時には見て見ぬふり

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 バッグが落ちた。「堕ちぶれたバッグ」ではなく、文字通りの「落ちたバッグ」。しかも、他人のバッグ。

 特急列車に乗ると、膝の前あたり(つまり前席の背面)に網袋がある。上部の口がゴムになっているから、ペットボトルや雑誌をはさんでも落ちてこない。弁当をタテにしてはさむこともある。最近の弁当箱は細かく仕切りられているので、おかずの位置はあまり乱れない。

 たいていの特急は通路をはさんで左右が二席ずつ。進行方向に向かって、左から窓側A、通路側B、通路側C、窓側D。その日座ったのはD席だった。しばらくして、二十代前半らしき女性三人組が乗ってきた。二人が通路向こうのA席とB席、そして一人がぼくの隣のC席に座った。最初の数分間、彼女らは通路をはさんで楽しそうに話していたが、通路向こうのどちらかが「私、寝ようっと」と言ってからは静かになった。

 ぼくは読書に集中していた。隣の女性(仮にC嬢)はしばらく携帯でメールをしていた。別に携帯ディスプレイを覗き見したわけではない。否応無しにぼくの視界に入ってくる。なにしろ、本の左ページの端とC嬢の右手の距離はほんの30センチほどしかない。突然、C嬢は携帯を閉じて膝の上に置いていたバッグに入れた(そんな動作すらわかってしまう)。バッグはマチのない柔らかそうな皮製で、おそらく40×50センチくらいの大きさだ(もう一度書くが、ぼくは何一つ細かく観察などしていない。「隣人の動作」が勝手に視界に入ってきたのである)。

☆ ☆ ☆

 C嬢は前方の網袋に、絶対入り切りそうもないそのバッグを「はさんだ」。はさんだだけなので、全体の8割ほどがゴムの口の上方にはみ出ている。バッグをそんな状態にしたまま、C嬢はトイレに立った。列車は揺れる。案の定、ほんの十秒も経たないうちにバッグが床に落ちた。ぼくは通路向こうのA嬢とB嬢のほうに目をやったが、二人ともすでに安眠態勢に入っていて、気づくはずもない。

 自分の前を歩く人が財布を落としたら、その財布を拾って歩み寄り、「落ちていましたよ」と言える。しかし、この場合、バッグは落ちたが本人がそこにいない。隣の見知らぬ男がそのバッグを拾い上げて、座席に置くとしよう。戻ってきたC嬢は本を読み耽っているように見えるぼくを怪しむに違いない。最悪は、バッグを手にしているちょうどその時に目撃される場合だ。どんなに正当な理由をつけようとも、言い逃れはできない。

 拾って座席に置いてあげても、C嬢が戻ってきたら自分から状況説明するしかない。「あなたが席を離れた後にバッグが床に落ちました。拾って座席に置いておきました」とわざわざ言うのか。ただ隣に座っているだけの、見も知らずの男のそのような言をぼくなら信用しない。要するに、本人不在のこのような状況で落ちたバッグに絶対に触れてはいけないのである。ゆえに、ぼくは見て見ぬふりをして本を読み続けていた。戻ってきたC嬢は落ちているバッグを見て、その後にぼくの横顔を睨んだに違いない。当然バッグの中を丹念にチェックしていた。やむをえない。ぼくだってそうしただろう。

 あることを知りながら気づかなかったふりをするのは耐えがたい。だが、これしかすべはなかった。「見て見ぬふり」はけしからんと思っていたが、やむをえない自己防衛なのかもしれない。ぼくの中ではややすっきりしないものが残っているが、「知らなかったくせに気づいていたふりをする」よりはましかもしれない。

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プロフィール

岡野勝志(おかのかつし)
1951年大阪生まれ

企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長
企画アイディエーター
岡野塾主宰

ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。
マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人材の課題に対して、「即答即決アイディエーティング」をおこなっている。

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