2011年6月アーカイブ

百科事典の思い出

2011年6月29日 07:45

 想定外の浪人生活が始まったので、予備校に行くことになった。しかし、授業料だけ払って二ヵ月ほどでやめた。受けた授業は何一つ覚えていない。ただ講師だけ一人覚えている。そして、その講師が脱線して話したエピソードだけ一つ覚えている。

 その先生は一揃えで当時20万円もする百科事典を2セット買うというのだ。自宅の書斎に2セットとも置くのだが、1セットは通常の調べものに使う。もう1セットをどうするのかと言えば、出張や外出時に持って行く。もちろん全巻を携えることはできない。先生は、百科事典の任意の巻の任意のページを適当に破り取って(!)ポケットの中や鞄に入れ、出先で読むのだそうである。そして、読み終わったら、行き先でそのページを捨ててしまうのだ。同じものが自宅にあるから、いざと言うときはそれを読めばいいというわけ。もったいない。しかし、その驕奢(きょうしゃ)ぶりを羨ましくも思った。

 当時すでに普通紙複写機(PPC)は開発されていたが、ほとんど流通しておらず、主流は青焼きであった。記録メディアはマイクロフィルムだったのではないか。これが40年ちょっと前の話。今では情報は複写も圧縮もやりたい放題となった。テレビの通販では100種類もの辞書や事典と名作全集を内蔵した電子辞書を2万円程度で売っている。もう紙の百科事典に出番があるようには思えない。所蔵するにしても、自分の寝床と同じくらいのスペースを食われてしまうのがつらい。

☆ ☆ ☆

 「百科事典よさらば!」という心境なのだが、何を隠そう、捨てるに捨てられない百科事典を持っている。それは"Encyclopaedia Britannica"の1969年版だ。これが当時軽自動車一台に相当するほど高価なもので、給料の安かった父に無理やり買わせたことを今でも申し訳なく思っている。ある程度は活用し英語力の向上にもつながったが、投資に見合った回収ができているとは言い難い。しかも、自宅に所蔵スペースがないので、ここ二十年、オフィスの書庫の奥に放ったらかしにしてきた。

 紙の百科事典の弱点はそのボリュームにある。もう一つの弱点は情報更新ができないこと。ぼくの事典では1968年までの史実や事象しか調べることができない。ところが、よくよく考えると、弱点はこの二つ以外に見当たらない。この二つにさえ耐えることができれば、少なくとも使い道があるのではないか。書庫の奥に追いやられている気の毒な"Encyclopaedia"を前にそう思った。埃をかぶっていても、百科事典は「Encyclo=すべての+paedia=教育」なのだ。

 近代や近世、さらには中世や古代にまで遡れば、あの事典でけっこう間に合う。今さらながら再認識したが、適当にページを繰って行き当たりばったりに読むおもしろさもある。必要な情報、役に立つ情報を求めていたのに、いつの間にか脱線したり支線に入ったりしている。やがて、あることを知るためには、ピンポイント情報だけでは不十分で、あれもこれも知らねばならないことに気づく。それならインターネットも同じ? たしかにほとんど同じである。違いは、ページをめくりながら書き込みできることと、全何十巻という全体が見えていることである。これは見捨てたものではない。また、やりたいことが一つ増えてしまった。

語句の断章(10)

2011年6月26日 10:15

 【観照(かんしょう)】

 何となくわかるので、わかったつもりになって何十年も放っておいた単語である。

 現象学の哲学者がよく使う。美術の本にも出てくるし仏教関係の本でも何度か見ている。一番理解に苦しんだのが、『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』の一節、「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」だ。「観察して照らしている」から、本質をよく捉えることだろうくらいの理解で済ませていた。

 よくよく考えたら、ダ・ヴィンチ自身が「観照」という日本語を使ったわけではない。だから翻訳文の理解に悩むくらいなら、原典にあたるのがいい。まさか原本が手元にあるはずがないので、英語版の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』(Notebooks of Leonardo da Vinci)を調べたら、「観照する」に相当する用語が"contemplate"となっていた。「凝視する」とか「注意深く観察する」という意味だ。英和辞典には「熟視」と訳しているのもある。

 この動詞は現代イタリア語では"contemplare"で、辞書にはちゃんと「観照する」という訳も掲げられている(「瞑想する」という意味もあるが、これはダ・ヴィンチの手記の一節の訳としては当てはまらない)。そして、この動詞からラテン語に遡ってみると、「吉凶を占う場所で十分に観察する」というのが原義であることがわかった。吉凶を占う場所とは「天空が開けている場所」を指す。

 するとどうだろう、ダ・ヴィンチの「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」が何となく理解できるではないか。感性の外とは地上ではなく天空のことなのに違いない。理性は感性の限界を補う「俯瞰」や「見晴らし」をもたらすというような意味のように思われる。

 なお、ぼくはことば遊びをしているだけであって、衒学的追究をしているのではない。念のために付け加えておくと、このように執拗に単語の意味を追い求めても文章の意味がわかる保証などないのである。個々の単語が文意を担うのはたしかだが、それ以上に文章や段落が単語の意味を変容させる。これはまるで個人(単語)と組織(文章)の関係にそっくりだ。

効果を見極める

2011年6月25日 18:00

 一つの原因から一つの結果が生まれるようになれば、分析も予測も誰がやっても同じになるに違いない。たぶんものの見方もアタマの使い方も簡単明快であるはず。科学至上主義への懐疑も霧消して、科学は完璧主義という地位を獲得する。いや、運命決定論的にすべてを支配することも夢ではない。同時にそのことは、ハプニングや意外性やユーモアやジョークのない、さぞかしおもしろくない世界になるだろう。

 ぼくのような浅学の身でも、少しでも考えようとアタマに鞭打つのは、原因と結果の関係が定まらないからだ。直接・間接の原因、遠因に近因があるし、アリストテレスによれば質料因、作用因、形相因、目的因も考慮せねばならない。さらに、これらが相俟って一つの結果が生まれているわけではない。結果も複合的であることがほとんどだ。因果がぴったり対応しないからこそ、固定観念を反省したり創意工夫をする気になったりもする。原因も結果もよくわからないのは不安定だが、苦労せずによくわかってしまうよりもずっと精神衛生上はいいはずである。

 医者に行く。「どうされましたか?」と聞かれ、「ちょっと熱があるんです」と答える。「咳は?」「時々出ます」などのやりとりの後に胸と背中に聴診器が当てられて、やがて「どうやら風邪ですね」と所見が下されて納得する。だが、なぜ風邪を引いたのかまで深く顧みることはない。仮にここ数日間を振り返ってみたところで、原因はわかりそうもないし、一つともかぎらないだろう。二、三日して体調が戻る。よくなった原因が薬だったのか、よく睡眠を取って休息したからか、あるいは自然治癒したのかは不明である。

☆ ☆ ☆

 一度お試しサプリメントを注文したら、その後しばらくDMが送られてくる。以前、そんなDMの一つにグルコサミンとコンドロイチン配合のサプリメントやサメのコラーゲンの案内があった。足首や膝に痛みを感じたり階段を上り下りしたりするときに思うように動けない、脚力や関節に不安がある、そんな方にぜひ」というふれこみである。無料お試しを申し込んだのも、たしか同じような文言に反応してのことであった。

 テレビにもDMにも折り込みチラシにも消費者の声が紹介されている。「歩くのも階段の上り下りも楽になった」と異口同音の摂取体験談。足に「何だか」力が入るようになり、痛みも「気にならなく」なってきたと言う。はたしてサプリメントは効いたのか。それとも、サプリメント摂取を機に、よく歩くようになり軽い運動すら始めるようになったからか。関節の痛みが改善されたのが、健康食品か新しい生活習慣なのかはわからない。

 サプリメントや薬物には自己暗示を促す効果があるのかもしれない。プラシーボ効果である。ところで、こんなことを考えていくと、落ち込んでいたので買物をしたら気分がよくなったという因果関係にも同じことが言えるかもしれない。ふと、ぼくの研修もプラシーボなのではないかとの思いがよぎる。おっと、とんだヤブヘビになってしまった。残念ながら、直接効果のほどは証明のしようがない。ただ、改善や向上に努めようとするきっかけの一つになっていてほしいと願うばかりである。

 

嗚呼、商売センス

2011年6月23日 07:15

 職住ともに大阪市中央区である。大阪城から徒歩10分圏内、行政機関が集中している地域だ。歴史のある街で、かつては熊野参詣の起点として栄えた。八軒家浜の名残があり、この船着場に京洛からの産品が届けられていた。その大川では七月の天神祭に船渡御(ふなとぎょ)がとりおこなわれる。『プリンセストヨトミ』(ぼくは観ていない)のロケ地にもなった空堀(からほり)商店街もこのエリアにある。ところが、マンションもテナントビルも、空堀ならぬ「空洞化」の気配が漂い始めた。

 これで行政機関が大挙して移転でもしたら泣き面に蜂である。すでにテナントオーナーの皆さんは対策を講じるべく勉強会を立ち上げたりしている。起業してオフィスを構えてから24年、住まいを移してから5年半が過ぎた。変遷を目の当たりにしてきて、繁栄よりも凋落のトレンドを肌身で感じる今日この頃だ。ランチタイムで出掛ける200メートル四方にかぎってみると、二十年以上続いている店はおそらく十指かそこらだろう。

  威張れるような経営をしてきたわけではないし、商売のセンスがいいとも思えない。誠実に仕事をしているのでどうにかこうにか生き残っているが、血眼になって商売をしてきたと胸を張れない。しかし、消費者としては賢明であると自負しているし、顧客として店や商売人を見る目はあると思う。その視点からすると、このマーケットで立地して失敗してきた飲食業の典型が浮かび上がる。オーナーたちはあまり研究していないのである。集約すると、(1)夜と土曜日で苦戦する、(2)地下で苦戦する、(3) メニューで苦戦するの三つの要因だ。

☆ ☆ ☆

 当該エリアは官庁・ビジネス街だから、昼間人口は多い。良心的にやっていれば、昼は常連客がつく。健闘している店なら、800円のランチを百人にさばいているだろう。問題は(1)の夜間である。大半の仕事人は、飲むなら帰路になるキタかミナミへ行く。まずまず頑張っている店は、夜のターゲットを地元住民に定め、夜に飲食してもらえるよう工夫している。そんな店には土曜日の夜もお客さんが入る。次いで(2)だが、成功例は二、三軒のみ。ビル地下では何度も店が替わっている。それでも、什器備品がそのまま使えることもあって、しばらくすると次の店ができる。

 最後に(3)。ターゲットを絞り込んでいないからメニュー戦略を誤ってしまう。昼にアボガド丼やエスニックはダメである。また、夜のご馳走過剰もダメである。ビル地下で夜をメインにした鯨料理店があったが、あえなく三ヵ月で「反捕鯨状態」。絵に描いたような三つの苦戦ぶりであった。飲食業のアイディエーティング(アイデアを出す相談)を何度か頼まれたが、総じて頑固なオーナーが多い。アドバイスを求めているくせに、アイデアを提供すると、「そうは言うものの・・・・・・」と守りを固めて前例を踏襲する。

 頑固とこだわりは商売人のDNAだから、やみくもに否定はしない。それならそれで、もう少し個性的なスタイル―たとえば無愛想と偏屈を売りにする職人芸など―を見せてほしいものである。ミスター・ビーンでおなじみの著名なコメディアン、ローワン・アトキンソンが英国の商売人についてこう書いている―「小さな事業をしているのに、お客が来るのを嫌うのはイギリス的なんだ」。これは逆説的に読まなければならない。ヨーロッパではこんな商売人をよく見かける。うわべのお愛想を振りまくよりもよほどましで、さほど悪い気がしない。おそらく、お客さんを徹底的に絞り込んで、抑制のきいた商売をしているからに違いない。

観察は個性を投影する

2011年6月21日 09:45

 企画力というと、情報収集や編集や構成ばかりがクローズアップされる。ところが、こうした技術に先立つものがある。カントが経験的認識の前に《ア・プリオリ》な概念として時間と空間を置いたように、企画者は企画に先立って時間的空間的な日常に目配りする必要がある。考えることに先立つこと、考えることよりもたいせつなことは、習慣形成された観察なのである。

 しかし、観察、とりわけ視覚に強く依存した観察では見誤りが生じやすくなる(そうでなければ、たとえばエッシャーのだまし絵などは成立しなくなるだろう)。ぼくたちはよく見ているようで実は見ていない。「百聞は一見にしかず」と言うけれど、一見そのものが危ういのである。見慣れた対象を流していることが多いし、あまり強く意識することもない。だから、普段の気づきは鋭敏ではなく、かなりいい加減なものになっている。「この目で見た」という確信ほど危ういものはないのである。

 それでも、環境適応しなければならない宿命を背負っているかぎり、感覚を研ぎ澄まして観察するしかない。周辺の物事に目を凝らすこと、なじみのある街中の光景に目を配ること、ありふれた人の動きを注視することが観察行動であり、こうした行動を抜きにして何かに着眼することなどできるはずもない。ぼくの知るかぎり、よき観察者でない者がよき企画者になったためしはないのである。こういう話をすると、素直な人は観察することの意義を理解してくれる。だが、観察の話はこれでおしまいというほど浅くはない。

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 「ようし、観察するぞ」と力(りき)む企画の初学者は、「ありのままの現実を正しくとらえること」が観察だと思ってしまうのである。観察が現実の細密な写実画であると勘違いする。よくよく考えてみれば、写実画にしてもありのままの現実の投影であるはずもない。現実と観察にはつねに誤差が存在する。そして、この誤差は決して排除すべきものではなく、存在して当然なのである。

 それゆえに、現実と観察の誤差を恐れる必要などさらさらない。繰り返すが、実像とイメージで再現された像の間には誤差やズレがある。誰が観察しても同じなら、その仕事を誰かに一任すればいい。しかし、そんな観察など何の値打ちもないだろう。個性は観察に介入し、観察時点で観察対象と自分は一つになろうとしているのだ。

 写実的観察という、ありもしない仕事にこだわるのをやめよう。観察結果は印象的でも抽象的でもいい。勇気をもって主体的かつ個性的に観察すればいい。独自の解釈や表現なくして、そもそも観察行為などありえないのである。よく「客観的な観察」と言われるが、異口同音に「そうだ!」という観察などは数値の中にしかない。それでもなお、その数値がありのままの現実の一部始終を示している保証はない。数値でさえ、対象を好都合に切り取っていることが多いからである。

食性について

2011年6月19日 19:00

  一ヵ月前になるだろうか、ある動物園の飼育員がテレビで冗談抜きの表情で語っていた。「(腹を空かしているときに)この中に入るとやられてしまいます」。この中とはジャガーの檻だ。ジャガーとは猛獣のジャガーである(ジャガー横田ではない)。その飼育員は檻の外にいて箸で生肉をつまみ、鉄格子越しにジャガーに与えている。赤ん坊のときから何年も飼育しているのに、中には入れない。

 エサをもらっている姿を見ると、なついているように見える。だが、「ジャガーはなついているようでも、いつでも(私を)狙っているんです・・・・・・」と飼育員は言う。ジャガーにとって動く標的はすべて獲物。お世話になっている飼育員もジャガーの食性内の食物にすぎない。ジャガーからすれば、人間は食物連鎖的に自分よりも下位なのである。「いつでも狙っている」という表現に、ぼくたちが愛してやまない「健気(けなげ)さ」や「親しみ」や「信頼性」などの感覚が吹っ飛んでしまった。「エサはエサなんだよね」というジャガーの、クールでドスのきいたつぶやきが聞こえてきそうだ。

 肉食獣が草食動物を追いつめ首筋を一撃する。次いで、腹を食い破って内臓を頬張るシーンを見て、ぼくたちは残酷だと思う。しかし、この光景はリスがクルミの殻を割って実を食べ、クマが蜂蜜を捕って食べ、人が山芋を掘ってトロロ飯を食べるのと何ら変わらない。動物対動物の食物連鎖の血生臭さゆえに、ジャガーが草食動物を「襲っている」という印象を強く抱いてしまう。実は、ジャガーは食材を調達して食事をしているのである(動物園のジャガーは調達しなくてもよいのだが、自力での調達本能を失ってはいない。この本能があるからこそ、飼育員は狙われる)。

☆ ☆ ☆

 食性について考えていくと、必然食物連鎖に辿り着く。絶滅危惧種を案じるものの、食物連鎖に関わる植物・動物の《食う・食われるの関係》において、食う側のみが生き残り、食われる側が滅びることはふつうはありえない。経済論理では食う側(捕食者)ばかりが得して食われる側(被食者)が損することになるが、食物連鎖はそんな単純なものではない。そこに損得などはなく、自然の摂理ではめったなことではバランスが崩れることはない。

 味にせよ食物にせよ、動物には一定の食性がある。シカは生で草を食べている。塩・コショウやドレッシングを使っている様子はない。コアラは無添加ユーカリ一筋、イワシは動物性プランクトンが主食である。ほとんどの動物は食性的には「挟食」を特徴としている。もっとも「広食」しているのが人間である。日本人は最右翼だ。一昨日の昼はフレンチ、夜は煮魚、昨日の昼はラーメン、夜は焼肉、今日の昼は鶏の竜田揚げにお惣菜、夜は天ぷらそば・・・・・・と、まさに日替わり。こんなに手広く何でも食べる雑食人種は他にいない。

 ぼくはこれまで出されたものを一度も拒んだことはない。だから、好き嫌いや食わず嫌いをする者の気持ちがわからない。それでもなお、食性のことを考えれば、何でもかんでも食べることなどないと偏食者を擁護しておこう。欧米の子どもたちが納豆やコンニャクを嫌がっても、親が「好き嫌いを言わないの!」などとしつけるはずもないだろう。同様に、日本の子どもたちがピーマンやニンジンを嫌がっても無理に食べさせることはない。嫌なものを無理に食べるよりも、好きなものをたくましく食べるのがいい。ジャガーのように。

語句の断章(9)

2011年6月17日 08:00

 【知見(ちけん)】

  わざわざこんな単語を使わなくても他のやさしい類語でいいのではないかと感じるときがある。訝(いぶか)しんで意図を突き止めたくなる。この「知見」もその一つだ。

 別に意見や見解や見識でもいいのではないか。と書きつつも、意見と見解を分別できている自信はない。《意見⊇見解》、つまり意見が見解の上位集合らしきことは何となくわかる。見解のほうがフォーカスが強い。見識は、見解に質の高い判断力を足したようなイメージだろうか。

 少々小難しい本を読んでいると、著者が「私の知見では」などと言う。「私の意見では」とするのはダメなのか。辞典を調べて本の文脈にあたってみると、「なるほど、ここは知見でなくてはならない」と納得したりする(そんな著者は適語を選択しており語感もすぐれているのだろう。そうでない著者はたぶん「見せびらかし」なのだろう)。

 知見は「見聞に裏打ちされた意見」のことである。必ずしも体験でなくてもよさそうだが、実感が漲っていて「よく身につけている自信」を感じる。意見と知見を対比させると、意見は私見に近くて揺らぎそう。それが証拠に、発言直後にすぐ取り消されるのが意見の常だ。知見には筋金が入っていそうである。以上はぼくの"愚見"である。

 なお、愛用している類義語辞典では、〔意見―ある物事について持っている考え〕を共通の性質として、次のような単語が列挙されている。

 考え、論、意見、見(けん)、所見、見方、観、見解、知見、了見、見識、一見識、一家言、私見、私意、貴意、高見、卓見、達見、達識、愚見、卑見、管見、浅見、探見、定見、偏見、僻見(へきけん)、僻目(ひがめ)、謬見(びゅうけん)、臆見(おっけん)、創見、先入観、先入主、成心、色眼鏡、異見、異存、異議、異論、故障(!!)、主観、人生観、世界観、史観、政見。

 どうだろう、知らなかった、知っていたが使えそうもないのがいくつかあるに違いない。驚いたのは「故障」だ。故障とは「異議や反対意見」のことらしい。たしかに、「機械の故障」は機械による異議申し立てであり持ち主に対する反対意見ではある。

 上記の中では「創見」が気に入った。「独創的な新しい考え」のことである。さっそくどこかで使ってみようと思うが、話で使うと「総研、送検、壮健、双肩」などと同音異義語が多いから伝わらないかもしれない。「爽健美茶」の略語と思われる可能性すらある。

未来をどこに見るか

2011年6月15日 14:15

 自分の過ちを正直に認めない子どもに父親が言った。「ワシントンは、お前と同じ歳のときに、桜の木を切ったことを認めて謝ったんだぞ」。これに対して息子が言った。「ケネディはパパと同じ歳のときに、大統領だったんだよ」。

 父親が息子を諭したのは、息子に未来の姿を垣間見たからである。ウソをついているようでは、まともな大人になれない。そこで、ワシントンという例を持ち出して、正直が立派な大人になるための条件であることを示そうとしたのである。ところが、子どもの切り返しはそれ以上だった。

 亡くなった井上ひさしが『ボローニャ紀行』の中で書いている。

 「日本の未来を考えようとよくいうけれど、日本も未来も抽象名詞にすぎない。こんな抽象的なお題目をいくら唱えても、なにも生まれてこない。だから日本の未来を具体化することが大切だ。では、どう具体化するか。それは、毎日、出会う日本の子どもたちをよく見ることだ。彼ら一人一人が日本の未来なのだ。彼らは日本の未来そのものなのだ。その彼らのために、わたしたち大人は、なにかましなことをしてあげているだろうか・・・・・・」

 この一節を読んで、「ドングリの実にはバーチャルな樫の木がある」を思い出す。「卵は圧縮された鶏のバーチャルリアリティである」という喩えもある。ドングリは未来の樫の木であり、卵は未来の鶏というわけだ。つまり、未来はある日突然降って湧くようなものではなく、現在にすでに宿っている。ピーター・ドラッカー流に言えば、「未来はわからないからこそ、すでに起こった未来を見ればいい」。現在のうちに何がしかの未来の予兆が感知できる。

☆ ☆ ☆

 「すでに起こった未来」とは「将来に続くだろう現在・過去」のことである。今夜暴飲暴食すれば、明朝という未来に体調不良が訪れる。わかりきったことである。おおむね今日の頑張りは明日の成果につながるし、今日の怠惰は明日のツケとなって表面化する。リアリティとしての今日はバーチャルな明日と言い換えてもよい。「本を読んだかい?」に対して、「いや、まだ。でも、目の前に積まれた本はバーチャルな知だよ」と言うのは詭弁である。読んでいない本は、熟成させても読んだことにはならない。

 企画研修で「構想の中にバーチャルな未来がある。いや、構想しなければ未来などない」とぼくは力説する。ぼんやりしていては明日などいっこうに見えてこない。もっと言えば、この瞬間に集中して対象に注力しているからこそ、未来への予感が湧き起こり未来への展望が開けるのである。

 実は、現在や過去に自分の未来そのものや未来を創成するヒントを見つける方法がある。一つは歴史に温故知新することだ。箴言や格言の中には未来に向けての羅針盤になってくれそうなおびただしいヒントが溢れている。もう一つは年長の人間に自分の未来を見るのである。年長者と自分との間を対照的に見れば、年齢差の分の未来が忽然と現れる。ぼくは最近自分より若い人たちにそのように接するようにしている。ぼくの姿に彼らの十年後、十五年後を見据えてもらえればありがたい。そこに情けない未来が見えるのなら、「反面未来」にすればいいのである。

問いは人を表わす

2011年6月13日 10:45

 1月の会読会でメンバーの一人が問題解決のためのヒューマンスキルの本を取り上げた。彼の書評の中に「重要なのは答えることではない、問うことである」という引用があった。まったくその通りである。問いと答えはワンセットだが、答えは問いに従属するのである。そこで、「問わなければ答えは生まれない」という一行も付け加えておきたい。

 問いの中身と形式を見れば、問う人がわかるし、答える人との関係もわかる。ある日突然、仲の良い同僚があなたに「オレは誰?」と聞いてきたら、穏やかではないことがわかるだろう。だいたい二、三問ほど聞いていれば人がわかる。ちなみに、「お元気ですか?」は疑問文だが、めったなことでは実際の健康状態を尋ねてはいない。これは挨拶の変形である。若者の「元気?」は「こんにちは!」に近い。英語を学習し始めた当初、"How are you?"に対して、いちいち"Fine, thank you. And you?"とアルゴリズムに忠実だったが、ぼくの問いに答えないネイティブも少なからずいて、これが挨拶の一つであることを知った。

 「旅行はどうでしたか?」と聞かれるとぼくは困る。問いが大きく漠然としているからだ。だが、こんな問いには適当に答えておけばいいのである。この問いは社交辞令的な問いであって、興味に揺り動かされた素朴な問いではない。「ありがとう、よくぞ聞いてくれた。ものすごいよかったよ!」と言っておけばよろしい。おそらく相手もこう言うだろう、「へぇ~、それはよかったですね」。

☆ ☆ ☆

 インド料理店で「ナンまたはライスは食べ放題」と書いてあって、ナンを注文した。「または」だから、ナンと決めたらずっとナンだと思っていたが、食べ放題ならどっちでもいいのではないかと思い、ライスを頼んでみたらちゃんと出してくれた。メニューには「ナンとライス」と書くのが正しい。「または」や"OR"は相手に選択を迫る問いだから、「何でもあり」の食べ放題に「または」はめったに使われない。食べ放題でよくあるのは、「または」ではなく「但し」だろう。「当店はテーブルオーダー方式の食べ放題です。但し、食べ残しがございますと・・・・・・」という場合。いつでも「但し」ほど恐いものはない。

 「パンにされますか、それともライスですか?」は希望を尋ねている。希望を聞くのはオプションをいくつか用意できているからであり、また相手に強く関与しているからである。とはいえ、オプションが多すぎると、「ランチのパスタは何にされますか?」と聞かれ、「何がありますか?」と尋ねると、50もの種類の写真メニューを見せられて困惑する。多すぎるオプションは、逆に無関心の表われになってしまう。「焼き加減は、どうされますか?」という問いは、通常、レア、ミディアム、ウェルダンの三段階の希望を聞いている。選択肢が二、三に絞られていて、なおかつ聞いてくれるときに、問う側の自分への関心と誠意を感じるのである。

 一見すると、「AかBか?」は二者択一を迫って険悪な空気を漂わせる。しかし、選択肢であるAとBが同格同等、かつ満足に関わるとき、この問いは相手に対するおもてなしになる。どうでもいい相手や関心の薄い相手に、人はこのような聞き方をめったにしない。もちろん聞くこともある。そのときは、どちらを選んでもマイナスになりそうとか、ジレンマに陥って答えられないなどの問いである。「転勤するのか、やめるか、いったいどっちなんだ?」などはこの一例だが、明らかに問う者はいじめかパワハラのつもりである。

プロに期待すること、しないこと

2011年6月10日 21:40

 知人の戯言(たわごと)も織り混ぜて気まぐれにプロフェッショナル論を書いてみる。

 「ただ今の時間は薬剤師が不在ですので、この薬品は・・・・・・」云々と札がかかっているドラッグストア。この時間帯、この店の店員さんに薬に関して専門的な説明を求めようとはしない。不躾でさえなければ、アマチュアで十分である。

 以前住んでいた町内に「酒屋」という名にふさわしい、ちょっと昔ながらの酒店があった。目当ての焼酎があったので尋ねたら、「知らないし、置いていない」と言う。では、やや辛口でさっぱりの麦焼酎を一本奨めてくれと言うと、「私、酒を飲まないんですよ」と照れ笑いする。タクシーに客を乗せてから、「すみません、私、運転できないんです」と言うよりはましだが、聞いてみれば、日本酒や焼酎のことをほとんど知らないのだ。「じゃあ、(新しい銘柄の何々)ビールを二缶ください」と言うと、「あ、冷えてないんで、表の自動販売機で買ってもらえますか」。忍耐と寛容は三、四番目にランクしているぼくの座右の銘なので、これしきのことでキレることはない。

 ここ何年も行っていないが、ステーキと伊勢エビ専門の鉄板焼店でのシェフの手さばきは見事だと思う。少々デフォルメが過ぎるが、あれだけの料金を取るのだから、あれぐらいのエンターテイメントをしてもらってもいい。ところが、家庭用プリンターのインクカートリッジの販売に手さばきは余計だろう。若い男性店員が「お求めはこちらですね」と言って、棚から小箱を、まるでマジシャンのように指先で回転させるように引き寄せたのである。申し訳ないが、この技をぼくはプロに期待していない。

☆ ☆ ☆

 プロフェッショナルと呼ばれているなら、楽な商売をしていてはいけない。そもそも、プロは小さな技術や経験の「足し算」で成り立ってなどいないのだ。英語、数学、国語などの教科の成績の合計がその学生の全人格を象徴しないように。辛口で言えば、「日々コツコツ努力していること」を自慢すべきではないのである。精度の高いルーチンワークを積み重ねた足し算だけでは不十分で、「掛け算効果」でぼくたちを圧倒するのが正真正銘のプロだろう。但し、掛け算だから、一つでもゼロがあるとすべてがゼロになる。それでこそ、厳しいプロの世界ではないか。

 手間暇かけて素材を厳選し、レシピには独自の工夫を凝らし、見事な皿に繊細に料理を盛りつけるフランス料理店。そのフレンチの厨房の奥から電子レンジの"チン"の音がして、それが仕上げの温めだったりするとがっかりしてしまう。これではコンビニ気分にさせられる。いや、黙って"チン"するシェフよりも、一言「温めますか?」の声を掛けるコンビニの店員さんが良心的に見えてくる。

 もし主婦が自分一人のお昼を冷凍うどんで済ませようと思うのなら、レンジで"チン"して生醤油をかけて食べればいい。何なら生卵を一つ落としてもいいだろう。しかし、テレビのコマーシャルではないが、ネギを切り、ゆずを用意し、自分で天ぷらまで揚げたのなら、冷凍うどんはダメだろう。少なくとも半生のうどんをじっくりと七、八分間見張るように茹でてほしい。

 プロに期待することを暗に書いてきたつもりだが、プロにとってもアマチュアにとっても「とことんやること」と「上手な手の抜きどころ」は同じなのかもしれない。

公開される社員の"偏差値"

2011年6月 8日 23:00

 情報公開の時代である。ぼくが関わる領域では、行政職員の研修講師として市民に公開されることがある。簡単なプロフィールと研修タイムテーブル、研修のねらいなどがPDFになっている。やがてこのような公開情報が加速すると、ランキングや通信簿が掲載されても不思議ではない。そんなに下手くそではないと自負しているので怯えはないが、時給報酬が丸裸にされてはたまらない。

 二年前にロサンゼルス近郊のコストコに行き、レジで勘定を済ませた。目の前の壁に大きな貼り紙がしてある。「会員サービス優秀従業員一覧」がそれだ。レジで処理する個数、スピード、ミスの少なさなどに基づいてランキングを毎日更新して発表しているのである。

Costco.jpg ランキング上位ならいいが、実名で下位に名を連ねるとさぞかしつらいだろう。レジで名札を見れば、その社員がどんな成績か一目瞭然である。アメとムチという表現があるが、上位者にとってもこの成績発表はアメとは思えない。明日はわが身、誰にとってもムチなのではないか。

 日本で大手のウェアハウスやメガマーケットに出掛けることはないので、類例があるのかどうか知らない。仮にあるとしても全名簿の全成績はちょっと考えにくい。あったとしても、おそらく上位数名の表彰にかぎられるのではないか。

☆ ☆ ☆

 そんなふうに思っていたが、3月上旬にデジタルカメラの新機種を求めて家電量販店に行ったところ、貼り出されている通信簿を見つけたのである。携帯電話会社の一角、「お客様サービス満足度ランキング」と題して1位から17位までの全員が発表されている。お目当てはデジカメだったが、この機会を逃してはならぬとばかりに、スマートフォンに興味を示す振りをして近づいた。説明を担当してくれた三十代半ばの男性はスマートに説明してくれた。少しマイペースに過ぎる話しぶりだったが、まずまずの満足度。後でランクを見たら4位だった。

 こうなると最下位チェックをしてみたくなる(名前はSだった)。ちょうどいいタイミングでスマートフォンにちなむイベントが始まった。三十人近い客が説明役のコンパニオンを囲む。客の群れの周辺には数名のスタッフがスタンバイしている。コンパニオンの説明をそっちのけで、少しずつ場所を移動して最下位のSを探しあてた。「ちょっといいですか」と声を掛け、「別会社の携帯を法人契約しているのだけれど、たとえばナンバーポータビリティで法人契約のままスマートフォンに切り替えられますか?」と尋ねた。でっち上げの質問ではなく、現実に関心のあった質問である。

 とても人あたりのいい表情のSは「ちょっとお待ちください」と言って走り出し、先輩風のスタッフと一言二言交わしてから戻ってきた。4位に比べればたどたどしい話しぶりだが、悪くはない。次いで別の質問をしたら、明快ではないものの答えが戻ってきた。「なるほどね」と言ってぼくが黙っていると、Sも笑みを浮かべて黙っている。次なる質問を待っているのである。その後もぼくがリードする形でやりとりをした。この彼が最下位とは、さぞかし他のスタッフの水準は高いのだろうと推測した(もしかすると、これはSという標準クラスをわざと最下位に置いた戦略かもしれないが・・・・・・)。

 帰路、冷静に振り返ってみた。はたしてSは合格か不合格か? 二者択一ならやっぱり不合格なのである。最下位になるかどうかは客全体の総評で決まるだろうが、ぼくの評定は失格だった。自ら問い掛けのできない顧客に対してSはおそらく非力に違いない。顔の表情や話の上手下手などどうでもいい。接客担当者は何よりもまず、自らコミュニケーションをリードしなければならないだろう。問いのないところに分け入るタイミングと話題づくりにおいてSは何もしなかった。あれから3ヵ月が過ぎた。さて、順位が下がりようのないSのランキングはどうなっただろうか。もしかすると、名前が消えているかもしれない・・・・・・。

一年前の今頃

2011年6月 6日 17:10

 かつて、温故知新の「故(ふる)き昔」が一年前などということはなかっただろう。昔と言えば、「むかしむかし、あるところに・・・・・・」という物語の出だしが思い浮かぶが、この昔は「ずっと昔」のことであった。どのくらい昔であるか・・・・・・時代を特定するのは野暮だが、理屈抜きで何百年も前のことを語っているはずである。登場する人物は、昭和や大正や明治のおじいさんやおばあさんでないことは間違いない。

 かつての昔は間延びしていた。時間はゆっくりと過ぎた。何世代にもわたって人々はまったく同じ家で育ち、同じ慣習のもとで暮らし、同じ風景を見て育った。なにしろ新聞も電話もインターネットもなかった時代だから、大半の情報はうわさ話だったろうし、仮にニュース性の高い異変が生じたとしても、知らなければ知らないで済んだのである。ところが、現代においてぼくたちが言う「昔」はそんな時間的な遠過去を意味しない。なにしろ一年前がすでにだいぶ前の過去になっている。もしかすると現代の半年や一年は中世の頃の百年に匹敵しているのかもしれないのである。

 こんな思いはいつもよぎるが、ドタバタ政治劇を見ていて愛想が尽き果てたので、久しぶりに一年前のノートを繰ってみたのである。昨年の6月4日、「異質性と多様性」と題して次のように書いている。

 「米国の二大政党は多民族・多文化国家の中で維持されてきた。異質性・多様性ゆえに、二項のみに集約されている。ところが、同質性の高いわが国では多様性が謳歌される。これまで評論家や政治家自身がさんざん〈自民党vs民主党〉の二大政党時代を予見し待望してきたが、いっこうにそんな気配はない。現代日本人は発想も思想も似たり寄ったりなのである。つまり、大同だからこそ小異を求めたがるのであり、気がつけば小党がさらに乱立する状況になっている。同一組織内にあっても派閥やグループをつくりたがる。ほんの微かな〈温度差〉だけを求めて群れをつくる。虚心坦懐とは無縁の、小心者ばかりなのである。」

☆ ☆ ☆

 ついでに2010年5月現在のエビデンスを書き写してある。衆参合わせて、民主党423名、自由民主党188名、公明党42名、日本共産党16名、社会民主党12名、国民新党9名、みんなの党6名、新党改革6名、たちあがれ日本5名、新党日本1名、沖縄社会大衆党1名、新党大地1名、幸福実現党1名。以上。笑ってしまった。民主党が解体していれば、もっと増えることになったかもしれない。いや、一寸先は闇だ。何が起こっても不思議ではない。もしかすると、大連立の一党独裁だってありえる。そうなると、同質的で均一的な、日本人にぴったりの政党が出来上がる。名づけて「金太郎飴政党」。

 昨年6月5日のノートにはこうある。「ぼくは変革については前向きであり好意的である。知人の誰かに変化を認めたら、『変わったね』と言ってあげるが、これは褒め言葉である。決して『変わり果てたね』を意味しない。しかし、政治家に期待するのは、〈変える〉という他動詞的行為ではなく、まずは〈変わる〉という自動詞的行為である。自分以外の対象を変えようと力まずに、軽やかに自分が変わってみるべきではないか。組織の再編の前に、己の再編をやってみるべきなのだ。」

 おまけ。6月7日のノート。「新任首相は、政治家を志すためにとにかく名簿を作らねばならなかったようで、方々を歩き回りコツコツと活動を積み重ねたという。ファーストレディ伸子夫人はこう言う。『菅には看板も地盤もなかった。私は自分が売らねばならない〈商品〉のことをよく知らねばならなかった。他の人よりもどこが"まし"か―そのことを伝えることができなければならない。』」 嗚呼、菅直人と伸子夫人に幸あれ!

 政治家は「他人よりまし」を競っているのか。これなら楽な世界だと思う。ビジネスの世界は「まし」程度なら消えてしまうのだから。ぼくだって看板が欲しい。地盤も欲しい。しかし、偽ってはいけない。売り物がナンバーワンである必要はない。しかし、「まし」で済ませてはいけない。胸を張れるレベルまで高めた売り物と巡り合って幸福になってくれる人々が必ずいる―これこそが信念である。信念とは、少々のことで揺るがさず貫くべきものである。

語句の断章(8)

2011年6月 4日 22:30

 【剽窃(ひょうせつ)】

 学生時代、アルファベット順に英単語を覚えようと何度か試みた。バカらしい方法ではあるが、大まじめに取り組んだ。ところが何度も頓挫するから、気持ちを入れ替えて再び最初の"a"から始める。その結果、"abandon"という動詞だけをみんなよく覚えたはずである。ところが、この動詞、ぼくはこれまで英語の原書や雑誌で二、三度しか出くわしていない。あまり頻出しない単語なのである。

  剽窃もこんな頻度である。しかし、どういうわけか覚えている。剽とは「掠(かす)め取ること」、窃とは「盗むこと」(ゆえに、窃盗とは盗みのダブルなので強い意味になる)。「へぇ~、こんなことばがあるんだ」と驚いたのは三十代半ばだったろうか。よく類義語辞典を引いていた頃だ。ほとんど盗作と同じ意味なのに、なぜわざわざ剽窃という表現を使う必要があるのかと、当たり前の疑問を抱いたのを覚えている。死語にならずに生き残っている類義語には、それぞれの存在理由がある。盗作でなく剽窃でなければならない理由もある。うまく説明はできないが、単純なコピー&ペーストが盗作で、他人の作品の一説や学説そのものをいかにも自分のオリジナルであるかのように発表するのが剽窃のようである。共通概念は「パクリ」である。

 情報は極限まで「自由貿易」あるいは「無償公開」されるようになった。もはや何でもありの様相を呈している。したがって、原典の流用であるか変形であるか、インターネットからの引用であるか、はたまた「他に類を見ないオリジナル」なのか、剽窃などではなく、たまたま偶然の一致であるのか・・・・・・などを判じることができなくなっている。

 いずれにしても、ぼくたちの誰もが、「その知識はオリジナル?」と聞かれたら返答に困ってしまう。素性を明らかにできるほど知識が確かではないから、情報源を遡ることははなはだ困難だ。信頼できる無農薬野菜ほど、ぼくたちの知のトレーサビリティは高くはないのである。学んだ引用先も示さず無断で薀蓄を傾けている知識の大部分は、「剽窃だろ?」と迫られれば、素直なぼくなどは「は、はい」と言ってしまいそうだ。

 剽窃と疑われたくなければ、固有経験的なオリジナリティを用いなければならない。あるいは、少なくとも誰からどのように知りえたのかの経緯またはソースを示すべきだろう。わざわざ知識の起源まで調べることはないし、そんなことをしてもキリがない。ただ、できるかぎり自分がその知識といつどのように出合ったのかという記憶をまさぐってみせるのが良識というものだ。

 最後にずばり書いておく。ぼくの知識はすべて「非合法的剽窃でありパクリ」である。人の話、書物、マスコミなどからやってきたものである。但し、ぼくの意見と論拠は大部分ぼくに由来するものだと自負している。そして、ぼくの意見と論拠は他者によって「知識」と呼ばれて誰かに剽窃され、稀に微かに役立ってもらえるのだと思う。人類の知の歴史は剽窃の伝承によって成り立ってきたのである。

棘のあるコミュニケーション

2011年6月 2日 08:00

 「批判される」の能動形は? ふつうは、「批判する」。当たり前だ。否定形は「批判されない」。では、「批判は受けるもの」の反対や逆は? 「批判は受けないもの」? いや、おもしろくない。もう少しひねってみよう。一方的に批判を受けるのではなく、言い返したり反論したり。批判から体を躱(かわ)す方法もありうる。しかし、とりあえず、「批判は受けるものである。決して受け流してはいけない」と言っておこう。

 身を躱したついでに、批判や反論の矢から逃れることはできる。知らん顔したり黙殺したりすればいい。しかし、逃げるのは孤立することである。さわやかな議論であれ真剣勝負の論争であれ、当事者である間は他者や命題と関わっている。逃げてしまえば、関係は切れる。ひとりぽっちになってしまう。本来コミュニケーションには棘(とげ)毒が内蔵されているとぼくは思っている。にもかかわらず・・・・・・というのが今日の話である。

☆ ☆ ☆

 「みんな」とは言わないが、大勢の人たちが錯覚している。「親子のコミュニケーション」や「職場のコミュニケーション」について語るとき、そこに和気藹々とした潤滑油のような関係を想定している。辛味よりは甘味成分が圧倒的に多い。フレンドリーで相互理解があって明るい環境・・・・・・。コミュニケーションがまるで3時のおやつのスイーツのような扱われ方なのである。コミュニケーションに「共有化」という原義があることを承知しているが、正しく言うと「意味の共有化」である。このためには、必ずしも批判を抜きにした親密性だけを前提にするわけにはいかない。差し障りのない無難な方法で「意味」を扱うことなどできないのだ。

 家庭や行政にあっては、たとえば子育て。職場にあっては、たとえば顧客満足。いずれも人それぞれの意味がある。子育ての意味は当の夫婦と行政の間でイコールではない。顧客満足の意味は社員ごとに微妙にズレているだろうし、売り手と買い手の意味が大いに違っていることは想像に難くない。意味の相違とは意見や価値観の相違にほかならない。互いの対立点や争点を理解することは意味の共有化に向けて欠かせないプロセスであり、単純な賛成・合意の他に批判・反論も経なければならないのである。棘も毒も、嫌味のある表現も、挑発的な態度もコミュニケーションの一部である。これらを骨抜きにしたままで信頼できる人間関係は築けるはずもないだろう。

☆ ☆ ☆

 Aは賛否両論も踏まえたコミュニケーションをごく当たり前だと考え、強弁で毒舌も吐けば大いに共感もする。誰かに批判され反論されても、どの点でそうされているのかをよく傾聴し、必要があれば意見を再構築して再反論も辞さない。要するに、Aは酸いも甘いもあるのがコミュニケーションだと熟知しているのである。

 ところが、Bはお友達関係的であることがコミュニケーションの本質だと考えている。意見の相違があっても軽く流して、極力相手に同調しようと努める。こんな等閑(なおざり)な習慣を繰り返しているうちに、安全地帯のコミュニケーションで満足する。ちょっとでも棘のあることばに過剰反応するようになり、次第に先のAのようなタイプを遠ざけるようになる。このBのようなタイプにAはふつうに接する。むしろ距離を縮めて議論を迫る。しかし、BにとってAはやりにくい存在だ。

 Aを敬遠するBは議論の輪に入れず孤立するだろうか。いや、この国の大きな組織では孤立してしまうのは、むしろAのほうだ。残念ながら、コミュニケーションを正常に機能させようとする側がいつも貧乏くじを引く。それでも、言うべきことは言わねばならない。相手に感謝されるか嫌がられるかを先読みして、言うべきことを犠牲にしてはいけないのである。

プロフィール

岡野勝志(おかのかつし)
1951年大阪生まれ

企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長
企画アイディエーター
岡野塾主宰

ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。
マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人材の課題に対して、「即答即決アイディエーティング」をおこなっている。

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