2010年8月アーカイブ
トップの思い上がり
2010年8月31日 14:15
「笑い」と「お笑い」について昨日書いた直後に、八年前のある一件を思い出した。そのことについてノートに書いていたのも記憶にあり、探してみたら見つかった。上方漫才奨励賞を受賞した漫才兄弟「中川家」が、吉本興業の意向で賞を辞退した話である。当時の新聞記事を要約すると、おおよそ次のような内容になる。
ラジオ大阪と関西テレビ放送が主催した「第37回上方漫才大賞」は、年間を通じて活躍した関西の漫才師に贈られる賞。大賞は松竹芸能の「ますだおかだ」、奨励賞が中川家に内定していたが、吉本興業の意向で中川家が受賞を辞退した。中川家は前年暮れの「M-1グランプリ2001」の優勝者である。同大会は吉本興業が主導。M-1チャンピオンが別の漫才大賞で奨励賞というのはM-1の結果を否定することになるから、中川家の了解を得て辞退させた。
今さらながら呆れるが、よくもこんなことがまかり通ったものである。当時の吉本興業の常務で、その後も報道番組などでコメンテーターを務めたりもしていたK氏の談話はこうだ。「思い上がりと思われるかもしれないが、うちが主導した賞の優勝者が二番目なのは納得できない」。本人が明言した通り、思い上がりもはなはだしいコメントであり対応でもあった。なにしろ上方漫才大賞37年の歴史で辞退という異例は初めてのことだったのである。
☆ ☆ ☆
お笑い業界に笑って済ませる度量がなく、こんな幼稚で見苦しい対抗策がありうるのかと苦々しく思ったものである。今後一切、吉本の漫才に腹を抱えて笑うことはないだろうとも思った。業界トップにあって名の知れた役員が「納得できない」と吐き捨てたのだ。彼が仕掛けてきたお笑いに何度か笑った己の愚を大いに戒めた次第である。この一件には、お笑いに素直に笑えない事情が潜んでいる。
他の業界やスポーツやコンテストにこんなことがありえるだろうか。五輪を制したアサファ・パウエルが別の大会でタイソン・ゲイに敗北して、銀メダルを返上するようなものである。陸上100メートルは自力勝負で、漫才コンテストには他者評価が入るという違いはあるものの、後者の1位・2位の決め方はそれ以外にありようがないから、これを実力と見定めるしかない。そして、実力というものは、レースやコンテストごとに変わるのが常で、したがって順位に変動があってしかるべきなのだ。
ダービーの勝ち馬は、そのままスライドして菊花賞でも1着でなければならないのか。菊花賞が2着ならダービーの威厳が崩れるとでも言うのか。M-1チャンピオンが上方漫才大賞の2位であることを容赦できぬという理由で賞を返上? このような態度をぴったり表現することばが「傲慢」だ。何よりもひどいのは、吉本主導というのは自前の大会ではないか、その「身内1位」がそれ以上に公共色の強い大会で2位になって何の不思議があると言うのだ。学級委員長が生徒会長でなければいかんという屁理屈に近い。この一件は漫才の話などではなく、「傲慢罪」と呼ぶにふさわしい茶番であった。
「笑い」と「お笑い」
2010年8月30日 08:00
今さら「笑い」と「お笑い」の違いを確認するまでもないだろうが、念のために手元の広辞苑を参照してみた。【笑い】の筆頭定義には「わらうこと。えみ」とある。この程度の字句説明でやむなしか。とってつけた定義が必要ないほどの基本中の基本語だ。では、「お笑い」はどうか。こちらは【笑い】の三番目の定義として扱われ、「(「お―」の形で)笑うべきこと」と書かれている。「お笑いを一席」と「とんだお笑いさ」の二つの例が挙がっている。
「お」一つが付くだけでだいぶ意味が変化している。少くとも「とんだお笑いさ」には、愉快ゆえに笑っているような風情はなく、己に対しては嘲(あざけ)り、他者に対しては蔑(さげす)むニュアンスが込められている。もう一つの、「お笑いを一席」のほうは芸人を窺わせる。そこで、「お笑い」という見出し語があるのかと思って見れば、ちゃんとあった。「客を笑わせることを目的とした芸。特に落語」と説明され、「お笑いタレント」という用法が出ている。
「笑い」は行為そのものであり、他方、「お笑い」は一つの業界を示している。箸がこけて笑い、子どものしぐさに微笑むように、ぼくたちはおもしろい落語や漫才に興じて笑う。しかし、お笑い業界自体に笑いが付随している保証はない。「お笑い」にはおもしろくない落語や漫才や一人芸も含まれ、見たり興じたりしても、実際に笑えるとはかぎらないのだ。むしろ、興ざめしたり、あまりのひどさに腹立たしさを感じてしまうことすらある。「お笑い」はア・プリオリな笑いとは無関係で、演じる前から先天的・生得的な笑いがそこに内蔵されてなどいない。
☆ ☆ ☆
知人と話していて、テレビでのお笑いの露出度がめっきり減退したという点で意見が一致した。正確に言うと、生き残ったお笑い芸人たちは今もテレビに出ている。しかし、業界での出発点となった「本業」を誰一人として演じてはいない。彼らは、ここ数年、たとえ1~3分程度のごく短い持ち時間であっても、本業で露出する機会を与えられてきた。お笑いブームだったこともあるだろう。だが、彼らが実績を築いた頃の漫才・コント・ピン芸を再見しようと思えば、DVDを買うか、寄席か劇場に行くか、あるいは「営業」と呼ばれる、たとえばショッピングモールでのイベントなどで出くわすしかない。
かつて大賞を受賞した一握りの成功者さえ本業を披露する機会に恵まれない。もう本業はどっちでもいいのだろうか。一つの登竜門をクリアしたら、あとは芸人として食えるのなら何をしていてもいいのだろうか。要するに、金になるのなら、別にやりたくなくても、バラエティタレントや身体を張った体験型芸人としてテレビに残って露出していれば満足なのだろうか。仮にそうであるなら、好きでもないことをやっている彼らがおもしろくも何ともなくなったことに十分納得がいく。
彼らの中のさらに一握りはテレビ的に大成功者となり、立身出世時に披露した芸域とはまったく別のアイデンティティへと変身している。流暢な喋りに芸の名残りはあるが、いつ誰と共演していてもワンパターンで、猛暑的なマンネリズムにはうんざりする。名の売れた大御所たちは、芸人による芸人のための番組を仕切っており、もはやかつての「お笑い芸人」としての技を磨きなどしていない。業界人に慕われ敬われてブランドで食っている。
最近、ぼくはバラエティやお笑い番組からすっかり遠ざかっているが、たまたま見ることがあってもめったに笑えるような芸に出くわさない。すべらない話に拍手喝采されていながら、本業ですべっている芸人をどう見ればいいのか。いや、何もぼくが代理で悩んでやることはない。おもしろくないものはおもしろくないのである。芸を磨かなくなったお笑いタレントから商品価値は消え失せるのみ。日々のぼくの周辺に起こる笑いは、質量ともにテレビの中の笑いを圧倒している。素人の笑いのセンスを侮るなかれ。
推論モデルから何が見えるか (2)
2010年8月27日 07:30
昨日の話をわかりやすくするために、トールミンモデルの三つの要素「主張・証拠・論拠」を別の観点から眺めてみる。推論する人が他者に受容してほしいのは「主張」である。相手に言い分を受けてもらいたい。「証拠も論拠もいいが、主張がダメだ」と突き放されたら説得は失敗してしまう。
主張だけ伝えて納得してもらえるのなら、それに越したことはない。その場合には推論モデルの他の二つの要素に出番はない。たとえば、「人はみんな幸せになりたいものですよね」という主張はこれ自体で成立していて、証拠と論拠による必死の証明を必要とはしない。逆に、「人って不幸になりたがるものなんだ」という主張には、強い論拠はもちろん、相当に上等な証拠も用意せねばならない。一つの証拠では不十分だと指摘されもするだろう。少なくとも一般法則を導けそうな二つ三つの証拠を携えておかねば説得はむずかしい。
以上のことからわかるように、エンドクサ(通念)に則っていてコンセンサスが取りやすい主張の場合は、証拠や論拠による推論エネルギーは小さくて済む。他方、相手と対立する主張や少数意見、あるいは一般常識からかけ離れた意見を展開する場合には、証拠の質はもちろん、論拠にも創意工夫を凝らして、緻密な推論を打ち立てる必要がある。
☆ ☆ ☆
賛成・反対の意見が拮抗するように設(しつら)えるのがディベートの論題である。議論開始早々から勝負が決まってしまうようなテーマの不公平性があってはならない。肯定側・否定側のいずれの主張も、主張単独だけで第三者が説得されることはない。ところで、その主張を、論拠なしに、証拠だけで支えることはできるだろうか。
たとえば「ここに卵がある(証拠)。落とせば割れるだろう(主張)」という推論の証明力は十分だろうか。実は、これは推論レベルに達したものではなく、単なる常識にすぎない。いや、床の硬さや落とし方や落とす高度などに言及していないから、信憑性を欠くという見方もできる。では、「調査の結果、ダイエットのリバウンド率は60パーセントである(証拠)。ゆえに、ダイエットは長続きしない(主張)」はどうだろうか。一目で不器用さが漂ってくるが、仮に受容してあげるとしても、これでは調査しただけの話であって、推論の構図から程遠い。
主張をきちんと通すためには証拠と論拠の両方が不可欠なのである。そして、まさにここからが重要な助言なのだが、相手上位、得意先に対する提案、強い常識の壁が存在している・・・・・・このような場合には、十中八九、信憑性の高い証拠から入るべきなのである。もっと言えば、キャリアが浅い時代は証拠主導の推論を心掛ける。証拠という裏付けが自信につながり、場数を踏んでいるうちに独自の論拠、理由づけができるようになるからだ。
キャリアを積んでいけば、次第に論拠主導型で話法を組み立てて他者を説得できるようになる。勉強したことばかりではなく、自分で考えることを推論の中心に据えることができる。ともあれ、間違いなく言えるのは、証拠という客観性と論拠という主観性によって主張を唱える「二刀流」がどんな世代を通じても、どんなシチュエーションにおいても、バランスのとれた推論であるという点だ。 (了)
推論モデルから何が見えるか (1)
2010年8月26日 09:45
《トールミンモデル》と呼ばれる、主張・証拠・論拠の三つの要素から成る推論モデルがある。わが国では「三角ロジック」という名でも知られている(下図)。
"The Toulmin Model of Argumentation"という英語なので、「トールミンの議論モデル」ということになる。けれども、二人の人間の議論以外に、一人で論理を組み立てるときにも、一人で二律背反思考するときにも使えることから、《推論モデル》とぼくは呼んでいる。
このモデルの存在を知ったのは、大学に在学中の1972年頃。ディベートに関する英語の文献を調べていたら、トールミンモデルが引用されていた。論理学者ステファン・トールミンが創案したので、こう名付けられている。
この三角形は簡易モデルである。原型モデルは主張の確信度、論拠の裏付け、反駁(保留条件)の三つを加えた六つの要素を含んでいるが、論理学習の初心者にとっては図で示した三要素で十分に推論を組み立てることができる。
☆ ☆ ☆
このモデルの「主張」は結論と言い換えてもいい。つまり、ある論点についての意見である。この主張をどこに置くかによって、推論の構造が変わる。
Ⅰ 主張 ⇒ (なぜならば) 証拠+論拠
Ⅱ 証拠 ⇒ (ゆえに) 主張 ⇒ (なぜならば) 論拠
Ⅲ 証拠+論拠 ⇒ (ゆえに) 主張
「証拠+論拠」はセットという意味であって、「証拠⇒論拠」という順にはこだわらない(論理学で「前提1⇒前提2⇒結論」のように書くとき、前提の中身が証拠であるか論拠であるか、あるいは大きな概念であるか小さな概念であるかまで特定していない)。
さて、「腹が減っては戦はできぬ。太郎は今、とても腹が減っている。ゆえに、太郎は戦えない」という三段論法(演繹推理)は、上記Ⅲだということがわかる。「腹が減っては戦はできぬ」が論拠、「太郎は今、とても腹が減っている」が証拠、そして「太郎は戦えない」が主張(導かれた結論)である。
「傘を持って行くべきである(主張)。なぜなら、天気予報では午後から雨が降るようだし(証拠1)、きみが今日出向く所は駅から徒歩10分かかるらしいから(証拠2)、雨に降られればびしょ濡れ、そんな恰好で訪問はできないからね(論拠)」。まさか傘一本でこんな推論はしないだろうが、これは上記Ⅰの構造になっている。
Ⅱの典型的な例。「御社には他社にない有力商品Aがあります(証拠1)が、競合他社が実施しているサービスBを提供されていません(証拠2)。だから、御社も商品Aと抱き合わせにして大々的にサービスBを打ち出すのが賢明です(主張)。というのも、このジャンルでは商品がサービスよりもつねに優位だからです。同じサービスさえ提供しておけば、結局は商品力勝負ができるのです(論拠)」。複雑そうに見えるが、構造は明快である。これは帰納推理に近い展開になっている。
☆ ☆ ☆
何を語るにしても、トールミンモデルを使うことができる。そして、上記のⅠ、Ⅱ、Ⅲのいずれの構造によっても推論を組み立てることができる。しかし、持ち合わせている証拠や訴えたい主張の中身次第では、推論の順番が変われば、相手が感じる蓋然性(確実さ、ありそうな度合い)も変わってしまう。主張から入るか、論拠から入るか、あるいは証拠から入るかによって、説得効果に大きな違いが出てくるのである。 〈続〉
諸説紛紛あるとき
2010年8月25日 10:00
旅や出張で見知らぬ土地にいて不案内なことがあれば、たいていの人は誰かに尋ねる。誰かは観光案内所のスタッフであったりタクシーの運転手であったり住民らしき通行人であったりする。当地で評判の食事処を聞き出し、半日で回れる観光スポットを尋ね、所要時間や乗り継ぎ情報を知ろうとする。尋ねる相手がその道の権威とはかぎらないが、少なくとも自分よりもわかっているはずと見なしている。
知識不足を補おうとすれば、ガイドブックやネットでもいいが、もっとも手っ取り早いのは人というメディアだ。旅や出張はつねに「アウェイ」なのだから、「ホーム」の人たちに問い合わせるのは理に適っている。ぼくもそうしている。実は、一昨日の夜に山口に入り昨日研修をして帰ってきた。日本全国たいていの所を巡ってきたが、不思議なことに研修で山口から声が掛かったのは今回が初めてだった。
新山口という新幹線駅での下車も初めてである。到着したのが遅かったから食事処はホテル内の中華料理に自動的に決まった。観光する時間など到底ないから、名所旧跡について聞くことはない。ぼくの最大関心事は、宿泊ホテルから会場のセミナーパークまでタクシーでどれくらいの時間がかかるかである。だから、ホテルのフロント係の女性に尋ねた。「そうですね、早ければ30分。渋滞で混んだりしますと、40分かかるかもしれません」と彼女は言った。手慣れた応答に、ぼくはひとまず彼女を信用した。
☆ ☆ ☆
しかし、「何か変」を直感したので、翌朝、念のために会場でぼくを待ち受けてくれる担当の方に電話をした。ホテルではこう言っているが、ほんとうにそんなにかかるのかと聞けば、「20分あれば十分です」とおっしゃる。おまけに「9時20分にタクシーに乗ってください」という助言までいただく。やっぱり40分もかかるはずがない。なぜなら、午後4時に終了して午後4時41分の新幹線には間に合うと聞いていたからだ。そこで、早めにタクシー乗り場に行き、タバコを吸っていた運転手に聞けば「10分ちょっとだ」と言う。乗り込んだタクシーの運転手は「15分」と言った。
あいにく同じ見解がないから多数決というわけにはいかない。しかし、この場合、諸説紛紛に戸惑うことはない。研修担当の方の意見に従っておけばいいのである。もちろん、遅れては話にならないから、フロント係の40分に従って早く着いておくのも悪くはない(実際の所要時間は行きが15分、帰りが20分弱だった)。ところで、食事処のお薦めが諸説に分かれたらどうするか。これはさらに簡単で、好きなものを食べればいいのである。
一年ちょっと前に会読会で取り上げた『足の裏に影はあるか? ないか?』の中のものさしの話を思い出した。二本の30センチのものさしの目盛りが微妙にずれているのである。どっちが正しいのか。たくさん集めて多数決を取るか、製造元の鋳型を調べるか、さらにもっと権威筋のパリ近郊に格納されているメートル原器を調べるか・・・・・・。諸説から真らしきもの、より信頼できるものを引っ張り出すのは労力を要する。諸説に悩んだら・・・・・・実は、悩むこと自体、すでに理詰めの選択ができない状況であるから、気分か気合で決めるしかない。ぼくはそうしている。できれば一番余裕のありそうな説に与しておくのがいい。
指し示して伝えるということ
2010年8月24日 07:15
「どれ?」 「これだよ」 「えっ、どっち?」 「こっち」 ・・・・・・ ゲームをしているのではなく、よくある現実の場面。少し離れたところにいる人に、こちらにあるものを指し示したら、その人差し指がどこを向いているのかがよくわからない。「これ」と指し示した箇所の名称を知らないので指を使っているのだが、ピンポイントで対象を確定できない。指(☞)や矢印(⇒)は対象に近接していればうまく機能するが、これらと対象との距離が長くなればなるほど、いったい何が対象であるのかわかりにくくなってしまう。
では、今度はゲームをしてみよう。遵守すべき条件は、左手を使えない、話すことが許されない、絵や文字にしてはいけないの三点。さて、あなたが相手に伝えたいのは「親指」である。左手で指し示さず、「おやゆび」と発話せず、絵や文字で表わさずに、はたしてどのように伝えればいいだろうか。
人差し指で隣りの親指の爪あたりを指すと、お金のサインになってしまう。かと言って、第一関節の腹あたりに人差し指の指先を当てれば、数字の6か9、あるいはかたつむりの形に見えなくもない。相手は、人差し指が示す対象を親指だとわかってくれるだろうか。人差し指を使わずに、仮に親指だけを単独で立ててみればどうか。すると、相手はそれをオーケーのサインと見てしまう。
親指でなくてもいい。小指、薬指、中指と順番に人差し指で指し示していくと、二本の指で「造形」されるものが何らかの記号的意味を相手に与えてしまう。同時に、残りの三本の指も「地」として意味を付加する。あなたの右手の動きを見て、相手は「きみは、人差し指で他の四本の指を示しているのだね」と勘を働かせてくれるだろうか。あるいは、あなたは何が何でも相手に伝えられると胸を張れるだろうか。
☆ ☆ ☆
人差し指で、たとえば耳を示せば、相手は「耳が指によって示されたこと」をわかってくれるだろう。まさか、「人差し指を耳によって示した」とは思わない。なにしろ、人差し指は《インデックスの指》なのだ。人差し指をおもむろに対象に近づけて、対象のすぐ近くでピンと伸ばせば、たいていの場合、爪先で示した箇所は相手に伝わる。但し、頭と毛髪、顔と頬などでは誤伝達が起こる可能性がある。
では、伝えるべき対象が「人差し指」のとき、あなたはどのようなジェスチャーをするだろうか。人差し指の関節は内側にしか曲がらないから、曲げて示そうとすれば「鍵」のように見える。真っ直ぐ立てれば、人差し指というよりも「一本」という意味合いが強くなる。他の指で示そうとも、他の指はインデックス指として認知されていない。ならば、口で人差し指を銜(くわ)えてみるか。残念ながら、それは「指しゃぶり」か間抜けなジェスチャーにしか見えないだろう。
以上のようなことをイメージしていると、不思議なことに気づく。人差し指そのものが人差し指を的確に指し示せないように、あるPがP自体を示すのはむずかしいのではないか。PはどうにかこうにかQやRを示したり伝えたりできても、Pそのものを明確にするのに苦労する。そして、実は、ことばも人差し指や矢印と同じ機能を持っているのではないか。指や矢印で対象を示せないとき、つまり、近くにないモノや目に見えない概念をことばで描くとき、ぼくたちはきわめて高度な技術や知識を駆使せねばならないはずである。
昨日、NHKニュースで「日本のはるか南・・・・・・」と耳にしたとき、ぼくは「はるか南」の指し示す距離に一瞬戸惑い、「マリアナ諸島で・・・・・・」とキャスターが続けても、イメージと知識が起動しなかった。伝える側の指示内容が伝えられる側の参照を的確に促すということは、信じられないくらいすごいことなのだろう。
ないものはない、あるものはある
2010年8月23日 09:45
♪ 探しものは何ですか? 見つけにくいものですか? カバンの中も机の中も探したけれど見つからないのに (・・・・・・)
ご存知の通り、『夢の中へ』の冒頭だ。まったく同じではないが、土曜日の夜、これとよく似た事態が発生した。場所は福井駅。大阪行き特急サンダーバードのチケットの変更をし終えて数分後のこと。いや、ぼくに生じた事態ではない。福井開催での私塾に大阪から参加した塾生Mさんの身の上に起こった一件である。なお、ぼくたちは居酒屋で焼酎を二杯ずつ飲んでいたが、決して酔っ払ってなどいなかった。
隣りどうしで帰阪しようと、ぼくはチケットを変更し、直後に彼が同じ窓口で指定席を買い求めた。その後、目と鼻の先の立ち食いそば屋に入った。店を出て改札に向かいかけたとき、彼の挙動の異変に気づく。必死にカバンやポケットの中を探しているのだ。
♪ 探しものはチケットです 見つけにくいものではないのに カバンの中もポッケの中も探しているのに見つかりません (・・・・・・)
もう一度みどりの窓口に戻り、窓口担当に発券を確認し、念のために落とし物窓口もチェックした。ない。「Mさん、胸ポケットの中は見た?」と聞けば、「はい」と言う。彼の胸ポケットにはアイフォンが入っている。彼はいくつか仕切りのあるカバンを何度も探し、本や資料の隙間に入っていないかを調べた。財布の中にはチケットを買ったクレジットの利用控えはちゃんと入っている。その財布の中は三回以上見直している。窓口で交渉したが、切符は金券扱いゆえ再発行などしてくれない。
☆ ☆ ☆
緑色の証明書をもらってひとまず改札を入ることはできた。紛失していれば車中で切符を買い直さねばならない。車掌から買った後に紛失した切符が見つかれば、払い戻しをしてくれる。しかし、見つからなければお金は戻ってこない。特急に乗り込み福井駅を出発した。Mさんは座席に腰もかけずに、立ったままで再びカバンと財布とポケットの中を、それこそありとあらゆる隙間や凹のある箇所を「大捜査」している。冬場でも汗をかくほどの彼だ、まるでサウナに入っているように顔面から汗が噴き出して滴っている。
ぼくは作戦を立てていた。彼のカード利用明細控えが唯一の証拠、これを使いぼくが証人として車掌を説得できるかどうか、運よく温情にあふれた車掌ならば事情を察して何とかしてくれるかもしれない・・・・・・などと考えていた。しかし、チケットを探している彼を横目で見ながら、こんな交渉がうまくいくはずがないと諦めもしていた。「失っていたらない。ないものは、ない」と心中でささやく。彼も探すのを諦めようとしていたその時、念のためにこう言った、「Mさん、胸ポケットは見たの?」
胸ポケットからアイフォンをつまみ出したら、あっ、一緒に切符がついてきた! 切符は、胸ポケットという、一番ありそうなところにあったのだ。彼はカバンと財布を必死になって探してしていたが、胸ポケットには視線を落として一瞥しただけだった。黒色のアイフォンと同じサイズの切符、しかも磁気のある裏面は黒っぽい。横着したから重なって見えなかったというわけである。ないものはないが、あるものはある!
ところで、井上陽水はあの歌の半ばで次のように歌っている。
♪ 探すのをやめた時 見つかることもよくある話で (・・・・・・)
根拠のない言い分
2010年8月19日 08:45
もうすっかり耳に馴染んでいるにもかかわらず、聞くたびに少し苛立ち、いや、こんなことに苛立っていてはばかばかしいと思い直して、鼻で笑っておく。そんなふうにあしらいながら、ここで取り上げるのも妙な話だが、身につまされる向きがなきにしもあらずだ。誰かが言いっ放しで理由を添えてくれないとき、ぼくは以上のような心理になっている。
テレビ番組中のコマーシャルで「4,950円とたいへんお買い得!」と言っている。別のテレビショッピングでは「今ならとってもお求めやすい2,980円!」という言い方をしている。買い得とは「買って得をすること」と広辞苑にあるが、こんなアホらしい定義は役に立たない。買い得品とはお値打ち品だから、「出費に対して得られる品質や便益が大きい」ということだ。求めやすいは、ちょっとひねって「財布や家計の負担にならない」としておこう。
言い分はよくわかるのである。「この良質の商品は別の場所や時期ではこの値段では買えませんよ、しかもお手軽で、わざわざ別口予算を立てなくてもいいのですよ」―こんなふうにコマーシャルの中のナレーションは語りかけているのである。しかし、彼らは「なぜそう言えるのか」については言及しない。黙して語らない。
☆ ☆ ☆
商店街の店先で八百屋や魚屋が枯れた太い声で「らっしゃい! 安いよ安いよ、買わなきゃ損だよ!」と叫ぶのはいい。「この大根は今日は一本百五十円だよ。ふだんより五十円安く、しかも○○産で、他の品種よりも辛味と甘味のバランスが絶妙ですよ、奥さん」などと店先で口上張っていたら、話途中で買い物客が店の前を通り過ぎてしまう。彼らに説明はいらない。長年店を構えて商売していること自体が信頼すべき根拠なのである。
テレビでは、初耳の会社の商品を見も知りもしないタレントかナレーターかが喋っている。です・ます調になっているだけで、実は「お買い得だよ、安いよ!」と叫んでいるにすぎない。お買い得かどうかは、自社従来品(または他社製品)の価格と比べなければ判別できない。さもなければ、単なる独断メッセージだ。証拠も含めた根拠も示さずに、お買い得と主張するのはあつかましい。なかには「これ一つでレモン10個分!」と証拠らしきものが示されるが、一日にレモン10個も食べる必要などないから説得力がない。
売り手側に一言文句をつけてきたが、彼らが無根拠セールスで済ましているのは、消費者がそれを容認しているからである。価格という数字につきまとう理性と不可思議を一緒にしてしまっているのだ。数字は科学でもあり魔術でもありうる。お買い得と繰り返されれば、たしかにそうだろうという信念が強まる。根拠を求める賢い消費者なら、「焼肉食べ放題! 今なら1,980円」に流されない。質のこと、自分の食欲・健康のことを少考すればいいのだ。
賢い消費者について考えるとき、テレビショッピングの「今ならもう一本」に急かされて高枝バサミを買った高齢者を思い出す。その爺さんの家の庭は小さく、枝が高い位置にある木は一本もなかったのである。「これ一台で辞書数十冊分」に促されて買いはしたが、そのままになっている電子辞書が机の引き出しに入っていないだろうか。
寡黙化する人々
2010年8月18日 08:00
「人は商品を買うのではなく人を買う」と豪語したジョー・ジラードは別格としても、カリスマと称されるセールスパーソンなら誰しも自分自身を売り込んでいるはずである。売る人そのものが売り物ではないにもかかわらず、商品価値のほぼすべてを人が決定しているというこの考え方は、実は決して珍しいことではない。むしろ、誰が携わっても同じという「セールスの匿名性」のほうが少数派なのである。
商品の購入にあたって顧客は売る人を買っている。これは、彼らが信頼を、説明を、笑顔を、経験などを求めているからである。極端な話、顧客が買っている商品はコミュニケーションに満ち溢れた環境で売られているのである。したがって、ジラードをもじって、「どんな商品を扱うにせよ、私が売っているのは、実はコミュニケーションなのだ」というセールスパーソンがいても決して不思議ではない。
「コミュニケーション上手」イコール「口達者な売り手」ではない。コミュニケーションとは相手を納得へと導くマメな情報共有をも意味する。だから、たとえばエドワード・T・ホールの《非言語的コミュニケーション》であってもかまわない。手まねや身振りも、文化的・文脈的パターンにのっとっていれば、十分に機能すると思われる。とはいえ、ビジネスシーンにおける非言語的コミュニケーションの影響力は失態時に強く出る。立ち居振る舞いが反文化的に働いたり無礼に捉えられたりというケースだ。ビジネスを牽引する主導的役割を果たすのが言語的コミュニケーションであるのは言うまでもない。
☆ ☆ ☆
ホールの唱えた"silent language"は「沈黙のことば」と訳される。言うまでもなく、沈黙のことばは有言のことばとセットである。言語的コミュニケーションに怠慢な者が、いくら張り切ってジェスチャーをしても空しいばかりだ。それなのに、公の場での人々の静けさはいったいどういうわけだろう。しかも、寡黙な彼らは、沈黙のことばによる表現も不器用なのである。彼らの手まね身振りはほとんどの場合、携帯やパソコンの操作に限られているかのようだ。
稀に発話しても単語がパラパラと撒かれるだけで、ことばが文章の体を成していない。一語か二語話しては止まり、「その、あの、ええと」などのノイズが入り、そしてまた一語か二語が続く。単語どうしが相互に結びつかず構文が形成されない。とりわけ、動詞なきメッセージには面喰ってしまう。動詞がなければ、結局何を意図しているのか判然としないのである。これではまるで、カラスの「カァーカァー」やネコの「ニャーニャー」とほとんど同じではないか。仕事の現場での饒舌なやりとりを懐かしく思ってしまう今日この頃だ。
但し、現代人は私事の、つまらぬことに関しては大いに雄弁なのである。この雄弁がパブリックスピーキングに生かされないのだ。現代人にとっての母語は、発話されない「沈黙のことば」と化し、話しことば自体が第一外国語になったかのよう。まさに、口を開いて日本語を話すこと自体が、十分に精通していない外国語を話すことのように重くなってしまったのである。これは母語の退行現象にほかならない。
便利が奪ってしまうもの
2010年8月16日 09:00
便利と不便について考える機会が増えてきた。このブログでも十数回は取り上げたように思う。ぼくの基調となる考えは、意識的にインコンビニエンス(不便)を生きるということに尽きる。便利によって得たものと失ったものの収支は便利の恩恵を受けている(少なくともそう錯覚している)あいだはわからない。結果がすぐに見えればぼくたちも少々の修正を加えるが、便利の副作用はすぐには現れない。気づいた頃には手遅れということが大いにありうる。
便利のお陰で身につく能力と、不便ながらもどうにかこうにか身につける能力には甘辛度にだいぶ違いがある。便利はおおむね「楽(らく)」と「スピード」を目指す。「イライラしないで気持よく」と言い換えてもいい。しかし、こう言った瞬間すでに破綻を来たしている。便利な自動車は便利な高速道路で渋滞してイライラと不快を招く。その結果、ドライバーたちは大いに不便を感じたりしている。ならば、始めから不便を生きれはいいではないか。
昨夜のらりくらりと本を読みながら、時折りなまくらにテレビの『エチカの鏡』を覗いていた。例のマイケル・サンデル教授のハーバード大学での講義「ジャスティス」の場面を写していた。その後は大学生のディベートに取り組む模様であった。これもちらほらと見る程度。この種の番組はぼくのテーマへの追い風になるはずなのだが、あまり手離しで喜べない。カリスマ講義もディベート技術も本来とてもきついことを題材にしているにもかかわらず、学び手のノリがコンビニ感覚で軽々しい印象を受けることがある。
☆ ☆ ☆
サンデル教授の投げ掛ける問いはこうだ。「暴走列車を運転するあなた。このまま進めば5人を轢き殺してしまう。だが、列車を右に逸らせば、そこにいる作業員一人は犠牲になるが5人は助かる。あなたならどうするか?」 この質問に答えはない。要するに、自ら考えることに意義がある。結論を下してその論拠を説明するトレーニングなのだ。「解答は必ずしも存在しない」のはもはや明白だから、特別に目新しい話ではない。
一部の学生の解答が紹介されたが、他にどんなものがあったのか興味津々である。便利生活で飼い慣らされたという点では日米ともに大学生に大差はないように思える。この程度の質問のある講義を絶賛するようでは、わが国の教育のありようを嘆くしかない。ぼくの私塾ですらハーバード大学よりも難しくて答えのない設問を用意している。ちなみに、暴走列車を運転するぼくは余計なことをせずに真っ直ぐに進む。線路上の5人のうちわずか一人でも暴走列車の轟音に気づくほうに期待する。
今朝の朝刊で新刊予告の広告。『デジタル教育は日本を滅ぼす』(田原総一朗)には、「便利なことが人間を豊かにすることではない」とある。その横の広告は『頭脳の散歩 デジタル教科書はいらない』(なんと田中眞紀子と外山滋比古の共著)。ぼくがこの二冊を買い求めることはないだろうが、デジタル化と便利(あるいは促成)が教育のキーワードであるのは間違いない。便利が奪ったものは何なのか? ことばの力と考える力である。この意味で、答えの定まらない問題を解くのもディベートもデジタル教育よりはすぐれた処方箋と言えるだろう。しかし、肝心要は日々の生活場面だ。不便に戻って段取りと機転の工夫をする習慣形成はじめにありきなのである。
軽はずみな一言
2010年8月11日 12:00
幼少の頃の写真を見ると、ほとんどがモノクロ写真ではあるものの、ぼくが色白であったことがわかる。中学時代に少々剣道をしていたが、室内競技。だから、中学を卒業するまではたぶん褐色系の風貌とは無縁であったと思われる。高校に入ってから自分が日焼けをする体質であることがわかった。ふつう色白肌だと赤く焼けるのだが、そうはならない。真っ黒にもならないが、少しアウトドアで運動するだけでほどよい褐色に焼けた。
ある時期からやや脂性へと「変態」したのかもしれない。あるいは単に、わずかな陽射しですぐに焼ける潜在的な体質だったのかもしれない。いずれにしても、この歳になってもすぐに日焼けしてしまうのだ。真夏日は別として、土・日にはよく散歩するものの、長時間アウトドアスポーツをするわけではない。平日出張ではほとんど陽に当たらないし、大阪にいるときも自宅と事務所の間を往復30分ほど歩くだけである。
しかし、問題はその半時間にある。あいにく朝は東の方向へと歩き、夕方に西日を受ける方角へと帰ってくる。朝夕のどちらもまともに太陽に向かって歩いているのである。日焼けしやすい体質にとって10分は褐色を重ねるのに十分な時間なのだ。この時期はだいぶ濃さを増すので、ぼくの趣味をあまり知らない人に「よく焼けてますねぇ。ゴルフですか?」と聞かれること常である。その瞬間、キッとなって「ゴルフなんかしませんよ!」とつい言ってしまう。そのあと「あっ」と思うのだが、もう「なんか」と言ってしまっている。手遅れだ。
☆ ☆ ☆
さぞかし、この「なんか」はゴルフ好きにはとても失礼に響いていることだろう。「なんか」はそれ自体大そうな意味もないただの助詞なのだが、「○○なんか」と言えば、○○が望ましくないものを漂わせる。「なんて」と言い換えればカジュアルだが、軽視の感度は同じだ。「お前なんか・・・・・・」も「あなたなんて・・・・・・」も、いずれも低い価値のものとして見下している。相手が気分を害することは想像に難くない。なぜなら、「きみもビジネススキルばかりじゃなくて、哲学の一冊でも読んだほうがいいよ」と助言して、「哲学なんか役に立たないでしょ?」と反問されたら、ぼくだって心中穏やかではない。
ぼくはゴルフをしない。大学生の頃によく練習したし模擬コースのような所も何度か回った。先輩にはセンスがいいと褒められたりもした。けれども、アマノジャクな性分なので、やみつきになって身を滅ぼすかもしれないと察知し、二十歳できっぱりとやめた。だから、未練なんかまったくない。この心理が「なんか」と言わせるのか。かつてよくカラオケに通った頃はカラオケに「なんか」を付けたことなどなかったが、いま誘われたら「カラオケなんか行かない」と言ってしまいそうである。
昨日のブログのM氏に「プーケットに一緒に行こうじゃないか?」と誘われたときも、たしか「プーケットなんかに行くくらいなら、ヨーロッパを旅しますよ」と憎まれ口を叩いた。たった一つの助詞を通じて心情がありのままに吐露される。そのM氏も奥さんに「お前でいい」と口を滑らせたことがある。ここは「お前がいい」でなければならない(「お前もいい」は相当まずい)。多弁なぼくだ、口の禍の確率が大きいから、心しておかねばならない。なんかなんか、もう使わないぞ。
遅れてやってくる珠玉の素材
2010年8月10日 14:00
研修用のテキストが完成すると一安心する。ただ、編集エネルギーの余燼が十分に冷めていないのでその後もテーマに関連した本をちらほらと読む。そうしていると不思議なもので、テキストで用いたものよりも「魅力的で適切な素材」を見つけてしまうのだ。その素材を「足す」だけで済むならテキストを手直しするが、構成自体に地殻変動をもたらすようなら諦めるしかない。しかし、見過ごすのはもったいないという気持から、口頭で紹介するかパワーポイントに組み入れたりすることになる。
私塾の第4講のテーマ《行動規範のメンテナンス〈東洋の知〉》は8月上旬にテキストを脱稿している。ところで、このテーマを選んだのはほかでもない。十代の終わりから漢詩に親しんできて、その流れからか、老子、孔子、孟子、禅、さらに釈尊、それに空海や親鸞などの有名どころをざっと勉強したことがあった。二十代前半に職場の先輩であったM氏が偶然その方面に明るかったから、よく教わったり意見を交わしたりもした。東洋の知への関心にはそんな背景がある。
さて、そのテキストが出来上がってから、講義のためではなく興味本位で関連書を読んでいた。すると、「あ、これ、忘れていた」という好素材がどんどん出てくるのである。行動規範と東洋の知を結んだのはわれながらあっぱれと自画自賛したくなるほど、ブッダのことばや禅語録には行動規範のヒントが溢れている。しかも、そうした珠玉の素材は、もう一歩踏み込まねばなかなか姿を現してくれないものなのだ。
☆ ☆ ☆
読み残して放っておいた本の後半に出てきたのが、「無可無不可」。「かもなく、ふかもなく」と読む。今でこそ「良くも悪くもなく、まあまあ」というように使うが、元来は先入観で物事を決めつけないという意味。ぼくたちは十分に検証もせずに事柄や状況の良し悪しを判断する。多分に主観的、というか、独我的に。一見良さそうに見えるあれも、どう見ても悪そうに見えるこれも、ひとまず白紙の状態で眺めてみなさい。これが無可無不可の諭すところで、つまるところ、極に偏らずに中道の精神状態を保つべしということになる。
次に見つけたのが、道元禅師の「他是不吾」。「他(た)は是(こ)れ吾(われ)にあらず」と読み下す。他人がしたことや他人にしてもらったことは、自分でしたことではないという意味である。あなたの腹ペコを満たすのはあなた自身であって、誰かに食べてもらってもあなたは満腹しない。仕事も習慣もすべてそう。自分の仕事を誰かに代わってもらえば、その仕事は片付いたことにはなる。しかし、決して自分でしたことにはなっていない。他の誰でもない、この自分がやらねばならない、よしやるぞと決めたら自分でやり切るしかないという教えである。たしかに、今やるべきことを一番よく心得ているのは、この自分である。ふ~む。耳が痛い。
以上、偉そうに書き連ねたが、見て思い出したまでで、かつてアタマに入れたはずのこれらのことばはすっかり記憶から抜け落ちている。再会すれば思い出す、しかし自然流では思い出せない。そんな知識やことばがいったいどれほど眠っていることか。実にもったいない。だからこそ頻繁な再読なのだろう。私塾や研修のテキストを書いて編集するのはとても疲れるが、そういう仕事に恵まれているからこそ、忘れた旧聞に再び巡り合える。実にありがたい。
まことに失礼ですが・・・・・・
2010年8月 9日 15:20
このブログの名称は"Okano Note"(オカノノート)である。別によそ行きにすまし顔しているわけではなく、日々気になったことや発想したことを書き綴る《本家オカノノート》があって、その中から特に考察したものや愉快に思ったことを紹介しているのである。この意味では、ぼくの普段着のメモの公開記事ということになる。
一日に二つや三つのメモを書き留める日もあるから、一年で500くらいの話のネタが収まることになる。あまりにもパーソナルな視点のものはブログの対象外。それでも積もり積もってノートは飽和状態になる。飽和したから適当に吐き出せばいいというものでもないが、不条理や不自然や不可解への批判的な目線で書いたページが増えてくると、つい放出したくなってくる。たぶん精神的エントロピー増大の危うさを感じて自浄作用が起こるのだろう。
たとえばこんな話が書いてある。ふと小学校時代の転入生のことを思い出した。彼が「ぼくの名前は鎌倉です」と自己紹介したとき、なぜかクラスの中の半数ほどが笑った。彼が山本や鈴木や田中であったなら誰も笑いはしなかっただろうが、なにしろ鎌倉だ。大阪の小学校高学年の子らにとっては歴史で勉強した時代や大仏と同じ苗字が妙に響いたのは想像に難くない。不思議なことにぼく自身が笑ったかどうかを覚えていないが、話し方や苗字からこの男子が関東出身であることが推測できた(その後、彼とは結構親しくなった)。
☆ ☆ ☆
紹介が終って担任が彼に尋ねた。「鎌倉君、きみは神奈川県出身やろ?」 「はい」と彼は答えた。「やっぱりな」と言って先生は鼻高々になっている。そりゃそうだろう、鎌倉という地名は神奈川なんだから、ふつうに考えればそう類推するものだ。たまたまピンポーンと正解になっただけで、たとえば「ぼくは松本です」と名乗っても、「きみは長野出身だな?」が当たる確率はさほど高くない。先生、まことに失礼ですが、鎌倉で神奈川出身が当たったからと言って自慢にはなりません。おまけに、あなたは彼の前の在籍地や出身地が事前にわかる立場ではありませんか。
焼肉の食べ放題・飲み放題の話。二十代の若者が言った、「金がないので、オレたちはもっぱら2,980円の焼肉食べ放題・飲み放題のセットなんですよ。」 おいおい、金がなければ焼肉は贅沢だろう。食も酒も控えるのが筋ではないか。まことに失礼ですが、きみたち、金がなくて、それでも焼肉と酒を時々楽しみたいのなら、一皿300円のホルモンと一杯280円の生ビールの店で粘り、それでも腹が一杯にならないのなら、小ライス150円を追加して合計730円で済ますのが分相応ではないですか。
目的・手段不在の話。気をつけないとつい聞き過ごしてしまう誰かの所信表明。「得意先のニーズに応えていきたい。それを実現するために頑張りたい」―よく若手の営業マンが会議で決意の程を語っている。ゆるいアタマの課長など、メッセージの論理構造よりも彼の毅然とした声の大きさに相好を崩してしまう。課長、まことに失礼ですが、彼のメッセージに「目的と手段」はないのに気づいておられないようですな。「単なる二つの願望」になっていることがお分かりになりませんか。
ぼくのノートには「まことに失礼ですが・・・・・・」で締め括らざるをえない、バカバカしいノンフィクションがいくらでもある。
ウサギとカメ、再戦
2010年8月 6日 12:00
「イソップ寓話のウサギとカメのかけっこの話、知っているよね」
「もちろん。能力のあるなしよりも努力の大小のほうが成功にかかわるという教訓と理解している。それがどうかしたの?」
「もう十年も前になるけれど、『ウサギとカメが再戦したら、今度はどっちが勝つか?』というテーマでディベートをしてもらったことがあるんだ」
「おもしろいねぇ。で、どうなった?」
「今度はウサギが勝利すると主張した者は、かけっこの絶対能力を持ち出した。ウサギは走るが、カメは歩く。①居眠りさえせずに一気に駆け抜ければウサギが勝つ。そして、②凡ミスに懲りたウサギは必ず巻き返す、というのが論点だった」
「多分に期待が込められているね。というか、居眠りイコール凡ミスが例外だったのか、それとも染み付いた属性だったのかがわからないから、『居眠りさえせずに』という条件はあくまでも仮定にすぎない」
「まあまあ、慌てずに。今度もカメに軍配が上がると主張した者は、どう反論したと思う?」
「かけっこは単に俊足対鈍足の勝負ではなく、他にもメンタルな要因もあるということだろうか。いや、ウサギのカメを見下す態度は変わらないから、やっぱり油断をする。だから、何度勝負をしてもウサギに勝ち目はない。こんなところかな」
「ウサギが今度は居眠りしないという証明もできなければ、きみが今言った、他にもメンタルな要因があるということも証明しにくい。したがって、結局のところ、このディベートではウサギが前回の失態を改善できるか否かというのが主要争点になったんだよ」
「要するに、カメにとっては自力勝利はないわけだ。カメはひたすらウサギが居眠りしてもらうことを祈るしかない。これに対して、ウサギは意地でも眠ってはいけない。自力勝利の目は自分の采配しだいなのだからね」
「いかにも。ちなみに、そのディベートではレトリックにすぐれたカメ派が勝ったけどね」
「それで、きみはどんなコメントをしたんだい?」
☆ ☆ ☆
「その前に一言。このディベートのテーマは『ウサギとカメが再戦したら、今度はどっちが勝つか?』だっただろ。これって論題形式の記述になっていない。だから、前回カメが勝ってウサギが負けたという事実から、必然『再戦したら、今後はウサギが勝つ』という論題として読み替えられた。立証責任を背負ったウサギ派が『今度は絶対眠らない』と言い張っても説得力はないよね」
「どうやら、ウサギ派の『三度目の正直論』とカメ派の『二度あることは三度ある論』の言い合いに終ったようだね。もっともこれは二度目の勝負ではあったけれど・・・・・・」
「ぼくは最後にこう締め括ったんだ。寓話によれば最初のかけっこを挑んだのはカメだった。お前はのろまだと小ばかにされたカメから申し出たのだから勝算があったはずだ。そして、実際に勝利した。だから、ウサギがリベンジを誓う挑戦もきっと受けて立つだろう。おそらくカメはウサギの変わらぬ性向を見抜いているのだよ」
「う~ん。それだって、ウサギ派が導いた推論の蓋然性とそんなに変わらないよな」
「いや、そうではない。この戦い、ウサギという種とカメという種の戦いではないのだよ。これは、ある特定のウサギとある特定のカメとのかけっこだったんだよ。米国対日本という戦いではなく、一米国人対一日本人の戦いのようなものだった。そのウサギは居眠りする怠け者だったうえに、もしかすると仲間内で一番鈍足だったかもしれない。他方、そのカメは仲間内でもっとも俊足で試合巧者だったかもしれない」
「ウサギが種の競走ととらえ、カメは個体間競走と見た。なるほど。間違いなく詭弁だろうけど、おもしろい分析だね。賢いアキレスにも追い付かれないカメだから、ウサギに負けるはずもない」
「あっ、それはなかなかの論点だ。詭弁ついでに言えば、居眠りをした時点でウサギはおそらく狩人に捕まっていただろうから、再戦はありえなかったと思うけどね」
理念不履行の人々
2010年8月 5日 14:45
何らかの理念を標榜するかぎり、その理念で謳っている目的なり善行なり約束なりを日々実践することが期待される。たとえば、「顧客に最高のおもてなしを」と記述された理念は目的であり善行であり、そして約束であるだろう。目的を遂げること、善行をおこなうこと、ひいては公言した理念の約束を守ることのすべてを平気で怠るのなら、そもそも理念など標榜することはない。理念と現実は完全一致することは稀だが、少なくとも現実がたゆまなく理念に近づくよう仕向けなければ、理念の意義はない。
プラトンのイデア論はさておき、ひとまず強調しておきたいのは、ぼくたちが理想世界と現実世界の両方を同時に生きているという点である。もし理想世界を描かないのなら、現実世界のありようを定めるすべはない。理想と現実の間に横たわる隔たりはつねに現実側から埋めるべく対処せねばならないのである。さもなくば、理想の高みを諦めてかぎりなく現実に落とすしかない。それは理屈抜きに現実を生きることを意味する。
死刑廃止を理念とする論者は、わが国にあっては死刑制度の維持という現実に対峙する。死刑廃止が自身の揺るぎない人生哲学なら、制度廃止への努力を不断に続けなければならない。したがって、ふつうに考えれば、その論者が現実に死刑執行を命じる立場にある法務大臣の任に就くべきではないということになる。しかし、変な喩えだが、ダイエットを理想としながら食を貪ってしまう現実があるように、あるいは、一流のプロフェッショナルを理想としながら一・五流のプロフェッショナルとして当面の仕事をこなさねばならないように、死刑廃止論者にもかかわらず死刑執行の命を下さねばならない現実は当然ありうる。しかも、死刑制度を維持する国家の法務大臣という現実の中にあってさえ、執行命令を下すべき「理想」を回避して、見送るという「現実」を選択したお歴歴も大勢いたことは事実である。
☆ ☆ ☆
中村元の『東洋のこころ』に次のような一節がある(括弧内および下線はぼくの補足)。
「かれら(アーリヤ人)は民族的自覚が弱かった。今日に至っても宗教が中心になるので、ヒンドゥー教徒であるとか、イスラーム教徒であるとか、宗教的自覚に基づいて行動します。(・・・・・・) これに対して日本人は宗教意識が弱くて、むしろ人間的結合、組織というものを重んじます。この違いは、遠く民族の原始宗教の時代までさかのぼることができます。」
少々強引だが、宗教的自覚ないし宗教意識を「理念」に置き換えてみたらどうだろう。新年に寺に参り、神社の夏祭りに興じ、友人の結婚に際して教会で賛美歌を歌う。合格祈願の鉢巻をして祈り、神棚に手を合わせる。無神論者が御守を携え縁起をかつぐ。必要に応じて都合よく神や祈りを使い分けるご都合主義は、国家や経営の理念を掲げながらも現実の人間関係や組織の状況を優先するのに酷似している。皮肉まじりで嘆いているのではない、理念通り哲学通りにまったくぶれないで現実を生きることには覚悟がいると言いたいのである。
かつて「日本人には原理原則がない」と『タテ社会の人間関係』で主張した中根千枝が、世界の人々に大いなる誤解を与えたと一部の識者に批判を浴びたのを思い出す。この四十年余り、とりわけ昨今の政治的リーダーシップや企業倫理を見るにつけ、原理原則の不在に反論する気は起こらない。まったくその通りなのである。タテマエでは理念を崇高な善として祭り上げながら、ついつい現実に流されて都合よく理念を棚上げにする風潮は廃れていない。いや、中山元によれば、「遠く民族の原始宗教の時代までさかのぼる」のだから、もはやDNAレベルと言うほかない。
理念不履行の人々が最大派閥を形成するこの社会。時には理念に反する現実にやむなく迎合せねばならないという都合―よく言えば、柔軟性―は、ぼくたちの行動や約束ぶりに内蔵されている。理念は形式であって、現実が内容なのである。理念と現実を天秤にかけること自体がもはや理念主義ではないのだが、その天秤はいつも現実のほうが重くなるように設(しつら)えられているようだ。理念不履行の人々を糾弾する気はないが、切羽詰まった挙句に理念を軽く扱うのなら、最初から現実主義で生きればいいのである。この国の風土で形成される理念はきわめて脆(もろ)い。「できもしない、やる気もないことをつべこべ言う前に、さっさと仕事をしろ!」と乱暴にぶち上げた昔気質のオヤジの一理は渋くて強い。
けちを付ける愉しみ
2010年8月 4日 08:00
「人は忘れる。だから生きていける。」 缶コーヒーの車内広告である。缶コーヒーの宣伝に「忘却と人生」? なかなか凝ったものだ。商品写真横のキャプションには「強く、香る。強く、生きる。」とあって、このコピーライターが「生」をコンセプトにしたのは間違いない。生きることに強くこだわるような事情があったのだろうか、と勘繰ってしまう。コーヒーとはいえ、ちょっと焙煎過剰な表現に場違い感を受けた。
たかが広告ではないか。こんな些細なことにけちを付けることはあるまい。けれども、ぼくはけちを付け毒舌を吐くことを愛情もしくは関心の一表現(場合によっては一変形)だと思っている。そもそも人はどうでもいいことに対して肯定も否定もしないだろう。また、眼中にすらないことをわざわざ話題として拾わないだろう。それゆえ、言いがかりやイチャモンを付けるのは、対象を批評に値すると承認している証にほかならない。反証されることは自慢すべきことなのである。
(・・・・・・) 役所に猛烈な苦情や文句をぶつけるばかりで、みずから解決のために奔走することを考えもしない「クレーマー」たち。 (・・・・・・) 「クレーマー」は他者の責任を問いつめるが、そのクレームが「もっと安心してシステムにぶら下がれるようにしてほしい」という受け身の要求であることに気づいていない。(鷲田清一著『わかりやすいはわかりにくい?―臨床哲学講座』)
ぼくは上記の引用にあるようなクレーマーではない。広告の文章にけちを付けはするが、苦情や文句をメーカーにぶつけてはいないし、責任を問いつめもしていない。ぼくは真摯かつ臨床哲学的(?)かつ愉快に広告コピーを検証しようとしているのだから。
☆ ☆ ☆
クレーマーが付けるけちは理不尽であり、相手が弱いと見るや際限なく垂れ流され増長し続ける。ぼくは、消費者があまり見向きもしない車内の小さな広告を気に留めて、「ダメだ!」などと声を荒げもせずに、静かにけちを付ける。このコピーライターは、そしてゴーサインを出した広告主(つまりメーカー)は、なぜ「人は忘れる。だから生きていける。」などという大胆な命題を見出しにしたのか、いったいその真意はどこにあるのだろうか・・・・・・というふうに。この広告のヘッドラインになっている命題の真偽を、あるいは蓋然性を問うてみるのはおもしろいと直感した。
生きていくうえで忘れることが時々たいせつであることを認めはするが、「忘れるから生きていける」は論理の飛躍だ。前提が少なくとも一つ足りない。よろしい。論理の飛躍をオーケーとしよう。たしかに、忘れるそいつは平気で厚かましく生きていけるだろう。しかし、忘れる奴の周囲がどれだけ迷惑していることか。ぐいっと缶コーヒーを飲んで何もかも忘れて、そいつは今日も明日も生きていくだろう。だが、やっぱりそんな記憶力の乏しい奴は仕事ができるはずもないから、また人さまに迷惑をかける。
「人は忘れる。だから生きていける。」は、「人は忘れる。だから生きていけない。」という反対命題によって揺らぐだろう。もしかすると、命題は崩されてしまうかもしれない。また、「人は忘れない。だから生きていける。」という思い出重視派からの反論も有効になるだろう。いずれにしても、缶コーヒー一本で嫌なことを忘れて生きていこうというのがメッセージなら、そこで消し去ろうとしている記憶そのものが取るに足らないものであることは間違いない。
現在日本社会が抱えている大半の問題が、人々が忘れることによって繰り返されているのを見るにつけ、とりあえず安易な忘却に異議申し立てしておく。「ぼくは忘れない。だから生きていける。」
知らないことばかり
2010年8月 2日 12:00
二十代、三十代の頃、現在の年齢を遠望しては「そのくらいの歳になったら分別も備わっていろいろと見えているだろう、知識もだいぶ深く広く修めているだろう」などと楽観していた。楽観は甘かったと痛感し始めたのが五十も半ばになってからである。もっと大人になっていると当て込んでいたが、目算外れもはなはだしい。齢を重ねても、未熟な部分はしっかり残っている。青少年的未熟ならいいが、幼児的未熟に気づくとき愕然とする。
もちろん、そこまで悲観しなくても、未熟性が克服できている一面もないことはない。ぼくの親戚筋からすれば、人前に出て講演をしたり会社を経営したりしているのは驚きらしいのだ。青少年時代に静かに考えたり読書をしたりする性向はあったものの、まさか議論好きへと大転向するなどとは夢にも思わなかったようである。
たしかに無知や不知が部分的に解消されて、知っていることも増えた。どんなに無為無策に生きたとしても、そこに何がしかの経験知が積まれるだろう。何の自慢にもならないが、アルファベット26文字は小学生で覚えたし、生活空間で用いるモノの名称は手の内に入っている。専門領域の話題なら、少々難度が高くても語り書くこともできる。しかし、知らないことばはいくらでも次から次へと出てくるし、出張で訪れる街については圧倒的に知らないことばかりである。いや、わが街についてさえ未知はつねに既知を凌駕している。
☆ ☆ ☆
七月の終わり、十数年ぶりに高知を訪れた。研修の仕事で2泊3日。たまたま前回と同じホテルに宿泊したので、ホテルの玄関からフロント前のロビーの構造は覚えていたし、ホテル前の路面電車通りも記憶に十分に残っていた。前に足を運んだ喫茶店はエントランスを見ただけで思い出した。高知について圧倒的に知らないわりには、ごくわずかに知っている事柄が点を結んで大まかな図が浮かぶ。まるで無数の星の中から適当に都合のよい星をいくつか選んで星座を描くようなものである。
食に関しては、鯨もうつぼも四万十の鰻も馬路村の柚子も知ってはいる。しかし、実際に舌鼓を打った覚えのあるのはカツオのタタキと皿鉢料理と生ちり、それに野菜類だけである。生ちりとは、フグのてっさ風にヒラメの刺身を敷き詰め、その周囲にカツオの心臓や鮪のエラなどを茹でて冷やした珍味を数種類並べた料理で、ポン酢で食べる。前回ご馳走になり今回も久々に食したが、やっぱりなかなかの味わいであった。
この生ちり、地元の人がほとんど知らなかった。どうやらぼくの入った割烹の独自メニューだったようなので無理もない。しかし、彼らの大半は、ぼくがホテルの朝食で口にした「柚子とひめいちの辛子煮」も「ひっつき」も知らなかった。おそらく大阪人にとってのたこ焼きほど地元では浸透していないのだろう。ぼくにとっては、ひめいちという小魚も浦戸湾のエガニも初耳で初体験。四万十川源流の焼酎ダバダ火振も初めて飲んだ。もっとも関心の強い食ですら知らぬことずくめである。
知らないものを食べるたびに、ぼくは無知を自覚する。よく知っていると自惚れている他のこともこんなふうなのだと思い知る。無知や知の偏在を一気に解消することなどできない。しかし、世の中知らないことばかりと弁(わきま)えているからこそ、小さな一つのことを知る愉しみもまた格別なのである。



