2010年7月アーカイブ
人それぞれの難易度感覚
2010年7月28日 11:30
Nさんが「前回の哲学の話はものすごく難しかったが、今日の広告の話はよくわかった」と言えば、Mさんは「ぼくは前回はよくついて行けたが、今日の分野は奥が深くて難しさも感じた」と言う。二人はぼくの私塾の同じ講座について語っている。「そんなもの、人それぞれが当たり前。得意不得意もあるし・・・・・・」で片付けてもいいが、単にケースバイケースだけで事を済ましていては進歩がない。ゆえに少考してみる。
仮に二人が同じテーマに関して「難しい」とつぶやいても、その難易度感覚が同じであることはない。そして、一方がその分野を得意とし他方が苦手としている現実があるとしても、いずれもがそれぞれの難易を感じることがあるだろう。人にはそれぞれの難易度感覚があるのは間違いない。しかし、その難易度を表現することはできないし、ぼくが彼らの難易度感覚を精細に突き止めることなど不可能だろう。
英語で生計を立てていた時期に超難解とされていたソシュール言語学を勉強してみたが、初耳で目からウロコでポカンと口を開けてしまう内容だったからこそ、砂地が水を吸うようによくわかったという経験がある。逆に昨年から再読し始めた老子などはあれこれと本を読めば読むほどますます混乱して、ぼくにとっては難しさが増している。いったいぼくの知はいずれに深いのか。難易度感覚は実際のぼくの理解度に比例しているのか。ともあれ、ぼくはそのことを楽しんでいる。
☆ ☆ ☆
哲学に「他者問題」あるいは「彼我問題」というテーマがある。人ははたして他人のことがわかるのか、もしわかるのなら、どこまでわかるのか。いやいや、他人のことなどわからない、わかるのは自分のことだけ。いやいや、人は自分のこともわかっていないのではないか・・・・・・などと考えてみる。もう一歩踏み込めば、他人の何がわかる・わからないのかが浮かび上がる。哲学的に考察したらキリがないが、現実生活にあっては「人は他者がわからない。ましてや他者の心理や気持などはわからない」とぼくは割り切っている。
妙なもので、わからないと割り切るからこそわかろうと努める。とりあえず話し合う。議論もする。他者をわからないとクールに構えるぼくは結構他者理解に努力をしているつもりだ。むしろ、人同士は心が通い合い自然とわかるものだという連中のほうが油断して、誰のことも自分のこともわかっていないことが多い。彼らと話をしても、何も証明しないし、ただひたすら他人の心がわかると言うばかりだから、そんなものを信用するわけにはいかない。
難易度感覚はたしかに人それぞれだろう。しかし、難易度感覚に左右されることはない。それは理解度の最大瞬間風速センサーのようなものだ。難しい易しいと感じたことは事実だとしても、センサーの針の大きな動きに惑わされる必要はない。易しくてよくわかったことを記憶だけに留めて何もしないよりは、難しくてわからなかったことの一つでも実践できれば楽しい。学びの感想の軸を難易度から幸福度や愉快度にシフトするのがいいだろう。
ロジカルの程度
2010年7月26日 16:00
論理的という意味と同等に「ロジカル(logical)」が使われ定着するようになった。まずロジカルシンキングが目立つが、ロジカルリスニングにロジカルライティングというのもある。ロジカルスピーキングやロジカルコミュニケーションも研修タイトルとしてよく耳にする。実際、ぼくもロジカルシンキングとロジカルコミュニケーションという名称の研修を実施するが、以前も書いたように、シンキングよりもコミュニケーションに力点を置く。
上記のカタカナで呼称される研修は、思考力と言語の認知・伝達力の強化を主たる目的としている。しかし、論理的思考が成されているかどうかを直接的に知ることはできない。「きみは論理的に考えているかい?」と尋ねて、「はい、以前に比べてより論理的に考えることができるようになりました」と答えが返ってきたから、論理的思考ができている? そんな馬鹿げたことはないわけで、彼が論理的に考えているかどうかは、少々対話をしたり問答を交わしたりして判明する。思考と言語は論理的に同期するから、だいたい言語による説明や伝達ぶりを観察すればロジカルであるかそうでないかが明らかになる。
かつて「ロジカル度テスト」なるものを実施していたが、これは純然たるお遊び。論理学習を食わず嫌いしないようにと配慮したものだった。研修の冒頭でロジカル度を自己採点して、各自の点数に苦笑いしたり胸を張ったりしてもらったまでである。言うまでもなく、ロジカルに程度などない。ロジカルかロジカルでないかのどちらかしかない。デジタル的な「1か0」である。「あの人は彼女よりもロジカルだ」もなければ、「この文章はとても論理的である」もない。ロジカルに比較級も強調もない。あの人(あの文章)は論理的であるか非論理的であるかのいずれかなのだ。
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ロジカルと同じように、比較級変化せず、また形容詞の修飾を受け付けないのが、固有を意味する「ユニーク(unique)」。「とてもユニーク」や「きわめて固有の」などは日常会話では当たり前になっているが、よくよく考えれば、ユニークにも程度はない。ユニークかそうでないかである。「この作品はあの作品よりもユニークだ」とつい言ってしまいそうだが、「この作品はあの作品よりも固有だ」がありえないことは何となくわかってもらえるだろう。
ロジカルを「筋が通っている」に置き換えれば、「半分筋が通っている」という状態が奇異であることがわかる。あるいは、「一部脱線したり寄り道していたりするが、おおむね筋が通っている」も矛盾を抱えている。筋が通ると断言するかぎり、横道に逸れたり途切れたりしてはいけない。筋が二本通ってもいけない。通る筋は一本のみ、しかも真っ直ぐでなければならない。これこそがロジカルの本質なのである。
繰り返すが、人は少しだけロジカルになったりだいたいロジカルになったりできない。ある言説が前提と結論という構造をもつとき、その文章は論理的か非論理的かのいずれかである。「ぼくは生卵を手にしている。床は硬い大理石である。手を高く掲げて卵を床に落とせば割れるだろう」という推論はロジカルであり蓋然性も高い。但し、ロジカルであることと蓋然性があることはイコールではない。後者は現実に起こるかどうかの話である。もしその生卵が割れなかったとしても、上で成された推論がロジカルであることに変わりはない。
型を破る型はあるか、ないか?
2010年7月23日 08:00
型に縛られていないようだが、アイデアマンにも発想の型がある。「やわらかい発想ができる」という自信は、慣れ親しんだ型に裏付けられているものだ。「やわらかい発想」について話をするとき、ぼくは必ず型の説明をしている。「やわらかい発想に型などない。以上」では報酬をいただくわけにはいかない。やわらかい発想のためには常識・定跡・法則の型を破らねばならないが、型を破るための型を示さなければ、誰も学びようがないのである。けれども、ぼくはある種の確信犯なのだ。「型破りに型などあるわけがない」と思っている。
「破天荒な型」などと言った瞬間、そのわずか五文字の中ですでに自家撞着に陥っている。破天荒な人物に型があったらさぞかしつまらないだろうし、そもそも型を持つ破天荒なヒーローなどありえない概念なのである。破天荒にルールはなく、型破りに型はない。野球で言えば、ナックルボールみたいなものである。無回転で不規則に変化するボールの動きや行方は、打者や捕手はもちろん、投げた投手自身でさえわからない。ボストンレッドソックス松坂の同僚で、名立たるナックルボーラーのウィクフィールドだって「どんな変化をしてどのコースに行くかって? ボールに聞いてくれ」と言うに違いない。そこには決まった型などない。
だが、ちょっと待てよ(と書いて、少考すること2、3分・・・・・・)。行き先や動きが不明ということがナックルボールの型なのではないか!? ふ~む。嫌なことに気づいてしまったものだ。たしかに、ナックルボールには、投げたボールがどう変化してキャッチャーミットのどこに入るか(あるいは大きく逸れるか)が皆目わからないという明白な特徴がある。それを型と呼んで差し支えないのかもしれない。ついっさきの、型破りな型などないという確信をあっさり取り下げねばならないとは情けない。野球の話などしなければよかった。
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以上でおしまいにすれば、文章少なめの記事となり、いつものブログのスタイルを破ることができた。しかし、気を取り直してもう少し考えてみることにした。先の「破天荒な型」に話を戻すと、その型が定着したり常習的に繰り返されないならば、つまり、一度限りの型であるのなら、これは大いにありうる、いや、あっていいのではないか。
マニュアルやルールの批判者が、『マニュアル解体マニュアル』を著したり『ルールに縛られないための㊙ルール集』をまとめたりしたら、やはり節操がないと睨まれるだろうか。その批判者自らが提示する解体マニュアルと変革ルールを金科玉条に仕立てたら、当然まずいことになる。二日酔い対策のための迎え酒が常習化したら、昨日の酔いの気を散らすどころか、年中酒浸り状態になってしまう。
何となく薄明かりが見えてきた。マニュアルを一気に解体してみせる一回使い切りのマニュアルならいいのだ。また、ルールにがんじがらめに縛られている人を救うためのカンフル剤的ルールなら許されるのだ。したがって、型破りのための新しい型が威張ることなく、たった一度だけ型破りのために発動して役目を果たすなら、大いに褒められるべき型であるし共有も移植も可能だと思える。ここで気づいたが、この種の型のことをもしかすると「革命」と呼んだのではないか。
型という一種のマンネリズムを打破する方法は革命的でなければならず、その方法が次なるマンネリズムと化さないためには自浄作用も自壊作用も欠かせない。とにもかくにも、どんなに魅力ありそうに見える型であっても、型はその本質において内へと閉じようとする。型は決め・決められるものだから、個性や独創と相性が悪いのである。型を破ったはずの型を調子に乗って濫用してはいけないのだ。この結論がタイトルの問い《型を破る型はあるか、ないか?》の答えになっていないのを承知している。
本探しのおもしろさ
2010年7月21日 16:30
この本を読もう! と決意することはめったにない。そのように狙い定めるのは一年に十数冊程度で、その種の本はだいたいすでに買っていて手元に置いている。これから買いに行くときは書名がわかっているから、大書店では書名検索で端末を操作する。著者名で検索するのは、その著者の一冊を読んで気に入り、別の著作を探す場合に限られる。その場合でも、すでに読んだ本の著者プロフィールにたいてい代表作が載っているから、おおむね書名検索できることになる。
何年か前から古典を中心に読書しようと意識している。ここで言う古典とは「新刊ではない」と「トレンディーではない」という、ざくっと二つの条件を満たすものである。新刊かつトレンディーなものをまったく読まないわけではないが、全読書の一割にも満たない程度だ。最近では『追悼「広告」の時代』と先日取り上げた『日本人へ リーダー篇』のみ(いずれも本年5月発行)。「最新何とか事情」や「〇〇の常識とウソ」のような内容は、もし強い関心があればインターネットを利用するし、たいていは新聞のコラムや記事で済ましている。
大きな書店に行く主な理由は、若い頃に読んだが、すでに処分してしまったのを買って再読するためである。ついでに、読みそびれていた作品も少々(古典と称しているが、思想や文化や歴史が中心で、文学の類はさほど多くない)。それ以外に用はないので、ほとんど立ち読みはしないが、昨日も書いたように、丸々読む気はないが、少しチェックしたい本の目ぼしい箇所のみ、ほんの一、二分目を通す。なお、大書店にはテーブルと椅子まで用意して座り読みまで推奨している所があるが、そこまでするくらいならさっさと買ってしまう。
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古書店では立ち読みする。これは当然のことで、そもそも古本を売る店で立ち読みしない買い方などありえない。つい先日も、電子書籍ばかりになってしまったらこの立ち読みというのが消えてしまうのか、などと思っていた。古書店の最大の愉しみは当てもなく本を探すことである。まったく興味外れのジャンルの本であっても、一冊200円などの「情報価値の高そうな本」に出合えば立ち読みすることになる。買うのはせいぜい500円くらいの本までで、平均すると300円程度の本を買い求める。
最近では『偽書百選』という本が300円だった。垣芝折多という、ペンネームであることが明らかな著者である。巻末の解題に松山巖という人物が書いている。「垣芝折多は本書を書き上げ、ゲラを直した後、一週間も経たぬうちに急逝した。いともあっけない死であった。本書の文中にも、これを一度きりの仕事とすると断わる言葉が見えるし、私にも同じようなことを話していたから、それなりに心中期するものがあったのかもしれない。私は垣芝の幼なじみである。・・・・・・」
断わっておくと、垣芝と松山は同一人物で存命中である。この本で紹介されている書物は、拭座愉吉著『掃除のすゝめ』(明治七年)に始まり、春日トキ著『吾輩は妻である』(明治四十一年)、Q・リマッキー他著『スシ大スキ』(大正四年)、新宅建造著『住まいの未来』(昭和二十二年)などが続き、最後の第百書が本田要著『本を読まずに済ます法』になっている。すべての書物に3ページほどの書評もしくは解説文がついている。
『偽書百選』は二十年ほど前に週刊文春で連載されたものを収録したものだ。実は、ここに所収の百冊の本は書名にあるように「偽書」で、どれ一冊も現実に存在などしていない。すべて垣芝、すなわち松山の創作なのである。第四十六書の南海海雅著『第拾感主義藝術論』や第八十書の宇狩紋太著『失敗の学習』などは今すぐにでも手にとってみたいと思う魅力的な書名である。現実に存在する真書とそうでない偽書を画する一線は、手に入るか入らないかという違いのみ。ある意味で「偽書も書なり」なのかもしれない。何はともあれ、新しい文庫でも手に入る同書の初版の単行本が300円で読めるのがいい。この本ならネットでも買えるではないかと言われるかもしれないが、ぼくは試し履きもせずに靴を注文するような本の買い方になじめないのである。
大半の問題は良識で解決する
2010年7月20日 16:45
ぼくの習慣に倣って二年ほど前から気づくこと、見聞きしたことをノートに記録し始めたKさん。二冊目に突入した二、三ヵ月前、「気持が切れないようにするために、何か書いてほしい」と言ってきた(一冊目のときもそうだった)。そして、表紙を開けて最初のページを指差し、「ここにお願いします」。頼まれて揮毫などする立場でもないが、ありがたいことに彼はぼくを師と慕ってくれているようである。最近造語したばかりの四字熟語があったのでためらわずに油性ボールペンで書き、これまた求められるまま日付を入れて署名した。
「善識賢慮」というのがそれである。「良識」と書くつもりだったが、「良」という文字よりも「善」のほうがバランスが良さそうなので咄嗟に変えた。バランス以外に他意はない。格別なニュアンスの違いがあるのかもしれないが、善識と書いたものの意図は良識のつもり。これは、フランス語の「ボンサンス(bon sens)」の訳語であり、英語の「コモンセンス(common sense)」から訳された常識とは違う。意味に重なりはあるものの、良識は主として判断力にかかわる理性的な感覚である。先天的な普通の感覚ではない。これに対して、常識は健全な人なら誰もが持っている知識とされる。常識は、時と場合によっては、好ましくない強迫観念や固定観念の意味を込めて使われることがある。
ちなみに賢慮はアリストテレスのフロネーシスから「すぐれた思考」。四字熟語を書いた時点では、以上のような理解であった。その後何度か、人前で話す機会があり、良識と問題解決の関係についてぼくの考えていることを伝えたりした。「生活や仕事で知恵を発揮するのに天才である必要はない」という話である。アイデアの大部分が良識の範囲から生まれてくるものだ。そう、良識である。これは良識であって、常識ではない。常識はアイデアの邪魔をすることがある。ゆえに、「常識に振り回されるな、たいせつなのは良識だ」というひろさちやの主張に通じる(氏の『日本人の良識』は立ち読みしかしていない、悪しからず)。
☆ ☆ ☆
良識を発揮すれば、日常生活上や仕事上のほとんどの問題は解決できる。簡単にというわけではないが、現象としての問題に気づき、その原因に見当がつくのであれば、極上のひらめきや理性でなくても、まずまず明晰な判断力を用いれば何とかなる。但し、最上のソリューションを期待してはいけない。昨日が50点なら、ひとまず60点を目指すようなベター発想がいい。その時々の小まめな判断と解答を迅速にこなしていけば、アイデアがひらめくものだ。
こうして今日得たアイデアはベストな普遍法則などではないから、明日は役立たないかもしれない。しかし、別の課題に対してはそのつど日々更新していけばいい。小さな課題を小さく解いているうちに臨機応変のアイデアが増えてくるし、ひらめきの回路も鍛えられてくる。生活や仕事、ひいては人間関係や社会とのつながりをつねに動態的にとらえることができるようにもなる。天才を要する至高命題さえ棚上げすれば、良識は「よりよい価値創造」に働いてくれるのだ。少なくとも、ともすれば陥りがちな知的怠惰を未然に防ぎ、状況に応じた「機転のきく知恵」を授けてくれるだろう。
Kさんに四字熟語を贈ってから、おそらく三度目になると思うが、中村雄二郎の『共通感覚論』を読んでみた。良識についてこの本ほどよく考察された書物を他に知らない。ぼくの良識観がこの本の影響を強く受けていることが手に取るようにわかる。何ページにもわたって引用して紹介したいほどだが、今日のところは、ことば足らずを承知で都合よくまとめておく。
「良識という感覚は、ぼくたちと人との関係をつかさどる。細部のすべてがわからないまま全体を把握せねばならないときに、困難を打開してくれるのが良識。良識は葛藤する事実と理性の間で選択を促す。たえず更新される真理をめざす知的活動の源であり、生の意味を問いつつ思考と行動とを結びつける(公正の精神にもとづく)社会的判断力である」。
流されてしまう時代
2010年7月16日 18:00
意思をたくましくして事に処していても、人間一人が外圧に抗(あらが)う力はたかが知れている。外圧などという物騒なことばを使ったが、別に外から圧力がかかるまでもない。ごく自然に集団や雑踏の中に佇んでいても、意思とは無関係な「自己不在感」に襲われたときには、すでに流れに棹差すままの身になっている。
メディアに取り巻かれて流され、日々の生活が文化的なトレンドに流され、そして、今いるその場で人は流されてしまう。具体的には、テレビ・新聞・インターネット・書物に向き合って自主的に情報に接しているつもりが、気がつけば、相当ぶれない人でも河童の川流れ状態に陥っている。街を歩けば、グルメにファッション、立ち並ぶ店のディスプレイに取り込まれ、固有の嗜好だと思っているものさえ、実はサブリミナルに刷り込まれていたもの。会議や集いや居酒屋でも、全体を包む雰囲気に流される。流されていることに気づくうちはまだいい。しかし、流れの中にずっといると、流れているのは岸のほうで、自分は決して流されてなどいないと錯誤する。
個性ある人間として主体的に生きようと意識している、なおかつ強い意思によって世間を知ろう、また当世の文化にも親しもう、しかも空気に左右されぬよう場に参加しようとしている。そのはずなのに、ぼくたちはいとも簡単に流されてしまっている。あ、この一週間は早かったなあ・・・・・・まだ自分の仕事はほとんどできていないのに、雑用ばかりでもうこんな時間か・・・・・・貴重な時間は空虚に流れ去り、印象に残っているのはやるせないゴミ時間の記憶ばかり。
☆ ☆ ☆
流されないようにするための処方箋が「さらに意思を強くすること」しかないのであれば、もはや絶望的である。しかし、何も悲愴な面持ちで嘆き続けるだけが能ではない。無茶を承知で言うのなら、外界に向かって鎖国的に生きるか、あるいは世間やメディアから隔絶されたところに隠遁すればいいのである。そうすれば、少なくとも流されずには済むだろう。
だが、それでは社会的生活が成り立たなくなってしまう。ぼくたちは必要最小限の時事的情報を知らねばならず、さもなければ、人と交わり共同で何らかの仕事をこなしていくことはできない。たとえ鎖国・隠遁が可能だとしても、その生き方は引きこもりっぱなしのオタクと同じである。彼らが流されていないという痕跡は見当たらない。いや、実のところ、彼らの大半はゲームやインターネットや趣味の世界の中で流されてしまっている。
誰にでも効く処方箋を持ち合わせているわけではないが、ぼくはまったく悲観的ではない。抗しがたい急流にあって有用の時間のみを追わず、岸辺に上がって無用の時間に興ずればいいのではないか(無用の時間はゴミ時間ではない)。現実の情報・文化・公共の場などの意味体系から離脱して「引きこもり」、せめて一日に一時間でもいい、沈思黙考する時間を自分にプレゼントする。その一時間は外部環境の変化に一喜一憂しない時間である。世の中にわざと乗り遅れる一時間である。そういう時間を持つようになってまだ数年とは情けないが、じわじわと効いてきた気がする。ただのプラシーボ効果なのかもしれないが、かけがえのない至福の時間になりつつある。
エピソード学入門
2010年7月15日 16:00
エピソードとは逸話や挿話のこと。時の人物(場合によっては物事、現象)に関しての小さな話題であり、一見すると本筋ではないのだが、黙って自分だけの占有で終らせたくない小話だ。薀蓄するには恰好のネタにもなってくれる。また、どうでもよさそうな内容だけれども、案外記憶に定着してくれるのは、肝心の本題ではなく、こちらのほうだったりする。
雑学? いや、ちょっと違う。昨今の雑学はジャンル別になったり体系化されてしまったりしてつまらない。話がきちんと分類された雑学の本などがあって、襟を正して学ばねばならない雰囲気まで漂ってくる。雑学クイズはあるが、エピソードはあまりにも固有体験的なので、クイズの対象にならない。《エピソード学》という造語(?)が気に入っていて、数年前から講義で使ったり、何度か『最強のエピソード学入門』というセミナーも開催したことがある。きちんとした定義をしたわけでもないので、用語だけが先走ったのは否めない。
「十人十色」と形容されるように、人はみな違い、みな固有である。同時に、「彼も人なら我も人なり」という教えもある。諺や格言を集めてみれば、森羅万象、相容れない解釈だらけだ。このような相反する価値観にエピソード経由で辿り着く。おもしろい、愉快だ、なるほど、これは使えそう、馬鹿げている、非常識・・・・・・エピソードに対して抱く感情は、ぼくたちの思想や心理の鏡でもある。日常茶飯事はアイデアと創造につながるエピソードに満ちている。ぼくたちはそのことにあまり気づかないで、フィクションや夢物語ばかりをやっきになって追いかける。エピソードには、まるで虚構のような真実も隠れている。
☆ ☆ ☆
情報を知って、ハイおしまいなら、世間一般の雑学と変わらない。エピソードの良さは、考える材料になり、自作としてアレンジでき、そしてジョークにも通じるような、誰かに語りたくなる感覚を味わうことにある。
あるとき、駅構内で「インドネシアからお越しのクーマラスワーミーさま、クーマラスワーミーさま、ご友人がお待ちですので駅長室までお越しください」というアナウンスが聞こえてきた。ぼくが聞き取れたのだから、インドネシア語ではなく日本語であった。日本語でクーマラスワーミーさんに呼び掛けた? そうなのである。呼び出されたその人が日本語を解する人だったのかもしれない。しかし、それはそれ。日本語で外国人に丁重にアナウンスすること自体に可笑しさがある。
同じく駅のアナウンスで「ただいま2番ホームに到着の列車はどこにもまいりません」というのがあった。ホームに立ってじっと見ていた、これまた外国人が、動き出した列車を見てこう言った。「ドコニモイカナイトイッタノニ、ドコカヘイッタジャナイカ!?」 たしかに。列車は車庫へと向かったのである。
次はアメリカ人のエピソード。
「鶏ガラを使ったスープを私は飲まない。タマゴは食べるけど、それ以外の肉食系たんぱく質はとらない」という女性がいた。ベジタリアンであった。「なぜタマゴはいいの?」と聞けば、「タマゴはどんどん生まれるから」と答えた(何? 鶏だってどんどん育つではないか)。野菜ばかり食べる彼女は慢性のアトピーに悩まされていた。しかも、肉食に何の未練もないと言い張りながら、肉を模した豆腐ステーキを食べたがるのである。枝豆にしておけばいいのに、こんがりと焼けたステーキを「偽食」したいのである。
偶然外国人がらみのエピソードばかりになったが、必ずしも偶然とは言えない面もある。ことばや文化や考え方の異質性や落差がエピソードの温床になることが多いからである。もちろん、日本人・日本全体においても多様性が進み異質的社会の様相が色濃くなってきたから、一見ふつうの人間どうしの交わりからもエピソードがどんどん生まれてくる。敷居学、室内観相学、路上観察学などはすでにそれなりの地位を築いている。人間が繰り広げる行動にまつわるエピソード学もまんざら捨てたものではないと思うが、どうだろうか。
熟成一年のノート
2010年7月14日 11:45
ごく少数ながら、本ブログをフォローしてくれている研修受講生がいる。ほとんどの人とは一期一会だが、縁をきっかけにしてぼくの小さなテーマを何かの足しにしてもらえるのはありがたい。書き綴る内容は「思いつき」がほとんどだ。それでも、行き当たりばったりではない。思いついて考えたことをノートに書いているから、ほんのわずかな時間でも熟成はさせている。その日のことを取り上げても、紙のノート経由でこのオカノノートに至っている。
気まぐれに過去のノートをペラペラとめくる。現在取り組んでいる研修や私塾での話のネタ探しである。自分が書いたノートだから、詳細はともかく、ほとんど覚えている。なにしろ短時間でも熟成させてから読み直しているからだ。しかし、思いついてすぐに書きとめ、そのままにしておいて一年でも過ぎてしまうと、「こんなことを書いたかな?」という事態が発生する。一年という熟成期間のうちに、味がまったく変わってしまっている場合もある。
ほとんど記憶外であったが、昨年の8月5日に「みんなの党」について書いている(この日付の以前にも「みんな」という党名について難癖をつけたのだが、いつ頃どのノートに書いたのかはわからない)。今般の参院選挙で大躍進した党だ、その党についての何をメモしていたのだろうかと少々わくわくしながら読んでみた。
☆ ☆ ☆
次のように書いてある(原文のまま)。
みんなの党。政党にこのネーミングがありえるのだから、何にでも「みんな」を付ければいい。みんなの会社(という社名)、みんなの広場(という広場の名称)、みんなの電車(という各駅停車)・・・・・・。「みんなのみんな」などは哲学的な響きさえする。最大多数の最大幸福? 一人残らず「みんな」? 万人を前提にしているからと言って正解でもないだろう。マーケティングでは不特定多数を対象にする戦略はだいたい失敗に終わる。しかし、もしかすると、ぼんやりとした、サークル活動のようなこの名称によって、民主や自民のいずれにもない、「何となく感が漂う不思議な魅力」を無党派層にアピールすることになるかもしれない。ことばは力である。サークルの名称のようだからこそ、大それた動機でなくても集まりやすいということがありうる。
先日の結果はこの通りとなった。別に己の洞察力を自慢しているわけではない。この程度の推論なら、昨今のリーダーシップ不在、信の不在を凝視したら、容易に導くことはできるだろう。そして、おもしろいことに、比例代表に関しては、有権者はみんなの党の候補者みんなに投じたのである。なんと個人名得票の10倍もの政党名得票を達成したのだ。これは、ほとんど共産党の比率に等しい。これが何を意味するか、今日のところはアナロジーを急ぐことはないだろう。
政党名を書くのと個人名を書くのは、同じ党を支持するにしても、有権者の動機なり党主導の戦略なりは異なっている。民主党は政党名が個人名の3倍強、自民党もほぼ3倍。ところが公明党は政党名得票が個人名得票を下回っている。有権者の裁量任せならこうはならないから、党戦略が支持者に広く浸透した結果に違いない。
政治の話がテーマではなかった。一年の熟成期間を経たノートの話である。A地点とB地点に立てば異なった眺望が得られる。情報Aと情報Bを同時に見れば何らかの複合価値に気づくかもしれない。同じテーマでも時期Aと時期Bのような時間差があれば、少しでも線的思考が可能になる。やっぱり書いたノートは読み返さなくてはならない。それは記憶の底に沈殿してしまった気づきや考えを攪拌することでもある。
何も聴かない、何も読まない
2010年7月13日 15:20
有名な酒造メーカーの高級ブランドウィスキーの広告に「何も足さない、何も引かない」というのがある。ご存知の方も多いだろう。「純」であることを訴えるのに純粋という陳腐な言い回しをしないのがいい。足しも引きもしないという表現からぼくたちは自然をイメージしてしまう。なかなか秀逸なコピーだと感心したものである。
けしからぬミート加工業者が数年前に摘発されたとき、ぼくはこのコピーを本歌にして「何でも足す、何でも挽く」なるパロディーを創作した。表示された食肉以外の肉を足し、何でもかんでもミンチ状に挽いたありさまを諷刺してみたのである。それをきっかけにもう一丁とばかりにひねったのが「何も聴かない、何も読まない」である。音楽も聴かなければ本も読まないという見たままの文意ではない。実は、もう少し意味深長のつもりである。
作意を披露する前に、もったいぶって伏線を張っておこう。先日、書店で平積みしてある『日本人へ リーダー篇』と題された本を手にした。著者は、全三十数巻の大作『ローマ人の物語』の塩野七生。平積みの最新刊を求めることはめったにないが、携行した本を出張先で読み切ったときには、時々その種の本を買うことがある。いきなり「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと思う現実しか見ていない」というユリウス・カエサル(英語名ジュリアス・シーザー)のことばが紹介される。著者はこのことばが気に入っているようで、『ルネサンスとは何であったのか』の中でも使っている。そこでは、「人間性の真実を突いてこれにまさる言辞はなし」というマキアヴェッリの賞賛も添えている。
☆ ☆ ☆
ここで注目すべきは「多くの人は、見たいと思う現実しか見ていない」という後段である。見たいという行為だけにとどまらず、「したいことしかしない」や「考えたいことしか考えない」や「欲しい情報しか求めない」などへ敷衍することができる。これらの性向を説明してくれるのが、《認知的不協和理論》だ。人は自分の考えに合っていることや自分の都合によくなる情報だけを使い、都合の悪いことから目線を逸らす。すなわち、人は欲求するところを中心に推論する癖を持つのである。
さて、「何も聴かない、何も読まない」に話を戻そう。これは、聴いているようで実は何も聴いておらず、読んでいるようで実は何も読んでいないという意味なのである。「聴きたいことだけを聴き、読みたいことだけを読む」のならまだしも、多くの人は、聞き覚えのあることや読み覚えのあることにはあまり集中しようとはしない。いや、わざわざ意識して集中しなくても、聞き流し読み流すだけで十分とタカをくくっているのである。困ったことに、すでに知っていることに対してはきわめて御座なりに済ませてしまうのだ。
では、聴いても読んでも難解な事柄に対してはどんな態度をとるのか。今度は、聞き飛ばし読み飛ばす。要するに、わかっていることにはいい加減に相槌を打ち、わからないことには聞かざる見ざるを決め込むのだ。こうして、「何も聴かない、何も読まない人間」が出来上がってしまう。事柄が既知であろうと未知であろうと、聴く・読むという認知は集中を要する。集中を怠れば、聴ける範囲内で聴き、読める範囲内で読むという惰性に流れる。聴けたり読めたりするはずの事柄すらうわの空という状態だ。好きなものばかり食べていたら、やがてその好物の味そのものがわからなくなるのである。
学び上手と伝え上手
2010年7月11日 11:15
無意識のうちに「知識」ということばを使っている。そして、知識をアタマに入れることを、これまた無意識に「学び」と呼んだりしている。学ぶとはもともと「真似」を基本として習い、教えを受けることであった。プロセスを重視していたはずが、いつの間にか「知識の定着」、つまりインプットに比重が置かれるようになった。現在、一般的には、学びが知識の習得という意味になっているような気がする。
教えを受けるにせよ本を読むにせよ、知は自分のアタマに入る。「知る」という行為はきわめて主体的で個人的だ。ぼくが何かを知り、それを記憶して知識とする過程に他人は介在しないし、とやかく言われることもない。ぼくの得た知識はひとまずぼくのものである。だが、どんなに上手に学んだとしても、知識を誰かと共有しようとしなければ、その知は存在しないに等しい。共有は伝達によって可能になるから、伝えなければ知は不毛に孤立するばかりだ。
高校生だった1960年代の終わりに、情報ということばを初めて知った。知識が「知る」という個人的な行為であるのに対して、情報には「伝え、伝えられる」という前提がある。やがて、情報化の進展にともない、知識ということばの影が薄くなっていった。
ちなみに、「知る」は"know"、その名詞形が"knowledge"(知識)。他方、「伝える」は"inform"、その名詞形が"information"(情報)。動詞"inform"は「inform+人+of+事柄」(人に事柄を伝える)という構文で使われることが多いから、このことばには他者が想定されている。伝達と同時に、共有を目指している。このように解釈して、二十年ほど前から、「知識はストック、情報はフローである」と講演でよく話をしてきた。
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情報は空気のようになってしまったのか、調べたわけではないが、情報を含む書名の一般書がめっきり減ってきたような気がする。二十一世紀を前にしてピーター・ドラッカーやダニエル・ベルが知識について語ったとき、それは情報をも取り込んだ、高次の概念として復活した知識だったのだろう。昔の大学教授のように、ノート一冊程度の講義録で一年間持たせるような知識の伝授のしかたでは、おそらく共有化した時点で知は陳腐化しているだろう。
記憶するだけで誰とも知識を共有しようとしない者は「知のマニア」であって、学び上手と呼ぶわけにはいかない。知のマニアとは知の自家消費者のことである。誰にでも薀蓄する者は疎ましい存在と見られるが、学んだきり知らん顔しているよりはうんと上手に学んでいると言えるだろう。学び上手とは、どんなメディアを使ってでも誰かに伝えようとする、お節介な伝道師でもあるのだ。
プラトンが天才的な記憶力の持ち主であったことは明らかだが、彼が利己的な学び手でなかったのは何よりだった。一冊も著さなかった偉大なる師ソクラテスの対話篇や哲学思想は、プラトンなくして人類の知的遺産にはなりえなかった。プラトンはソクラテスに学び、そして学びを広く伝えたのである。イエスと弟子、孔子と弟子の関係にも同様の学習と伝達が機能した。言うまでもなく、誰かに伝えることを目的とした学びは純粋ではない。まず旺盛なる好奇心によって自分のために学ばねばならないだろう。そして、その学びの中に誰かと共有したくなる価値を見い出す。他者に伝えたいという抗しがたい欲求を満たすことによってはじめて、学びは完結する。
答えは一つなのか
2010年7月 7日 17:30
「アルファベットのRとTの間に入る文字は何か?」 この問いに対してふつうは"S"と答える。アルファベットは26文字の集合なので、必ずしも「ABC・・・・・・XYZ」と並ぶことを強要してはいない。とはいえ、「アルファベットを言ってごらん」と言われれば、ぼくたちはたいていAから順に暗誦する。どうやらアルファベットには「順列」も備わっているらしい。実際、名詞の"alphabet"を副詞の"alphabetically"にすると、英語では「(アルファベットの)ABC順に」という意味になる。
「アルファベットのRとTの間に入る文字は何か?」と聞かれて、たとえば"RAT"(ドブネズミ)が思い浮かんだので"A"と答えるとする。おそらく間違いとされるだろう。出題者がその答えを求めているなら、「RとTの間にアルファベット一文字を入れて意味のある単語を作りなさい」とするはずだ。したがって、「アルファベットのRとTの間に入る文字は何か?」への答えはただ一つ、"S"でなければならないと思われる。
このような次第で、答えはつねに一つになるのか? たしかに、上記の例のような既知の事柄については唯一絶対の解答はありうる。他にも、都道府県の数は? 平安京遷都は西暦何年? 元素記号でLiは何を表わすか? などの問いは一つの答えを要求しており、解答者がそれぞれの正答である「47」、「794年」、「リチウム」以外の答えを編み出すことはできそうもない。期待された正答以外の創意工夫をしても、ことごとく不正解とされるはずだ。
絶対主義は真なるものを存在させようとする。真なるものは文化や歴史の枠組や文脈とは無関係に一つであるとされる。たとえば、学校のテストで「アメリカ大陸を発見したのは誰か?」という設問に、「コロンブス」をただ一つの正解として認めるようなものである。だが、ちょっと待てよ。ついさっき、既知の事柄については唯一絶対の解答は「ありうる」と書いた。意識してそう書いたが、これを裏返せば、ない場合もあるということだ。
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コロンブスの代わりに、「クリストファー・コロンブス」と名と姓を挙げてもおそらく正解になる。だから、すでに「一つの正解」が崩れている。さらに屁理屈をこねれば、いくつでも答えらしきものをひねり出すことができるだろう。この問いが日本の中学生に出題されたのであれば、「外国人」と答えてもいいし、「もしそれが1492年でないならば、アメリゴ・ベスプッチ」と洒落てみることもできる。もし設問が「コロンブスがアメリカ大陸を発見したのはいつか?」であれば、必ずしも年号を記す必要はない。「中世の時代」でも「15世紀末」でも広義の正解になるし、とてもアバウトだが「ずいぶん昔」でも外れてはいない。明らかに、既知の事柄に関して絶対主義的立場から導く答えも一つとは限らないのだ。問いの表現に解釈の余地があれば解釈の数だけ答えも生まれることになる。
そうであるならば、相対主義に至っては古今東西の文化圏の数だけ、いや人の数だけ異なった解答がありうることになる。では、既知ではなく、未来の方策についてはどうか。これを答えと呼びうるかどうかは別にして、やはり一つに限定するのは無理がありそうだ。
たとえばひどく疲れているぼくが疲れを癒す方策は、適当に思い浮かべるだけでも、睡眠、風呂、散歩、体操、栄養剤、音楽など枚挙に暇がない。数時間先または明日、明後日に効果を待たねばならないから、どれがもっとも有効な方策かを今すぐに決めることはできない。この点では正解はわからない。しかし、正解候補はいくらでもある。実際、すべてを試してみれば、すべてが正解として認定できるということもありうるだろう。
何が何でも正解を一つにしたければ、「コストパフォーマンスの高いもの」や「即効性の強いもの」などの条件を設定したうえで、すべての方策を何度か繰り返してデータを取るしかない。睡眠時間の長短、風呂の温度と水量、散歩や体操の時間と強度、栄養剤や音楽の種類など気の遠くなるような定性的・定量的テストを重ねる。それでもなお、ぼくが自分の疲労条件をまったく一定にすることなど不可能ではないか。未来に求める答えを一つに絞ることがいかに空しいかがわかるだろう。正解候補も答えもいくらでも存在するのだ。どれをベストアンサーにするかは、最終的にはほとんど信念である。
考えることと語ること
2010年7月 6日 16:30
だいぶ前の話になるが、コミュニケーションの研修のたびにアンケートを取っていた。いくつかの問いのうちの一つが「コミュニケーションで悩んでいることは何か?」であった。そして、二人に一人が「考えていることをうまくことばにできない」や「思っていることを他人に伝えることができない」と答えたのである。これらの答えの背景には「自分は何かについて考え、何かを思っている」という確信がある。その上で、そうした考えや思いを表現することばに欠けているという認識をしている。はたして言語はそのような後処理的なテクニックなのだろうか。
「思考が言語にならない」という認識はどうやら誤りだということに気づいた。ほんとうに考えているのなら、たとえ下手でも何がしかの兆しが表現になるものだ。幼児は、バナナではなくリンゴが欲しいと思えば、「リンゴ」と言うではないか。それは、バナナと比較したうえでの選択という微妙な言語表現ではないが、思いの伝達という形を取っている。「リンゴ」と言わないうちはリンゴへの欲求が、おそらく不明瞭な感覚にとどまっているはずだ。子どもは「リンゴ」と発すると同時に、リンゴという概念とリンゴへの欲望を明確にするのである。
「言葉は思考の定着のための単なる手段だとか、あるいは思考の外被や着物だなどとはとても認められない」「言葉は認識のあとにくるのではなく、認識そのものである」(メルロ=ポンティ)。「言語は事物の単なる名称ではない」(ソシュール)。「言語の限界が世界の限界である」(ヴィトゲンシュタイン)。粗っぽいまとめ方で恐縮だが、これら三者はそれぞれに、言語と思考の不可分性、言語とモノ・概念の一体性、言語と世界観の一致を物語っている。
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ぼくたちは何度も繰り返して発したり書いたりしたことばによって思考を形作っている。未だ知らないことばに合致する概念は存在しない。いや、不連続で茫洋とした状態で何となく感覚的にうごめきはしているかもしれないが、それでも語り著すことができていないのは思考というレベルに達していない証しである。先のヴィトゲンシュタインは、「およそ語りえることは明晰に語りうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない」とも言っている(『論理哲学論考』)。語りえることと考えうることは同じことだとすれば、語っている様子こそが思考のありようと言っても過言ではない。
以上のような所見が異様に映るなら、相手が想像すらしていないことについて質問してみればいい。相手は戸惑い沈黙するだろう。これではいけないとばかりにアタマの中に手掛かりを求めるが、白紙の上をなぞるばかりでいっこうに脈絡がついてこない。ますます焦って何事かを話し始めるが、明晰からは程遠い、無意味な単語を羅列するばかりだろう。あることについて知らないということはことばを知らないということであり、ことばを知らないということはことばにまつわる概念がアタマのどこにもないということなのである。
芸人のなぞかけが流行っている。「○○とかけて××と解きます。そのココロは・・・・・・」という例のものだ。まず「○○」が初耳であれば解きようもない。仮に「○○」が知っていることばであっても、かつて思い巡らしたことすらなければ、整わせようがない。たわいもないお遊びのように見えるが、実は、あの技術は言語力と豊富な知識を必要とする。そう、明晰に語ることと明晰に考えることは不可分なのである。ことばが未熟だからと言い訳するのは、思考が未熟であることを告白していることにほかならない。
もしBを望むならAをしなさい
2010年7月 5日 11:20
先週に取り上げた『知はどのように鍛えられるか(1/2)』の中で、「思考が運命を変える」という法則が真理だとしても、思考そのもののありようや鍛え方が難しいという趣旨のことを書いた。また、「グズをなおせば人生はうまくいく」にも両手を挙げて賛成するが、グズを直すのがネックであるという意味のことも付け加えた。
これに対して知人から「(反論というわけではないが)全面納得はできないので、もう少し説明してもらえればありがたい」という話があった。なるほど、「命題として記述された法則を認めているくせに、その法則には現実味がないぞ」とぼくは言っているのである。しかし、そんなに変なことだろうか。わかりやすい例を取り上げれば、「丹念に毎日歯の手入れをすれば、虫歯や歯周病は防げる」に対しては、大勢の人々は是の立場を取るだろう。実際ぼくが定期的に通っている歯医者さんもそう言っている。
しかし、この例も、先の二つの例も、実は《仮言命題》という類の命題になっている。いずれの命題も、「もしBを望むならAをしなさい」という表現形式に変換できるのである。つまり、「運命を変えたいのなら思考を何とかしなさい」、「人生をうまく送りたいのならグズを直しなさい」、「虫歯や歯周病にかかりたくないのなら、毎日きちんと歯を手入れしなさい」と読み替えることができるのだ。「Aをしなさい、そうすればBが実現する」という文章は、「もしBを望むならAをしなさい」という意味を記述している。
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上記の命題が正しいことを論理学的に証明するのはさほどむずかしくはない。通念に訴える論拠を使えばいいからだ。しかし、現実に実践してみせることは至難の業である。うまく思考すること、グズを直すこと、毎日歯の手入れをすることは、言ってみるほどたやすくはなく、それゆえに目指した願望がなかなか実現しないのである。念のために、もう一つ例を挙げておこう。「NASAの宇宙飛行士になれば、宇宙に行けるチャンスがある」は、「もし宇宙に行きたいのなら、NASAの宇宙飛行士になりなさい」と記述変更できる。望むのは勝手だが、手段が成功する確率が天文学的であることがわかるだろう。
「夢は叶う」などと軽々しく言う教育者がいる(それはそうだろう、「夢なぞ叶わんぞ!」と言ってしまえば、一極集中的な非難を浴びせられるからだ)。だが、「夢が叶う」ためには並大抵ではない努力が必要なことを、実はみんなわかっている。具体的な習慣ですら三日坊主になりかねないのに、抽象性の強い努力がほんとうに続けられるのか。教育者たちはこのことについてあまり正直に語らないのである。だから、彼らは努力の部分を安易なハウツーに変えてしまう。「おいしい卵料理を作りたければ、レシピの研究をして毎日挑みなさい」と言わずに、「卵の黄身と卵白を取り出したいのなら、卵を割りなさい」という、ほとんど機械的で努力を要しない命題へとレベルを落として、「できた気」にさせ束の間の満足を与えるのである。
「マナーを向上させたいのなら、マナー教室に通いなさい」などという仮言命題は、ほとんど「トートロジー」という循環論法になっている。マナー教室に通うのにさしたる努力はいらないし、なるほど数回ほど通えば、よほどのバカでもないかぎり、少しはまっとうなマナーを身につけて帰ってくるだろう。「喉が渇いたなら、水を飲みなさい」にかぎりなく近い話だ。これが社会人を対象とした学びの定番になりつつあることを嘆くべきではないか。つまり、本来やさしいことをやさしく学んでいるにすぎないのだ。だから、いつまで経っても一皮剥けるほどの成果を得ることができない。
ぼくの私塾はこうしたトレンドへのアンチテーゼのつもりだ。「もし人間関係を充実させ良き仕事をしたいのなら、思考力と言語力を鍛えなさい」というのがぼくの仮言命題である。そして、思考力と言語力を鍛えるのは他のどんなスキルアップよりもむずかしいことを付け加える。ある意味で、この命題は仮言命題などではなく、「思考力と言語力は人生そのものである」という《定言命題》と言ってもいいだろう。考えもせず対話もしない人間は、地球上の全生命体のうちでもっともひ弱な存在になり果てる。
「最初はノー」
2010年7月 2日 14:45
とてもおもしろい資料が出てきた。B5判用紙が30枚。両面印刷なのでノンブルは60ページまで付いている。各ページの文字数が40字×43行だから合計1720字。相当な分量の資料になる。文庫本なら一冊に相当するかもしれない。
今から13年前(当時46歳)の講演録だ。タイトルは『ディベートから何を学ぶか』。主催・対象ともに行政の職員組合のメンバーで、1回2時間半のセミナーを3回シリーズでおこなった講演とディベート実習の模様を収録している。懐かしさも手伝ってざっと目を通した。今でこそ年季の入った緩急自在(?)な話し方をするようになったが、当時は終始早口で、特にディベートをテーマにした話の場合は、初心者が戸惑うほど流暢だったのではないかと思う。
懐かしさ以上にあらためて驚嘆したのは、その講演を収録したテープ起こしを担当したF氏の尋常ならぬ執念である。出版するわけでもなく、学んだ仲間十数名で共有するだけの資料づくりに、よくもこれだけのエネルギーを費やしたものだと感じ入る。ぼくの話は筋が通っているとは思うが、近接領域へとよく脱線するし、話がどんどん膨らむし、しかもテーマがディベートだけに、難解な用語やカタカナも頻出する。再生と巻き戻しを繰り返してテープレコーダーを操作しては一時停止し、一言一句文章化していったF氏の姿が浮かんでくる。
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ディベートにつきものの反対尋問、とりわけイエスとノーで問うことの意味については第2回の講演で説明している。しかし、もう一点、かつてのディベート研修では必ず冒頭のほうで取り上げていた金言が漏れている。今となっては出典がわからないのだが、文言だけはよく覚えている。「あなたの意に反して即断を迫られた時にはノーと答えよ。イエスをノーに変えるよりもノーをイエスに変えるほうがたやすいから」というのがそれだ。「迷ったらノー」が原則で、ノーからイエスへの変更に対して交渉相手は文句は言わないが、イエスと言っておきながら土壇場でノーに変えるのは潔くなく、それどころか、相手の反感を買うという教えである。ジャンケンの掛け合いは「最初はグー」だが、対話や交渉のスタンスでは「最初はノー」ということになる。
ディベートの肯定側と否定側のように、あるテーマを巡って対立している二人が対話を始めるとき、心の中では「最初はノー」を唱えておくのがいい。ディベートの対立図式は終始変わらないが、日々の対話ではノーから始めて徐々に接合点を見つけ、やがて各論的にイエスにシフトしながら、理想的には少しでもコンセンサス部分を増やしていく。物分かりのいい「最初はイエス」でお互い受容し共感し合っても、検証不十分のツケは後で回ってくる。最初はいいが後々になって縺(もつ)れてくると事態の収拾がつかなくなる。
意気投合というようなバラ色の出発をしてしまうと、小さな違和感一つが大きなひび割れの要因になってくる。「一週間で納品してくれるか?」と聞かれ、仕事欲しさのあまり「イエス」と慌てて答え、納品のその日になってから「すみません、あと一日いただきたいのですが」と申し出たら、発注者は心中穏やかではない。「君ができると言ったから頼んだのだぞ!」と叱責される。安易にイエスから入ってノーで風呂敷を畳むことはできないのである。
「結婚してくれる?」と男がプロポーズし、女が「はい、喜んで」と答える。一週間後、「ごめん、やっぱりノー」と変更したら、これは事件である。もしかすると、本物の事件になるかもしれない。反対に、ずっとノーを言い続けた女が最後の最後にイエスに転じたら、もう一生涯男を尻に敷くことができるだろう。ぼくの場合、ノーから入って仕事の機会を失ったこともあるが、最初に「できないことをできない」と明言する「誠意」によって圧倒的に機会に恵まれた。但し、「最初はノー」はあくまでも原則論であって、昨今は一度のノーで「あ、そうですか」で終わりになることも多々あるから、杓子定規は考えものである。
中立的立場によって見えるもの
2010年7月 1日 08:15
これは癖(へき)というしかないが、中立的な立場でスポーツを観戦するようになって久しい。完全中立はありえないものの、勝敗結果を冷静に受け止め喜怒哀楽を表に出さない。その時々の成績や勝敗にめったに一喜一憂しないのである。それでも、日本選手が国際大会で活躍し表彰台に上ることを願っているし、現実にそうなれば祝福もする。だから、ぼくの飄々とした態度に反応して、「日本選手が勝ったのにうれしくないのか!?」とか「日本チームが負けたのに悔しくないのか!?」と詰問されても困るのだ。感情を見せなくても、勝ったらうれしいし、負けたら悔しいのは言うまでもない。
ふがいない日本国の状況や日本人を見るたびに辛口論評したくなるぼくではあるが、アイデンティティがカメルーン色になったりオランダ色になったりデンマーク色になったりと七変化するわけがない。おそらく一定して日本カラーである。パラグアイに縁もゆかりもないし、遠い親族にもパラグアイ人は見当たらない。したがって、一昨日のワールドカップ観戦にあたって、ぼくの心情は当然日本チームに傾いていた。ただ、悔しさのあまり眠れなくなるなどということはありえないし、あのときゴールが決まっていたらなどと無念を引きずらないのである。
ところで、二大会前の日韓開催時に運よくベルギー大使館経由でベルギーvsブラジルのチケットを手に入れた。そして、サッカーとは縁のない格好で神戸に出掛けて観戦した。圧倒的なブラジル色の観客やサポーターにまぎれて、小ぢんまりとしたベルギーゾーンで一度も立ち上がりもせずに淡々と観戦していた。ホットにならないから「こいつは義理で来ているのか」と周囲の知り合いに思われたかもしれないが、そんなことはない。ぼくなりに十分に戦況を見つめて分析し、展開推理も楽しんでいた。ちなみにサッカーはお気に入りスポーツの一つである。ただ、テレビによく映し出される狂信的なサポーターからは程遠い。
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野球の日本選手はアジア予選を勝って歓喜に酔った。マスコミはこぞって賛辞を送った。ところが、本番の北京五輪ではメダルにも手が届かず、星野氏は名監督の座から引きずりおろされた。これとは逆に、今回のサッカーワールドカップへの評価は終り良しとなった。「岡田更迭および期待薄」から「監督賞賛および大健闘」への鞍替えだ。しかし、目標のベスト4に届かなかったという点では、岡田氏自身が吐露したように「力不足」だったのである。数学50点の子が目標の90点に届かず、70点に終った。これを「よくやった」と見るのは現状50点からの視点である。目標の視点に立てば、やっぱり力が足りなかったと言うべきだろう。
たとえ運も絡むと言われるPK戦の敗北であっても敗北には変わりはない。PKのシュート一本の成否で2時間の戦いに決着がつくのはつらいが、勝負はそのように決まるものだ。歓喜と落胆は紙一重。短期間に生じるであろう浮き沈みに対して、変化のたびに一喜一憂しても仕方がない。だから、ぼくは短兵急に褒めたり貶(けな)したりしないようにしている。一瞬をとらえての気まぐれな毀誉褒貶(きよほうへん)によってぼくたちは誤る。
大会直前の4連敗で岡田監督の采配に批判が集まり、選手の戦いぶりも叩かれた。あの4試合が仮に「快勝、惜敗、辛勝、完敗」と様々であったなら、マスコミもファンもそのつど一喜一憂するばかりで、風見鶏的な評価を繰り返していたに違いない。前哨戦は前哨戦であり、前哨戦の力量が本番でもそのまま発揮されるのか、それ以上になるのか、それ以下になるのかは、実際に戦ってみなければわからない。たしかに、臨場感を爆発させて一喜一憂するのがスポーツの醍醐味であることを承知している。しかし、そうであるならば、もっと単純に自分や仲間内での感情の発露にとどめるべきで、当事者に向けて、いかにも分析的らしく、したり顔の最終結論めいたコメントを尻軽にすべきではない。
「延長戦のあの場面で1点を取っていたら・・・・・・」と誰かが言うから、「それを言い出したら、パラグアイだって同じ思いだろう」とぼくはコメントした。涙の対岸には歓喜がある。こちらが喜べば相手が悲しむ。それがスポーツだ。感情移入して一方に肩入れする観戦もあれば、ぼくのようにいずれかを応援しながらも、勝負の摂理や機微を楽しむ方法もあるだろう。
対抗ゲームにおいて中立的見方を楽しむようになったのは、長年のディベート審査体験と無関係ではない。力が拮抗していれば勝ったり負けたりが常であることを知っている。一方に偏して討論に耳を傾けるのではなく、肯定側vs否定側の関係図式上にゲームを眺める。スポーツも同じで、私情を消し去れないことをわかったうえで、なおかつ精一杯中立的に眺めてはじめて感じられるおもしろさがある。選手たちと一体になるような応援の形態もあれば、選手たちの活躍ぶりを静かに観戦する形態もあっていい。ぼくは後者型であるが、冒頭でも書いた通り、これは癖である。



