2010年10月アーカイブ
愉しい本、美しい本
2010年10月29日 08:00
書棚のスペースに余裕がなくなってきたので、最近はかさばらない文庫と新書ばかり買っている。昔読んだが手元に残っていない古典の類を再読するためである。お手頃価格で買うハードカバーの古本もあるが、床に積んである状態だ。電子化すればさぞかしすっきりするだろう。電子書籍の是非はさておき、ぼくは紙のページを指で捲(めく)るのが好きなのである。しかも、2Bくらいの太い芯のシャープペンシルでマーキングしないと読んだ気にならない。
読んでためになる本よりも、読んで愉しい本がいい。本だから吟味するのはもちろん内容だ。しかし、かつて書物は貴重であり希少であった。そして、読む愉しみだけではなく、蔵書として愛でたり飾ったりすることにも意味があった。一種の芸術品である。グーテンベルクの活版印刷が普及してからも、印刷されたページが製本も装丁もされずに売られていた時期が長かった。わずかな発行部数を求めて、購入者は刷りっ放しのページを自分の好みに応じて装丁し製本していたのである。
以上のような、本にまつわる初耳のエピソードに感嘆しきりだった。実は、広島出張の機会に、ひろしま美術館で開催中の特別展『本を彩る美の歴史』をじっくりと鑑賞してきた。わが国の平安時代の経典の前でしばし立ち止まり、ルネサンスから近代までのヨーロッパの本、活字、装丁、挿絵に目を奪われた。『グーテンベルク聖書』(1455年)の文字組みの美しさは圧巻だったし、シャガールの挿絵の斬新さにも感嘆した。
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ルネサンス期のお宝本の数々を超至近距離で見れるとは・・・・・・。ユークリッド『幾何学原論』(1482年)、トマス・アクィナス『神学大全』(1485年)、ルター『ドイツ語新約聖書』(1522年)、コペルニクス『天体の回転について』(1543年)、デカルト『方法序説』(1637年)、レオナルド・ダ・ヴィンチ『絵画論』(1651年)・・・・・・すべて初版だ。第2版ではあるが、ダンテの『神曲』(1487年)もあった。十四世紀初めに書かれたこの作品は、ラテン語で書かれるのが当たり前の時代に当時のイタリア語(フィレンツェ方言)で書かれた。
《世界三大美本》が展示されていた。いずれも19世紀終りから20世紀初頭の書物である。解説のプレートにはこう書かれていた―「産業革命の結果、本の世界も、安価であるが安直なものが多く出回るようになった。その動きに逆らうかのように出てきたのがプライベート・プレスで、営利を目的とせずに、手作りにこだわった本作りをおこなった」。プライベート・プレスは伝統工芸ないしは芸術としての書物への回帰にほかならない。
下記がその三大美本。〔左〕ケルムスコット・プレス刊『(エリス編)ジェフェリー・チョーサー著作集』(1896年)。タイポグラフィに装飾。何という凝りようだろう。〔中央〕アシェンデン・プレス刊『ダンテ著作集』(1909年)。これほど余白の美しさを感じさせる見開きページ構成にはめったにお目にかかれない。〔右〕ダブス・プレス刊『聖書』全5巻(1903-05年)。『創世記』の冒頭"In the beginning God created the heavens and the earth."(はじめに神は天と地を創造された)の"In the beginning"が赤い大きな文字で見出しになり、しかも、アルファベットの"I"がテキストの頭を揃えるように長く縦に伸びて装飾効果を添えている。
豊かなアイデアコンテンツ
2010年10月27日 09:00
見聞きし思い浮かべることを習慣的に綴ってきて約30年。ノートをつけるという行為はある種の戦いだ。だが、無理強いされるようなきつい戦いはせいぜい一年で終わる。習慣が形成されてからは次第に具体的な戦果が挙がってくるから、戦う愉しみも徐々に膨らむ。
これまで紛失したノートは数知れないが、ここ十数年分は連続したものが残っている。誰しも休みなく戦い続けることはできないように、ぼくのノート行動にも断続的な「休戦期間」があった。それでも、しばらく緩めた後には闘志がふつふつと湧いてくる。そして、「再戦」にあたって新たな意気込みを書くことになる。次の文章は16年前に実際にしたためた決意である。
「再び四囲にまなざしを向けよう 発想は小さなヒントで磨かれる 気がつくかつかないか それも縁 気づいたのならその縁を しばし己の中で温めよう」
決意にしては軽やかだが、ともすれば情報を貪ろうとして焦る自分を戒めている。縁以上のものを求めるなという言い聞かせであり、気づくことは能力の一種であるという諦観でもある。この頃から企画研修に本腰を入れるようになった。人々はアイデアの枯渇に喘いでいる。いや、アイデアを光り輝くものばかりと勘違いをしている。ぼくは曲がりなりにもアイデアと企画を生業としてきた。実務と教育の両面で役に立つことができるはずだと意を強くした。
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アイデア勝負の世界は厳しい世界である。だが、何事であれ新しい発想を喜びとする者にとっては、アイデアで食っていける世界には天井知らずの可能性が詰まっている。そして、人は好奇心に満ちた生き物であるから、誰もが新しい発想に向かうものだと、ぼくは楽観的に考えている。
アイデアは外部のどこかから突然やって来て、玄関でピンポーンと鳴らしはしない。ドアや窓を開け放っていても、アイデアは入って来ない。アイデアが生まれる場所は自己の内以外のどこでもない。たとえ外的な刺激によって触発されるにしても、アイデアの誕生は脳内である。ほとんどの場合、アイデアは写真や動画のようなイメージあるいは感覚質(クオリア)として浮かび上がる。こうした像や感じはモノづくりにはそのまま活用できることが多い。
ところが、アイデアの最終形がモノではなく計画や企画書の場合、イメージもクオリアもそのまま書きとめるわけにはいかない。ことばへのデジタル変換が不可欠なのである。いや、イメージやクオリアの根源においてもことばがある。ことば側からイメージに働きかけていると言ってもよい。したがって、アイデアが出ない、アイデアに乏しいと嘆いている人は、ことばを「遊ぶ」のがいい。一つのことばをじっくりと考え、たとえば語源を調べたり他のことばとのコロケーションをチェックしたりしてみるのだ。
パラフレーズ(言い換え)もアイデアの引き金になる。よく似たことばで表現し、ことばを飛び石よろしく連想的にジャンプする。こういう繰り返しによって、文脈の中でのことば、すなわち生活世界の中での位置取りが別の姿に見えてくる。適当に流していたことばの差異と類似。ことばが繰り広げる一大ネットワークは、イメージのアイデアコンテンツに欠かせない基盤なのである。
ことばは実体より奇なり
2010年10月25日 17:10
ことばと実体には誤差がある。ことばは個性だから奥ゆかしくなったりはしゃいだりする。実体を見ればすぐわかることが、ことばによってデフォルメされてわかりづらくなることがある。その逆に、わけのわからない実体を、存在以上に明快に言い当ててくれるのもことばである。「事実は小説よりも奇なり」が定説だが、「ことばは実体よりも奇なり」も言い得て妙だ。
【小話一】
夏のある日、某大学の車内吊りポスターに目が止まった。キャンパスコンセプト"Human & Heart"を見てしばし固まった。"H"の頭文字を二つ揃えていて見た目は悪くない。だが、このフレーズは「心臓外科」というニュアンスを漂わせる。ならばと外延的に説明しようとすれば、収拾がつかなくなってしまう。あまりにも多様な要素が含まれてしまうからである。
意地悪な解釈はやめる。それでも、このスローガンではインターナショナルな訴求はおぼつかない。「人類と心臓」ではなく、「人と心」を伝えたいのなら、もっと別の英語を模索してみるべきだが、このようなメッセージを大学の精神としてわざわざ口に出すまでもないだろう。この種の抽象的なコンセプトはもう一段だけ概念レベルを下りるのがいい。ぼくが造語した《賢慮良識》のほうが、古めかしくとも、まだしも学生に浸透させたい価値を背負っている。
【小話二】
本の題名は、著者がつける場合もあれば、編集者に一任あるいは合議して決まる場合もある。ざっと本棚を見たら、ぼくの読んでいる本のタイトルには一般名詞や固有名詞だけのものが多い(『芸術作品の根源』や『モーツァルト』や『古代ポンペイの日常生活』など)。次いで、「~とは何か」が目につく。読書性向と書名には何らかの関係があるのかもしれない。
数年前、いや、もう十年になるかもしれないが、頻繁に登場した書名が「○○する人、しない人」のパターン。「○○のいい人、悪い人」という類もある。これも本棚を見たら、この系統のが二冊あった。『運のいい人、悪い人』と『頭がヤワらかい人 カタい人』がそれ。後者の本を見て思い出した。「発想」についての講演を依頼された際に、「主催者はこの本に書いてあるような話をご希望です」と渡された一冊だ(こんな注文をつけられたら、読む気を失ってしまう。ゆえに、当然読んではいない)。
やや下火になったものの、「○○○の力」も肩で風を切るように流行した。書棚を見渡したら、あるある。『ことばの力』『偶然のチカラ』『決断力』『ほんとうの心の力』『コミュニケーション力』『読書力』・・・・・・後の二冊は斎藤孝だが、この人の著書には「力」が付くのが多い印象がある。熱心に本棚を探せばたぶんもっとあるだろう。「力」という添え文字が、タイトルにパワーを授けようとする著者の「祈り」に見えてくる。
【小話三】
これも車内吊り。雑誌の広告表現だ。「ちょいダサ激カワコーデ」。大写しの女性が本人なのかどうか判別できなかったが、広告中に木村カエラと書いてあったので、読者対象はだいたい見当がつく。オジサンではあるが、この表現が「ちょっとダサいけれど、びっくりするくらい可愛いコーディネート」という意味であろうことは想像できる。「もしチガ平アヤゴーメ」、いや、「もし違っていたら、平謝り、ごめんなさい」。
数字を覚えるためのことば遊びがある。同じ日の新幹線では「0120-576-900」のフリーダイアルのルビを見てよろけそうになった。「576」を「こんなにロープライス」と読ませ、「900」を「キミを応援」と読ませる。「こんなにロープライス。キミを応援」と首尾よく覚えても、正しく数字を再現する自信はない。どう見ても、「904139」である(そのこころは「苦しい策」)。この日、ぼくがネットで購入した切符の受け取り予約番号は「41425」。講座、懇親会後に二次会があると聞いていたので、「良い夜にゴー」と覚えておいた。うまく再生できた。
意地を動かす「てこの原理」
2010年10月22日 22:00
『法句経(ほっくきょう)』は、釈迦の真理のことばとして有名な原始仏典である。その中に次のような一節がある。
「まことに、みずから悪をなしてみずから傷つき、みずから悪をなさずしてみずから浄(きよ)らかである。浄と不浄とはおのれみずからに属し、誰も他人を浄めることはできない。」
鈴木大拙師はこの一節に言及してこう語る―「この詩はあまりにも個人主義的すぎるかもしれない。だが、結局は、人は喉が渇いた時には、みずからの手でコップを傾けなければならない。天国、もしくは地獄では、誰も自分の代理をつとめてくれる者はいないではないか。」
ぼくには天国も地獄も想像はつかないが、現世においてもこの謂いは何一つ変わらないと考える。常套句を用いれば、「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」ということだ。たとえば、あなたに誰かが手を差し伸べたとしよう。その手を摑むか無視するかは、あなた次第である。摑まなくても、辛抱強い人ならしばらく手を差し伸べ続けてくれるだろうが、そんな奇特な人はめったにいない。やがて手を引っ込めてあなたのもとを去っていくだろう。
正道と邪道があるとき、「こちらが正道ですよ」と誠意を込めて念押ししても、意固地なまでに邪道に足を踏み出してしまう人たちがいる。冷静な慧眼を少し働かせるだけで邪道であることが明らかになるにもかかわらず、これまでの生活様式や価値観が強く自分を支配しているから、意地はめったなことでは崩れない。意地はいつも偏見の温床になる。意地を「我」と言い換えてもいい。
☆ ☆ ☆
放置しておくと、偏見は増殖し続け重厚長大化する。強い偏見の持ち主は、親しい人が差し伸べるコップの水に見向きもしない「偏飲家」なのだ。彼らは周囲の好意を拒絶して、ますます邪道へとひた走る。排他的な一つの意地ほど具合の悪いものはないのである。どうすれば、こんな愚に目覚めることができるだろうか。おそらく、己の意見と(その対極にある)異見の間の往復運動によってのみ、ぼくたちは偏見を揺さぶることができるように思う。
しかし、どんなにあがいても、「時代が共有する偏見」から完全に逃れることはできそうもない。そもそもぼくたちが今を生きるうえで身につけてきた知は時代を色濃く反映している。時代の基盤にある知の総体的な枠組み、いわゆる《エピステーメー》はぼくたちをマリオネットよろしく操る見えざる指使いなのである。それでもなお、その枠内にあって頑なな意見の影に異見の光を照射することはできないものか。ぼくはそのように考えて、異種意見間の対話やディベートに一縷の望みをかけてきた。
ある意見に対する異見は「てこ」になってくれる。《てこの原理》とは、言うまでもないが、労力少なくして重いものを動かすことだ。残念ながら、「てこ」の役を引き受けてくれる人はおいそれとはいない。しかし、心配無用、個人的な意地も時代の偏見をも動かしてくれる貴重な「てこ」がある。それは時代を遡って出合う古典の知だ。古典は、ぼくたちを縛りつけている意地や偏見を持ち上げて、「一見でかくて重そうに見えるが、張り子の虎さ」と言わんばかりにお手本を示してくれる。お手本はぼくたちの知を整えてくれる。
但し、無条件的・無批判的に古典に迎合するのも考えものだ。時には、己の「てこ」でずっしりと重くのしかかる古典のほうを揺り動かしてみるべきだろう。意見に対する異見、その異見に対する別の異見、そのまた異見・・・・・・必ずしもジンテーゼを目指す必要はなく、テーゼとアンチテーゼを繰り返すだけでも偏見をある程度封じ込めることができるのである。
三昧とハードワーク
2010年10月21日 08:00
その昔、集中力のない人がいた。筋金入りの集中力の無さだった。気も心もここにあらず、ではどこかにあるのかと言えば、別のところにもなく、耳目をそばだてているかのように真剣な表情を浮かべるものの、実は何も聞いていない、何も見ていない。彼には、あることに専念没頭して心をとらわれるようなことがないようだった。成人してからは、寝食忘れて何とか三昧に入ったこともなかっただろう。時にがむしゃらさも見えたが、がむしゃらは三昧の対極概念だ。彼は仕事の効率が悪く、苦手が多く、そして疲れやすかった。
三昧は「さんまい」と読む。釣三昧や読書三昧と言うときには「ざんまい」になる。手元の『仏教語小辞典』によると、サンスクリット語の"samadhi"(サマーディ)を音写したという。もともとは不動にして専心する境地を意味したが、仏教語から転移して今では「我を忘れるほど物事に集中している様子」を示す。三昧は立派なことばなのだが、何かにくっつくと意味変化する。たとえば「放蕩三昧」「博打三昧」になれば反社会的なライフスタイルを醸し出す。
突然話を変えるが、勉強や仕事をし過ぎて何が問題になり都合が悪くなるのかよくわからない。昨今ゆとり教育への反省が急激に加速しているが、そもそも何事かを叶えようと思い立ったり好奇心に掻き立てられたりしたときには、誰もゆとりのことなど考えないものである。それこそ三昧の場に入るからだ。ゆとりは必ずしもスローライフにつながらない。むしろハードワークゆえにスローライフが約束されることもある。「教育が生活からゆとりを奪う」などという主張は、教育がおもしろくないことを前提にしていた。言い出した連中がさぞかし下手な授業をしていたのだろう。おもしろくて(ついでにためにもなるのなら)「~し過ぎ」などということはないのである。
☆ ☆ ☆
今年の私塾の第2講で「広告の知」を取り上げ、デヴィッド・オグルビーにまつわるエピソードをいくつか紹介した。オグルビーの著書にぼくの気に入っている一節がある。
I believe in the Scottish proverb: "Hard work never killed a man." Men die of boredom, psychological conflict and disease. They do not die of hard work.
(私は「ハードワークで人が死んだ試しはない」 というスコットランドの諺は正しいと思う。人は、退屈と心理的葛藤と病気が原因で死ぬ。ハードワークで人は死なないのだ。)
ハードワークについての誤解から脱け出さねばならない。ハードワークは、誰かに強制されてがむしゃらに働くこと(学ぶこと)なのではない。嫌なことを強制的にやらされるから過労・疲弊に至るのである。ハードワークは自ら選ぶ三昧の世界なのだ。そのことに「何もかも忘れて、入っている状態」なのだ。「入っている状態」とは分別的でないこと、あるいは相反する二つの概念を超越していることでもある。これと同じようなことを、維摩経では「不二法門(ふにほうもん)に入る」とも言う。そのような世界には、過度ということなどなく、むしろゆとりが存在する。対象を認識せず、気がつけば対象に一致・同化している。
「愛しているということを、愛しているという認識から区別せよ。わたしはわたしの眼前に愛を見てとるほうではなく、この愛を生きることのほうを選ぶ。それゆえ、わたしが愛しているという事実は、愛を認識していないことの理由になる」(メルロ=ポンティ)。
この愛を生きることが、とても三昧に似通っていると思われる。仕事・学習を生きることが三昧的ハードワークなのである。これに対して、仕事・学習を対象として認識し「仕事を頑張ろう、勉強しなくては」と考えるのは三昧などではない。それどころか、物理的作業の度を過ぎて困憊してしまうのだ。ともあれ、三昧を意識することなどできない。意識できた三昧はもはや三昧ではない。我に返って「あっ、もうこんな時間か。結構はかどったし、いい仕事ができたな」と思えるとき、それが三昧であり疲れを残さないハードワークだったのである。
有名人とコマーシャル
2010年10月19日 18:00
あの人たちはテレビコマーシャルで自分が宣伝している商品を、日々の生活の中で実際に使ったり用いたりしているのだろうか。宣伝していながら、宣伝している商品とは別のものを使用しているとしたら、そのつど心理的違和感やちょっとした罪悪感などに苛(さいな)まれはしないのだろうか。ぼくなどは、ことばと考えと行為が大きくズレてしまうと、浮遊したような二重人格性を強く己に感じてしまうので、なかなか不一致を受容することはできない。
とはいえ、あの人たちの生活は日夜スポンサーによって監視されているわけではない。だから、おそらく当該商品に束縛されることはないだろう。同業他社のコマーシャルに出演しないかぎり、現スポンサーに文句をつけられる筋合いはない。数千万円(場合によっては億以上)もの契約金は、スポンサー商品の日常的使用に対してではなく、あの人たちのスポンサーへの忠誠に対して支払われるのである。「契約期間中は、他社に浮気するような背徳行為はいたしません」という、「制約の誓約」への報酬と言い換えてもいい。
生真面目で几帳面な有名人は、年間数本のコマーシャルに出演しながら、もしかするとすべての商品やサービスを愛好しているかもしれない。公私を問わず、誰に見られようと、まったく後ろめたさもなく正々堂々と正真正銘の消費者として生活していたら、これは大いに褒めてあげてもいいことだろう。
古い話ゆえ叱られることはないから告白するが、ぼくは大手家電メーカーのP社とS社の広報・販売促進を同時に手掛けていた時期がある。どちらかと言えば、P社は他社の仕事をすることに寛容であったが、S社は一業種一社を絶対条件としていた。オフィスで使っていたテレビは両社いずれでもない他社製であったから、テレビのない部屋で打ち合わせをしていた。いつまでも隠し通せないと観念して、徐々にテレビやオフィス家電をおおむねS社製に買い換えた。このように、大変な気遣いをしたのを覚えている。二股には勇気がいるのである。
☆ ☆ ☆
F原N香は、コマーシャルしているあのヘアカラーを何ヵ月かに一回程度使っているのだろうか。自宅で地毛を自分自身で染めているのだろうか。少なくともコマーシャルの設定はそうなっているようである。「そんなの、行きつけの超高級美容サロンで別ブランドの商品で染めているに決まってる」と誰かが言っていたが、真相はわからない。もしそうならば、その美容院であのヘアカラー商品は話題にならないのだろうか。
U戸Aは自宅でもガスで調理しているのだろうか。まさか自宅がオール電化などということはないのだろう。いやいや、もしオール電化であったとしたら、その一部をわざわざガスへと再リフォームしたとは考えにくい。あの人は役柄上のみガスを使っていて、実際は電気党かもしれないのだ。では、Y永S百合とK雪はどうだろう。前者のあの人はS社のテレビ映像を楽しみ、P社製では見ないのか。後者のあの人は、その逆なのか(こう書いてから「あっ」と気づいたが、ぼくが直面したジレンマのP社とS社の実名がわかる人にはわかってしまった。書き直すのも面倒なので、このままにしておく。なにしろもう時効だから)。
ぼくはビール党ではない(ビール党のみならず、あまり熱心な左党ではない)。にもかかわらず、あのY沢E吉のビールの飲みっぷりを見るたびに、特にこの夏のような酷暑の夕方にはグラスに注いで飲んでみようかと唆(そそのか)されたものだ。あの人、あのメーカーのあのビールを契約期間中に飲み放題なんだろうなと想像する。だが、K社やA社のビールを飲んでいたらがっかりだろうな。いや、ビール党でなかったら・・・・・・。T村M和もハム嫌いでないことを願うが、みんな芸達者な人たちだから、本物のペルソナは素人にはわからない。
暫定的なことば
2010年10月18日 10:00
一つは、気の向くままに小文を書き、書き終えてからタイトルを付ける。もう一つは、思いつくままに書くことは書くのだが、あらかじめタイトルを決めておく。自分がいつもどうしているかを少々顧みて、さらに、どちらが苦労が少なくて済み、どちらが目を引くようなタイトルになっているかに注意を向けてみる。いろいろと考えてみた。そして、これらの問いへの答を放置したまま、別のこと―「話す」と「書く」の決定的な違い―に気がついた。
話す場合は、「これについて話そう」もあれば、「(気がついたら)そのことについて話していた」もありうる。つまり、テーマへの意識の有無にかかわらず、そこに相手がいることによって「ただ話すという行為」は成り立ってしまう。ところが、読み手があろうとなかろうと、また、書く前にタイトルがあろうとなかろうと、書く行為そのものには「テーマらしきもの」が前提されている。少なくとも、ことばになる前の気分の志向性だけは、確実にある。何となく喋ることはできるが、何となく書くことはできそうもないのである。実際、ぼくは、小文のタイトルを付けるタイミングとは無関係に、おおよその何かについて書き始め書き終えている。
おおよその何かは、ただの気分やぼんやりしたイメージとして止まっているのか。どうやらそうではなく、ことばとして確定しているようなのだ。タイトルの箇所が埋まっていようと空欄のままであろうと、いずれも「暫定案」にほかならない。テーマはすでにことばになっている。空欄は単に未記入というだけの話で、書くことについてぼくたちはアタマの中ではっきりと言語表現化している。そして、書き終えた後に、もう一度見直してみるのである。小文ですらこういう具合であるなら、暫定的なタイトルなしで小説や論文を書くことは不可能だと思われる。
☆ ☆ ☆
ラスコーやアルタミラの洞窟壁画に先立って、クロマニヨン人は言語を操っていなければならない。彼らが二十数万年前にどうだったかはわからないが、1万数千年から2万年前、少なくとも鮮やかな色使いで精細に牛を描く時点で、牛の名称と牛の存在と牛の概念は同時にあったはずである(なお、チンパンジーに無理やり絵筆を持たせれば、画用紙に何かを描く。しかし、勘違いしてはいけない。チンパンジーは「ある対象」を描いてなどいない。ただ絵具のついた筆を紙の上で振り回しているだけである)。目の前の対象や記憶の中のテーマを写実的に描くためには、対象を認識していなければならない。そして、対象を認識するとは、何を差し置いても、まず名前を発することなのである。
先月このブログで「一軒の家の設計図があって初めて柱や壁や屋根やその他諸々の部材が規定されるのである。決して部分を寄せ集めてから全体が決まるのではない」と書いた。対象の名と絵を描くことの関係も、タイトルと書くことの関係もこれと同じだろう。名という型なくして意味などない。名もない対象に意味を見い出して、やおら絵を描き始めたり文章を書き始めたりするわけなどないのだ。これまで名や名称やタイトルと呼んできたものは「音声のあることば」と言い換えればよい。ひとまずことばを発しなければ、対象も認識できないし意味も生まれないのである。
ことばはいきなり明快にはならない。だからこそ、試行錯誤しながら「暫定的に」用いるのである。繰り返すことによって型が生まれ、その型が概念となって意味を生成する。言語と思考の関係はほとんどこうなっているとぼくは思うのだが、よく考えてから話そうとしたり、考えていることがうまく言えないと悩む人が相変わらず大勢いる。とりあえずよく話そうとするからこそよく考えることができるようになるのだ。むずかしいが、興味の尽きないテーマである。
番狂わせへの期待
2010年10月14日 22:00
ブログを書いているくせに、あまりインターネットで検索しない。必要があるときはもっぱら各種辞典で調べている。従来から仕事の現場ではよほどのことがないかぎり調べない。仕事の一つである講演や研修の最中に調べていたら奇妙である。オフィスにいても同じことだと思う。仕事とはアウトプットすることにほかならない。調査が本業でもないかぎり、仕事中にインプットしているようでは修行が足りぬ。というわけで、辞書類や参考文献は自宅のほうが充実している。インプットは人目につかぬようにするものだろう。
「番狂わせ」の語源が気になった。四の五の言わずにウィキペディアを手繰れば書いてあるのかもしれないが、こういうことに関してぼくはいささか保守的である。知らないことについて調べるのだから、当然初見の情報に出くわす。知らないのだから信憑性を問える力も資格もない。がせねたに騙されるかもしれない。同じ騙されるのなら、匿名的ウィキペディアよりも編集責任者が明記されている辞典類のほうがましである。「ウィキペディアにこう書いてあった」と紹介して間違っていたら恥さらしだが、「広辞苑によれば」と言っておけば、仮に怪しげなことが後々に判明しても、岩波書店の責任にしてしまえばよい。
というわけで、気になった「番狂わせ」を広辞苑で引いてみた。「①予想外の出来事で順番の狂うこと。②勝負事で予想外の結果が出ること」とあった。この程度の定義なら想定内、わざわざ調べるまでもなかった。関心はこの表現の語源なのだが、他の辞書でも見当たらない。いまこうしてブログを書きながら、画面の上のほうのグーグルバーで検索したら、さぞかし諸説がぞろぞろ出てくるだろうとは思う。だが、触手を伸ばさない。知らなければ知らないでいいのだ。知らなければ、脳トレを兼ねて類推すればいい。
広辞苑にもあるように、番狂わせの「番」は「しかるべき順番や順位」のことだろう。つまり、その順通りであることが秩序(または正統)、その順が狂うことが混沌(または異端)。ちなみに、英語では混沌・混乱のことを"upset"と言うが、まさにこの「アップセット」が、試合やゲームでの予想外の敗戦や結果を意味している。番狂わせとは、正統派にとっては「あってはならないことが起こってしまうこと」であり、異端分子にとっては「絶対にありえない功を成し遂げてしまうこと」なのである。
☆ ☆ ☆
勝つことを絶対視されている側が、番狂わせに期待を抱くはずがない。番狂わせを歓迎するのは、負けて当たり前の弱者、愉快・痛快を求める傍観者、あるいは秩序崩壊によって利に浴することができるギャンブラーたちである。先のワールドカップでの番狂わせと言えば、スイス対スペインの試合が真っ先に浮かぶ。シュート24本を乱れ打ちしたスペインが0-1で敗北したあの試合である。そのスペインが優勝したのだから、たしかに大番狂わせのレッテルは正しい。あの試合の前に「番狂わせはない」と言えば、それは疑いもなくスペインがスイスに「万有引力の法則」ほど確実に勝つことを意味したはずだ。しかし、リンゴは木から落ちずに空へと上がってしまった。
実は、番狂わせはぼくたちの想像以上によく起こっている。なぜなら順番や順位や優劣評価が本来ファジーだからである。あるサッカー通が言った、「サッカーというのはそういうゲームなんだ。他のスポーツに比べて、番狂わせが起こりやすい」と。先日の日本対アルゼンチンもそうだったのか。と同時に、基礎体力もなくシュートも打たなければ番狂わせはありえないだろうとぼくは思うのだ。実際、スペインの3分の1ではあるが、スイスは8本もシュートを打ったのだ。そのうちの一本が決まったという次第である。
実社会での仕事の場面はスポーツ以上に状況が複雑である。だから、番狂わせの頻度が高まる。しかし、サッカーの「基礎体力とシュート」に相当するものを決定的に欠く弱者に番狂わせは絶対にやってこない。この二つに相当する資質だけはつねに磨いておかねばならないのだ。言うまでもなく、この二つは職業ごとに異なる。
ところで、番狂わせの概念などまったく持ち合わせていない、冷徹な存在がいる。彼にとっては番狂わせも何もない。ただひたすら勝つべき者が勝つと予告する。何を隠そう、あのドイツのタコ「パウル君」のことである。
(注)スイスとスペインのシュートの数やタコのパウル君の話。このブログを書き終えてから、念のためにネット上の新聞ニュースサイトで確認した。しかし、書きながら参照したのは、まず記憶、次いでノートであった。ぼくのノートには、その時々に気になったことはだいたい書いてある。
自分ノートの価値
2010年10月13日 07:45
老子はこんなふうに言う、「道は空(くう)の器のようなもので、中身がない。中身が詰まってくると、機能が規定されて融通が利かなくなってくる」。これを少々牽強付会気味に用いると、何も書いていないノートがもっとも有用ということになってしまう。文字がびっしりと書き込まれたノートよりも、何も書かれていない真っ白なノートのほうが有用とは・・・・・・。この発想をフォローするのは容易ではない。
今年は老子を再読し私塾でも取り上げて、少し理解を深めたところである。書くことやノートについて老子が直截的に語ったわけではない。しかし、空っぽ(あるいは空間)を哲学したパイオニアである老子が、「空の満に対する優位」を説いているのは間違いない。たしかに、「空の可能性」は「満の可能性」よりも大きい。タクシーが空車なら乗れるが、満車だと乗れない。空席があれば劇場に入れるが、満席なら入れない。自分視点に立てば、いずれも前者が有用ということになる。行列の並ぶ店は有用ではない!
老子には「柔弱の堅強に対する優位」という考え方もあって、強さをマイナスとして見る。ところが、別の章の一節では「(・・・・・・)、柔を守るを強と曰(い)う」とも言っている。おや、柔弱さを守るのが強さなら、結局は堅強のほうが強いのではないか。たしかに、この一文においてのみ、老子は強さをポジティブにとらえている。これはさておき、着目したいのは上記の「(・・・・・・)、」の箇所だ。「小を見るを明と曰(い)い、」とあって、「小さな物事をよく見定めるのが明知」という意味になる。小事をよく観察するのが知恵ならば、ノートの空白に小事を埋めるのもまんざら悪くはないような気がしてくる。
☆ ☆ ☆
究極的に「道」なるものに還(かえ)るとき、すべては無為で無用で空っぽになるのだろう。しかし、年齢不相応に未だ途上人である身にあっては、道は遠く険しい。ゆえに、日々ノートに小事や小知を綴る。文字がびっしりと埋まった一冊のノートを紛失したら、大いに困り大いに嘆くだろう。翻って、まだ一行も書いていないノートを失くして困ることはない。老子先生に逆らうつもりはないが、ぼくにとっては未使用のノートよりも手垢のついたノートのほうが有用なのは間違いない。
ここ数年使っているノートは主に文庫本型ノートで、定価は税込み147円と安価。一冊288ページのノートだ。しかし、紙の片面しか使わないから、144ページに記録していることになる。一頁一テーマ主義ゆえ一冊だけで144の見出しがある。だいたい一日あたり2ページか3ページ書く。つまり、一冊二ヵ月のペース。このノートを新たに使い始めて一週間の時点では、ノートの大半は白紙だから、ぼくは白紙のノートを持ち運びしているようなものである。一ヵ月経ってもまだ半分が白紙だ。白紙は、書き込まれて未来には有用になるだろうが、現時点では無用である。
今のノートは8月12日から使い始め、あと一週間ほどで書き終わる。使い勝手のよい参照状態になってくれている。ぼくが紙の片面しか使わないのは、時折りノートを読み返しながら空けておいた対抗ページにひらめきや追加情報を書き込むため。つまり、ノートを使い込んでいくと同時に、ぼくは同数の空きページも用意している。(・・・・・・) あ、そうだ! これらの空きページは、後日有用への道に開かれているではないか! これがまさに空っぽの有用性? ふ~む、老子は深い。
食べたり空を見上げたり
2010年10月11日 17:30
題材に困らない話と言えば、食事と天気である。なにしろ、ぼくたちは毎日何度か食べるし、よほどのことがないかぎり、日々天気予報を見聞きし空模様や暑さ寒さも気にする。一般の会話では、ごぶさたでも親しい相手には食、さほどでもない相手には天気が定番である。会話だけではなく、日記やブログにも当てはまる。マンネリさえ我慢すれば、この二つの話題については無尽蔵で書けるのだ。ただ、ブログだけに限定すると、毎度毎度同じような話を読まされたら読者は少しずつ離れていくだろう。
読者を想定しようとしまいと、マメでありさえすれば、誰にでも日々の食事内容と天気を徒然なるままに記録することができる(実際、かぎりなくこれに近いプロのエッセイストもいるのだ)。但し、喫茶店でのモーニングを常食している場合、「今朝は、厚切りトーストにゆで卵、ホットコーヒー」と毎日同じことを書くことになる。これでは情けないと感じるだろう。そこで、一昨日ぼくが書いたように、お昼には時々ロコモコ丼やタコライスなどの「異変」を経験してネタづくりに励まねばならない。
いや、自分の食事の記録だけにこだわらなくてもいい方法がある。日々コメントに変化をつけることができ、なおかつ長続きする方法だ。手配りやポスティングされる店のチラシを捨てずに取っておき、精細に分析するのである。一ヵ月で何十枚ものチラシが手に入るから食のネタに事欠くことはない。店名、メニューと価格、店の雰囲気、チラシの文面・デザインなどの要素から一品一品の味を想像してみるのもよい。一年後には『チラシに見る料理店の魅力』と題した一冊の本が出来上がっているかもしれない。
☆ ☆ ☆
昨日おもしろいものを見た。日曜が定休日らしきその店のシャッターに「カキフライ定食」と大きく書いた貼り紙がしてあった。二行目に「○○付き」と書いてある。さて、何と書いてあったか。定食なのだから、ライスや味噌汁やお新香などと念を入れるはずがない。「千切りキャベツとポテトサラダ付き」または「タルタルソース付き」はありそうだが、いずれもカキフライには黙ってセットされるものだろう。
実は、そこにはなんと「酢豚付き」と書いてあったのだ。「酢豚定食 カキフライ2個付き」ではなく。ぼくにとっては驚きの主客逆転情報である。ただ、時間が経って冷静に考えてみたら、原価や訴求面では「カキフライ定食 酢豚付き」としたくなる店側の趣向にも頷けた。これからが旬のカキを主に、いつでも食べれる酢豚を客にするシナリオはありうる。
さて、次いで天気の話。体育の日の今朝、窓を開けて空を見上げると、抜けるような青が広がっていた。この空について、今日の天気について何を書くことができるか。天気模様を表現する語彙が比較的豊富な日本語だが、おおむね快晴、晴、曇、雨、雪があれば間に合い、たまに「時々」と「のち」で組み合わせれば済む。すぐに飽きてしまうので、天気についてもっと長く語ろうと風や気圧や波へと話題を広げる。とりわけ、気温を最高と最低で表現することによって天気の話がさらに膨らむ。
今夏のような酷暑が続けば、話し下手な人もネタに悩まない。天気がらみの話が周辺で飛び交い、どこに出掛けても「暑さ」が会話の主役であった。気象予報士にとってやりがいのある夏だったに違いない。ところで、「平年に比べて明日は・・・・・・」と彼らは頻繁に言う。「明日は平年に比べて蒸し暑いでしょう」と予報してもらっても、あまり参考にはならない。なぜなら過去三十年の平均値である平年の温度などアタマでも身体でも覚えていないからだ。「今日に比べて明日は・・・・・・」だけでいいと思うが、どうだろう。
「お昼」に思うこと
2010年10月 9日 20:50
「お昼に行ってきます」と言う。それに対して「お昼になど行かなくても、毎日お昼のほうからやって来るじゃないか」と返されたら・・・・・・。返した相手は無粋かバカか、あるいはジョーク好きのいずれかなのだろうが、下手をすると、あなたも無愛想かバカらしいという顔をするか、あるいは(ジョークがわからずに)ポカンとした反応を示すかもしれない。この種の返しは、受け止めるのも受け流すのもむずかしいセリフなのである。
仕事の合間に「お昼に行く」と告げるときの「お昼」。それは十中八九お昼ごはんであり、外でランチを食べてくるという意味であって、朝昼晩なる分節のうちの午後の早い時間帯のことではない。不思議なことに、朝ごはんを「お朝」などとは言わないことになっている。喫茶店のモーニングの名称にあってもよさそうだが、少なくとも半世紀以上生きてきて一度も耳にしたことがない。同様に、夕食や晩餐を「お夕」と言わない。おばんざい(御番菜)はあっても「お晩」はない。「今夜はみんなでお晩に行くか」もまんざら悪くないが、他意や含みも多すぎる。
昼間に自宅にいない、そして弁当を持っていない、さらに空腹であるという三つの条件が揃えば、弁当を買ってくるか店に食べに行くかのどちらかが必然。そして、どちらにしても、選択の岐路に立つことになる。ぼくのオフィス近くの「弁当デフレ戦争」は日を追って凄まじさを増している。弁当を買ってきてオフィスで食べることはめったにないが、お昼に歩いてみると、店先はもちろん、道路側にもにわかテントとワゴンが並び、なんと280円から500円の価格のメニューで通行人を奪い合う。
☆ ☆ ☆
オフィス近くに半年前にオープンした台湾料理の店。昼はにぎわい、夜もまずまず。お昼のメニューは十数種類あって、どれもボリュームたっぷりだ(このボリュームたっぷりは大いに歓迎すべきだが、減量作戦中のぼくには悩ましい。ゆえに、単品にするか、定食にしてご飯少なめにする)。この店に酢豚定食はないが、昼遅めに行って客が退(ひ)いていたら、特注できる。毎日のランチのことだ、偏らないようにしようと思えば、具材が比較的豊富な中華料理が週に二回くらいになってしまう。
それと言うのも、和食店が頼りなくなったからである。正確に言えば、和食店であろうと何店であろうと、メニューがめっきり洋風に画一化してしまったのだ。寿司と魚料理に特化していない店では、肉が魚と野菜に代わって主役に躍り出ている。定食で目立つのはトンカツ、豚の生姜焼き、唐揚、ミックスフライ。これに最近では、熟年泣かせのロコモコ丼にタコライスである。「何だ、これは!?」と思いつつ、無下にせずにそれぞれ一度だけ試してみた。結論だけ言えば、ロコモコよりは卵かけご飯、タコライスよりはちらし寿司のほうがいい。
ランチにアボガド丼を出す店があるが、いくらダイエット向きヘルシー食と言われようが、遠慮する。念のために書くが、ぼくは何でも食べる。好物はあるが、これはダメというのはない。しかし、まずまずの選択肢があれば、アボガド丼を指名しない。まぐろアボガド丼というのも見かけたが、アボガド抜きのほうがよろしい。ぜひお昼にはちゃんとした和定食も用意してほしいものだ。もちろん、これはぼくの個人的な思いである。実は、お昼にちゃんとした和食を出していた店はことごとく閉店に追い込まれて、代替わりしてしまったのだ。新しくオープンした店はおおむねグリル系メニューか創作系折衷メニューを指向する。少々侘しく寂しいが、現代日本人の食性を反映しているのだからやむをえないのだろう。
人間の二極的類型論
2010年10月 7日 18:00
難解な話を書くつもりはない。《人間の二つのタイプ》や《二種類の人間》と書いたのだが、どうもしっくりこないので、いろいろと表現をいじっていたら、やがて《人間の二極的類型論》がぼくの意図に近く、難しそうには見えるけれども、すわりが良さそうなのでこのタイトルに落ち着いたまでである。
人間を血液型で分類すれば四つのタイプになり、星座や誕生月で分ければ十二種類になる。では、二種類に分けるとどうなるか。「そりゃ、男と女でしょう」というつぶやきも聞こえるし、「善人と悪人で決まり」という強い主張もありそうだ。「イヌ型とネコ型」と分けてもいいかもしれない。こんなことを考えたのはほかでもない。ぼくの企画力研修のテキストを見直していて、「情報編集と分類」という章の冒頭に差し掛かったとき、気になってしまったのである。そこにはこう書いている。
世の中には二つの人種がいるというジョークがある。曰く、「ものを分ける人」と「ものを分けない人」である。前者を「分別派」、後者を「無分別派」と呼んでもいい。
この種のジョークはだいたいユダヤのそれである。このジョークを作った人間は間違いなく「ものを分ける人」だったのだろう。いずれにせよ、三つ以上には分類根拠が求められそうだが、二つのタイプに分けるのなら何でもありのように思える。たとえば、「調べもの好きには二種類の人間がいる。インターネットで検索する人と書物で検索する人である」。さらに、「インターネット検索にあたって二つのタイプの人間がいる。Googleで検索する人とそれ以外のサーチエンジンを使う人」もありうる。
☆ ☆ ☆
しばし前者のタイプの人間になって、試みにGoogleで「人間の二つのタイプ」と入力して検索した。すると、「自分のやりたいことを、誰かに許可されるのを待っている人たちと、自分自身で許可する人たち」というのが出てきた。なるほど。やっぱりどんな分け方もありうる。そして、二つというのはもっとも極端な分類だから、分類者の視点を色濃く反映するのである。「大きな称賛が与えられたとき、はにかむ人とますます厚かましくなる人がいる」というニーチェのことばがあるが、これなどもニーチェ自身の体験に根ざして絞り出されたに違いない。目障りなほどとても厚かましい奴がきっと近くにいたのだろう。
愉快が好きなぼくは、ジョークがらみで人間を両極に類型することがある。たとえば「ジョークで笑わせる人とジョークで笑わされる人」、あるいは「つまらないジョークを放つ人とそれを聞かされる人」。だいたい役割は決まっている。グループがあれば、ジョークの話し手と聞き手がだいたい二分される。しかし、実際は、ジョークの一つも言えない人は他人のジョークにも笑えないものだ(笑えないから笑う振りをする)。すなわち、聞き手側はさらに、ジョークの分かる人と分からない人に二分されるのである。
最近ぼくがよく用いるのが「機関車人間と客車人間」もしくは「自力人と他力人」である。どれだけ燃料を補給してもエンジンを積んでいなければ動きたくても動けない。つまり、学んでも学んでも自ら思考しなければ行動が伴わないのである。客車は何輌つないでも動かない。機関車はどんなにちっぽけでも動く。装いだけ立派なグリーン車のような客車人間が最近とみに目立つが、いつも機関車に引っ張ってもらうのを待っている様子である。
このように二極的に人間を類型してみるとおもしろいことが見えてくるはずだ。現在の自分がいったいどっちの極にいるのか、心底なろうと思っているタイプと今の自分は一致しているのか違うのか。案外、正道ではなく邪道を選ぶような、辻褄の合わない類型のほうに傾きそうな危うさに気づくかもしれない。こっちがいいという気持に忠実な選択をするのは簡単そうで、実はとても難しいと思う。
地下鉄線に沿って
2010年10月 6日 09:00
「へぇ、こんなものがあるのか」と驚いた。
大阪市外に住んだ時期も二十数年ほどあったが、ほんの数年間を除けばつねに大阪市内で働いていた。仕事は転々としたが、いつも市内の職場に通っていた。今は職住ともに大阪市中央区。自宅と職場は徒歩15分足らずなので、勤務に地下鉄は使っていない。数年前までは地下鉄に必ず乗っていたし、ライフスタイルは車を持たない主義なので、どこかへ行くとなれば最寄の地下鉄駅が起点になる。近くを谷町線、堺筋線、鶴見緑地線という三つの地下鉄が走り、自宅から徒歩5分圏内にそれぞれの路線の駅がある。
地下鉄をよく利用してきたし詳しいつもりでいた。だが、初めてそれを見て少し驚いた。「それ」とは、大阪市交通局が発行する『ノッテ オリテ』9月号。漫才師のような雑誌名だ。隔月刊のフリーマガジンらしいが、こんなものがあるとはまったく知らなかったのである。手にした9月号では「大阪旅 坂の町をゆく」と題した特集を編んでいて、上町、七坂、天王寺の風景が紹介されている。しょっちゅう散歩しているなじみの街並みだ。
大阪城から南方面に広がる一帯が高台の上町台地。山あり谷ありは大げさだとしても、起伏があるので坂の多い光景を呈している。天満橋にあるぼくのオフィスのすぐそばを谷町筋が通り、大川の手前、土佐堀通の南側の傾斜が大阪の由来になった坂と言われている(大阪はかつて大坂、つまり「大きな坂」だった)。上町から見れば谷町は「谷」だから、狭い街中にあって高低感をよく表わす地名になっている。
さて、交通局が発行するその雑誌。巻頭に若手作家の万城目学(まきめまなぶ)が『谷町線おもいで語り』と題してエッセイを書いている。谷町九丁目に住んでいた話、天満橋の小学校へ地下鉄で通っていた話、谷町線特有の紫のラインカラーの話などを懐かしく綴っている。次の行(くだり)を読んで、思わずにんまりとしてしまった。
「(・・・・・・)これまで数えきれぬほどの難解な漢字の組み合わせを見聞きしてきたであろうに、『いちばん難しい漢字四文字の組み合わせを答えよ』と問いかけられたなら、反射的に『喜連瓜破』の四文字が浮かぶ(・・・・・・)」
☆ ☆ ☆
ありきたりの文章だ。この文章に対して思わずにんまりしているのではない。「きれうりわり」と読ませる四文字の響きがたまらないのである。ここには何とも言えない、また知らない人には説明のしようのないおかしみがこもっている。喜連瓜破は、おそらく商売繁盛と並ぶほどの、大阪色たっぷりな四字熟語なのである。ちなみに、喜連瓜破は地下鉄谷町線の駅名の一つ。そして、この谷町線は、珍しいほど路線をくねらせて走っている。
谷町線を南から北へと辿ってみよう。八尾南、長原、出戸へと上がり、喜連瓜破で西へと向きを変え、平野、駒川中野(この近くに大学生頃まで住んでいた)、田辺、文の里、阿倍野、天王寺へと達する。ここで再び北へと進路をとり、四天王寺前夕陽ヶ丘、谷町九丁目、谷町六丁目、谷町四丁目とくどい駅名が続き、天満橋へ(オフィスの所在地)。ここからまた西へ向き、南森町を経て、息つく暇もなく、東梅田、中崎町と北上。天神橋筋六丁目(日本最長で有名な商店街の最北地点)からは東へと走り、都島、野江内代(のえうちんだい)、関目高殿(せきめたかどの)、千林大宮、太子橋今市、守口、そして終点の大日(だいにち)へと到る。実に四文字の駅名が五つもある。
☆ ☆ ☆
喜連瓜破の他にも、生粋の大阪人が「おかしみのツボ」に嵌まる地名がある。さしずめ放出(はなてん)、杭全(くまた)、天下茶屋(てんがちゃや)はトップブランドだろう。「どうしておかしいのですか?」と他府県びとに聞かれても困る。おそらく語感と場所柄のイメージが複雑に絡み合ってそうなったはず。とにかく、これらの地名が脳内に響いただけで鼻から漏れそうな笑いの息をこらえたり実際に笑ってしまったりする人たちが少なからずいる。なお、今日の夕方、ぼくはさっき紹介した関目高殿で講演をおこなうが、一つ手前の駅の「野江内代」がちょっとやばい空気を醸し出しているのに気づいた。要注意だ。要注意とは、地下鉄の電車内で一人にんまりとすることへの警鐘という意味である。
消極的な選択
2010年10月 5日 07:30
「高度情報化」には少々古めかしい響きを感じるようになったが、相変わらず油断も隙もない現象である。あっという間に話題やニュースを次から次へと急流に乗せて記憶の彼方へと追いやってしまう。もちろん、尖閣諸島問題のような「こじれた事件」は日々更新されるので、日中関係という大きな水脈でとらえることはできる。しかし、国内の政治経済的な事柄は、たとえそれがマクロ的な類であっても、喉元過ぎれば何とやらの様相を呈する。
「消極的な選択」が取りざたされてからまだ一ヵ月も経っていない。にもかかわらず、ぼくがその話を持ちかけても周囲の誰も反応しなくなった。いや、反応どころか、すっかり忘れてしまっている。はるか遠い昔の思い出ですら幽(かす)かに再生できるというのに、つい先日の一件に対して「そんな話、あったっけ?」という具合なのである。
菅直人が民主党の代表に再選されてから今日で丸三週間が過ぎた。選挙の翌日、一部の新聞が「菅直人再選は消極的な選択」と書き、この論調を真似たのかどうか知らないが、テレビの報道でも同様のコメントが繰り返された。党員もサポーターも、地方議員も国会議員も、菅直人の支持者はみんな「やむなく」投票した、という主張である。これを「小沢一郎に対する積極的な拒否の裏返し」と分析していた紙面もあった。マスコミが事前におこなった世論調査も「菅のほうがまし」という結果だったのか。
☆ ☆ ☆
ちょっと待てよ、とぼくは立ち止まる。消極的な選択に何か問題でもあるのだろうか。ぼくたちがやむなく(場合によっては、嫌々)何事かを決めるのは、何も民主党の代表選に限った話ではない。ぼく自身の過去の投票実態を振り返ってみれば、積極的に選択したケースは圧倒的に少ないことがわかる。選挙を棄権すべきではないと殊勝な心掛けをしているので、選挙当日に投票会場に行くか期日前に投票を済ませる。そして、ほとんどの場合、消去法的に候補者を選んできた。
考えてみれば、そんなものなのである。自分が理想とする候補者がそこらじゅうにいるわけがないのだ。市長選や知事選になれば選択肢も減る。この人でなければいかんと言い得るのは後援団体に属する熱烈なシンパだからであって、無党派であれ特定の党の支持者であれ、「平均的な有権者」はたいていの場合、消極的な選択をしていると思われる。「五十歩百歩だが、それなら百歩のほうを選んでおくか」という決め方がだいたいの相場なのではないか。仕事上の決断でも、そんな選択が少なくない。
腹が減ったが、時間がない。後先考えずに飛び込んだ店のランチが三種類。解凍系のコロッケ定食に旬外れの煮魚定食、それに昨日も食べた豚の生姜焼き定食。こんなとき、入った手前、Uターンして出るに出れず、不承不承席に着いて「一番悪くなさそうなランチ」を消極的に選択するではないか。実際、そんな店で「ふ~ん」とため息ついて、「コロッケ定食でいいや」と注文している客が案外多いのである。明らかに積極性はない。
それで、何か都合が悪いのだろうか。ぼくたちの日々の意思決定では諸手を上げて賛成という場面のほうがむしろ少ないのだ。とびきりの高望みをしているわけではないのに、やっぱりぼくたちにはそれなりの理想像があるし、あってしかるべきだろう。その理想像にぴったりの人物や食事に頻繁に出合えるものではない。居直るつもりはないが、消極的選択でいいのである。少なくともそれは拒絶ではなく、選択なのだから。
表記と可読性の関係
2010年10月 3日 18:30
何年か前の手書きノートを、脳内攪拌のつもりで時折り読み返す。同じく、一年前か半年前の自分の公開ブログを気まぐれに読む。近過去への郷愁からでもなければ、強度のナルシズムに酔うためでもない。この十年や数年というスパンでとらえてみれば、自分の思考軸の大きな傾きはよくわかっている。しかし、ほんの一年や半年となると、小さくてゆるやかな変化や変形には気づきにくいものだ。こんなとき、書いたものを振り返るのが一番よい気づきになってくれる。
虚々実々的に、何がホンネで何がタテマエかがわからぬまま適当に自分の考えを綴ることはめったにない。ぼくは遊び心で書くことが多いが、それはフィクションという形を取らない。どんな演出を凝らそうと、愚直なまでにホンネを書く。これが一部の読者に毒性の強い印象を与えているのは否めないが、今と過去のある時点との考え方の変化を知るうえで、自分自身で書いたものが恰好の証拠になってくれている。
昨日(10月2日)から遡ること、ちょうど半年前のブログでぼくはパラグラフ感覚と文章スタイルについて書いていた。二十代に刷り込み、強く意識してきた型を今も踏襲していると思っていたが、半年前のその記事を読んで、「いや、現在はここまで頑(かたく)なではないだろう」と思った。実は、この半年でだいぶ型が崩れてきているのである。正確に言うと、ぼく自身はジャーナリストでもないわけだし、スタイルや表記の統一性に特に神経質になる必要はないと思い直して、型の崩れを気にしなくなったのだ。
☆ ☆ ☆
かつてぼくは異様なほど表記の統一にこだわった。二冊の拙著でもそうだった。「わかる」と「分かる」の両方を使わないよう「わかる」に統一し、「・・・・・・に限る」では漢字を使うが「かぎりなく・・・・・・」はひらがなにするなど、随所で表記に神経を使った。かつては「言葉」と書くことが多かったが、いつ頃からか「ことば」とひらがなで書くことにこだわった。もし読んだ本から文章を引くとき、そこに「分かる」「限りなく」「言葉」と書かれていたら、そのまま正確に引用はするが、引用文を敷衍して自分が書く本文では表記を自分流に戻す。徹底してそうしていた。
ところが、遅ればせながらと言うべきか、最近は変わってきたのだ。気の向くままに(というよりも前後の語句との相性に目配りしたりもして)、たとえば「いま」と書いたり「今」と書いたりすればいいではないか、などと思うようになった。表記よりも漢字の量や意味の硬軟、つまり可読性を重視すべきだろうと考えるのである。何十行前か何日前か何年前か知らないが、先にこれこれの表記をしたから今回も同じ表記をしなければならないという理由などない。このように、半年間で融通のある表記へと転向したきっかけはよくわからない。読み手への配慮からか、表記統一が面倒になったからか? もしかすると、酷暑のせいかもしれない。
先月末、ヤフーのトップ画面のトピックスに、「樽床議員に2社使いう回献金か」とあった。目は「使いう」という、変な箇所で分節してフリーズした。まさか「回献金」? こんなことばは見たことも聞いたこともない。数秒後には「2社使い、う回」と切って「迂回」が見えたので、意味がわかった。ここは「迂回」が読めなくても「う回」などという交ぜ書きすべきではないだろう。ついでに語順も変えて、「二社使い樽床議員に迂回献金か」とするほうが見やすく読みやすい。その時々の文章の可読性を優先して、表記を考えればいいのである。
メッセージを読む
2010年10月 1日 11:50
今日の夕方は、去る8月7日以来の会読会である。参加予定は12名。全員が発表して少し意見を交えていると、あっという間に2時間やそこらが過ぎてしまう。読書の会だけにかぎらない。普段の会議でも打ち合わせでも、ことばをしっかりと駆使せねばならないときは、時間もエネルギーも大いに消費する。まさに言語行為は肉体的であり精神的だ。真剣に挑んだあとは心身ともに疲れ切っている。
ご存知のように書物には著者紹介欄がある。表紙裏や奥付の上覧や背表紙にプロフィールが載る。著者名もなくプロフィールもない本をぼくは読んだことがないが、少し想像してみよう。誰が書いたかわからない本。和歌では詠み人知らずはあるが、本ではないだろう。いや、無名な人たちが書いた文集を集めたものはある。あるにはあるが、「○○新聞文化部編」とか「□□の会編」などの編者が示されている。実名もなく仮名もなく匿名もない、著者名不在の本。雑誌やインターネット上の記事ならともかく、そんな、たとえば200ページくらいの本をぼくたちは懸命に読めるだろうか。
次の文章を読んであなたはどう感じて、どう評価するだろうか。
「旅を楽しもう。目的地は最重要ではない。一番たいせつなのは目的地に到達しようとする過程である。『目的地に行ければ幸せになるだろうな』とわたしたちは考える。だが、ふつうそうはならない。ゴールを定めることは重要だが、もっとも重要なのはゴールを達成することではなく、ゴールを目指す過程を楽しむことなのである。」
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「いいメッセージだ、誰が言ったか知らないが、共感する」あるいは「つまらん、誰が言ったか知らないが、反対だ」とあなたは言いえるか。発信元不明のまま―権威筋であれ近所のぐうたらオヤジであれ―あなたは共感または拒絶の評価を下せるか。ぼくたちはことばによるメッセージに感動したり説得されたりするが、実はそこに発信者が誰なのかがわかっている状況がある。人の気分を強く支配するのは、メッセージそのものよりもむしろ、たとえば誰がどんな調子でそれを言ったかのほうなのである(そのくせに、発信者が定かでないインターネット上の情報につい信頼を置くという身勝手をしてしまう)。
先の文章は、The Only 127 Things You Need―A Guide to Life's Essentials からの引用(ぼくが訳したもの)。昨年渡米した折りに買った。未翻訳本だと思うが、直訳すれば『あなたに必要なたった127のこと―人生のエッセンスガイド』というような題名だ。Donna Wilkinson という女性が著した本で、各界の著名人にインタビューし、健康から生き方に至るまでのメッセージを紹介し説明している。著者のキャリアやプロフィールと無関係に、あるいは当該文章がドクター何某という人物の言であることを知らずに、純粋にメッセージの意味と対峙するのは至難の業だ。
読書とはまさにかくのごとし。本の中身だけでなく、発信者のキャリア、権威、人格などを知らず知らずに読み込んでいる。同じメッセージでも、ニーチェが言ったか憎い知人が言ったかで響き方が変わるのだ。これが人間の本性。だからと言って、やむをえないというつもりはない。それはそれとして、付帯状況や背景にとらわれずにメッセージのみをじっくりと読んでやるという意地か抵抗を見せたいと思う。
ちなみにぼくは上記の引用文に大いに共感した。実際にそこで書かれている考え方を実践しているから。同時に、たとえば「成功とは旅である。目的地ではない」(ベン・スイートランド)ということばを覚えていて、二重写しのように読めた。このように、メッセージを読むことには、多分に読む側の知の都合が働くものなのである。



