と言っているにすぎないのだ。だから何、だからどうするかなどまで言及してはいない。
英語ではちゃんと言及している。"Additional time"(アディショナルタイム)と呼んでいて、失った時間を足して「追加の時間」と表しているのである。この一例だけで比較文化を気取るわけにはいかないが、とても興味深いではないか。わが国でロスタイムと「現象」を表現するのに対して、英語では「対策」のほうを表現しているのだ。わかりやすく言えば、「失う」ほうを強調するか「足す」ほうに力点を置くかの違い。時間を還付するのであるから、英語のほうが適切だ。しかし、ロスタイムは言いやすくわかりやすい。
「ああ、失くしちゃった」と言うか、「さあ、足しちゃおうか」と言うかの違い。そして、「失くした」と言いながら「足す」の意味に転用している。それがロスタイム。まるで、「転んだ」を「起き上がる」に使っている感じだ。そう言えば、野球用語にも和製英語がいくつかある。たとえば、おなじみの「デッドボール(死球)」。これは打者に当たった後に転がったボールが主役。英語では"hit by pitch"で「投球による(打者の身体への)当たり」という意味で、目線は人に行っている。
ちなみに"bases on balls"とは「審判による四つのボール判定によって打者が一塁に出ること」。これを明治の時代に「四球」と訳した。感服する(ほとんどの野球用語は正岡子規が訳して広めたことはよく知られている)。この四球、メジャーリーグの中継を英語実況で観戦していると、ほとんどの場合"walk"と言っている。打って一塁へ走るのではなく、堂々と「歩いて行ける」からウォークだ。この四球とウォークの関係が、ロスタイムとアディショナルタイムの関係に似てはいないだろうか。ここでも前者が現象、後者が対策になっている。もちろん、興味本位に見つけた事例であって、二例を以て一般法則を導くつもりなどさらさらない。
インスピレーションと知の統合
2010年6月22日 15:45
世の中にはアイデアマンと呼ばれる人とアイデアがひらめかない人がいる。総合的な能力差がなくても、アイデアの質と量には歴然とした差が見られる場合がある。自ら企画の仕事に三十年、また企画の研修や指導に二十年携わってきて、なぜそのような差が生れるのかに大いに関心を抱き分析しようとしてきた。「地頭」の違いなどと簡単に片付けるつもりはない。もっと別の何かがあるはずだと思っている。この記事一回きりで結論が出るわけでもないが、ラフスケッチだけ描いておきたい。
「統合失調症」という精神の病については以前から知っていたが、最近ある本を読んでいたらこのことばが出てきた。精神分析の専門書ではないが、常識の喪失との関連で書かれていて興味深く、アイデアとインスピレーションを別角度から考察するきっかけになってくれた。統合失調とは、精神機能のネットワークが不全に陥っている状態である。痴呆症もその一つのようだ。たとえば、「~しなければならない」とか「~したほうがいい」と強く意識していても、実際はそれができないという状態である。この精神の病は、どこかアイデアが出にくい状態に似ているような気がする。
仮にぼくの弟の名前を「久左衛門」とするとき、誰かと会って「大坂久左衛門です」と自己紹介されたら、「あっ、弟と同じ名前だ!」と思う(時間をかけてわかるのではなく、瞬時にその人と弟の名が照合されて一致していることに気づく)。久左衛門という名前の「特殊性」もあるが、それだけでアタマが働いたのではない。それが「たつお」や「しょうじ」や「ゆういち」であっても、何らかの照合作用が起こるものである。しかし、まったく何とも感じない人もいる。
☆ ☆ ☆
「ここにいる五人の中にあなたの知っている人はいるか?」と尋ねたら、彼(P)は一人ひとりをよく見て「いません」ときっぱりと言った。その数分後、五人のうちの一人(Q)が彼のところへやって来て「こんにちは!」と声を掛けた。そして、「昨日はどうも」と言ったのである。結論から言うと、昨日の夜、PとQの二人は他の複数の人たちとともに会話の輪に入っていた。PはQと会話したのを覚えていたが、その人の顔を再認識することはできなかった。昨日の今日にもかかわらず。Pにおいて会話とQの顔は別物だったのである。
あることに部分的な強い関心があっても、そのことが本人の知覚全体の中で孤立していたり居場所を持たなかったりすることがある。他の事柄とつながらないからひらめきが起こらない。たとえばスプーンは口に食べ物を運ぶ道具としてフォークや箸と同じ群にあり、同時に相互に差異によって成り立っている。したがって、さほどの努力をしなくても、スプーンというモノまたはことばからフォークや箸は連想されるだろう。この種のネットワークが細かく広がっていれば「意外なつながり」、つまりインスピレーションが起こりやすい。
他人にとって無関係に思える二つのものが、アイデアマンにとっては関係性の事柄どうしに見えている。エドワード・デ・ボノはたしか「無関係な願望」と「目新しさ」の強い関連を指摘していた。また、うろ覚えだが、エドガー・アラン・ポーも「熟考とは深さではなく、広がりである」というようなことを言っていた。一ヵ所の垂直的深堀よりも複数個所の水平的連鎖のほうがひらめきやすいのだ。複数の情報をよく取り込んでも、それぞれの情報を相互的に関連づけなければ、知が統合されることはない。これは習慣形成によるところが大で、要するにぼんやりと惰性で生活したり仕事したりしていては、アイデア脳が生まれないということである。
他者の成長
2010年6月20日 17:30
あくまでも他者の成長についての観察と実感である。ぼく自身の成長についてはひとまず括弧の中に入れた。また、他者の成長を二人称として見るのではなく、三人称複数として広角的に眺望してみた。つまり、他者を間近にクローズアップするのではなく、少し距離を置いて親近感を薄めてみたのである。観察であって、冷めた傍観ではない。実感であって、ふざけた評論ではない。
十数年間付き合っていても、他人の気持などなかなかわからない。自我認識でさえ危なっかしいのに、他我の考えに想像を馳せるのは至難の業だ。しかし、樹木の根や幹の内部が見えなくても、葉の生い茂りぶりと果実の色づきや膨らみを観察できるように、発言や行動はしっかりと目に見える。内面的な概念や思考が言語に依存するというソシュール的視点に立てば、言動を中心とした変化(時には成長、時には退行)は知の変化そのものを意味する。
最盛期には、年に数千人の受講生や聴講生に出合った。ほとんどの人たちとの関係は一期一会で終わる。今も縁が続いている人たちは数百人ほどいるが、毎月二、三度会う親しい付き合いから年賀状社交に至るまで、関係密度はさまざまである。職業柄、他者を観察する機会に恵まれているから、十人十色は肌で感じてきたし個性の千差万別もよく承知しているつもりだ。人の心はなかなか摑めないが、言動に表れる成長に関してはかなり精度の高い通信簿を付けることができるはずである。
ぼくは自他ともに認める歯に衣着せぬ性格の持ち主である(毒舌家と呼ばれることもある)。ほんとうに成長している人物には「たいへんよく成長しました」と最大級の褒めことばを贈る。だが、いくら率直なぼくでも面と向かって「きみは相変わらずだね」とか「ほとんど成長していないね」とは言いにくい。ゆえに、成長していない人の前で成長を話題にすることはなく、黙っているか、さもなくば「がんばりましょう」でお茶を濁す。裏返せば、「成長したね」とか「このあたりがよくなったね」などとぼくが言わないときは、「成長が見られない」と内心つぶやいているのに等しい。
☆ ☆ ☆
たった一日、場合によってはほんの一時間でも、人は成長できるものである。決して極論ではない。他方、どんなに刻苦精励しようとも、何年経ってもまったく成長しない(少なくともそのように見える)ケースもある。周囲を見渡してみる。伸びている人とそうでない人がいる。昨年はよく成長したが、今年になって減速している人もいる。五年よくて五年悪ければ相殺されるから、結局は十年間成長しなかったことになる。三十歳だからまだまだ先があると思っていても、四十歳になってもほとんど成長していなかったということはよくある。もちろん本人は自分の成長をこのように自覚してはいない。誰もが自分は成長していると自惚れるものだ。
ところで、体力と精神力が低下すると知力が翳り始める。年齢と成長曲線の相関? たしかに加齢による心身劣化は不可避だ。しかし、加齢よりもむしろ不健康な習慣のほうが知の成長・維持を阻害する。不健康状態が長く続くと新しいことが面倒になり、これまでやってきた旧習に安住して凌ごうとする。うまく凌げればいいが、そうはいかない。毎日少しずつ人生の終着点に近づいているぼくたちだ、無策なら可能性の芽も日々摘み取られていくばかり。
成長には心身の新陳代謝、すなわち新しい習慣形成(あるいは古い習慣の打破)が欠かせない。そして、習慣形成に大いに関わるのが時間の密度なのである。成長は時間尺度によって端的に数値化できる。これまで二日要していた仕事を一日で片付けることができれば成長である。無用の用にもならないゴミ時間を一日2時間減らせば成長につながる。わかりきっていることを何度も何度も学び直すのもゴミ時間。その時間を未知のテーマを考える時間に回す。それが成長だ。つまらない人間とつまらない話をして過ごすつまらない飲食のゴミ時間を減らす。要するに、無為徒食をやめ、束の間の自己満足をやめる。失った貴重な時間を誰も損失補填してくれない。
ぼくの立ち位置からいろんな他者が眺望できる。ある人の過去と現在を比較できるし、その人と別の人の比較もできる。このままいくと彼は行き詰まるぞ・・・・・・あの人はいいリズムになってきた・・・・・・数時間前に会ったときから変わったなあ・・・・・・いつになったらこの道がいつか来た道だということがわかるのだろう・・・・・・。こんなことが手に取るように観察でき実感できる。時間の密度と価値を高める生き方をしている人は伸びている。もちろん、ぼくも誰かによって成長通信簿を付けられているのを承知している。
固有名詞が消えるとき
2010年6月18日 07:30
固有とはそのものだけにあること。おなじみの固有名詞は人名や地名などの事物の名称を意味する。「イヌ」は普通名詞だけれど、「ラッキー」や「ポチ」は固有名詞ということになる。しかし、ちょっと待てよ、ラッキーとかポチと命名された犬はどこにでも「普通に」いるではないか。たしかに、まったく固有というわけではない。
広辞苑では、固有名詞を「唯一的に存在する事物の名称を表す名詞」と定義している。厳密に解釈すれば、名称の差異だけではなく固体の差異が重要なようだ。名前が同じでも、あそこのラッキーとうちのラッキーは違う。見た目が違う。仮に同じポメラニアンであっても、いずれの飼い主も個体差を見分けることができる。だからラッキーは固有名詞、というわけなのである。何が何でもどこにもない名前にしたいのなら、同姓同名を嫌うブラジル人のように延々とミドルネームを足し算するしかない。けれども、そんな呼称は面倒極まりないので、結局「ジーコ」と略すことになり、固有性は薄まる(それでもなお固有名詞ではある)。
動物や事物に名前を付けるのは、それらに「私の」や「われわれの」という所有意識や愛着を抱くとき、あるいはその他大勢から区別したいときだろう。普通名詞のまま扱うのではなく、固有名詞を与えようと思い立つのは、個体としてのアイデンティティを容認したからである。ペットの犬や猫に名前を付けるが、市場で買ってきて、まだ生きている伊勢えびにニックネームは付けない。「そりゃそうだろ、食べる対象には名前は付けないよ」と言った友人がいたが、そんなことはない。一頭買いしている行きつけの焼肉店では、「本日の黒毛和牛 ハナコ 牝4歳」なる鑑定書のコピーがメニューと一緒にテーブルに置かれている。
☆ ☆ ☆
ついさっきまで「ジローさん」と呼んでいたのに、ある瞬間から「あなた」に変わってもあまり違和感はない。なぜなら、そこにはジローさんと、ジローさんと呼んでいる人物の二人しかいないからだ。「ジローさん、あなたはね・・・・・・」という同一文章内の並列も実際にある。仮にずっと「あなた」と呼び続けても、ジローの唯一的存在が否定されるわけではない。あなたという呼称は決して脱固有名詞的ではなく、二人の関係においてはジローと同等のアイデンティティを受け持っている。
ところが、サッカーのワールドカップを観戦していて、ぼくは固有名詞が消えるのを何度も目撃したのである。ついさっきまで「クリスティアーノ・ロナウドの華麗なシュート!」だの「メッシがドリブルで突破する!」だのと実況で叫んでいた。にもかかわらず、相手チームがフリーキックをしたボールがロナウドに当たっても、「ボールがロナウドに当たって跳ね返る」とは言わない。ボールは「壁」に当たったのである。あのロナウドが壁になって固有性を失うのである。
競馬にも同じようなことがある。厩舎で管理されているときは「ディープインパクト」と呼ばれている。レースへの出走が決まれば予想紙の馬柱にもその馬名が書かれる。武豊が騎乗して名馬と名騎手の名コンビがゲートを出る。だが、万が一落馬すれば、その瞬間ディープインパクトは名前を失うことになっている。稀代の名馬は、レースが終わるまで「空馬(からうま)」という「無名状態」になり下がるのだ。まだレースを駆けている他馬にとっては、邪魔な存在以外の何物でもない。
ロナウドは壁になっても直後にロナウドに戻るし、名馬は一度空馬になっても種牡馬としてスタリオンで繋養される。しかし、現実の人間関係や仕事の文脈でぼくたちがいったん固有名詞を失うと、ただの普通名詞として、あるいは名のないイワシや物体同然に扱われ続けるだろう。関係性の中で固有名詞的存在であり続けるのはたやすくないのである。手を抜いたり油断をしていると、「壁」と呼ばれ「空っぽ」と呼ばれてしまう。何としても最悪「あのオッサン」までで踏み止まらねばならない。
問いは思惑を表わす
2010年6月17日 10:30
あることについて問いは理屈上いくらでも立てることができる。たとえば天気に関してなら、「今日の天気はどうなりますか?」と聞いてもいいし、「今日は晴れますか?」や「今日、雨は降らないですね?」と尋ねることもできる。答える側の答えが「晴れ」に決まっていても、これらの問いの形式に応じて答えの形式は変わってくる。「どうなりますか?」に対しては「晴れるでしょう」か「いい天気になりそうです」だが、「晴れますか?」にはふつう「はい」であり、「雨は降らないですね?」と聞かれれば、「ええ、天気だと思います」となるだろう。問いも答えもバリエーションが他にもいろいろありそうだ。
余談になるが、日本語では問いの形式に忠実な肯定形や否定形で答えるのがふつうである。「あなたはXXXが好きですか?」という肯定疑問文に対しては「はい」が好き、「いいえ」が嫌いになる。「あなたはXXXが好きではないでしょ?」という否定疑問文に対しては、「はい、好きではありません」あるいは「いいえ、好きです」のような変則的応答をすることが多い。ところが、英語圏の人々は、相手が「XXXが好きですか?」と聞こうが「XXXが好きではないですか?」と聞こうが、問いの形式には振り回されずに、好きなら「イエス」、嫌いなら「ノー」とはっきりしている。
さて、答えの方向性と表現の形式は問い方によってコントロールされる。すなわち、問う側が応答領域を絞ったり膨らませたりできる。この意味では、すべての問いは「誘導尋問」にほかならないのである。相手に機嫌よく答えさせるか、それとも挑発して感情的に答えさせるか―問う側に技量があれば、意のままに操ることができる。「どちら様ですか?」と「何者だ?」の違いを比べてみればわかるだろう。いずれの問いにも一定した応答できるならば、答える側もなかなかの腕達者である。
☆ ☆ ☆
もちろん、まったく見当もつかないことやまったく知らないことを尋ねる場合もある。答えの行方が見えないケースである。しかし、そこに上下関係があるとき、そして上位者が問う側に立つとき、ほとんどの場合、上位者は自分の思惑を反映した問いを立て、自分の望む方向へと答えを導こうとする。警察官による不審者への職務質問や被疑者への取り調べ、人事部員による応募者の面接などは典型的な例である。
さらに、答えの概念レベルさえ規定することもできる。「出身の都道府県」を聞くか「出身都市」を聞くかは尋問者の裁量だ。「趣味は?」と聞くよりも「好きなスポーツは?」と聞くほうが限定的である(スポーツ音痴は後者の問いに困るだろう)。「その鳥は黒かったかね?」と尋ね、相手が「たぶんカラスだったと思います」と答えたら、「鳥の種類を聞いているのではない! その鳥は黒かったのか、と聞いたのだ!」と一喝する。答える側は「すみません。はい、黒でした」と言い直す。詭弁は問いにも使えるのである。
上位者の誰も彼もが悪意に満ちているわけではない。しかし、上位者の想像力の欠如ゆえに、質問それ自体が意地悪になることはありうる。本人は素朴に聞いたつもりだが、答えようのない問い、答えてもジレンマに陥らせるような問いを発してしまっている。「なぜこんな結果になったのかね?」などは頻度の高い問いだが、ほとんど答えようがない。「あまりいい結果ではなかったね?」「はい」「同様の結果は将来起こりうると思うかね?」「おそらく、あるでしょう」「一人で原因分析をして対策を立てられるかね?」「私一人では難しそうです」「では、誰の知恵を借りればいい?」・・・・・・このような連鎖的問いと「なぜだ!?」という一発詰問との違いは自明だろう。
誰かがミスをした。あなたは彼を呼び出して問う。「どうしてこんなミスをしてしまったんだ!?」という尋問が生産的であるはずがない。責めを負う側が問われるときに「なぜ」や「どのように」に対して適切な答えを返すことはほとんど不可能なのである。おそらく二者択一型の質問のほうが答えやすい。だが、二者択一の質問は狡猾な手法にもなりうる。「きみのミスは故意によるものか、それとも無意識によって起こったものか?」 尋問者がジレンマの罠を仕組んだ問いである。二者択一ならば、「故意です」はありえず、必然「無意識でした」と答えざるをえない。しかし、どうして人は己の無意識を意識することができるだろう。「何? 無意識? それなら精神の病だな」と決めつけられてしまう。尋問者の思惑を読み切れば、正しい答えは「わかりません」である。瞬時にその答えを見つけるのは容易ではないが・・・・・・。
声掛けとコミュニケーション
2010年6月15日 17:00
「誰々さんがいたので声を掛けた」。よく聞く話だが、この声掛けは自然にできたのか意識してのものなのか。たまたま目と目が合ったので儀礼的にしたのか、それとも無意識のうちに笑顔で「こんにちは、お元気?」と話しかけていたのか。お互い知り合いなのに声を掛けない人もいるが、ふつうぼくたちは知人友人を見つけたら声を掛ける。では、なぜ声を掛けるのか? こんなことについてあまり考えることはないだろう。仮に考えたとしても、うまく説明できそうにもない。
ちなみに、先日ぼくは知り合いの年長の女性を見掛けたが、声を掛けずに通り過ぎた。その女性はオフィス近くのビルのオーナーで、アパレル関係の企業も経営していた。そのビルの地階に紳士服の店を長らく出していて、ぼくは十数年来の顧客であった。よくスーツやネクタイを買っていたし、あまり文句も言わないので、店にとってはいいお客さんだったはずである。その店は数年前に閉店した。しばらくしてから別の場所で再開したとの案内はもらったが、新しい店には行っていない。まあ、とにかく店舗でぼくをいつも応対していたその女性だった。遺恨もトラブルもなかった。しかし、「あ、ごぶさただなあ」と内心思いながら、すれ違うだけだった。
むずかしい話をするつもりはない。日本人の場合、たとえば、エレベーター内で見知らぬ者どうしが挨拶を交わすのは稀だ。しかし、時折り、ホテルのエレベーターに先に乗っているぼくが「開ボタン」を押さえているのを見て、入ってきたご夫婦のどちらかが目を合わせて「あ、どうもすみません」と言う場合があるし、観光客らしいその二人に「どちらからお越しですか?」と尋ねるときもある。こんなふうに声掛けすることもあるのに、旧知のあの人を認(したため)めながら、なぜぼくは知らん顔して過ぎ去ったのか。
☆ ☆ ☆
一言でも二言でも声を掛け合うというのは一瞬の呼吸、理由なき波長感覚の仕業と言わざるをえない。しかし、そのような、間髪を入れぬタイミングだけが声掛けの引き金になっているのか。そうかもしれない。だいぶ前に混雑する駅のホームで高校の同級生とすれ違ったが、声を掛けなかった。こちらが気づき、相手が気づかなかった。これは一瞬の呼吸が合わなかったからかもしれない。また、別のときに別の友人にばったり遭遇してお互いに指を指して名前を言い合い、一言二言どころか、しばらく立ち話をしたこともある。おそらく一瞬の呼吸が合ったのに違いない。
しかし、ほんとうに一瞬の呼吸の合う・合わぬが声掛けの決定的な要因なのかと自問すると、必ずしもそうとも思えないのだ。無意識のうちに声掛けするかしないかを何か別の要因によって決定しているような気がするのである。ぼくに関するかぎり、一つ明らかになった。それは、会話が愛想だけに終わりそうな気配を感じたら、ぼくから声を掛けないということだ。「だいぶ暑くなってきましたね」「そうですね」「扇子がいりますよね」「そうですね」「かき氷も恋しいですな」「そうですね」・・・・・・実際にあった会話だが、ことごとく「そうですね」という機械的返事で肩透かしを食らいそうな予感があれば、ぼくはめったに声を掛けない。エレベーターのような閉塞空間の場合のみ、やむなく最小限の儀礼的挨拶だけで済ます。
ぼくは愛想トークが苦手。おまけに社交辞令が嫌い。かと言って、何かにつけて意味を共有化すべくコミュニケーションを企んでいるのでもない。そうではなく、話すべき何かを直感できなければ、敢えて声を掛けようとしないのだ。少なくとも、同じ知り合いでも「暖簾に腕押し」や「糠に釘」のタイプを見極められるようになった。コミュニケーションという大げさなものではなく、小さな話題でも意思疎通へと開かれそうか、すぐに閉ざしてしまいそうかを、たぶん直感している。ぼくは、アルゴリズム的な音声合成人間にはめったに声を掛けないのである。
効率的な仕事―検索を巡って
2010年6月11日 12:00
「思い立ったが吉日」にひとまず凱歌があがった昨日のブログ。そこで話を終えるなら、ぼくは見境のないスピード重視派ということになり、さらには大づかみにさっさと仕事の全貌を見届けては結論を下し、ベルトコンベア上を流れる商品のようにアイデアを扱う作業人、あるいは知の錬金術師、あるいは発想の一発屋、あるいは多種多様なテーマのダイソーなどと皮肉られてしまうだろう。
少しは分別も備えているつもりだ、「思い立ったが吉日」が人生全般の万能訓であるなどと信じてはいない。昨日のブログでは、限られた時間における作業や仕事の成否の見極め方について触れたつもりであり、その限りにおいては早々に着手して何がしかの変化や結果を探るのがいいと主張したのである。つまり、ぼく以上に中長期的なテーマの実験を行なっている研究者にしてからが「思い立ったが吉日」を肝に銘じるくらいだから、日々の作業なり仕事なりにそのつど小刻みな期限が設けられている身であれば、効率を念頭に置くのは当然の成り行きなのである。
そこで、話を検索に置き換えてみたい。考えても考えてもひらめかない、しかも時間が切迫しているとき、ぼくたちはどん詰まりの状況を脱しようとして突破口を外部に求める。ヒント探しのための検索がこれだ。もちろんアタマの中を検索すればいいのだが、それが考えるということにほかならないから、ひらめかないのは自前の記憶の中にヒントを探せないということに等しい。外部データベースの検索は避けて通れないのである。
言うまでもなく、外部データベースは情報技術によって天文学的な広がりを見せている。したがって、期限との闘いが前提となっているかぎり、ぼくたちは検索上手にならなければならない。いかに効率よく迅速に明るみの方角を見つけて袋小路から抜け出すかに工夫を凝らさねばならないのだ。ネットサーフィンなどという悠長なことをしている場合ではない。インターネットを知恵の補助ないし有力情報源としている人たちにとっては、検索技術の巧拙は作業や仕事の成否に直結するのである。
☆ ☆ ☆
ぼくのやり方は至極簡単だ。考えることに悶々とし始めたら、まずはキーワードのみメモ書きしておいて手元の辞書検索から入る。なぜなら、思考の行き詰まりは大部分が言語回路の閉塞とつながっているからである。続いて、自分がこれまで記録してきた雑多なノートを無作為に捲(めく)ってスキャニングし、文字側からの手招きに応じてそのページを読む。場合によっては、書棚の前に行って、関係ありそうな既読の本を手に取る。ここまではまったく検索とは似て非なる動作だ。それどころか、期限意識とは無縁な遠回りに映るだろう。しかし、やがてぼくも、ほんのわずかな時間だが、ねらいを絞って便利なインターネットを覗く。これだけが唯一検索らしい検索になっている。
ぼくの流儀なのでマネは危険である。ぼくの場合、検索にあたっては、つねに非効率から入り最後に効率に向かう。思考時間より多くの時間を調査や検索に使わない。おそらく電子ブックが読書の主流になっても、ぼくは積極的に用いることはなく、相も変わらずに紙で製本され装丁された本を読むはずである。効率が悪いことは百も承知だ。デジタルならキーワードや絞り込みなどの条件を設定して検索すれば、千冊分のデータの中に即刻「ありか」を見つけることができるだろう。しかし、ぼくは千冊の実物の本から記憶に頼って探すほうを選ぶ。
「仕事は効率」と言いながら、ちっとも効率的ではないかと指摘されるかもしれない。しかし、自力で考え、次いで非効率的に調べ、最後に短時間検索するというこの方法が、期限内に仕事を収めるうえでもっとも効率がよいのである。探し物がすぐに見つかることにあまり情熱を感じない性分であり、しかも、すぐに検索できた情報があまり役立たないことをぼくは経験的に熟知している。思考と検索を分離してはいけない。正確に言うと、外部データベースの検索時に脳内検索を絡ませねばならない。だから、一発検索の便利に甘えていたらアタマは決して働かないのである。ぼくにとって非効率的な検索は思考の延長であり、そのプロセスの愉しみがなければ、仕事などまったく無機的なものに化してしまうだろう。
「思い立ったが吉日」の効用
2010年6月10日 14:45
「定番の『企画技法』に加えて、年に数回ほど『仕事の技術』や『プロフェショナルの条件』について話をすることがある。演習を実施してシミュレーション体験もしてもらうのだけれど、受講生の遅疑逡巡という場面にしょっちゅう出合う。選択の岐路に立って慎重になり、慎重さがためらいになり、ためらいが意思決定を遅らせる。ぼくはスピード重視派なので、見ていてイライラしてしまう。」
「きみがイライラする理由がわからないわけではないよ。しかし、人にはそれぞれのペースというものがあるだろ。たとえば、読書にしても、多読・速続がいいのか、それとも少読・精読がいいのかは一概に決めることはできない。実際、急ぐか急がないかに関してだって諺の主張も分かれている。『急いては事を仕損じる』と『善は急げ』のようにね。」
「う~ん。『急いては事を仕損じる』は短兵急の危うさを説いていてわかるが、『善は急げ』は少し違うなあ。だって、すでに『善いこと』だとわかっているんだろ。善いことを行なうのに躊躇する必要はない。それこそ黙って即刻行動に移せばいいからね。『急いては事を仕損じる』の対抗価値には『思い立ったが吉日』のほうがふさわしい気がするが、どう?」
「たしかに。それで思い出したけれど、半月ほど前にテレビで『夢の扉』という番組を見ていたら、小池英樹という教授が『思い立ったらすぐにやってみる』のが研究者の心得には欠かせないというふうなことを言っていた。」
「優秀な研究者はだいたいそう思っているよ。それは何とか賞を取るとか、一番にならねばならないとかの世俗的な下心から来るのではなくて、研究や実験の分母を増やすという純粋な思いゆえだろうね。成功確率が高いと人は逆に身構えるけれど、当たらない確率のほうが高い分野にあっては、試行錯誤は当たり前だし、山のような失敗分母がごくわずかな成功分子をもたらすのだからね。で、その小池教授の『思い立ったらすぐにやってみる』の話、もう少し詳しく聞かせてよ。」
☆ ☆ ☆
「アイデアというのは、いいなあと思ってみて実際にやってみたら、さほどでもなかったということがよくある。その逆に、大したことがないと値踏みしていたのに、実際にやってみると驚嘆するような結果をもたらすことがある、というわけ。ダメだと見切るにしても、すごいと発見するにしても、やりもせずに判断しているよりも、即刻やってみたほうがいいということだな。」
「アタマだけで判断するのと実際の行動による見極めは違うということだね。うまくいくかどうかを遅疑している暇があったら、とりあえずアイデアを現実化してみる。そこにスピード感があれば、失敗もチャンスも素早く発見できる。なるほど、やっぱり『思い立ったが吉日』は正しいな。正確に言うと、思い立った日は吉日だけれど、結果は吉か凶かはわからないということだね。しかも『急いて事を仕損じようではないか』という呼びかけにも聞こえてくる。」
「まったくその通りだよ。演習指導をするときに、きみは胸を張って『思い立ったが吉日』を受講生に強調すればいいようだな。ついでに、『急いては事を仕損じる』のもまんざら悪いことではないとね。ところで、年金の記録漏れがあって未納扱いされていると文句を言っていたようだけど、ケリはついた?」
「いや、まだ日本年金機構の事務所には行けていないんだ。いろいろあってね。」
「おやおや、思い立ったが吉日を唱えるのなら、隗より始めるべきじゃないか。せっかくこんな話が出たのだから、今すぐ思い立てばいい。」
「わかった。あいにく今日は思い立たなかったので、どうやら今日は吉日ではなさそう。来週のいつか、思い立つように仕向けて、その思い立った日に行ってみるとしよう。」
「やれやれ。やっぱり『言うは易し行なうは難し』か。」
「あっ、大切なことに気づいた。」
「何?」
「二人して『思い立ったが吉日』の効用を褒めそやしたのはいいが、核心的な問題は『思い立たない』ことにあるのだった。思い立たないからこそ、大半の研修生たちは前に進めないのだよ。この諺の正当化の前に、どうすれば思い立つかという、宿命とも言うべき命題をぼくは片付けなければならないんだ。」
「疲れる仕事だね。同情するよ。」
能動態と受動態
2010年6月 9日 12:15
学校で習った英文法のおさらいのつもりはない。そこを話の出発点として考えようと思った次第。「能動態で書かれた次の英文を受動態に変えなさい」―こういう設問を見ると懐かしさと情けなさが同じ分量でこみ上げてくる。懐かしさというのは青春時代へのノスタルジーなのかもしれないが、情けなさのほうは「いったい何のためにこんなことをしていたのか」という不条理感からやってくる。
たとえば"I drank a glass of water."(ぼくはコップ一杯の水を飲んだ)という能動態の文章を受動態に変えると、"A glass of water was drunk by me."となり、「コップ一杯の水は私によって飲まれた」と訳される。強調したい箇所が異なっているから構文が変わるわけだが、決して意味・ニュアンスが同じであるわけではない。しかし、出題者は二つの文章を「等価」として捉えていたような気がする。もう一つ例を挙げると、"He holds a pencil in his hand."(彼は手に鉛筆を持っている)なら、"A pencil is held by him in his hand."(鉛筆は彼によって手に持たれている)。受動態の文章を和訳すると、なぜこうもぎこちなくなってしまうのだろう。
機械操作の英文マニュアルなどは原則的に能動態で書け、場合によっては命令形でもいいと言われる。「ボタンを押せ。すると水が流れる」のような調子だ。これを受身にしてしまうと、「ボタンが(あなたによって)押された後に、水は流されるでしょう」と変調になる。能動態の明快さ、ある意味では簡潔な強さに比べて、あなた任せのような、受動態のまどろっこしさを何と形容すればいいのだろう。もし、日々の会話をすべて受動態で表現すれば大変なことになる。「居酒屋は私によって立ち寄られ、一杯の生ビールが私によって注文され、私によって頼まれもしていない突き出しが、店長によってテーブルの上に置かれた」。ここに臨場感はない。まるで他人事、抗しがたい無機質だけが淡々と流れていく。
☆ ☆ ☆
"The die is cast." これも受動態である。軍隊を率いたカエサルがルビコン川を渡る時、彼は「賽は投げられた」と言った。誰が賽を投げたのかは重要ではなかった(たぶん)。必然もしくは運命だった。だから「誰によって」の部分は余計だったのだろう。要するに、この一文は受身ゆえに効果的な名言になった。
唐突だが、昨今話題の「仕分け」に対しても賽は投げられる。仕分けを挟んで、「仕分ける(側の)人」と「仕分けられる(側の)人」がいる。前者が「私はあなた方の費用・予算を仕分ける仕分人」、後者が「私たちの費用・予算はあの人によって仕分けられる被仕分人」である。前者が能動的であり、後者が受動的であることは一目瞭然だ。賽を投げる時点で、すでに勝負はついている。つまり、仕分ける側が絶対優勢、いや、仕分けられる側がクーデターでも起こさないかぎり、仕分人には紛れのない勝利が約束されている。
仕切る人と仕切られる人、動かす人と動かされる人、命を下す人と命を下される人、働く人と働かされる人、引っ張る人と引っ張られる人・・・・・・それぞれの二項にあって、前者には主体と意思があり、後者には主体も意思もない。言語に能動態と受動態という、異なった役割をもつメッセージ表現の構造があるように、実際の生活や仕事における人々の役割にも相似形の構造があるように思われる。記号論はこのあたりを上手に説き明かすに違いない。ともあれ、ことばの受動態表現に漂う主体不在を受動的行動においても同じように感じる。どうやら「同一の態」が精神、言語、行動を縦断しているようだ。
偽る座右の銘
2010年6月 8日 12:00
信念、拠り所、目標、約束、励まし、時には戒め・・・・・・。これらの思いやイメージをことばに置き換えて、自分の心に刻み込んでおく。これが座右の銘だ。もしぼくたちが著名人になり色紙を頼まれたら、揮毫するような文言である。「努力」や「継続は力なり」という定番から、古今東西の箴言の引用、はては時勢を映し出す「ピンチはチャンス」や、「朝の来ない夜はない」という楽観的なものに至るまで、いろいろある。ちなみに、同じ色紙でも、料理屋などに飾ってある芸能人が一筆する「○○さんえ」という類は座右の銘とはちょっと違う。
座右の銘にかぎらない。理念でも信条でもスローガンでも広告の見出しでもいい。いや、もっと範疇を広げれば、書名もネーミングも決意表明などもすべて、高い精神性や精神のありよう、行動の方向性、約束やモノの概念などを言語化したものである。そして、ぼくが見聞きしてきたところでは、これらのフレーズの大半は空回りしている。本来達成されるべき、あるいは目指すべき信念や理想や約束をことごとく裏切っている。看板に偽りあり、なのだ。
「偽る座右の銘」とタイトルを付けたが、実際に偽っているのは、座右の銘やスローガンや信条などではなく、これらを掲げている人間どもである。ことばを責めてもしかたがない。ことばの不履行に平気でいる彼らが理想に近づけていないのである。いや、正しく言えば、始めから近づけるなどと思ってすらいない。彼らはことばの欺瞞性には確信的に気づいているのであって、場合によっては、よからぬことや知られては困ることのカモフラージュ効果として使っていることさえある。
☆ ☆ ☆
座右の銘の通りに、あるいはそれに近づこうと行動しない人々。スローガンを掲げながらいっこうに実践しない人々。口ばっかりで、約束を守らない人々。朝礼で崇高な訓示を垂れながら、本人自身がまったく別の生き方をしている人々。宗教家や道徳論者ほど背任的であったりするから厄介である。お題目は好都合に利用され、行動は遅々として実行されず、いや、それどころか、理念や目標とは正反対の方向に動いている。真なるものはいずれだろうか、掲げたことばか、それとも現実の行ないか。
フィランソロピーに注目が集まった時代、「社会に貢献します」を掲げた企業が目立った。企業として自明の精神をよくもぬけぬけと明文化するものだと呆れ返ったものである。環境コンシャスな時代に入ってからは、「地球にやさしい」。変化形としての「人にやさしい」、「顧客満足」。「社会に貢献します」だの「地球にやさしい」だのと胸を張った企業の数々の不祥事はご存知の通り。「人にやさしい」などは、「オレは女性にやさしい」とほざいているようなもので、口にするようなことばではない。「顧客満足」も企業理念としては暗黙の価値指標であって、市場に向けてわざわざ公言するのは品がないのだ。
「国民の生活が第一」の荷は重そうだが、偽りかどうかはだいぶ先までわからない。「第一」というのは清水の舞台から飛び降りるほどの覚悟がいる約束である。民主党も自由民主党も社会民主党も、いずれも「民主」が共通語になっているが、いつになったら実現するのだろうか。「たちあがれ日本」は、日本および日本国民への呼びかけ、鼓舞、命令にすぎず、自らが立ち上がるとは言っていない。ところで、「継続は力なり」を座右の銘にする三日坊主の男がいた。「三日坊主にサヨナラ」のほうが座右の銘にふさわしいのではないかと指摘したら、「いや、三日間でも継続なんです」とけろっと言ってのけた。何をかいわんや、である。
一枚の絵(または写真)の行間
2010年6月 7日 15:20
やや蒸し暑かったが、好天に恵まれた土曜日だった。京都国立近代美術館で開催中の『ローマ追想―19世紀写真と旅』を見に行った。常時カメラを携帯するわけでもなく、携帯電話のカメラ機能をよく使うこともない。それでも、ここぞというときには思い切り写真を撮る。デジタルカメラになってからは遠慮なくシャッターを押す。上手下手はともかく、カメラと写真についてはすでに30年以上も親しんできた。
しかし、写真とカメラの歴史には疎い。今回の写真展を通じて、ダゲレオタイプをはじめとする写真の方式について少しは知るところとなった。ダゲレオタイプとは銀板写真のことで、銅の板にヨウ化銀を乗せたもの。ダゲールという人によって1839年に発明された。展示されていた写真は19世紀中葉のローマ、ヴェネツィアなどの光景だった。たとえばローマのポポロ広場にしてもコロッセオにしても、一目見れば今とさほど変わらない。何しろ歴史地区だから、最新高層ビルが建ったり都市のゼネコン的近代化がおこなわれたりはしない。但し、当時の写真とぼくが最近撮り収めた写真との間に、修復や植樹・道路整備などのささやかな変化を読み取ることはできる。
ところで、写真の発明と絵画の流派―写実主義や印象派―には無視できない相関関係があるとよく指摘される。写真が発明されるまで、ほとんどの肖像画は写実的に描かれていた。国王や伯爵がたくわえた髭は一本一本精細に捉えられた。また、女王や夫人や子女の豪華絢爛な衣装の皺や襞は本物そっくりに描かれ、レースには絶妙の透かしまでが入る。まさに、油絵は写真と同等の役割を果たしていたのである。そして、写真の発明とほぼ同時期から細密な描写が廃れ始め、やがて顔の判別もできなければ姿かたちも崩れていく。実体ではなく印象が描き出される。絵具が乱れ毛筆の跡が残る。絵画は写真でできる技法を捨てて、写真でできない世界へと入っていった。
☆ ☆ ☆
写真展の後、御所近くの相国寺の承天閣美術館へと足を向けた。『柴田是真の漆×絵』なる展示会の招待券を持っていたからである。翌日曜日が最終日だったので、何とか滑り込みセーフであった。若冲の襖絵も展示されているとあって、鑑賞に臨んだ次第だが、初めて見る是真の漆絵や盆、印籠、紙箱などに凝らされた細工の見事さに息を飲んだ。名作の大半が海外コレクションになっているので、ほとんどすべてが里帰りだ。その道の職人だろうか、単眼鏡を手に熱心に作品を鑑賞する人もいた。
「絵や写真の行間」と表現するとき、「行間」はもちろん比喩である。ここでの行間は、描かれていない心象や、描かれていても空間部分を感じ取らせる構図を意味する。動画はテーマや対象の仔細を順序制御的に映し出してくれるから、鑑賞する者はある程度受身で構えることができる。流せるという気楽さがどこかにある。しかし、一枚の絵もしくは一枚の写真は、本来の線的な動きのどこかを一瞬切り取って見せる。したがって、作者が描いたり撮ったりした作品の文脈はよくわからない。よくわからないからしばらく作品の前で佇むことになる。その佇んでいる時間は、行間を読み取って綜合的に鑑賞しようとする時間である。
とても疲れるのである。しかし、疲れると同時に、そのように感じ入ろうとする時間と空間に在ることが、絵を鑑賞する愉しみの大部分なのに違いない。呆れるほど感じ入って満悦する。あるいは、結局は何とも言えぬ「不明」に陥ってその場を去ることも多々ある。「好讀書 不求甚解 毎有會意 欣然忘食」(書を讀むを好めど、甚だしくは解するを求めず、意に會(かな)ふこと有る毎に、欣然として食を忘る)。ふと、この陶淵明のことばを思い出す。「読書は好むものの、(深くわかろうとせず)大雑把な理解で済ます。しかし、たまたま意に合った文章があれば、食事を忘れるほどに大いに楽しむ」という意味である。これは読書の様子だが、絵画鑑賞にもそのまま通じるだろう。
「それはおかしい」の奇怪
2010年6月 4日 14:00
今日も誰かが別の誰かの意見に対して「それはおかしい」と言っている。これがしっくりこない。対話に親しむようになってから数十年、ずっとこの感覚がつきまとう。おかしいという表現は「納得できない」や「変調である」や「論理的に正しくない」などの意味を内包しているが、これらのいずれもが単独で発せられるとき、奇怪なものを感知してしまう。誰かの意見を「おかしい」と評するのは、おかしいのだ!(ほら、奇怪に響いたはず)。おかしいに異議を申し立てた手前、ここで話を終えるわけにはいかない。
AがBの行ないや発言に「それはおかしい」と突っぱねる。こう評するとき、Aの脳裡に「おかしくない基準」が浮かんでいなければならない。つまり、自分がイメージしている「まっとうな何か」に照らし合わせてみて、Bの言い分はその基準から外れている、ゆえに「おかしい」、そして「納得できない」とAは言ったはずである。Aは自分の基準がおかしくなく、Bの基準がおかしいと主張しているに等しいのだ。では、いったいそのような基準をAはどのようにして決めているのか。
Aは、常識、通念、論理、共通感覚に適合していると確信できているのか(もしそうならば、Bも同様の確信をしている可能性がある)。それとも、好みや思いなどの主観的基準によって「おかしい」という烙印を押しているのか。基準が常識、通念、論理、共通感覚を反映しておらず、純粋に主観的であるならば、Aに対するBからの反論も、AからBへの再反論も不毛に終わるだろう。なぜなら、双方が異なる基準によって主張を繰り広げるかぎり、議論は接合しないし平行線を辿り続けるからだ。
☆ ☆ ☆
もしかすると、常識も通念も論理も共通感覚も主観的に解釈されているかもしれない。ゆえに、明文化されたルールが存在しないかぎり、お互いに取り付く島はない。そもそも「おかしい」の一語で相手の意見を切り捨てようとする者が、しかるべき説明可能な基準を有しているはずがないのである。「それはおかしい」とつぶやいたり声を荒げたりするとき、誰もが「自分はおかしくない」という前提に立っている。そして、ほとんどの場合、その判断基準は「何となく」であって、確たる信念やトポスに支えられているのではない。
AとBの二人を再登場させる。Bの発言に対して「それはおかしい」と言い放ったAに、Bが「何がおかしいのか、なぜおかしいのか」と論拠を尋ねる。基準は何か、何か信念でもあるのか、と聞いてもよい。思いつきで「おかしい」と言っていたのなら、Aはこう答えるだろう―「おかしいものはおかしいのだ」。売り言葉に買い言葉、Bも次のように反論するだろう―「おかしいものがおかしいなどという論法は、おかしいではないか!」 こうして議論は不毛連鎖を続けてゆく。
おかしいは「可笑しい」と書く。大人げないAとBのやりとりにぼくたちは失笑するしかない。いやいや傍観するぼくたちだって、当事者になれば同じように愚昧さを露呈する。公の場で論争する立場にあるお偉方でも「ダメなものはダメ」で済まそうとするのだから、小さな仕事や会議にあっては日常茶飯事「おかしいものはおかしい」が噴出するのもうなずける。「可笑しな光景だ」と冗談ぽくシニカルに片付けているのではない。これは、口癖などという甘い話ではなくて、奇怪であり悲劇なのだ。「それはおかしい」を禁句にしなければ、対話など成立しないのである。
論理的思考の取り扱い
2010年6月 3日 12:00
来週末に『論理思考のすすめ』と題した講座で話をする。ぼくの命名ではなく、主催者側の意向を反映したものである。タイトルこそ変わるが、年内に何度か『ロジカルシンキング』について研修機会がある。一年に何十回とディベート研修に携わっていた時期が15年ほど続き、ディベート熱が落ち着いた以降も、その流れで論理学習に関する講演や研修の要請がある。ディベート発想と言えば「論理的思考」であると世間一般には連想されるようだが、部分的には重なるものの、厳密には相違点も少なくない。
論理的思考あるいは英語でロジカルシンキング。何かとても良さそうな能力(または技術)に見えてくる。賢そうであり頼もしそうであり、難事をうまく片付けてくれる「斬れ者」にも似た雰囲気を湛えている。たしかに、「論理以前」の幼稚な思考だけで、すなわち当てずっぽうや気まぐれ感覚だけで物事を受け流してきた者には学ぶところが多い。実際、事実誤認、話の飛躍、虚偽の一般化、総論的物言いなどは、論理能力不在によって生じる。「論理療法」では、こうした問題を「心理と思考の病状」として扱い、しかるべき処方をおこなう。
ちなみに、論理的思考は論理学的思考と完全にイコールではない。大まかに言うと、後者では推論が主体になる。たとえば「人は幸福を願う(前提1)。私は人である(前提2)。ゆえに私は幸福を願う(結論)」は典型的な演繹推理の例であるが、前提1と前提2を是と認めるならば、結論は必然的に導出される。このような例ならば、わざわざ論理学の助けを借りる必要などない。また、「私の机は四足である(前提1)。四足は犬である(前提2)。ゆえに私の机は犬である(結論)」は、「XならばY。YならばZ。ゆえにXならばZ」という三段論法の構造に沿うが、結論が「偽」になってしまっている。異様に聞こえるかもしれないが、論理学では真偽は問わないのである。ただ「二つの前提を認めれば結論が導かれるかどうか」を検証しているにすぎない。要するに、現実や現場の状況をしばし棚に上げて、探偵よろしくアームチェアに腰掛けて推論の構造をチェックするのが論理学的思考なのである。
☆ ☆ ☆
ロジカルシンキングに心惹かれる人たちの大半は、机上の論理を扱う論理学的思考を学びたいのではない(もちろん、一度は通っておいてもいいだろう)。彼らは論理的思考を求めているのであって、それは仕事や生活に役立つ思考方法のことにほかならない。では、論理的思考はどのように仕事や生活場面で機能するのか。情報の分類・整理には役立つだろう。構成・組み立て・手順化もはかどるだろう。矛盾点や疑問点も発見しやすくなるだろう。つまり、デカルト的な明証・分析・綜合・枚挙に関するかぎり、でたらめな思いつきよりも論理的思考はうまくいく。
しかし、よく日々の自分を省察していただきたい。ほんとうに論理的思考の頻度は高いのか。もっと言えば、あなたには論理的思考をしているという自覚があるだろうか。おそらく確信していないはずである。そもそも、アームチェア的な推論や推理は論理の鍛錬にはなるが、前述した二つの推論事例を見てもわかる通り、知っていることの確認作業なのである。つまり、初耳の結論に至ることはめったになく、仮にそうなったとしてもその結論の蓋然性(ありそうなこと)を判断するには総合的な認識力を用いなければならないのである。
論理がもっとも活躍するのは、思考においてではなく、コミュニケーションにおいてである。自分の考えを他者に説明し、他者と意見を交わし、筋道や結論を共有したりするときに論理は威力を発揮する。論理は言論による説得や証明において出番が多いのだ。それゆえ、ぼくの講演タイトルは可能なかぎり『ロジカルコミュニケーション』にしてもらっている。いずれにしても、論理的思考以外にも多様な思考方法や思考形態があり、アイデアやソリューションを求めるならばそれらを縦横無尽に駆使しない手はない。論理的思考を軽視してはいけない、だが論理的思考一辺倒では発想が硬直化する。このことをわきまえておくべきである。
未成年状態ということ
2010年6月 2日 10:00
「情報依存は親依存、友達依存、先輩依存に酷似している。その姿は独立独歩できない未熟な青少年そっくりだ」と、一昨日のブログの末尾に書いた。そして、こう書いてから、カントの啓蒙論にこれらしきものがあったのを思い出し、久しぶりに読んでみた。『啓蒙とは何か』―えらくむずかしそうに見えるだろうが、とてもわかりやすい話である。しかも、わずか15ページほどの小論なのだ。
少し前置きしておくと、現在「啓蒙」という用語は微妙な位置にある。これを上位者から下位者への高飛車な教え導きととらえる人たちがいるからだ。実際、ぼくのテキスト中の啓蒙を啓発に変えるよう主催者側から要請されたことがある。その啓発も「知識を増やして理解を深める」というニュアンスだが、これとて「自己啓発セミナー」などのイメージを引き摺っている(『ディベートで知的自己啓発』はぼくの著書のタイトルだ)。結論を言えば、啓蒙という語を使うときは、17世紀末に遡るヨーロッパ啓蒙思想の流れを汲んでおくのがいい。啓蒙に差別的ニュアンスを感じる人々にはそういう立場を見せておくべきだろう。
では、当時の啓蒙思想とはどうだったのか。古い価値観や旧弊を打破して人間的理性を尊ぼうとする革新的なものだったとされる。無知蒙昧はよくない、だからよく啓発すべく教えようというのが啓蒙の原初的意味だった。要するに、闇から光のある方へと導くことであり、無知ゆえの幼さから脱皮して理性的人間に至ろうとする考え方である。錚々たる啓蒙主義哲学者が名を連ねたが、カントもその一人だった。
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「人間が自分の未成年状態から抜け出ること」。これがカントによる啓蒙の定義である。カントが念頭に置いているのは、未成年ではなく成人である。成人になっているにもかかわらず、未だに未成年の状態にあるのは、誰のせいでもなく、お前さん自身が招いたものだよ、と言っているのである。いいおとなが幼稚なのは、悟性を用いないから。大雑把に悟性を理性と言い換えれば、未成年状態にある成人は、理性そのものを欠くのではなく、理性を用いようとする決意と勇気を欠いているのである。彼らは独力で未成年状態から脱することはできず、誰かの指導を必要とする。
今はカントの時代よりもさらに成人の幼児化が進んでいるように思われる。ぼくが少し小難しい話をするだけで、もっとやさしく説明してほしいと「甘える」。いいおとながわずか千語や二千語程度の語彙レベルで何を知ろうというのか。カントは言う、「身を終えるまで好んで未成年の状態にとどまり、(中略)その原因は実に人間の怠惰と怯懦(きょうだ)とにある。未成年でいることは、確かに気楽である」。はたして、こういう状態に居続けるとどうなるか。抜け出すどころか、安住し愛着すら抱くようになってしまう。ここにおいて、幼児性と理性は相反することがわかる。成人になっても一人歩きしないのは、カントの指摘するように、本人が責められることなのだが、一人歩きさせなかった取り巻きも遠因の一つに違いない。
「啓蒙を進歩せしめることこそ、人間性の根源的本分」とまで言い切るカント。成人が未成年状態であることは恥なのである。下位者に対しては成熟を示し、都合が悪くなると幼稚へと逃げ込む。理性の非運用は、思考状態に端的に表れる。まず自分で考えない、仮に考えるとしても陳腐な一つの正解探しに終始する。一つの正解を求める教育がいかに青少年を未成年状態に長く止めているかがわかるだろう。自ら解答をひねり出すべく理性を用い、そのつど暫定的な意思決定を下し、後日その判断を自己検証する―これら一連の思考習慣に啓蒙された成人の姿を見る。未成年状態の成人を大勢抱える社会的コストは大きいが、もっと憂うべきは集団的に危機や批判を疎隔してしまうことだろう。



