2011年2月アーカイブ

幸せに形はあるか、ないか(2/3)

2011年2月27日 18:00

 幸福について、一昨日書いた文章ではカミュ、ジイド、アリストテレスの相互参照ができた。こんなふうに記憶を辿ってリファレンスを見つけると愉快な気分になる。書いたり話したりする醍醐味の一つである。そして、いつだって愉快なことは幸せなことなのだ。その幸せを「ほら、これが幸せだよ」と言って人に見せることはできないし、手に取って確かめることもできない。

 幸福というのはつくづく不思議な概念だと思う。世界のどこかにオアシスやパラダイスのような具体的な形として存在しているものではない。自分の外を追い求めても幸せが見つかる保証はない。チルチルミチルの青い鳥を持ち出すまでもなく、幸福(または幸福の象徴)が自分の手の届くところにあったりすることをぼくたちは知っているはず。いや、あるとかないとか、見えたり見えなかったりするのではなく、幸福とは感じるものにほかならない。ただ感じるのみ。幸福の真のありかは、おそらく感じることの内にしかない。

 幸福論から敢えて少し脱線することにする。次の文を読んでほしい。

 「Aを達成するために、Bを講じる」

 この文章が妥当ならば、対偶の関係にある「Bを講じないなら、Aを達成できない」も妥当である。簡略的に言えば、「Bがなければ、Aはない」ということ。Bが原因(手段)でAが結果(目的)という構造であり、BAに先立って「行動手順的に重要」であることを示唆している。しかし、見落としていけないのは、Aという目的を定めなければBに出る幕などないという点。つまり、「構築手順的に重要」なのはAのほうなのである。戦略や政策の構想につきまとう悩ましい問題だ。

☆ ☆ ☆

 上記の「Aを達成するために、Bを講じる」の具体的な例として、くどいが、もう一文。

 「知を広げるために、本を読む」

 「知を広げるという目的のために、本を読むという手段を講じる」のだが、すでに明らかなように、これは「本を読まなければ、知を広げられない(可能性が大きい)」をも意味する。ここであることに気づく。ぼくたちが目的と呼んでいるものは、ある手段によって獲得する価値でもあるということだ。知を広げるという目的は、本を読むことによって得られるメリットでもある。

 では、「本を読むために、知を広げる」は成り立つか。たいていの人にとって成り立ちそうにない。なぜなら、行動手順的には《本を読む→知を広げる》が正しく、また、読書というものは何かそれよりも大きな目的のための手段にすぎないと、多くの人が考えているからである。けれども、「本を読むために、お金と時間をつくる」なら承認するだろう。このとき、本を読むは目的であり、お金と時間によって得られる価値になっている。

 話を幸福に戻してみる。お金と時間をつくる、本を読む、知を広げる・・・・・・これらは何のためなのか。「人生や人間関係を豊かにするため」と答えた瞬間、大きな目的を語ったことになる。大きな目的は大きな価値である。さっきメリットとも言った。でも、価値とかメリットというのは、やっぱりその先に何かが想定されている。それが幸せなのだろう。そして、おそらくすべての営みは幸福につながろうとしている。幸福は価値でもメリットでもなく、その向こうに何もない。すべては幸福止まり。もしそうであるならば、いつでも幸せだと感じればいいだけの話である。 《続く》

 

 

Information: 2月からスタートした新ブログもご覧ください。こちらから→Web講話岡野塾岡野塾本講案内関西ディベート交流協会

幸せに形はあるか、ないか(1/3)

2011年2月25日 17:00

アルベール・カミュの『異邦人』を読んでから40年近く経った。再読していないのでほとんど内容を覚えていない。但し、読むに至った経緯ははっきりと覚えている。

今でこそフランス語は少し読めるが、学生時代は第二外国語のフランス語をろくに勉強しなかった。単位を落とすことがほぼ確定的になったある日、担当教授から直々に自宅に電話があった。「日本語でいいから、カミュの『異邦人』を読んでレポートを書きなさい。そうすれば・・・・・・」という、温情的なオファーであった。促されるまま『異邦人』を読んだ。

しかし、結局レポートを提出することはなかった。当然ながら単位は取れなかった(正確に言うと、単位を取る気がなかった。できもしないのに、合格認定してもらう厚かましさを持ち合わせていなかったのである)。とはいえ、潔さに胸を張った分、単位のツケは先送り。同時に、それ以来、まんざらでもなかったカミュとの縁も切れてしまった。『シーシュポスの神話』は読んだが、他の作品ときたら少し読んでは途中でやめる癖がつき、やがてついに手に取ることすらなくなった。

ところが、縁というものは再び巡ってくるものである。オフィスの本棚を眺めていたら、かつて勤めていたスタッフが置いていった本の中にカミュの『直観』があった。何十年ぶりかで手に取るカミュだ。ページをめくれば、《ぼくは、他になりたいものが何もなかったかのように、ひたすら幸福になることを希(ねが)った》という文章に出合う。アンドレ・ジイドからの引用である。そのジイドの、青春時代に読んだ『狭き門』では、幸せと聖なるものが葛藤する場面があったのを覚えている。

  

ちょうどその頃、アリストテレスの幸福論について考えていた。というのも、知人の「幸せは・・・・・・のためである」という、手段としての幸福の位置付けに大いに疑問を抱いたからである。魂が幸福以上に聖なるものを求めるというのならまだしも、幸福が名誉や快楽や知性などの手段になるはずがないではないか。何でもアリストテレスに恃(たの)むのも考えものだが、『ニコマコス倫理学』には次のように記されている。

「われわれが幸福を望むのは常に幸福それ自身のゆえであって決してそれ以外のもののゆえではなく、(・・・・・・)」

「(・・・・・・)幸福こそは究極的・自足的な或るものであり、われわれの行なうところのあらゆることがらの目的であると見られる。」

「何のために仕事をしているのか?」「収入を得るためです」「何のために収入を得ているのか?」「家族を支え生活を営むためです」「何のために家族を支え生活を営んでいるのか?」「幸せになるためです」「何のために幸せになるのか?」「・・・・・・」

「何のため」という目的探しの問いはエンドレスに続きそうだ。うん? はたしてほんとうに続くのか!? ちょっと待てよ、「・・・・・・」は無言の苦悶の様子ではないか。そこまで順調に答えてきても、誰もが「幸せの向こう側」にあるものを訊かれて、ことばを失う。これがアリストテレスの言わんとすることである。幸福が別の何かの手段になることなどない。幸福の向こう側に目的などない。つまり、「何のための幸福か?」という問いはなく、問いがなければ、当然答えもない。 《続く》

 

Information: 2月からスタートした新ブログもご覧ください。こちらから→Web講話岡野塾岡野塾本講案内関西ディベート交流協会

続・万年筆のサバイバル

2011年2月23日 19:00

  万年筆のペン先は紙質にうるさい。もちろんペンが紙に対して優位ではないから、紙側からすれば万年筆を選ぶということになる。しかし、ペンと紙の相性は両者だけで折り合うのではない。媒介となるインクの存在が欠かせないのだ。インクの色合いや「液性」について豊富な表現力を持ち合わせないが、さらっとしたインク、やや粘りのあるインク、粒子の微細なインクなどがあることくらいは、長年書いてきたからわかる。

 「このインクの色がぴったり」と確信しても、文具売場の照明と自宅やオフィスの照明が違う。ペン先の硬さによってはインクの出方や滑り方が違うし、紙質によっても色はデリケートに変化する。ましてや、ここに紹介するような下手な写真では数分の一も写実的に再現できない。それでも貧困な語彙を補う足しになればと思ってお見せする。

Fountain pen ink.JPG濃いめのセピアは栗色に近い。こげ茶とは違うが、よく目を凝らしてもわからない。同じ栗でも赤ワインに近い色を買った。実際は紫がかってはおらず、文字の書き終わりの画(かく)で濃い赤が出る。このペンはセーラー。

Kobe INK物語の「長田ブルー」と生野区の加藤製作所の万年筆という、ディープな組み合わせ。だが、ブルーグレーとも言うべき繊細な色だ。

パイロットの月夜というインク。万年筆はペリカン。

モンブランの万年筆にペリカンのロイヤルブルー。

     ☆ ☆ ☆

 黒インクはカートリッジで持っているが、ほとんど使ったことがない。黒しか使わなかった時代もあるが、今は青。現在はボトルで5種類あるが、すべて違う。先にも書いたが、ペンと紙を変えれば、インクの色が変化する。

 ぼくは18歳のときに英文タイプライターを使い始めた。そのくせ、万年筆でも英文をよく書いていた記憶がある。日本語のワープロを使い始めたのが1987年。つまり、それまでは公私ともに書くときは手書きだった。仕事では原稿用紙も使っていたし、若い頃からの習慣であるノートはすべて手書きである。手書きを少しも苦にしないが、1990年頃からは画面に向かってキーボードを打つほうが多くなった。刷り上がりと同じ体裁で見えてしまうために、文の完成度の高さと錯覚してしまう。やがて推敲に手を抜くようになる。

 最近は原点に戻って、コンセプトの出発点はすべて手書き。論理から離れて偶発的なアイデアを期待するときは万年筆。そして、色を変えることによって気分や発想を変える。証明などできないが、つねに同じ形で現れるフォントとは違う文字の形、その文字のインクの滲みが、これから書こうとする表現に影響を与えそうな予感がする。いや、それは表現などではなく、思考そのものを誘発しているのかもしれない。

 大した文章を書けるわけではないが、万年筆を使うときはこの一文字を軽んじてはいけないと気が引き締まる。カーソルで不要な文字を消すのとは違って、書き損じに抹消の線を入れるときも文字を挿入するときも、人を扱っているような気になってくる。万年筆そのものの重さに加えて、紙に滲むインクを通じて文字の重みが掌から伝わってくる。

 

Information: 2月からスタートした新ブログもご覧ください。こちらから→Web講話岡野塾岡野塾本講案内関西ディベート交流協会

万年筆のサバイバル

2011年2月22日 12:00

 紙の本は生き残ることができるか否かという議論が現実味を帯びてきた。他方、ペーパーレスが叫ばれてからも紙のドキュメントはオフィスから消えていない。それどころか、社内でやりとりしたメールをわざわざ紙にプリントアウトして打ち合わせしている始末。紙は根強く執拗に生き長らえている。いや、死滅することはないと断言できそうだ。少なくともぼくは、紙と電子をうまく併用していこうと思う。

 仮に千年前にUSBやCDなどの記憶メディアが開発されていたとしよう。度重なる戦争や略奪を経てもなお、そこに記録された情報は無事に現在まで持ち堪えているだろうか。インフラはデータを守りきってくれただろうか。紙の場合はどうか。おびただしい文書が散逸したとは思うが、幸いなことにぼくたちは古代からの書物を今も読むことができる。幾多の戦乱期を経た古文書の類を今も読むことができる。これに比べると、ぼくたちが依存している電子メディアはたかだか四半世紀ほどの保存力しか証明していない。電子メディアには一触即発で消えてしまう怖さがある。

 紙に印刷された事柄のほうが、画面からアタマに入ってくる情報よりも、よく記憶に定着する。これはぼくの実感であるから、普遍化するつもりなどない。ぼくは紙の威力をひしひしと感じている。紙がITに追放されることなく、それどころか、十分に併存できているのに比べると、紙と一番相性がいいはずの万年筆は頼りない存在になった。このクラシックな筆記具が奇跡的に復活して、キーボードに拮抗できる見込みなどとうの昔に消えてしまったかのようだ。

☆ ☆ ☆

 長く愛用してきたシェーファーの万年筆を二十年前に紛失してから、主に水性ボールペンを使い、ここ数年は書き味なめらかな油性ボールペンでノートやメモを書いている。十本ほど持っている万年筆の出番はきわめて少ない。気に入った万年筆を折々に買ってきたが、メーカーがいろいろ。つまり、インクカートリッジが違う。メーカーによってはインクまで指定される。これに、黒いインク、ブルーのインク、ブルーブラックなど好みに応じて取り揃え、インクを変えるたびに手入れをするのも面倒だ。

 万年筆と言いながら、結構ケアせねばならず、万年にわたって使いこなすのはむずかしいのである。山田英夫『ビジネス版悪魔の辞典』では、【万年筆】は「調印式のために、出番を待ち焦がれている筆記具」と位置付けられている。また、別役実『当世悪魔の辞典』では、「手に合ったものになるまでに時間がかかるから、たいていその間に失くしてしまう。失くさずにたまたま持っていると、手に合ったものになったとたん、寿命がくる」。いずれも、万年筆の使用場面には言及しておらず、惨めな身の上話になっている。

 決して安っぽい存在ではない。高価かつ高級品である。知的な筆記具として他を寄せつけない存在だ。それなのに、あまりにも軽い扱いしか受けていない。とても不憫である。十本の万年筆を前にしてぼくはノスタルジックになった。小学校か中学校卒業のときに買ってもらった万年筆。今は手元にあるはずもないが、あの時の大人になったような知的高揚感は今も忘れない。サバイバルすら危うい万年筆にもはやリバイバルはないのだろうか。

 ぼくは自分一人の万年筆復活プロジェクトを起ち上げた。きっかけは、色と滲みの再発見。大したプロジェクトではないが、一歩踏み出して手持ちの万年筆を再活用することに決めた。この話の続きは一両日中に書いてみたい。

 

Information: 2月からスタートした新ブログもご覧ください。こちらから→Web講話岡野塾岡野塾本講案内関西ディベート交流協会

問題とモンダイモドキ

2011年2月20日 23:20

  問題を解決すればすっきりする。苦労した末の解決なら爽快感もいっそう格別である。では、問題解決という満足を得るための第一歩(あるいは、欠かせない前提)が何だかわかるだろうか。

 答えはとても簡単である。問題を解決するための第一歩、あるいは必要な前提は、問題が存在することだ。発生するのもよし、抱えるのもよし。いずれにしても、問題がなければ解きようがない。つまり、問題に直面したことがない人は問題を解いたことがないのである。また、問題解決能力のある人は、問題によく出くわすか問題が発生する環境にいるか、よく問題を投げかけられるか任されるかに違いない(断っておくが、詭弁を弄しているのではない。変な譬(たと)えになるが、自分の風邪を治すためには、風邪を引いていることが絶対条件と言っているのである)。

 問題とは困り事であったり難しいものでなければならない。さもなければ、困りもせず難しくもなければ、ぼくたちは解決などしなくて放置しておけばいいからだ。緊急であり、放っておくと事態が深刻化しそうで、しかも抱えていると非常に困る―問題はこのような要件を備えなければならない。問題解決も容易ではないが、問題を抱えるのもさほど簡単ではないことがわかるだろう。

☆ ☆ ☆

 本格的で真性の問題など、そこらに転がってなどいない。ぼくたちが「問題だ、問題だ」と称している現象のほとんどは、そのまま放置しておいてもまったく困ることもない「モンダイモドキ」にほかならない。モンダイモドキを問題と錯覚して右往左往している人を見て(残念ながら、ズバッと直言できないときは)ぼくは内心で次のようにつぶやいている。

 「きみ、そんなもの問題になりそこねた単なる現象なのだよ。問題に値しない、可も不可もない現象。きみは問題と言いながら、ちっとも困ってなどいないじゃないか。ただの現象を問題に格上げするきみの見誤りに気づいたぼくにとっては、きみ自身が問題ではあるけれどね・・・・・・」

 本物の人間などという言い回しがあるように、本物の問題というのがある。器が大きくて威風堂々とした問題、どっしりとして根深い問題、人を魅了し、かつ困惑させてやまない問題・・・・・・「速やかに鮮やかに巧みにスパッと斬ってくれないと、大変なことになるぞ!」と挑発してくる問題。こんな「出来のいい問題」に遭遇できているだろうか。自称「問題で困っている人たち」をよく見ていると、みんなモンダイモドキに化かされてしまっている。付き合う甲斐もない似非問題に惑わされている。

 さあ、しこたま抱えてきたモンダイモドキをさっさと追い払おう。一見絶望させられそうな難問を抱えたり呼び込んだりできることは一つの能力なのである。そして、難問こそが、「解決」というもう一つの能力を練磨してくれる。強い相手を見つけて練習する。これはスポーツ上達と同じ理屈だ。いや、練達や円熟への道はそれ以外にありそうにない。

 

Information: 2月からスタートした新ブログもご覧ください。こちらから→Web講話岡野塾岡野塾本講案内関西ディベート交流協会

数字に一喜一憂

2011年2月18日 09:00

 学力テストの成績順やFIFAランキングが上下しただの、業績がどうのこうのだのと、数字に一喜一憂する根強い国民性。どんなことでもそうだが、頑張って順位を上げようとしているのは自分だけではない。他人も他社も他国も頑張っているのだ。たとえば超一流どうしが最大限の努力をしてぶつかり合っても、一方が勝ち他方が負ける。同様に、広い世界で様々なジャンルで凌ぎを削れば、ランキングの順位が変動して至極当然なのである。

 「負けられない試合がある!」などと川平慈英がいくら叫んでも、負けるときは負ける。その試合は相手にとっても「負けられない試合」なのであり、相手も必死なのである。企業だって同じだろう。シェアナンバーワンを目指すかどうかはともかく、どんな会社も負け組であってもよいなどと考えない。企業努力に応じた成果を期するのは当たり前である。会社は数字に一喜一憂する場ではなく、「よい仕事」を実践する場でなければならない。その結果としての数字であり順位であるはずだ。

 にもかかわらず、「中国に抜かれた」、「43年ぶりに3位に転落」などとがっかりするのはどういうわけか。時事通信が2月14日に配信した、「日本の名目GDPが世界2位から3位に転落して、中国に2位の座を明け渡した」というニュースのことである。居直るわけではないが、抜かれて何がまずいのか。真にまずいのは、他国にGDPで抜かれたことではなく、デフレ傾向で経済が長期的に低迷している状況であり、政府も国民も方策を講じる熱気に包まれていないことである。

☆ ☆ ☆

 よく考えてみるいい機会だと思う。世界一の人口13億3千百万の国が、世界10位の人口1億2千7百万の国をGDPで上回ったという事実がそこにあるのみ。よくぞこんな小さな国土の日本が43年間もドイツやフランスや英国よりも上位の2位を維持してきたものだ。驚くべきはむしろこちらのほうである。去る2月2日に更新されたFIFAランキングで日本は過去最高の17位となったが、この数字を誇らしく思うのなら、GDP世界3位を百倍以上誇っていい。いや、GDPなどどうでもいいと割りきっても別にかまわない。

 人口相応に世界の10位くらいの経済力で結構、生活の質や幸福度さえ高ければそれでよし、という価値観もありだ。「2位じゃダメなんですか?」と問うた蓮舫女史は、このGDPの結果に対して「2位でなければいけないんですか? 3位じゃダメなんですか?」と言ってくれるだろうか。与謝野氏が記者会見で「中国経済の躍進は隣国として喜ばしい。地域経済の一体的に発展の礎となる」と語ったが、負け惜しみでないことを希望する。

 「数字に強くなれ」とか「数字に弱い経営者は失格」などと説教するコンサルタントがいる。数字信奉者のほとんどは、数字以外の諸要素で価値判断ができないから、明々白々の数字に「逃げている」のである。数学は楽しい学問だが、数学と数字は違う。プロセスなどに見向きもせずに、結果としての数字だけに一喜一憂するのは幼いと言うべきだろう。質の話をするたびに、それを数字で示せと驕り高ぶられるのはやるせない。

 時代は重厚長大ではなく軽薄短小と言われて久しい。これは、GDPに象徴される量から、数値化不能な質への転換を意味したはず。わかってはいるけれど、アタマの中で数量が依然と支配的なのは、質の指標を示す側の想像力不足にほかならない。世界幸福度ランキングや住みやすい街ランキングのような、質の表現を数字に依存しているようでは話にならないのである。脱ランキング発想して初めて見えてくるものを探求せねばならないのだろう。

 

Information: 2月からスタートした新ブログもご覧ください。こちらから→Web講話岡野塾岡野塾本講案内関西ディベート交流協会

検定流行現象

2011年2月16日 08:00

 いろんな出版社が読書人(読書家)に向けた無料の小冊子を発行している。ずっと以前からぼくは岩波の『図書』や講談社の『本』や筑摩書房の『ちくま』などを愛読している。書店のPRコーナーなどに置いてあって、お持ち帰り自由だ。先日、いつもの書店で手に取って立ち去ろうとしたら、棚の下段にずらりと並んだ検定の案内パンフレットが目に止まった。適当に持ち帰ったものが手元にある。

 ・日本仏像検定(第1回) 「立ち止まって、仏像を見てみると、新しい発見がありました。」

 ・日本さかな検定(第2回) 「さかなの国、ニッポンの検定」

 ・家庭菜園検定(第3回) 「めざせ! 野菜づくりの達人」

 ・インドネシア検定(第1回、ASEAN検定シリーズの一つ。他に第2回タイ検定、第1回ベトナム検定がある)

 ・会議力検定(第1回、正式名「会議エキスパート認定試験」) 「乗り遅れるな。10万人の会議革命。」

 キャッチフレーズらしき文言を付け足しておいた。いやはや、「検定」と入力してツールバーをクリックすれば、現在わが国で実施されている検定が果てしなく登場するに違いない。しかし、敢えて検索しないでおこう。検定流行現象を語るのに上記の5種類もあれば十分である。

 なかでも「会議力検定」に注目だ。パンフレットの中面を開けば「会議が変われば、日本が変わる。」と書いてある。そして、本文の末尾には「あなたから、変わりませんか?」の呼びかけ。いったい何から変え始めればいいのか混乱してしまう。「人が変わる→会議が変わる→日本が変わる」という流れだろうか。大仰に日本を変える話にまで発展させることはないと思うが・・・・・・。もし「人が変われば会議が変わる」なら、「人間力検定」が先だろう。

☆ ☆ ☆

 人間力検定では、いったい誰が出題して誰が採点することになるのか。「人間力有段者」か。そこらの胡散臭いマナー講師にだけは評価されたくないものだ。冗談はさておき、人間力を検定するような問題作成も採点もできるはずがないのである。同様に、会議力も、それが「コミュニケーション力」の評価であるならば、できそうもないのである。パンフレットの別の箇所にちゃんと「会議力=コミュニケーション力」と書いてある。このイコールが曲者だ。なぜなら、会議は上手だが、コミュニケーションが下手という手合いも大勢いるからである。どう考えても、「コミュニケーション力⊃会議力」という関係が正しいと思うが、どうだろう。

 パンフレットに書いてある「人と人が向かい合い、何かを決める、アイデアを出す。」ということを実践しようと思えば、会議のファシリテーション・ノウハウを学ぶ必要などない。ただひたすら、そのように毎日の人間関係を生き仕事に臨めば済むことだ。「あなたから、変わりませんか?」という呼び掛けがホンネなら、会議の上達の前に、行き詰まっている人は自分が真っ先に変わればいい。会議が本番の仕事よりも難しいということなどありえないのだから、ちゃんと仕事をしてコミュニケーションしていれば、会議はうまくいく(それどころか、会議の数を減らすことができる)。

 一定の基準さえ設けることができれば、どんな対象も検定として制度化できる。正しい息のしかたを評価する「呼吸検定」や散歩にまつわる薀蓄の力を認定する「散歩検定」もありうる(冗談のつもりが、実在していても何ら不思議がない)。総元締めは「検定力検定」になるだろう。以前、ぼくもディベート検定を手伝わされかけたので、これ以上の主催者批判を控えたい。いや、それどころか、どんな検定でも趣味や学習の動機づけとして試行してみてもいい。

 課題はむしろ受験者側にある。そもそも検定というものはことごとく、知識の多寡しか採点できないことを心得ておくべきである。家庭菜園1級や会議力2級が意味するものをよく考えてみるがいい。現実に「できる・できない」とは無関係だ。この国には、無理やり覚えたことを紙の上で再現するのが好きで、それを他者によって採点されることを喜びとする人々が大勢いる。この種の検定が受験勉強の構造と酷似していることを思うだけで、ぼくなどはうんざりしてしまう。社会で重要なのは、自分で出題し自分で白紙に解答を書き自分で評価するという「仕事検定」や「人生検定」である。こちらを忘れてはいけない。

 

Information: 2月からスタートした新ブログもご覧ください。こちらから→Web講話岡野塾岡野塾本講案内関西ディベート交流協会

コンメディア・デッラルテ

2011年2月14日 12:00

 金曜日にやっと雪らしい雪が降った。京都や奈良や兵庫で降っても、大阪市内ではまず降らない。ちらちらすることはあっても、めったに積もらない。その雪がわずかだが屋根や路面を覆った。いつもの散歩道を辿れば、高さ30センチメートルほどのミニ雪だるまが道路に面して一つ、公園の中にもう一つ、置かれていた。静かな正午前、雪はまだふぅわりと降っていた。

 明けて土曜日。この日も雪模様との情報があったが、空気は前日と同じくらい冷たいものの雪は降らなかった。先月マークしていた映画は、交通の便が悪い一館を除き近畿一円ではすでに上映が終了していた。これを吉とする。なぜなら、同じくチェックしていたのに、すっかり忘れていた「公演」を思い出したからだ。運良く気づいたのはいいが、それがまさに当日。大阪能楽会館に問い合わせ、チケットがあるのを確認して足早に出掛けた。『狂言 対 伊太利亜仮面劇』がタイトル。開場を待つ数分間のうちに雨風が強く吹き始めた。

 狂言は何度か観劇しているし本も少々読んでいる。趣味に合うのでもう少し親しんでみようと日頃から思っているが、ままならない。狂言のいいところは、あらすじを知っていても楽しめるし、知らなくてもそれなりにシナリオが類推できる点だ。しかも、650年の長い歴史がありながら、話しことばにほとんど違和感がないのがいい。現代流に言えば、笑いのショートコントだろうか。しかし、道具による実際的な場面の演出がない。つまり、演じられる舞台は抽象的な空間であり、その空間の中に観客は自分なりに状況を想像する。感じ方が一様でないのが、これまた楽しい。

☆ ☆ ☆

 狂言の舞台にイタリア伝統の仮面劇が融合する。そんな新しい劇の形を観た。『はらきれず』は狂言の『鎌腹』を翻案化した夫婦喧嘩もの。頼りない夫に扮して演じたのはイタリア人俳優、「わわしい(ガミガミとうるさい)妻」の役には日本人女性。これに狂言師の小笠原匡が夫の友人で絡む話。狂言ではなく、「コンメディア・デッラルテ(Commedia dell'arte)」の手法で演出した新作である。

Masks for commedia dell'arte.JPG コンメディア・デッラルテは16世紀半ばにイタリアで興った即興喜劇である。舞台は狂言同様に簡素で、4メートル×3メートル程度とさらに空間が狭い。筋書きには定型があり所作がコミカルという点で狂言によく似ているが、強いアドリブ性で観衆を楽しませるのが特徴のようだ。狂言でも仮面を使うが常時ではない。むしろ素顔の演目のほうが多い。これに対して、コンメディア・デッラルテは仮面劇と言われるだけあって、ほとんど仮面を被っている。仮面は顔をすっぽり包むものではなく、鼻から上の半仮面だ。太郎冠者や翁のような登場人物がいる。たとえばアルレッキーノは召し使い、パンタローネは年老いた商人という具合。それぞれに仮面の体裁が決まっている。

  この劇を観てイタリア民族音楽を思い出した。もう七、八年前になるだろうか、「タランテッラ(Tarantella)」というナポリ発祥の舞曲の大阪でのコンサートだ。マンドリンやタンバリンを結構速いテンポで奏で、スカッチャと呼ばれる口琴も使う。タンバリン奏者の手のひらと指先づかいのテクニックに魅了され、初めて聴いたにもかかわらず、中世の南イタリアが目の前に浮かんできたのを覚えている。

 イタリア仮面劇とイタリア民族音楽。それに狂言も加えよう。これらに共通するのは、素朴で演出控え目。だからこそ、イマジネーションが刺激されるのだろう。

 

Information  Web講話岡野塾および関連ブログをご覧になるには、右側のバナー「岡野塾」をクリックしてください(原則として、毎週月曜日に更新しています)。

ダジャレの人々

2011年2月12日 08:20

 自分ではダジャレの一つも作れないくせに、他人のダジャレを小馬鹿にする連中がいる。しかし、ダジャレ人間を侮ることなかれ。ダジャレを吐くには語彙力がいる。語彙力だけではない。音と状況をかぶらせるためには、膨大な情報を脳内検索せねばならない。語彙力と検索力。少なくとも、ダジャレを小馬鹿にしながらダジャレを作れない者よりは、下手なダジャレを矢継ぎ早に繰り出す者のほうがアタマはいい。ぼくはそう考える。

 呆れるくらい下手で場を凍らせる人もいるが、ダジャレが出てくる気さくな場に居合わせていることを喜ぼうではないか。ぼく自身はジョーク大好き人間だが、ダジャレの熱心な創作者ではない。ただ、他人が当のダジャレに辿り着くまでの発想過程にはすこぶる強い関心がある。たとえば、数年前のコマーシャルで、唐沢寿明がエレベーター内でつぶやいた「君、コート裏」。これが「足の甲と裏」のダジャレ。その箇所に膏薬を貼れというわけである。

 スポンサーか広告スタッフの誰かが膏薬を足の甲と裏に貼ったらすっきりした。これはいいということになり、そのままストレートに表現してもよかった。しかし、別のスタッフが「甲と裏」を何度か口ずさんでいるうちに、「コート裏」を見つけた。ここから「コートを裏に着ている」シチュエーション探しが始まる。コートを裏返しに着ている人物が遠くから見えているよりも、突然見えるほうがいい。いろんな候補からエレベーターが選ばれ、ダジャレを生かすシナリオが書かれた・・・・・・まあ、こんな誕生秘話だろう。当たらずとも遠からずだと思う。

☆ ☆ ☆

 注目してほしいのは、ダジャレ人間は「ことばの音」を追いかけるという点である。無音の漢字を浮かべてもしかたがなく、同音異義語をアタマの中で響かせる必要がある。同音異義語が多いのが日本語の特徴だが、無尽蔵にあるわけではないから無理やり音合わせをこじつける。ここがウケるか寒くなるかの分岐点だ。ダジャレ、ネーミング、「整いました」のなぞかけ、語呂のいい金言などの底辺には同じ発想の構造がある。

 昔、結婚式を「かみだのみ」、披露宴を「かねあつめ」、二次会を「かこあばき」とルビを振って紹介したら、ウケたことがある。神、金、過去が「か」で始まる二文字、続く動詞が三文字、合計五文字となって、別にダジャレでも何でもないが、語呂が合う。どこで仕入れたか読んだか覚えていないが、「結婚とは、男のカネと女のカオの交換である」というのがあった。単純だが、なかなかの切れ味だ。

 結婚ネタついでにもう一つ関心したのがある。「最近、家庭内で夫婦病が流行の兆しです。症状は、熱は冷めるのですが、咳(籍)だけは残ります」。世間には結婚があり離婚がある。他にどんな「◯婚」があるか。ことばの演習問題にもなりそうだ。実体のない「空婚(くうこん)」、結婚式の日から始まる「苦婚(くこん」に「耐婚(たいこん」。辛いことばかりではない、いつまでも幸せな「甘婚(かんこん」も「恋婚(れんこん)」もあるだろう。

 ところで、ダジャレも含め、ことばを遊ぶユーモアを楽しむ集まりを三ヵ月に一度開亭している。その名も《知遊亭(ちゆてい》。雅号あるいは笑号と言うべきか、ぼくは「知遊亭粋眼(すいげん」を名乗って席主を務めている。昨夜のR-1グランプリを途中から見たが、一度も笑う場面がなかった。あのレベルのピン芸人には負ける気はしない。

 

Information  Web講話岡野塾および関連ブログをご覧になるには、右側のバナー「岡野塾」をクリックしてください。

「偽りを語るなかれ」

2011年2月10日 08:00

 もう二年半前になるが、本ブログで嘘について集中的に書いたことがある。ギャグのような嘘もう少し嘘の話嘘つき考アゲイン性懲りもなく「嘘」の、堂々(?)四部作だ。久しぶりにさっき読み直してみた。自画自賛とのそしりを覚悟して言おう、結構おもしろかった。

 人は嘘をつく。但し、「嘘をつく」という理由だけで、やみくもに「嘘つき」呼ばわりできない。嘘つきとは「常習の確信犯」のことである。困った挙句に時々小さな嘘をつくぼくやあなたは彼らの同類ではない。嘘も方便という常套句の力を借りれば、「お似合いですよ」などは愛想混じりの嘘だから許容範囲だろう。但し、可愛げのある嘘も正当化し続けていると、可愛げがなくなるから要注意だ。

 それにしても、人はなぜ嘘をつくのか。詐欺師は騙すことによって利を得ようとする。ぼくたちの場合は、だいたい都合が悪くなって嘘をつく。都合が悪い理由のそのさらなる理由は千差万別だろう。今の時期、嘘と言えば「八百長事件」を連想してしまうが、それはまた別の機会に取り上げよう。今日のところは、見栄や執着心と嘘との関係である。タイトルの「偽りを語るなかれ」は6世紀中国の学者、顔之推(がんしすい)の言とされる。

☆ ☆ ☆

 不可抗力によっても強いられる有言不実行とは違って、虚言は多分に意図的である。期限や約束破りは結果として偽ったことになる。愚かしいことに、その偽りをカモフラージュするために嘘を上塗りする。考えてみれば、都合を良くしようとする点では利を得ようとする詐欺師とあまり変わらないのだ。孫引き参照になるが、中村元の『東洋のこころ』に次のような引用がある。

 「真実であるようだが、虚偽であることばを語る人がいる。そういう人はそれゆえに罪に触れる。況(いわ)んや嘘を語る人はなおさらである。」(『ダサヴェーサーリア』7・5)

 「この世で迷妄に襲われ、僅かの物を貪って、事実でないことを語る人、――かれを賤(いや)しい人であると知れ。」(『スッタニパータ』131)

 さて、嘘にはプラシーボ(偽薬)効果があるとぼくは思う。嘘も方便を足場にして毎日おだてているうちに、下手が上手になったり弱者が強者に変わったりすることもある。逆に言えば、真(まこと)の人が何かの拍子で舌に嘘を語らせ、悪しき口業(くごう)を繰り返すようになるうちに、「虚人」に成り果てることだってありうるだろう。

 人はなぜ嘘をつくのか。先の書物で中村元は言う、「それは何ものかを貪ろうとする執著(しゅうじゃく)があるからです」。執著、すなわち「こだわりの心」。何にこだわるのか。見栄にこだわり、やがて見栄が転じて虚栄となる。不完全な人間のことだ、非を認めずに我を通そうとすれば、嘘の一つもつかねば辻褄が合わなくなるだろう。嘘をつかない処方は簡単だ。我を引っ込めて非を認めればいいのである。

 

Information  Web講話岡野塾および関連ブログをご覧になるには、右側のバナー「岡野塾」をクリックしてください。

言在知成

2011年2月 8日 08:00

 「イメージとことば」に続く話になりそうである。「なりそう」とはひどい無責任ぶりだが、どこに落ち着くのか、予感の域を出ない。書き始めたいま確かなのは、「言在知成」と書いて「言(げん)(あ)り、知(ち)(な)る」と読ませる四字熟語が起点になったこと。実は、今日初めて公開するのだが、これはぼくが何年か前に造語したもの。だから、正確には四字の「熟語」などではなく、未成熟という意味で「四字若語(じゃくご)」と呼ぶのがふさわしい(もし言在知成がすでに存在しているのなら、偶然の一致である)。

 ことばがあるから、知識も身につくし世の中の様子もわかる。美術の先生が対象を黙って指差して生徒に絵を描かせるのはむずかしい。先生は「今日は自宅からリンゴを二個持ってきたよ。手前と奥に一個ずつ配置するから描いてみなさい」と指示するだろう。イメージ的作業をイメージ的コマンドで動かすには、とてつもないエネルギーを必要とするのだ。だから、口下手なくせに、アタマの中でイメージばかり浮かべようとする習性のある人は、あれこれと迷わずに、とりあえず口に出してしまうのがいい。イメージを浮かべてもことばになってくれる保証はないのだから。

 「私はリンゴが好きです。でも、イチゴのほうがもっと好きです」。これは意味明快なメッセージ。では、この意味を絵に描いたり、紙や粘土で造形する自信があるだろうか。アートセンスがないのなら、ジャスチャーでもかまわない。試みた瞬間、途方に暮れるに違いない。けれども、悩むことなどない。ワンクッションを置かずに、さっさと言ってしまえばいい。「私はリンゴが好きです。でも、イチゴのほうがもっと好きです」という想いを伝えたければ、ただそう言えばいいのだ。幸いなるかな、ことばを使える者たちよ。

☆ ☆ ☆

 「深めの大振りなカップにコーヒーを淹れてくれた。一口啜(すす)った瞬間、体温が二、三度上がったような気がした」。この文章から画像なり動画なりをある程度イメージできる。人それぞれのイメージだろうが、ことばの表現に呼応するかのようにイメージは浮かぶ。しかし、なかなか逆は容易ではない。よほど意識しないかぎり、一杯のコーヒーは見た目通りの一杯のコーヒーである。眼前のコーヒーカップからことばの数珠つなぎをしていくためには、指示や問いのような刺激が不可欠になる。

 以上のような話をすると、言語がイメージよりも優位と主張しているように勘違いされる。ぼくは体験的に言語とイメージの役割を考察しているのであって、優劣など一度だって論じたことはない。以前は、はっきりとイメージ優位・言語劣位の信奉者だった。若い頃は自分のイメージ力、その解像度の質に相当自信があったのだろう。浮かんだイメージをことばに翻訳するくらい簡単だと思っていた。ところが、イメージとことばを工程順に位置づけなどできないことがわかってきた。

 コミュニケーション理論の本のどこかには、《A君のイメージ⇒A君による言語化⇒A君の発話(音声)⇒B君の聞き取り⇒B君の言語理解⇒B君のイメージ再生》などのプロセスがよく書かかれている。A君が何を話そうかとイメージし、最終的にそのイメージと同じようなものをB君側で再生できればコミュニケーションが成立、というわけである。理論を手順化すれば確かにそうなのだろうが、会話のやりとりはよどみない流れであるから、複数の静止画に分割しても意味がないのである。

 話をコミュニケーションから離れて、上記のA君自身における「イメージ⇒言語化⇒発話」という部分だけをクローズアップすると、何かがアタマに浮かび、それをことばによって伝えるという順が見えてくる。人はこの順番にものを考え話していると、ぼくはずっと思っていた。しかし、今は違う。そんなに都合よくイメージばかりが浮かんでくれるはずがないのだ。それどころか、言語を能(よ)くするからこそイメージがそこに肉付けされるのだと思う。知の形成の仕上げは言語。ゆえに「言在知成」なのである。

 

Information  Web講話岡野塾および関連ブログをご覧になるには、右側のバナー「岡野塾」をクリックしてください。

立ち読み以前

2011年2月 6日 08:00

 オフィスから徒歩5分のところにコンパクトな都市型モールがあり、その7階にJ堂書店がある。J堂書店は洋書に強い老舗M善とコラボして、大阪梅田に日本最大級の、在庫200万冊規模の売場をオープンした(近くを通ったが、まだ行っていない)。この種の超広大なスペースを誇る店を「ダブルブランド巨艦店舗」と言うそうだ。一度だけ行ってみようと思う。

 なぜ「一度だけ」かと言うと、だだっ広い書店が苦手だから。品揃えの少ない書店も困るが、在庫豊富で書棚が林立すると、森の中で一粒の木の実を探すような気分になってしまう。ぼく自身、読書ジャンルが広く、人が読まないような異本を買い求める傾向がある。それでも珍本奇本を探しているわけではないので、仕事場から近いJ堂書店の規模で十分なのである(そこだって結構な広さである)。

 J堂書店はどこの店にもテーブルと椅子が置いてあって、好きな本を書棚から引っ張り出して腰掛けて読んでもいいことになっている。まるで図書館。そのありがたいテーブルと椅子、実は一度も利用したことがない。元来、あまり立ち読みもしない。少しペラペラと捲って、「買ってみよう」と直感が働けばそれ以上は読まない。もう一度書く。ぼくは、まず「買ってみよう」と思うのであって、「読んでみよう」とは思わないのである。読んでよければ買うのではなく、買って読む。関心があれば読む、のではなく、関心があれば買う。さっさと買ってしまうのだから、長時間座り読みする必要がない。

☆ ☆ ☆

 表紙と書名は見るし目次にも目を通す。次いで、適当に捲ったページに目を落とし、相性がよさそうなら買うと決める。この間、たぶん30秒もかかからない。世間ではこれを立ち読みとは言わないだろう。このほんのわずかの時間は、同時に不買決定のための儀式でもある。先週、こうして「買わなかった」のが『即答するバカ』という本である。『バカの壁』は例外的に読んだが、あまり下品な書名を好まない。経験上、下品系はタイトルと中身が一致せず、また読後のがっかり度が高い。「即答するバカ」という書名で、よくも200ページも書けるものだと感心はするが・・・・・・。

 『読んでいない本について堂々と語る方法』(ピエール・バイヤール)に倣(なら)って、上記の本を寸評してみる。ちらっと読んだページで「考えないで直感的に喋ったり答えたりする若者」に対する批判がある。しかし、よくよく考えてみれば、「浅慮即答するバカ」もいるが、それすらできないバカも大勢いる。しかも、「熟慮してもやっぱりバカ」もいる。同じバカなら「即答するバカさ」に軍配をあげたいが、どうだろう。この本に対抗して『即答しないアホ』という本も著せる。こちらはモラトリアム論になりそうだ。

 話は簡単である。即答は一種の技であって、アタマの良し悪しとは別だろうと思う。むしろ、即答できるかできないか(あるいは「速答 vs 遅答」)には性格が絡んでくる。いや、もしかすると、力関係で上位に立つ者が「安直に即答するバカ」を作っているのかもしれない。ところで、もう一冊、買わなかった本がある。『40才からの知的生産術』がそれ。この本を手に取る40才が、過去に知的生産の方法について何一つ試みもせず、この一冊から出発しようとするなら、おそらく手遅れである。ぼくなら別の本を書く。『40才からの知的消費術』。こっちなら可能性がありそうではないか。

 

Information  Web講話岡野塾および関連ブログをご覧になるには、右側のバナー「岡野塾」をクリックしてください。

イメージとことば

2011年2月 4日 07:30

 禅宗に《不立文字(ふりゅうもんじ》ということばがある。二項対立の世界から飛び出せという教えだ。無分別や不二は体験しなければわからない。不二とは一見別々の二つのように見えるものが、実は一体であったり互いにつながっていたりすること。分別だらけの日々に悪戦苦闘していては、人は救われない。無分別、不二へと踏み込むことによって、人は悟りへと到る―こんなイメージである(いま、ことばで綴った内容を「イメージ」と呼んだ。この点を覚えておいていただきたい)。

 ところが、悟ってしまった人間が言語分別ともサヨナラしたら、もはや現実の世界を生きていくことはできない。なぜなら、現実世界では二項が厳然と対立しており、ああでもないこうでもないと言語的分別によって意思決定しなければならないからだ。何もかも悟ってみたい(そのために学びもしている)、しかし、それでは実社会とかけ離れてしまう。このあたりのジレンマを鈴木大拙師は次のように宥(なだ)めてくれる。

 「人間としては、飛び出しても、また舞い戻らぬと話が出来ぬので、言葉の世界に還る。還るには還るが、一遍飛び出した経験があれば、言語文字の会し方が以前とは違う。すべて禅録は、このように読むべきである。」

 ぼくたちにとって、悟りの修行に打ち込むような機会はめったにない。ということは、言語と分別に浸る日々のうちに脱言語・無分別の時間を作り出すしかない。はたしてそんなことができるのだろうか。

☆ ☆ ☆

 冷静に考えれば、イメージとことばを二項対立と見なすこと自体が勘違いなのだ。広告業界にしばらく身を置いていたが、「コピーとデザイン」を分別する場面が目立った。文字とビジュアルが別物だと錯誤しているクリエーターが大勢いたのである。「今は言語だ、次はイメージだ」などと作業の工程と時間を割り振りすることなどできるはずがない。このように言語をイメージから切り離してしまえば、さすがに過度の言語分別に陥る。戒められてもしかたがない。

 「右脳がイメージをつかさどり左脳が言語をつかさどる」などという脳生理の知識も、イメージとことばを対立させたように思う。脳科学的にはそんな役割があるのだろうが、イメージ一つも浮かべないで文章を書くことなどできないし、ことばが伴わない絵画鑑賞もありえない。ことばは脳内で響き、イメージは脳内に浮かぶ。右脳の仕業か左脳の仕業か、そんなこといちいち調べたことはない。ただ、ことばもイメージも同時に動いていることは確かである。

 人は言語なくして絵を描くだろうか。ことばが生まれる前に人類は絵を描いただろうか。「テレビを見てたら、チンパンジーが絵を描いていたよ。ことばがなくても描けるんじゃないか」と誰かが言っていたが、チンパンジーは絵など描いていない。与えられた筆と絵の具で、人の真似よろしく戯れているだけだ。絵を描くのは非言語的行為などではない。大いに言語作用が働かねば、対象も題材も何も見えず、鉛筆で一本の線すらも引けない。

 ラスコーの洞窟壁画は2万年~4万年の間で諸説あるが、クロマニョン人は当然ことばを使っていた。言語的に処理されていない絵やイメージなどがあるとは到底思えないのである。もっとも、イメージから独立した話す・書くもありえないだろうし、聴く・読むとなるとイメージとことばが協働していることがありありと実感できる。イメージはことばに変換されるし、ことばもイメージに塗り替えられる。そもそも言語とイメージはコインの裏表、不可分の関係にあるのだ。これが冒頭段落の最終文の意味。極論すれば、ことばはイメージであり、イメージはことばなのである。

 

Information  Web講話岡野塾および関連ブログをご覧になるには、右側のバナー「岡野塾」をクリックしてください。

普遍的ということ

2011年2月 2日 08:15

 ぼくは定義原理主義者ではないけれども、《普遍》などという概念について書こうと思ったら世間一般に流布している定義を避けて通るわけにはいかない。それに、定義に手を抜くと、仲間内にいる小うるさい連中から問い詰められたりもする。煩わしいが、まずことばの定義から始めることにする。

 あまり知られていないが、パスカルが《定義》について遵守すべき三つのルールを次のように示している(原文をぼくなりにアレンジしているのでご了承願いたい)。

 1.定義しようとしている用語W以外に明快な用語がないならば、Wを用いればよい(つまり、定義の必要なし)。

 2.少しでも不明なところがあるか曖昧である用語をそのままにしてはいけない(つまり、必ず定義すること)。

 3.用語を定義するときは、完全に知られているかすでに説明されていることばだけを使うこと(つまり、定義の対象語WをWまたはWの一部で定義してはならない)。

 1は問題ない。「餅」を「米を蒸してつき、粘りのあるうちに丸や四角に形を整え、そのまま食べることもできるが、固まったものを保存して後日調理して食べる食品」などと懇切丁寧に定義しても、何が何だかさっぱりわからない。餅は「もち、モチ」でいいのである。餅を知らない人はそれをどのように理解すればいいのか。餅に出合って何度も食べて体験的にわかってもらうしかない。

 議論や会議をするときの出発点で共通認識が必要だから、2のルールも納得できるはず。簡単なようで、とても厳しいルールが3である。なぜなら、空腹を「腹がすくこと」と新明解国語辞典のように定義すれば、ルールに抵触してしまうからだ。利益なども「利」や「益」という漢字抜きで定義しづらいし、「社会適応力」という表現を定義しようものなら、「社会」や「力」を重複して使わざるをえなくなる。

☆ ☆ ☆

 さて、本題の「普遍的」である。辞書には「広く行き渡るさま」とあり、転じて「きわめて多くの物事に当てはまること」を意味する。「普遍的な性質」と言えば、若干のニュアンスの相違はあるものの、「共通の性質」と言い換えてもよい。しかし、「共通」に目ぼしい対義語は見当たらないが、「普遍」には「特殊」または「個別」というれっきとした反意語が対置する。要するに、普遍的とは特殊でも個別でもないということだ。

 ぼくはあまり深く考えて普遍的などと使っているのではないが、おおざっぱに「いつでも、どこでも、誰にでも当てはまること」をそう言っている。では、「これは世界に普遍的な現象である」などと言うとき、一つでも例外があってはいけないのか。まさか、そこまでストイックである必要はない。そんな厳密な意味で使っているわけがないのである。ならば、どんな状況を普遍的と形容すればいいのだろうか。

 一例を示そう。「私は食べることにおいて量ではなく質を重んじる」という文章において、主語の「私」を「あなた」「彼」「彼女」などと置き換えることができ、なおかつ「わたしたち」や「あなたがた」や「彼ら」に置換してもおおむね原文が成立するようなら、その文章のメッセージを普遍的と見なしてもよいと思われる。但し、「おおむね」であってもよい。一部の例外があるからと言って普遍が成り立たないわけではない。そこまで杓子定規で寸法を測ることはない。「ケースバイケース論」が大手を振らず、影を潜めるようなら、その事象を普遍的と称してもいいのである。

 

Information  2月1日、Web講話岡野塾および関連ブログがスタート。右側バナーの「岡野塾」をクリックすれば移動できます。

プロフィール

岡野勝志(おかのかつし)
1951年大阪生まれ

企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長
企画アイディエーター
岡野塾主宰

ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。
マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人材の課題に対して、「即答即決アイディエーティング」をおこなっている。

検索

月別アーカイブ

最近のコメント

タグクラウド

Powered by Movable Type 4.21-ja