2011年4月アーカイブ

真偽を確かめる方法

2011年4月29日 18:15

 推論や証明は直球で論じると不粋なテーマになってしまう。そうならないよう、肩の凝らない、気楽なエピソードを紹介しよう(最後に少々教訓めいた結論を導くことになりそうだ)。

 初心者対象のディベートの勉強会をしていた頃、英国で出版された"Make Your Point"という中学生向けのテキストを参考にしていたことがある。議論の演習を目的としたもので、30の命題が設けられている。「美か知か」や「学生はアルバイトをすべきか」や「自動車―祝福か呪いか」などのテーマについて、質疑応答をおこない、賛否を考え、最終的にフリーディスカッションをする体裁に編まれている。英文もやさしく、よくできた本である(初版は1975年。手元にあるのは1987年版の11刷)。その本から「若い科学者: 残酷、それとも好奇心?」というテーマを取り上げてみる。次のような導入が書かれている。

 蜘蛛にとても興味のある生徒がいた。「蜘蛛には耳がないようである」と「蜘蛛にはたくさんの足がある」という二点が気に掛かっていた。ある日、「蜘蛛には特別な足があり、それで聞いているに違いない」とひらめいた。そして、生物の先生にこのことを話してみたのである。「それはおもしろい理論だね。でも証明するには実験をやってみないと」と先生は言った。少年は実験をすることにした。

☆ ☆ ☆

 その実験が常軌を逸しているのだが、フィクションだと思えば許せる。少年が試みた実験の手順は下記の通りであった。

 実験目的: 蜘蛛が足で聞いているかどうかを調べる。

 使用器具: 鋭利なナイフ、蜘蛛、テーブル。

 実験(i):  テーブルの中央に蜘蛛を置き、「跳べ!」と命じた。

 結果(i):  蜘蛛は跳んだ。

 実験(ii):  蜘蛛の足をナイフで切り落とし、蜘蛛をテーブルに戻し、「跳べ!」と命じた。

 結果(ii):  蜘蛛は跳ばなかった。

 さて、以上の実験と結果から少年はどのように推論して結論を導いたのだろうか。彼の仮説「蜘蛛には特別な足があり、それで聞いているに違いない」は次のように証明されたのである。

 結論: (足を切り落とした二度目の実験で)蜘蛛が跳ばなかったのは、「跳べ!」という指示が聞こえなかったからである。ゆえに、蜘蛛の足には聴覚がある。

☆ ☆ ☆

 残念ながら、少年が試みた証明は事実に反している。専門家やぼくたち一般人が承知している事実に、である。蜘蛛は足で音を聞いていないことをぼくたちは知っている。いや、それが事実かそうでないかを棚上げしても、この実験では不備が多すぎることを感知できる。蜘蛛は人間が発する「跳べ!」を解せるのか、「跳べ!」に対して跳んだのは偶然ではないのか、仮に「跳べ!」を聞いて意味を解しても、足を切り落とされたら跳びたくても跳べないではないか・・・・・・。

 ぼくたちの素朴な疑問に対して少年は必死に答えるだろう。ぼくたちが執拗に検証すれば少年は反論もするだろう。しかし、彼の証明は空しい。実験は不完全であり、既知の事実を覆すだけの新説を打ち立てるには到っていないからである。

 ぼくたちが少年の証明を認めないのは、蜘蛛について、聴覚について、足について、跳ぶことについてすでに知っているからである。ぼくたちには経験と知識において、少年よりも一日の長があるように思われる。しかし、まったく経験も知識も持ち合わせないテーマの実験に対してはお手上げである。自力で真偽を確かめるすべはないから、真偽を権威に委ねざるをえない。そして、ぼくたちが頼りにしている権威が専門分野に関して何でもかんでもお見通しというわけではないことを知っておくべきだろう。教訓「よく知っていることについて真偽を確かめることはできる。あまりよく知らないことについては確かめるのが困難である。」

粉飾するイメージ、言い訳する言語

2011年4月27日 16:00

 JRのチケットをネットで買うが、あれを通販とは呼ばないだろう。予約の時点でカード決済するものの、手元には届けてもらえない。出張時に駅で受け取るだけである。注文したものが宅配されるという意味での通販は、最近ほとんど利用していない。ただ一つ、お米だけホームページ経由で買っている。そんなぼくが、デパートに置いてあったチラシを見て、衝動的にオンラインショッピングしてしまった。お買い得そうなワインセレクションである。カード決済はすでに終わっているが、手元に届くのは一カ月以上先だ。

 会員登録したついでにメルマガ購読欄にを入れた。それから十日も経たないのに、あれやこれやとメルマガが送られてくる。数えてみたら9通である。読みもせずにさっさと「削除済みアイテム」に落としていったが、件名に釣られて「珍味・小魚詰合せセット」のメルマガを開いてみた。重々わかっていることだが、見出しが注意喚起の必須要件であることを「やっぱり」という思いで確認した次第である。

 さて、そのメルマガ情報だ。一つずつ順番に珍味と小魚の写真と文章を追った。そして、カタログなどでよくあることだが、あらためてそのよくあることが奇異に思えてきたのである。北海道産鮭とば、北海道産函館黄金さきいか、国内産ちりめんじゃこ、ししゃも味醂干し、国内産うるめ丸干しの五品が写真で紹介され、それぞれの写真の下に注釈がある。商品個々の特徴はレイアウトの真ん中から下半分のスペースにまとめて書かれている。

☆ ☆ ☆

 個々の写真下の注釈を見てみよう。鮭とば―「画像は200gです」、さきいか―「画像は250gです」、じゃこ―「画像はイメージです」、ししゃも―「画像はイメージです」、うるめ―「画像は150gです」。いずれも画像に関しての注意書きになっている。「実際は異なりますよ」が暗示されている。

 では、実際はどうなのか。鮭とば―200gではなく100g、さきいか―250gではなく125g、じゃことししゃも―実物がイメージとどう違うのか不明、うるめ―150gではなく100g。要するに、写真は実物をカモフラージュしているのである。実際の売り物とは違う写真を見せ、しかも「これらの写真は虚偽です」と種明かしをしている。あまりいい比喩ではないが、超能力者が空中浮遊してみせ、自ら「これはインチキです」と言っているようなものだ。

 パソコンやスマートフォンの画面でも「画面ははめ込み」という注がついていることがある。上記の「画像はイメージです」も不可思議で、イメージには日本語で画像という意味もあるから、「画像は画像です」または「イメージはイメージです」と言っているにすぎない。ここで言うイメージとは何なのか。「実物ではないが、実物らしきもの。実物を想像してもらうためのヒントないしは手掛かり」という意味なのだろう。では、なぜ実物通りの写真を見せないのか―これが一つ目の疑問。次に、実物とは異なる写真を掲げておいて、なぜ実物の説明をするのか、つまり、なぜ相容れない要素を同一紙面で見せるのか―これが二つ目の疑問。

 一つ目の疑問への答えはこうだ。実物が貧相なのである。だから実物よりもよく見える写真や実物の倍程度増量した写真を見せるのだ。これはイメージの粉飾にほかならない。二つ目の疑問への答え。格好よく見せることはできたが、注釈不在ではクレームをつけられる。だから「本当は違います」と申し添える。次いで、「本当はこうなんです」と実際の量を明かす。嘘をついた瞬間「すみません、ウソでした。本当は・・・・・・」と告白しているだらしない人間に似て滑稽である。

 写真もことばも嘘をつくが、広告においてはイメージの上げ底を文章が釈明することが多い。信頼性に関しては、文章に頼らざるをえないのだ。もっとも、こんなことを指摘し始めると大半の広告は成り立たなくなってしまうのだろう。だが、自動車の広告で写真を見せておきながら、「画像はイメージです」とか「画像はタイヤが四輪です」などはありえない。実物が超小型車でタイヤが二輪だったら、それは自転車であってもよいことになる。珍味・小魚だから大目に見るわけにはいかない。ぼくには、「画像はイメージです」と言われっ放しの「ちりめんじゃこ」と「ししゃも味醂干し」の実物がまったく想像できないのである。だから、そんなものを注文したりはしない。 

どんな脳にしたいのか?

2011年4月26日 11:00

 人にはそれぞれのスタイルがある。歩き方、食べ方、装い方、話し方、眠り方・・・・・・など数え上げればキリがない。自然と身についたものもあれば、意識して自分流にしてきたものもあるだろう。遠目に米粒ほどの大きさにしか見えないのに、歩き方だけで誰々と特定できたりする。その他もろもろの型が組み合わさって本人独自のスタイルが生まれる。

 ぼくたちは生まれてきたままでは留まらず、年を追って見た目や行動を変えていく。やがて一定の年齢に達すると、ありとあらゆる営みがカスタマイズされた状態になる。ところで、「どんな人になりたいか?」と若者に聞くと、「◯◯のような人」と答える。◯◯には有名人や身近で尊敬できる人が入る(ちなみに、「◯◯のようになりたい」と言うのは簡単だが、「◯◯のどんなところ」や「どんな◯◯」に落とし込まなければ意味がない)。

 次に、「あなたは自分の脳をどんな脳にしたいですか、育てたいですか?」と聞いてみよう。実際、ぼくはこんな質問をよくしたものである。するとどうだろう、たいていの人は即答しない(たぶん、できない)。おもむろに口を開けて、「処理能力の高い脳」や「考える脳」や「創造的な脳」などと答える。一つにくくれば「賢い脳」を求める人が多い。そこで、もう一度聞く。「個性のある賢い脳にしようと意識して励んでいるか?」 ヘアスタイルや服装や趣味やグルメに比べれば、望む脳へのこだわりがほとんどないことがわかる。賢い脳などと、漠然と期待しているようでは、まず賢くなれない。

☆ ☆ ☆

 脳に固定的なスタイルを期待するのはやめたほうがよい。衣装や振る舞い以上に、脳はTPOに柔軟に順応できるのだ。TPOに応じて千変万化してくれる脳が個性的な脳なのである。もっと具体的な脳の働きをイメージしてみれば、その方向に動いてくれる。たとえば、ある目的へ一目散に向かってばかりいると、脳は見えないもの、気づかないものを増やしてしまう。そこで、《寄り道する脳》や《脱線する脳》へと鍛え直す。

 《Before脳》と《After脳》をセットで使う。前者は過去(使用前)を見る分析的な脳、後者は未来(使用後)をシミュレーションする脳。どちらも見ないと、目の前のエサしか見えない「刹那脳」になる。いずれか一方だけ見るのも偏りである。BeforeとAfterを同時に視界にとらえれば、脳が勇躍する。他に、知の気前がよくお節介な《サービス脳》がある。発想豊かでジャンプ力を秘めた《飛び石伝い脳》もあり、何でもすぐに出てくる《引き出し脳》もある。

 脳を縦横無尽に働かせるためには、知のインプット時点が重要である。インプットは印象的に。少々デフォルメしたインデックスをつける。イメージとことばを組み合わせて情報を仕入れる。できれば異種どうしがいい。一情報だけを孤立させて詰め込むのではなく、他の情報といつでもドッキングできるよう住所不定にしておく。浮遊状態かつ具材がよく見える寄せ鍋のように。積んではいけない。広げておかなければならない。単機能ではなく、複合機能として脳を働かせようとすれば、インプットのスタイルを硬直化してはいけないのである。

語句の断章(3)

2011年4月24日 19:30

 【際(きわ)】

  「際立つ」では「きわ」、そして「間際」や「壁際」や「水際」なら「ぎわ」と訓読みする。この漢字を見て「きわ」や「ぎわ」と読んでいると、このように発音していることが不思議に思えてくる。この際という文字、いったいどんな意味なのか。「こざとへん」に「お祭り」だから、二つの村の人々が祭りに集まるような字源ではないかと類推できる。

  「国際」の場合、際を「さい」と音読みする。国際的、国際性、国際力などはどの文脈にあっても、すでに〈きわ〉本来の意味を薄められているようだ。「諸国に関する」という意味に重点が移り、ほとんど万国や世界と同義になってしまっている。ところで、一般的な感覚では〈きわ〉は「何かと何かが接する境目」だ。他には「果て」や「限り」という意味もある。このような、限界の様子を表わす点では、「マージナル(marginal)」も当たらずとも遠からずである(一時はやったマージナルマンには「文化境界的無党派」のようなニュアンスがあった)。なお、「周縁的」と訳すと、〈きわ〉から少し離れてしまう。

 「生え際(はえぎわ」というのがある。上記の定義に従えば、「毛髪とそうでない部分が接する境目」のことだ。あるいは、毛髪の果て、毛髪の尽きるところ。あのコマーシャルを思い出す。「生え際にプライド、生え際にポリシー」というあれだ。人がどこにプライドを持とうとポリシーを持とうと勝手だし、他人がとやかく言うこともない。つぶやくように疑問を呈するなら、外面(そとづら)にプライドやポリシーを漂わせるのは戯画っぽくはないか。できれば内面に湛えておいてほしい。それにしても、毛髪とそうでない部分が接する境目にプライドとポリシーとは、なんて小さくて情けない話なんだろうと思ってしまう。

 【相互参照(そうごさんしょう)】

 「クロスリファレンス(cross-reference)」から訳されたのが相互参照だろう。この語句に不満はないが、他によい適訳や術語がありうるような気もする。相互参照とは、同一書類や一冊の書物内でAという用語からBという用語を引いて比べる機能を指す。英語の"refer to ~"は「~に言及する、~を参照する」という意味だが、これに"cross"をつけることによってAとBの類似性・関係性を表現している。相互参照とは言うものの、必ずしも「タスキがけの相互」になっているものばかりではない。

 ハイパーテキストもこの構造をもっている。だが、無限連鎖のような参照になりかねない。上記にも書いたが、本来は「閉じたテキスト内参照」である。しかも、「同一の」に意味がある。ぼくはこの相互参照機能が「同一脳内」で働くことを〈ひらめき〉と呼んでいる。〈引き出しの力〉でもある。

 すでに知っている情報を手掛かりにして知らない情報に到ることを〈検索〉という。これがハイパーテキストの頻度の高い使われ方だろう。ぼくの考える相互参照はこの逆を重視する。つまり、いま知ったばかりの新しい情報からすでに知っている情報を引き出して関連づけるのである。アタマに入っている事柄を引き出すのだから覚えておかなければならない。ゆえに、記憶第一。次に、いま出合った情報をいろいろと言い換えて記憶の中の辞書を引くのが第二。アタマにないことは浮かばない。記憶されている事柄は浮かぶ(可能性がある)。

 

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生活と仕事の密接な関係

2011年4月22日 14:50

 理論武装できるほどの論拠を持ち合わせていないが、生活の現実はおおむね仕事ぶりに反映されると考えている。ダラダラと生きていたらダラダラと仕事をしてしまう。だらしない日常はだらしない仕事に直結する。無為徒食の日々を送っていれば、ろくな仕事をしないで給料をもらうことに平気になる。明けても暮れても遊んでいる者は仕事すらしないだろうし、流されるような惰性的生き様は、左から右へとただ流すだけの仕事に直結するのではないか。

 生活を置き去り等閑(なおざり)にしたままで、いい仕事ができるはずがないのである。休日に運動し過ぎて身体を壊す。かと思えば、別の日には昼過ぎまで爆睡。アフターファイブは元気溌剌と友人と暴飲暴食、翌日はぼんやりアタマで遅々として進まぬ仕事に向き合っている。暮らしぶりを見たらぞっとする、しかし表向きだけプロフェッショナルを装っている人間は結構いるものだ。「遊びは芸の肥やし」などと、まったく実証性のない自己弁護でふんぞり返っている芸能人もそこらじゅうにいる。二十代半ばで放蕩三昧から足をきっぱり洗って聖職に就いたのはアッシジのフランチェスコだ。悪しきライフスタイルとの決別は、一気にやり遂げねばならない。凡人にはなかなかむずかしいことだが、実は、少しずつ変革するほうがもっとむずかしいのである。

 やわらかい発想を身につける方法やアイデア脳の育て方について、講演もしているし相談もよく受ける。ぼく自身、決して威張れるような日常生活を送っているわけではないが、クオリティオブライフとクオリティオブビジネスを一致させるべく努力はしている。ふだんぼんやり暮らしているくせに、仕事の場だけ上手にアタマを使おうというのは虫のいい話なのである。相談してきた人には「恥じないようなライフスタイルへと向かいなさい」と言う。素直な人は「わかりました。明日からそうします」と決意を示すが、すぐさま「ダメ! 今すぐです!」と追い打ちをかける。今日できることを明日に先延ばしするメリットなどどこにもない。決断と行動は同時でなければ意味がない。

☆ ☆ ☆

 様子を見てから・・・・・・、状況に照らしながら・・・・・・、相手の出方次第で・・・・・・、諸般の動向を睨んで・・・・・・などはすべてペンディング動作にほかならない。「アメリカの動きを見て・・・・・・」などと言っているから先手で意思決定もできず政策も打ち出せないのである。自分が自分でどうするかをなかなか決めない。状況や条件ばかり気にして、自発的かつ主体的に動かない。条件にあまり縛られない日常生活でこんな調子なら、本舞台の仕事では身動き一つ取れなくなるのが当たり前だ。

 杜撰なライフスタイルは脳を怠惰にする。怠惰な脳は意思決定を躊躇する。反応的にしか働かなくなるのである。アタマを使う仕事がはかどらなくなると、どうなるか。人は考えなくてもいい作業ばかりに目を向け、無機的な時間に異様な執着を示し始めるのである。その最たる作業が会議だろう。「昼過ぎて まだ朝礼中 あの会社」という川柳を冗談で作ったことがあるが、あながち非現実的なジョークでもない。緊張感のない生活価値観は必ず仕事に影響を及ぼす。顧客と無縁な作業―社内の人事考課、業務レポート、朝礼、その他諸々の管理業務―がどんどん増えていく。

 かつて公私混同するなとよく言われた。その通りである。しかし、精神性や脳の働きに公私の区別が付くはずもない。気持ちもアタマもゆるゆるの生活者が、家を出て会社に着くまでの間にものの見事にきびきびとした仕事人に変身できるわけがないのである。〈私〉の姿をいくら包み隠そうとしても、〈公〉の場で仕事の出来や姿勢に本性が露呈してしまうのだ。ビジネススキルの前にヒューマンスキルがあり、さらにヒューマンスキルの前に胸を張れるようなライフスタイルを築かねばならない。要するに、「生活下手は仕事下手」と言いたかったのだが、はたして大勢の人々に当てはまるだろうか。

  仕事上の能力開発のアドバイスをするために、生活態度や日々の暮らしぶりにまで介入して口はばったいことを言わねばならなくなった。必ずしも歓迎材料ではないが、日常の習慣形成を棚上げしたままでは、ぼく自身の教育へのコミットメントが完結しないのである。こんな姿勢を示すと、都合の悪い人が去ってしまうことになりかねないが、それもやむをえない。

"Fixed match"

2011年4月20日 14:30

 時事的には少々旬が外れたが、ちょうどよい振り返り頃ではある。英字新聞には "~ fought a fixed match with (against) ・・・" などと表現されている。他に "fixed game" という言い方もあるし、レースなら "fixed race" と呼ぶ。スポーツ全般、古今東西で存在してきたのが、この "fixing" という行為である。英語で表現すると何だかスマートに見えてしまうが、ずばり「八百長」のことだ。八百長は八百屋と囲碁に由来するが、子細は省く。

 昭和三十年代のスポーツと言えば、大相撲にプロレスにプロ野球だった。八歳まで大阪市内の「ディープな下町」で育ったが、当時町内でテレビを置いていたのは金物屋の爺さんの家だけだった。爺さんは大の相撲好きで、足の踏み場もないほど隣近所を集めては一緒に観戦するのだった。場所中は連日の十五日間、人が集まった。サラリーマン家庭が少なかった地域だったから、夕刻の早い時間でもテレビの前にやって来れたのだろう。駆けつけるのが遅いと玄関から遠目に見なければならなかった。

 今にして思えば、爺さんたちはぼくたちにわからぬよう賭けていたのかもしれない。それはともかく、千秋楽の日には、力士のどちらが勝つかよく当てていたものだ。自前の星取り表を見ては、「七勝七敗のこっちが八勝六敗のあっちに勝つ」などと一番前に予想する。時には「この二人は同部屋みたいなもんだからな」とも言っていた。最近の千秋楽もそうらしいが、当時も、勝ち越しのかかった力士が大負けしている相手や優勝争いから脱落しているが星のいい相手に見事に勝つケースが多かった。子どもだったが、何かがありそうなことに薄々気付いていた。

☆ ☆ ☆

 「フィックスされたマッチ」とは、戦う前から結果が仕組まれている試合のことだ。「出来レース」とも言う。八百長に語弊があるのなら、単純に「出来」と呼んでおこう。閉じた勝負事の世界に出来はある。『侠客と角力』という本にも博打と相撲世界での出来について書いてある。出来はある意味で環境適応の本能かもしれないと思う。十五歳やそこらでその道に入り、世間一般とは異なるルールやしきたりを刷り込まれる。当然、適応のための知恵もつく。ルールの中に反社会的な要素があることに気付くためには、入門前に社会の常識をわきまえておかねばならない。天秤の一方の台座に「世間の常識」、他方の台座に「土俵の常識」を載せれば、ふつうは世間の常識が重いはずだが、あいにくそちらの台座が空っぽだから、つねに土俵の常識(=社会の非常識)側に天秤が傾くのである。

 ところで、強者がこの一番でどうしても勝ちたいとき、通常の力関係で勝てそうな相手にわざわざ大枚をはたいて負けてもらう必要があるのだろうか。ふつうに考えればありそうにない。大人が幼児に小遣いを渡して腕相撲をすることはないのである。だが、万が一に備えて、念には念を入れて、優勝や昇進のかかった大一番では出来が仕組まれることもあながち否定できない。

 「もし大相撲がなくなったら・・・・・・」と聞かれたら、「そりゃ困るよ」と言うほど身近だった時代があったし、誰もが熱狂した時代があった。しかし、時代は変わった。スポーツは多様に人気が分布し、スポーツ以外のエンタテインメントも何でもありだ。文化や伝統を盾にしても、相撲でなければならない理由は見当たらないのである。消失して困る人よりも困らない人のほうが多くなれば、やがて慈悲に満ちた救済の声も消え入るだろう。人気とはよく言ったもので、対象を取り巻く人の気が弱まれば対象の存在価値も失せるのである。

 さあ、どうする、大相撲? 階級制にするのか、部屋を解体するのか、ハンデ戦にするのか・・・・・・あくまでもスポーツとしての道へ向かうのなら、儀式性や旧態依然としたしきたりと決別しなければならないだろう。いやいや、古来からの伝統的芸能ないしは興行的見世物としての要素も残すのか。いま、こんなふうに問うても、論争の対象にすらならないほどの死に体なのかもしれない。どうやら「業界の、業界による、業界のための存在」が最善の選択になりそうである。

語句の断章(2)

2011年4月18日 18:40

 【構想と願望(こうそうとがんぼう)】

 企画を指導していて悩み多いのは、《構想》の意味を伝えることである。ぼく自身からして、構想と想像が混線してしまうときがある。構想というのは、あるテーマの《全体枠》である。枠そのものが未来を指向するシナリオであったり、過去のリメークであったりする。これに対して、想像はもっと自由奔放であり、枠や時間という概念に強く縛られない。

 さて、構想というと、漠然と未来を見据えようとする人が多い。構想とビジョンは意味的に重なるが、「ビジョンをしっかり持て」と指示すると、どこにもないはずの未来を、たとえば天を仰ぐように見ようとしたり過去や現在から目を逸らそうとしたり・・・・・・。ぼくたちはどこかから未来を切り取ってくることはできない。過去や現在を見ぬ振りして未来だけを注視することなどできない。実は、構想とは、過去と現在を穴が開くまで見ることなのである。外や明日ばかり見ようとするのではなく、自分の《脳内地図》を見ることである。過去と現在を踏まえて、あるテーマについての願望をスケッチするのだ。過去の省察、現在へのまなざし、そして未来の願望を俯瞰して書き出す―構想とは事実の土台の上に希望のレンガを戦略的に積み上げる作業なのである。

 【会話・時間・金銭(かいわ・じかん・きんせん)】

 一瞥するだけでは、これら三つの概念は非なるように思われる。ところが、社会的規則性を求めるとき、三つの概念はよく似てくる。どんなふうに似てくるかと言うと、いずれにおいても規則性を守らない人は「ルーズ」と罵られて信頼を失う点である。

 会話、時間、金銭は、人間どうしの接点で機能している。もっともわかりやすい接点がコミュニケーションだ。他人に対して、ことばをバカ丁寧に使っても粗末に使っても接点が噛み合わない。両者がうまく接合する絶妙の調子というものがある。リズムという規則は関係性に欠かせない。

 次に時間である。よく「自分だけの時間」という言い方をするが、それは一人でいるということにほかならない。そのとき、自宅にいてもカフェにいても時間に縛られることはないだろう。しかし、その時間から離れてある行為に向けてぼくたちはギアチェンジする。するとどうだろう、「ねばならない約束」に従わねばならなくなる。誰かや社会との約束事とは時間的規則である。時間とはある意味で社会における法なのである。

 金銭にはコミュニケーションとよく似た「ギブアンドテイク」があり、時間と同じような厳密な規則がある。不思議なことに、人と人の金銭授受の行為には、振込・入金では見えない「通い合い」というものがある。

 コミュニケーションにルーズ、時間にルーズ、金銭にルーズの三拍子が揃っている。しかも周囲からの信頼も失っている。にもかかわらず、そんな人間がある集団の輪で中心にいたり、大勢の人たちの指導者として君臨したりしているのはなぜだろうか。理由は簡単である。取り巻く者たちも、三要素のいずれかを欠損しているからである。同病相哀れむように類は友を呼ぶのである。

「みんなやっている」

2011年4月16日 21:20

 「みんな」とは「皆(みな)」のこと。みなさんや皆様のように「さん」や「様」を付けるのならいいが、単独で「皆」は使いにくい。「皆の者」や天皇陛下の「皆の幸せ」などを連想するからである。「みな」と言えるような立場ではない、と思ってしまう。いきおい誰もが「みんな」という言い方をするようになった。「みんな」イコール「すべての人」。誰もかも。ぼくもあなたも彼も彼女も。複数にすれば、ぼくたちもあなたたちも彼らも。より包括的に使いたければ「みーんなっ」と粘りのある言い方をしてもいい。「みな」が「みんな」に変わるような変化は専門的には《撥(はつ)音化》と呼ばれる。

 「みんな」と言えば、古くは「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」(ビートたけし)。歩行者による信号無視は始末が悪いが、大勢なら大胆にやってしまっても罪に問われにくいというふてぶてしい心理か。「みんな」が集まることによって、強がることができる。シェルター効果もある。自分一人でありながら、全体でもある便利さ。英語の"everybody"もそう。単数扱いながら、この語は複数の人々を念頭に置いている。あの《みんなの党》にも同じようなニュアンスを感じてしまう。

 だいぶ前になるが、大阪の路上駐車違反をテーマにした総理府の広報ビデオがよく流れていた。買物から停めていた車に戻ってきたおばちゃんに警察官が違法駐車のチケットを切る。速攻の条件反射でおばちゃんが、詭弁を並べてまくしたてるのである。そのセリフが「みんなやってるやんか! (・・・・・・) 私だけちゃうやん!」だった。「みんなやっているでしょ! 私だけじゃないわ!」という標準語に翻訳しておく。

☆ ☆ ☆

 この一件だけを例外として認めさせないぞという力が「みんな」には備わっていそうだ。口実にもなるし自己正当化にもなる。しかも、説明もせず理由も示さずに説得する力も秘めている。「こちらの商品ですね、皆さん、よく買われていますよ」、「こちらの料理は当店人気ナンバーワンです」(これ、すなわち「みんなの御用達」)、「どなたも、これをお土産にされています」・・・・・・こんな常套句に騙されてなるものかと思いながらも、気がつけば、みんな買っている、みんな食べている、みんな土産にしてしまっている。

 『世界の日本人ジョーク集』(早坂隆)という本から、一つジョークを紹介しよう。

 ある豪華客船が航海の最中に沈みだした。船長は乗客たちに速やかに船から脱出して海に飛び込むように、指示しなければならなかった。船長は、それぞれの外国人乗客にこう言った。

 アメリカ人には「飛び込めばあなたは英雄ですよ」

 イギリス人には「飛び込めばあなたは紳士です」

 ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則となっています」

 イタリア人には「飛び込むと女性にもてますよ」

 フランス人には「飛び込まないでください」

 日本人には「みんな飛び込んでますよ」

 今では知る人ぞ知るジョークになった。それぞれの国民性が見事にワンポイントで表されている。ヒーロー、紳士の心得、規則遵守、もてる男、アマノジャクが米英独伊仏でそれぞれ象徴されている。そして、日本人と「みんな」の相性の良さ! 「自分でも特定の誰かでもなく、みんなに従う日本人」は、世界の人たちの目に滑稽に映っているのだ。「みんな」は日本人に対して〈不特定多数の匿名的権威〉という確固たるポジションを築いているようである。

 

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指示に従わない人たち

2011年4月14日 08:45

 プロ野球が開幕した。ご多分にもれず、自宅で購読している全国紙の一つが《順位予想》を掲載した(何々新聞と書いてもいいのだが、あまり書く意味も見出せない)。同紙のスポーツ記者(と思われる)五名がセ・リーグの順位、別の五名がパ・リーグの順位をそれぞれ1位から6位まで予想している。スポーツ記者の予想に格別の関心があるわけではないが、「どれどれ」とばかりに目を通してみた。朝食のトーストを齧りながら、ボールペン片手に少し遊んでみた。

 1位に予想されたチームに5ポイント、以下、2位に4ポイント、3位に3ポイント、4位に2ポイント、5位に1ポイント(6位は0ポイント)を配分して、各リーグを予想した五人の記者の合計ポイントを足してみたのである。結果は次のようになった。

 【セ・リーグ】 巨人21ポイント、中日19ポイント、阪神17ポイント、ヤクルト13ポイント、広島4ポイント、横浜1ポイント。昨年同様に、ペナントレースの予想は三強の様相を呈している。

 【パ・リーグ】 楽天17ポイント、ソフトバンク16ポイント、日本ハム15ポイント、西武13ポイント、オリックス7ポイント、ロッテ7ポイント。拮抗した評価であるが、楽天予想に首を傾げ、昨年の日本シリーズの覇者の最下位予想にも少し驚いた。

 ここ数年、ぼく自身の中でプロ野球離れが少しずつ起こっているので、各チームの新戦力もよく知らないし、球団勢力図もわからない。では、プロ野球の記者たちならよくわかっているのだろうか。そう思って、各記者の二行寸評を読んでみた。多分にセンチメンタル気質に突き動かされているコメントにがっかりした。優勝予想の根拠はほとんどなく、特定チームのファン心理に近い願いがあるのみだ。応援の一票を強引に正当化するために、後付けで寸評を書いたかのようである。

☆ ☆ ☆

 セ・リーグ予想を担当しているA記者は「層の厚い巨人が本命」と書いている。どの層が厚いのかよくわからないが、まあいいとしよう。問題はその次である―「開幕問題で経営者が下げたファンの支持を、選手がプレーで取り戻して」。これは巨人を優勝だと予想する根拠にまったくなっていない。まるで巨人ファンの願いそのものではないか。このA記者は2位に阪神を挙げているが、巨人ファンなのだろう。「選手がプレーで取り戻して」などという応援メッセージは、ファンでなければ絶対に書けない。

 同じくセ・リーグ担当のT記者も「(・・・・・・)ヤクルトがダークホース。元気が出る好ゲームを期待します」と書いている。「期待など書くな、予想を書け」と言っておこう。いや、この二人のセ・リーグ担当記者の、予想よりも期待に傾いた程度はまだましだ。これに比べればパ・リーグの五人はひどいもので、戦力分析による予想をしていないのである。全員に占師か応援団員に転職するように勧告したい。

 専門編集委員でもあるリーダー格らしきT記者: 「今年ばかりは楽天に頑張ってほしいので」。別のT記者: 「がんばろう東北の合言葉のもと、楽天には躍進を期待したい」。M記者: 「楽天には星野新監督効果と選手の発奮を期待します」。O記者: 「楽天の意地にも期待したい」。そして、極めつけはW記者: 「予想ではなく、切望です。だって、プロ野球って夢を追うものでしょ。がんばろう! 日本」。

 何たる「予想ぶり」だろうか。もう一度書くが、そのコラム中の一覧表には《プロ野球順位予想》というタイトルが付いているのである。《プロ野球順位希望》なのではない。すなわち、パ・リーグ担当記者の全員が、順位予想という「指示=業務」を不履行しているのである。特にW記者など確信犯である。よくもぬけぬけと「予想ではなく、切望です。だって・・・・・・」と書けたものだ。だってもヘチマもない! 切望を書きたいのなら、本紙の読者欄に投稿すればいいのである。

 こんなふうに指示に従わない連中がそこかしこに増えてきた。もしかすると、指示の意味がわからないため従えないのかもしれない。たとえばプロフィールの「趣味」という項目に、「趣味というわけではないですが・・・・・・」と断りを書く連中がいる。そして、「少々演劇をやっています」と続ける。それを趣味と言うのだ。「氏名欄」には氏名を、住所欄には住所を、生年月日欄には誕生日を素直に書けばいいのである。

 職業人であるならば、編集委員が記者たちに指示したであろう《プロ野球順位》の予想の根拠を記せばいいのである。仮にぼくが「たかがプロ野球」と見下げれば、記者たち全員が大声で「されどプロ野球!」と反論するに決まっている。それならば、読者のためにもう少しまっとうな分析と予想に励もうではないか。まあ、こんなことくらいで、購読を中止して他紙に乗り替えるつもりはないが・・・・・・。

語句の断章(1)

2011年4月12日 08:40

 「断章」と書けば見た目はいいが、その実は「断片」に近い。ことば―具体的には、語源、表現、箴言、文脈など―に触発されてあれこれと考えたり調べたりしてメモしてきた。気がつけば、だいぶ溜まっている。いつかどこかでネタになるかもしれないが、ひとまず文章の形にしておこうと思う。ただ由来は所詮気まぐれな断片的メモなので、気まぐれに読むのが正しい読み方である。

☆ ☆ ☆

 【五色絹布(ごしきけんぷ)】 

 十年ぶりにふと思い出したのである。神社の本殿でよく見かける、賽銭箱の上方に本坪鈴があり、そこから鈴緒(すずお)が下がっている。鈴緒と一緒か、その代わりに、五色の布もぶら下がっていることがある。あの布の名称を知りたくて調べたことがある。わからなかったので、実際に神社で一度尋ねてみた。「さあー?」と首を傾げられ、それっきりになっていた。

 五色が陰陽五行から来ているのは想像できていた。木-青、火-赤、土-黄、金(ごん)-白、水-黒というように五行と五色が感覚対比される。但し、ぼくがよく見るあの鈴から垂れている布に黒色はない。実は、これら五色の上位に最高色としての紫を置いたため、そのしわ寄せ(?)で黒がなくなったのである。七夕の短冊にも同じく五色を使う。

 あの布、「鈴緒の五色布」とか「鈴布」と呼ばれているらしい。「らしい」というのも変だが、鈴と布を売っているメーカーがそのように呼んでいるのである。しかし、ぼくは自作の〈五色絹布〉が気に入っている。たとえ絹製でなくても、こちらのほうが高貴で雅だと思う。

☆ ☆ ☆

 【型と思考(かたとしこう)】

 そこに書いてあることを左から右へ移すように単純コピーする。そのとき、いっさいの工夫や努力をせずに単純にコピーしていれば、やがて型は身につくだろうか。よく型は勝手に身につくように言われるが、型の形成に思考はいらないのだろうか。型は意味内容よりも簡単という通念があるが、「姿ハ似セガタク意ハ似セ易シ」(本居宣長)に従えば、型のほうが真似しにくい。学びが容易でなければ、当然何がしかの考慮をせねばならないはずだ。

 「読書百遍意自ずから通ず」と言うものの、成人が無思考で型を身につけられるとは思えない。型は思考を求める。思考なき型などというものはありえないだろう。よく「守破離」を型に対する精神性の変遷のようにとらえるが、結局はどのステージにも型があって、「守る型」「型を破る型」「型から離れる型」なのである。この意味では、暗黙知にも型がありそうだ。但し、言語的説明のつかない型かもしれないが・・・・・・。

 昨今、ろくに考えないでもできてしまう仕事や職場が増えてきたような気がする。職業人としてのプライドはどこにあるのか。パスカルの「人間のあらゆる尊厳は、思考のうちにある」(『パンセ』)を銘記しておこう。

利を捨て理を働かせる

2011年4月10日 22:00

 喉元過ぎれば熱さを忘れると揶揄される国民性だ。立ち直りの見事さは、そこそこ反省が済めばケロリとしてしまう気質に通じることもある。凶悪犯が手記を書けば、あれだけ煮えくりかえっていた怒りや憎しみをすんなりと鞘に収め、節操もなくその手記を読んで涙する。そして、まさかまさかの「あいつもまんざらではない」という評価への軌道修正。最新の記憶が過去の記憶よりもつねに支配的なのである。楽観主義と油断主義が紙一重であること、寛容の精神が危機を招きかねないことをよくわきまえておきたい。

 推理について書いてからまだ二十日ほどしか経っていない。現在遭遇している危機を見るにつけ、真相はどうなのか、いったいどの説を信じればいいのか、ひいてはしかるべき振る舞いはどうあるべきなのかについて、いま再び考えてみる。原発にまつわる事象を、現状分析、対策、権威、専門知識、情報、はては文明と人間、科学、生き方など、ありとあらゆることについて自問する機会にせねばならない。いま考えなければ、二度と真剣に考えることなどないだろう。

 推理とは何かをわかりやすく説いている本があり、こう書いてある。「理のあるところ、つまり真理を、いろいろの前提から推しはかること。(中略)推理の結果でてきた結論は、推しはかりの結果ですから、100パーセントの信頼性をもたないのです」(山下正男『論理的に考えること』)。前提を情報と考え、結論を真実と考えればいい。いったい事実はどうなっているのかと推理するとき、ぼくたちは様々な情報を読み解こうとするのである。

☆ ☆ ☆

 一般的には、一つの情報よりも複数の情報から推しはかるほうが、あるいは主観的な情報よりも権威ある客観的な情報から推しはかるほうが、推理の信頼性は高くなると思われている。ぼくもずっとそう思っていた。多分に未熟だったせいもある。だが、現在は違う。毎度権威筋の証言を集めて推理するまでもなく、まずは自分自身の良識を働かせてみるべきだと思うようになった。極力利己を捨て無我の目線で推理してみれば、事態がよくなるか悪くなるか、安全か危険か、場合によってはどんな対策がありうるかなどが素人なりに判断できるのである。

 原子力推進派であろうと反対派であろうと、原発がエアコンのように軽く扱えるものでないことを承知している。また、原発から黒煙が出ていたという事実を目撃した。さらに、つい先日まで放射能の汚染水が海へ流れ出ていたという情報を同じく認知している。放射能基準値の数倍が百倍になり千倍になった。何万倍と聞かされて驚き、数日後には電力スポークスマンが「億」とつぶやいた。「嘘でしょう?」と誰もが思っただろうが、たしかに瞬間そんな数値を記録したようである。やがて七百五十万倍だったかに訂正されたものの、数値が尋常ではないことは明らかだ。

 利を捨てて見れば、上記の情報を前提にして好ましい結論を導けるはずはないのである。推理の結果、安全か危険かの二者択一ならば、「危険」と言うのが妥当だろう。しかも、高分子ポリマーは権威的で信頼性が高そうに見えるが、おがくずと新聞紙のほうはやむにやまれぬ、自暴自棄の対策に見えてしまう。たとえ専門的に効果的な処理であるにしても、知り合いの銭湯のオヤジさんと同じ材料を使っていてはかなり危ういように思われる。

 流言・デマ・噂・蜚語などと権威筋のコメントも似たり寄ったりだと言う気はない。しかし、推理と伝播の構造にさしたる大差はないようにも思われる。しかるべき情報から信頼性の高い推理をおこなおうとする責任者なら、まず第一に利害や利己から離れてしかるべきである。もし専門家の意見に私利がからむとすれば、これはデマと同種と言わざるをえない。自然の理(ことわり)がもたらした惨事に対して、人類が理(り)を働かせて方策を打ち立てるべきだろう。

 

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悲喜こもごも

2011年4月 7日 15:45

 阪神淡路大震災に見舞われた当時、大阪の郊外に住んでいた。まさかテポドンとは思わなかったが、その瞬間、ヘリコプターか小型セスナがマンションに墜落したと確信した(自宅から遠くない所に小さな飛行場があったからだ)。収納のバランスが悪い本棚が一つ倒れた。食器棚は倒れこそしなかったが、食器類は散乱していた。しばらくしてからテレビをつけると、高速道路が破壊され方々で火の手が上がっている神戸の街が映し出された。非力な一個人では呆然とするしかない惨状。あれは戦争だった。

 神戸の大学に通っていたし、その後も足繁く訪れた街だ。壊滅状態の見慣れた光景が衝撃となって、身体じゅうが痙攣したかのようだった。とりあえずわが家にこれといった被害はない。しかし、震源地により近い大阪市内の事務所はどうだろうかと不安がよぎった。もちろん最寄駅からの電車はすべて止まっていたから、当時小学生だった二男がそろそろ廃車にしようとしていた自転車に乗って大阪市内へと走った。およそ12キロメートルだろうか。大した距離ではないが、あいにく子供用の自転車だ。初めて駆け抜ける道に戸惑う。ビルから落下した窓ガラスの破片が道すがら散乱していた。通勤客が歩いている群れをすり抜けて走るのに、かなり時間がかかった。

 オフィスは中央区の天満橋にある。大阪城の大手門まで徒歩5分という立地。嘘か本当か知らないが、「大阪城の近くは岩盤が硬い」とよく聞いた。周辺から南方面は上町台地と呼ばれ、大阪府を南北に走る上町断層が走っている。この断層の活動スパンは数千年に一回と言われているので安心なようだが、実は比較的危険なクラスに色分けされている。そうそう、ビルのエレベーターは止まっていたが、オフィス内にはまったく異変がなかった。机の引き出しが少し空いていたのと、ドイツのお土産だった小さな人形が倒れていた程度だった。

☆ ☆ ☆

 オフィスから西側へ一駅、徒歩にすれば10分の場所に、大阪証券取引所で有名な北浜が位置している。このあたりはかつて砂州を陸地に開墾した場所なので、天満橋に比べれば地盤がゆるいと言われていた。案の定、知人の会社ではスチール製の保管庫などがすべて倒れていたと聞いて驚いたが、震度6はあったと思われるから、無理もない。むしろ、近接しているぼくのオフィスに被害がまったくなかったのが不思議なくらいであった。

 悲惨な光景は記憶の中でおびただしい。印象的だったのは、長田の住宅地で、「お金が燃えてしまう!!」と叫んで自宅へ駆け寄ろうとする老女を止める別の老女のことばだった。彼女は言った、「お金みたいなもん、働いたら、またできる!」 生き地獄のさなか、こんなにたくましいことばは簡単に口に出るものではない。生き様とことばが一つになる、生命(いのち)の叫びのようであった。

 この震災から半月経った頃、ぼくよりも一回り年上の紳士が突然オフィスにやって来た。知人である。学生時代から銀行の管理職になるまでエリート街道まっしぐらだったが、五十過ぎに子会社の部長として出向して以来、気の毒な立場にあった。その人が、厳寒の二月初めにコートを身に纏わずにやって来た。「コートなしですか?」と聞けば、「いえ、コートは着てきました。汚れているので・・・・・・」と口ごもる。肩越しに廊下を見れば床にたたんで置いてあるではないか。「何をしているんですか!?」と少々語気を強め、拾い上げてハンガーにかけた。

 その紳士は芦屋在住であった。早朝目覚めた直後に激震に遭い、洗面所にいた奥さまを案じてとっさに廊下を駆け抜けたという。二人で自宅の外に出てしばらくしたら、裸足であることに気づいた。ガラスの破片の上を走ったので足の裏は血まみれだった。「あのとき、動物になってたんですね。野性が蘇ったんですね。痛くも何ともありませんでした。おまけに、傷はみるみるうちに治りましたよ」と微笑まれた。切なかった。

 うな重をご馳走することにした。この人は日本の頂点に君臨する大学の法学部を主席卒業している。知的で聡明で静かな紳士が雄弁に身の上を語り始め、やがて喉を詰まらせるように涙声になった。「岡野さん、私ね、鰻が好物なんです。こんな幸せにしてもらって・・・・・・」と大粒の涙を流し始めた。ぼくの会社から見れば外注先にあたるのだが、「できるかぎり仕事を作ってお願いできるよう努力します」と約束して見送った。その後、退職されてからは仕事の縁はなくなった。経理学校で講師をしていますとの年賀状をもらってはいたが、再会の機会はついになかった。数年前に訃報が届いた。亡くなってから半年後のことである。

 大きな災害があるたびに、きまって長田の老女と芦屋の紳士を思い出す。悲哀の象徴ではあるが、生きる歓びのよすがとしている。

記憶の掃除と棚卸し

2011年4月 5日 09:30

 誰もが記憶の倉庫を所有している。それを掃除したり棚卸ししたりすれば、アタマの働きが回復できると思われる。ディスクのクリーンアップやデフラグみたいなものである。気分転換程度の掃除や棚卸しでいいから一ヵ月に一回程度お薦めする。少なくとも効能の概念的根拠は、『論語』に出てくる《温故知新》としておこう。先人の学問や昔の事柄を学び直したり再考してみれば、新たな発想や今日的な意義が見い出せることを教えている(原典では「そうすれば、師にふさわしい人物になれるだろう」と続く)。

 温故を「故(ふる)きを温(たず)ねて」と読み下すが、温にはもちろん「あたためる」という意味が潜んでいる。また、故は自分の記憶であってもよい。つまり、自分のアタマを時々チェックしてみれば、そこに「おやっ」と思える記憶が見つかって、気分一新して気づかなかった知が甦ってくるかもしれないのである。現在の小さな断片をきっかけにして、過去につながっているシナプス回路を遡ってみるのである。これをやってみると脳が歓喜し始めるのがわかる。

☆ ☆ ☆

 一昨日『アートによる知への誘い』というタイトルで文章を書いた。その後、「誘い」という一語がするするっと五年前に吸い込まれていった。まるで不思議の国のアリスが穴に落ちていったときのように。当時、ユーモア論について研究していて、笑いのツボを語りに内蔵させるコツについて話したりしていた。たしか講演は『愉快コンセプトへの誘い』だった。ここでの「誘い」は当然「いざない」と読む。みんなそう読むだろうと思っていたから、ルビなど振らずに、講演タイトルと簡単なレジュメを主催者に送った。

 講演当日、会場に着いてしばらくしてから、タイトルに何か違和感を覚えた。ぼくが持参した手元にあるレジュメの表紙とどこか違っている。目をパチクリさせてもう一度バナーの演目を見た。そこには『愉快コンセプトへのお誘い』とあった。「いざない」が「おさそい」に変更されていたのである。次第はこうだ。レジュメを受け取った担当者は、誘いを「さそい」と読んだ。これを少し横柄だと感じた。この感覚は正しい。そこで思案した挙句、丁寧な表現にするべく「お」を付けて「お誘い」とし、本人は「おさそい」と読んだのである。たまたま「愉快コンセプト」とケンカしなかったのが何より。これが『交渉とディベートへのお誘い』になっていたら、たぶん合わなかった。それどころか、お茶会気分になっていたはずである。

☆ ☆ ☆

 「誘い」ということばからもう一つ別の情報が「記憶庫」で見つかった。土曜日に鑑賞してきたクレーが発端になって、これまた五年ほど前だと思うが、別の展覧会を思い出した。通りがかりにその展覧会開催を知り、強く「いざなわれ、さそわれた」。このときに『クレー ART BOX 線と色彩』(日本パウル・クレー協会編)という小さな画集を買った。クレーは好きな画家の五指に入る。たしか安野光雅はクレーを「色の魔術師」と称した。ところが、ぼくはクレーの作品の大半を凡作だと思っている。ほんとうに気に入っている絵は全作品の1パーセントにすぎない。しかし、それでいいのである。極端に言えば、芸術家は「たまらない一作」を完成させてくれれば、あとはどうでもいい。そして、その一作だけでこよなく愛せるのである。

☆ ☆ ☆

Fabio Concato.jpg どういうわけか、クレーの記憶の隣にファビオ・コンカート(Fabio Concato)がいる。これは記憶の構造だけに留まらず、現実もそんな構造になっている。リビングルームの一カ所にクレーのポストカードを6枚飾ってあり、そこからほんの数十センチメートルのところにCDを600枚ほど収納できる棚がある。そこに十年前にミラノで買ったコンカートのCDがある。あるはずだった。しかし、ここ二年間聴いていない。見つからなかったからである。一枚一枚何度探しても見つからなかった。

 それが昨日見つかった。まったく予期しなかった場所で。別個に仕分けしていた数十枚のCD群の中で見つかった。腹ペコ少年のようにバラードを聴いた。メロディーが記憶に響く。音楽は記憶庫の棚卸しに絶好である。おびただしいイメージを背負っているからだろう。バラード系のカンツォーネに興味があるなら、YouTubeでコンカートが聴ける。ぼくはこのジャケットの一枚しか持っていない。そして、この一枚に十分堪能している。

 

Information: Web講話岡野塾、毎週月曜日更新中。http://www.proconcept.co.jp/okano-juku/

アートによる知への誘い

2011年4月 3日 11:00

 ピカソやモーツァルトだけにアートを感じてすまし顔していては鈍感である。アートはそこらじゅうに潜んでいる。たとえば、テレビで『世界街歩き―シエナ』を見ていて、街の城壁に、坂のある広場に、コントラーダ(地区)のいもむしの図柄に五感が反応した。その街の詳細が記憶の中で蘇ったのは、まったく無知ではなく、二度訪れたことがあるからだ。海外に出掛けるというのは、「ハレ」の行動だから、経験は強く記憶され懐かしくも機敏に再生される。

 いま、芸術ではなくアートと呼んでいるのは、術の外へと目を見開き、「ハレ」のみならず「ケ」にも敏感になりたい気分だからである。たしかに、アートへの覚醒は、術とは無縁の日常茶飯事でもつねに起こる。感覚を研ぎ澄まして日常を暮らしていたら、朝の空気に、青空の雲に、民家の壁の汚れた模様に感応することがある。パスタの旬の具材、菜の花にさえアートへのアンテナがプルプルと反応する。

 物語を追いすぎると表現やアートが見えず、表現やアートを追うと物語を見失ってしまったりすることがある。ぼくの場合、たとえば映画などがその典型になる。映画観賞は小説を読むほどのキャリアを積んでこなかったので、統合的に愉しむ器用さを持ち合わせていないのだろう。しかし、物語を必死に追っていても、アートが一緒に伴走してくれる映画もある。『ニューシネマパラダイス』がそうだったし、最近観た作品では『英国王のスピーチ』がそうだった。

☆ ☆ ☆

 ロゴスとパトス、あるいは理性と感性を対立や背反の概念としてとらえる習性が世間にまだ根強い。だいぶ見方が偏っているし、ステレオタイプでもある。もう口はばったいことは言わないようにしているが、人はロゴス派やパトス派のいずれかの単色だけに染まるほど単純にできてはいないのである。「私は感性人間です」という知人が少なくないが、そもそも人類にそんなカテゴリーなどない。知情意それぞれの成分配合は異なるだろうが、誰もが理性的でもあり感性的でもあり、あと一つ付け足せば、良識的でもあるのだ。

 かつては本を読んだり話を聞いたりして刺激を受け、アートに入っていった。ぼくの場合、ベートーベンの伝記を読んでクラシック音楽へ、抽象画の話を聞かされてミロやカンディンスキーへ、古代史を読んで明日香散策へという具合に。ファーブルを読んでから昆虫好きになるのも同じだろう。だいたい学校はそんなふうに知識を手ほどきしてくれているのである。ところが、今では逆である。たまたま美術館に行ったり小さな旅に出掛けたりして、それがきっかけになって好奇心から本を読むことが多い。

 本を読んだからといってアートに赴(おもむ)くとはかぎらない。怠け者はそんなことをしないだろう。しかし、アートに触れ合ってから本を読むのはさほどむずかしくない。こちらのほうが流れがスムーズである。この半月で『大英博物館古代ギリシャ展』『法然―生涯と美術』『パウル・クレー―おわらないアトリエ』を観てきた。またしてもギリシア文明やギリシア神話の本を本棚から取り出したし、お気に入りのクレーの画集をめくったりしている。蔵書に『選択(せんちゃく)本願念仏集』はあるが、読んでおらず、法然についてはほとんど知らない。この機会に少し勉強しようと思う。「思い立ったが吉日」とよく言うが、先に動いて観賞して感じ入ってきているから、このことばには誘導力がある。

プロフィール

岡野勝志(おかのかつし)
1951年大阪生まれ

企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長
企画アイディエーター
岡野塾主宰

ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。
マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人材の課題に対して、「即答即決アイディエーティング」をおこなっている。

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