ことばカフェの最近のブログ記事

語学学習に学ぶ習得のヒント

2012年1月31日 16:55

 二十年前に『英語は独習』という本を書いた。初版のみで増刷はない。出版社としては妙味のない企画に終わったが、ぼくとしては語学学習の正論を著したつもりだった。ものを学びアタマと身体に叩き込んで「自動化」するには、《これ》しかないと言い切ってもいいだろう(書名は「英語・・・」となっているが、実は学習論一般としても成り立つと今でも思っている)。

 《これ》とは「只管音読(しかんおんどく)」だ。ただひたすら声を出して読むのである。音読ができるためには、英語なら英語の(1)発音・イントネーション・リズムの基本が身についていて、(2)読んでいる文章の意味がある程度わかっていることが前提となる。

 何の取っ掛かりもない外国語を朝から晩まで聴いても、一生話せるようにはならない。イメージと結びつかない言語は意味を成さないのである。目の前にモノがありイメージがあり、ジェスチャーがあってシーンがあるからこそ、想像をたくましくしてことばがわかるようになる。母語ですでに概念を形成している成人なら、ふつうに英語の発音ができて文章の意味がわかれば、集中的に大量音読をおこなうと早ければ数ヵ月である程度のことは話せるようになる。

☆ ☆ ☆

 アルファベットを用いる言語のうち、日本人が文字面で発音しにくい筆頭は、実は英語である。英語はほとんどの人が最初に接する外国語、しかも何年もやっているから文字を読めるようになっているが、スペルと発音の関係はきわめて不規則なのだ。フランス語もそのように見えるが、これは英語を先に学んだからそう錯覚するだけで、先にフランス語をやっていると英語の不規則性はなおさら際立つ。

 その英語を数年間ふつうに勉強してきた人なら、中学程度のテキストを何十回と声を出して読みこなせば、単語単位ではなく動詞を中心とした構文単位で意味がつかめるようになる。だから文章が話せるようになるのである。とはいえ、どんなに力説しても、「あなたはもともと英語ができたから、早々と話せるようになっただけで、例外ではないか!?」となかなか信じてもらえない。

イタリア語入門テキスト.jpg ぼくは英語以外では、イタリア語をまずまず話し、スペイン語を聴いて少しわかり、フランス語も少々読める。それぞれ異なったスキルだが、まさに学習方法と費やした時間を反映した結果にほかならない。イタリア語はほんの少しの基礎知識をベースに、誰にも教わらず、ただひたすら音読した。特に一冊目の入門書はおよそ半年間続けた。英国で発行されたイタリア語教本である。この後、むずかしいCDや教本も勉強したが、ほとんど音読はしていない。つまり、最初に只管音読さえしっかりしておけば語学の土台はできるのである。

【写真=イタリア語の教本。只管音読すると、一年も経たないうちにページも剥がれてこのくらい痛ましい姿になる】

 

 

その一言の要否

2011年12月28日 15:25

 あの一言は余計だったと思うことがある。他方、もう一言添えるべきだったと後悔することもある。料理の匙加減に似て、あと一言の有無の判断はやさしくない。悩んで悩んで結論が出なかったらどうするか。この場合は、「お節介精神」を発揮して一言を加えるようにしている。不足よりは過剰のほうが責任を取れそうな気がするし、経験的にもおおむねそうだった。

 この前の日曜日、小ぢんまりとしたショッピングモールでエレベーターを利用した。貼紙がしてあった。「改修(調査)のため、屋上は17:00に閉まります」というお知らせの文面である。8Fから1Fへ降りるまでの間、ことば遣いをずっと睨んでいた。この文章を書いた人、どうして「改修」の後に括弧して「調査」としたのか、えらく気になってきたのである。

 「改修のため」では何かしっくりこなかったのだろう。かと言って、「調査のため」でもズレているような気がしたのだろう。書いた本人には「何のために屋上を17:00に閉めるのか」がきっちりとわかっている。そして、おそらく「改修のため」と書いて、説明不足が気になったに違いない。「改修は改修なんだけれど、主として調査を主眼としているんだよなあ」と思い直して、「(調査)」という言い換えを補足した―と推理する。

☆ ☆ ☆

 しかし、このお知らせを読む人たちにとっては、改修イコール調査ではない。いや、それどころか、改修なら工事含みだし、調査なら点検はあっても工事はないだろうから、「改修(調査)」には対立感も漂って、どうもしっくりこない。

 こんな文面になった経緯を読み解いているうちに、この文章が「屋上が閉まる理由」を「屋上が閉まる時間」以上に過剰に意識していることに気づいた。理由などどうでもよかった。「屋上は17:00に閉まります」―これでいいのである。ぶっきらぼうと感じるのなら、「◯月◯日まで」と添えればよろしい。これでお知らせの役目は果たしている。

 以前、オフィス近くの居酒屋のドアに「店主腰痛のため、しばらく休業します」という貼紙があった。「店主腰痛」は余計な一言である。一部の常連にとってメッセージ性が高いのかもしれないが、一般的には、休業の理由などよりも「いつまで休むのか」のほうが意味があるはずだ。迷ったらお節介の一言というぼくのセオリーが崩れるのは、その一言が自己弁護や言い訳に用いられる場合のようである。

 ところで、その居酒屋、ずっと休業が続き、やがて別の店に変わった。気の毒なことに、店主の腰痛は治らなかった様子である。

語句の断章(18)

2011年10月26日 20:15

 【散髪(さんぱつ)】

 こんな話、ちょいちょいと検索すればすぐにわかることなのだろうが、別に「真実」を知りたいわけではない。ただ勝手な推理推論を楽しもうと思うだけである。何かにつけて自分勝手に振る舞えない当世だ、想像するくらい意のままにしても罰はあたらないだろう。

 このことば、東日本ではあまり使わないと聞いたことがある。東の「床屋」、西の「散髪屋」という構図だが、そんなに鮮やかに東西に分かれているのだろうか。

 子どものときからずっと思っていた。今も不思議でならない。なぜ、「髪を整えようとしているのに、髪を散らかす」と言うのだろうか。どう考えたって不思議である。「散」という文字は、散乱や散逸や離散と言うように、まとまりがない様子を示す。決して好ましい意味とは思えない。実に「散々」である。散歩や散策は良くも悪くもないが、気まぐれ感は漂っている。

 にもかかわらず、手元の国語辞典は散髪を「髪の毛を刈り整えること」と定義し、「理髪」とも書いている。ちょっと待てよ。理髪や調髪なら「きれいにする」だから納得もする。整髪もおそらく「乱れた髪をきちんと整えること」だろう。ぼくには散髪は乱髪と同類のように響く。いずれも見映えのよい髪の様子の正反対に思えてしかたがない。

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 想像を超えて空想もしくは妄想してみることにする。散髪というのは、どうやら頭上の髪の毛の状態を示す用語ではなさそうだ。刈っている途中に髪が落ちていく様子、もしくは刈った後の床に散乱した毛髪のことを散髪と呼んだのに違いない。理髪は頭上でおこなわれ、そのマイナスされた分が床の上に散らばる。ヘアスタイルをきれいにするというよりも、きれいにした結果の、後片付けに力点が置かれたことばなのかもしれない。

 しかし、じっと見ていると、この「散」という用法がなかなか魅力的に思えてきた。気を整えるために邪気を捨てるという意味で「散気(さんき)」と使えなくもない。実際にあることばだが、「散語(さんご)」なら表現を練り上げるために無駄なことばをそぎ落とす意味で使ってみる。散食(さんしょく)や散読(さんどく)なども新鮮味がある。余分を捨てて、整食、整読するというニュアンスが漂う。いいかもしれない。

外国語のこと

2011年10月 5日 20:00

 議論・交渉・教育と、英語に関しては二十代からかなり高密度に接してきた。併行して二十年以上英文ライティングのキャリアを積んだので、書くこと話すことにはあまり不自由を感じることはない。但し、読むことになると、現地で生活しながら学んだわけではないので、慣用句てんこもりの文章やディープな文化的テキストは苦手である。もちろん、知識のないテーマについて書かれた文章には相当手こずる。但し、これは英語に限ったことではなく、日本語でも同様である。精通していないことは類推するしかない。

 二十年前に『英語は独習』という本を書いた手前、外国語独習論を撤回するわけにはいかない。単なる意地ではないことを証すために、十年前にイタリア語を独習してみた。イタリア語には若干の素養があったものの、五十の手習いである。凝り性の飽き性なので、短期集中あるのみ。一日最低1時間、多いときは5、6時間欠かさずにCDを聴き音読を繰り返した。文法は英語の何十倍も難解で嫌になってしまうが、ほとんど文字通りに発音できるので音読には適した言語だ。

 だいたい3ヵ月の独習でおおよその日常会話をこなせるようになった。現地に行くたびイタリア語で通すことができる。しかし、イタリア語から遠ざかっておよそ三年が過ぎた。先日、中上級レベルの物語のCDを取り出して聴いてみたが、だいぶなまっていた。語学のブランクはリズム感から錆び始める。取り戻すためには、原点に戻ってスピード感のあるCDを聴き音読に励むしかない。

☆ ☆ ☆

 学生時代にほんの少しドイツ語とフランス語を勉強した。旅の直前に半月ほど頻度の高いフレーズを読み込み、現地で必要に応じて使う。貧弱な語学力であっても、少しでも郷に入っては郷に従いたいと思うからである。けれども英語やイタリア語のようなわけにはいかないので、結局ほとんどの場面を英語で穴埋めすることになる。

 覚えたての外国語を教本のモデル会話のように使えば相手に通じる。通じてしまうと、つい質問の一つもしてみたくなる。すると、相手は流暢に答える。今度は、その答える内容が聴き取れないのである。聴き取るのは話すよりもつねにむずかしい。「これいくらですか?」などの表現はどこの言語でもやさしい。使えば通じるが、数字がよく聴き取れない。「最寄りのバス停留所はどこ?」とフランス語で通行人に聞いたら、場所を指差してくれると思いきや、聞き返されている。やっとのことで「あなたはどちら方面に行きたいのか?」と聞かれていることがわかった。

 というわけで、レストランに入ってもめったに尋ねない。「これとこれをくれ!」と言うだけ。「お薦めは何か?」などと聞くと、さっぱりわからない料理の名前を言われるからだ。あまり得意でないドイツ語やフランス語ではぼくの使う疑問文は「トイレはどこか?」だけである。たいていの場合、「突き当りの階段を降りて右」などと言いながらも、トイレの方向も指差してくれるのでわかる。

 11月にバルセロナとパリに行くことになったので、スペイン語をざっと独習し、フランス語をやり直している。イタリア語からの連想でスペイン語は何とかなりそうだが、フランス語のヒアリングは難関である。昔からずっとそうだった。あと一ヵ月少々でどこまで行けるか。

語句の断章(17)

2011年9月30日 12:30

 【似合う(にあう)】

 「どう、このドレス、似合ってる?」「ああ、とてもよく似合ってるよ」などというやりとりの場面は昔の映画やドラマでよく見かけた。現実の若い二人はユニクロの試着室のあたりでこんなやりとりをしているのだろうか。もしそうなら、ほとんどの場合、女子が聞き男子が褒めているに違いない。

 ところで、「似合ってる?」と聞かれて、「似合ってるよ」と答えるのが不思議でならない。無責任と言ってもいいほどだ。

 「このドレス、似合ってる」を文法にのっとって書き換えると、「このドレスは私に似合っている」になる。ぼくたちは高頻度のことばほどぞんざいに取り扱う。この「似合う」も例にもれない。似合うとは「釣り合いがとれている」という意味だが、話は洋服と本人だけで片付つかない。「赤は私に似合う」と自信満々になられて困るのは、時間・場所・状況というTPOを踏まえていないからである。似合うには「ふさわしい」という意味もある。葬式にふさわしくない赤は、実は本人にも似合っていないのだ。

 「和服がよくお似合いのあなた」を「あなた」を主語にして動詞表現を加えたら、「あなたは和服によく似合っている」となるか。ならない。モノが人に従属するのであって、人がモノに似合うのではない。「あなたはそのTシャツにぴったり合っています」と言えば嫌味に聞こえる。さらに、「お前はその安物のTシャツに似合っているんだよ!」と下品に書けば、この構文自体が侮蔑を含んでいることが明らかになるだろう。

 似合うからどうってことはない。よくよく考えれば、「そのネクタイ、似合っているよ」は必ずしも褒めているわけではないのだ。分相応という意味もある。「きみには、その程度かな」というニュアンスが無きにしもあらず。ちなみに、英語では"You look nice in red."のように言う。これは明快である。「赤を着ると映えるね」。似合うということは、そのモノによってよく見えなければならないのだ。

語句の断章(16)

2011年9月 9日 15:15

 【自由(じゆう)】

 仕事柄出張が多く、新幹線や特急に乗車するときは必ず事前に席を取る。ここ数年はインターネットで予約している。同業の友人にはいつも行き当たりばったりという「猛者」がいる。指定がいっぱいなら自由車輌に乗るらしい。現地に行ってこれから講演するというときに、1時間も2時間も立つ勇気と根性はぼくにはない。

 ところで、かねがね不思議に思っていたのが自由席と指定席ということばである。ふだんぼくたちは自由を求めている。「何が欲しい?」と聞けば「自由が欲しい」と言うこともある。逆に、指定されるのは窮屈だと思う。だが、自由席に乗ろうと思えば早くから並ばなくてはならず、ある意味でこれは自由ではない。自由席を確保するためには競争も覚悟せねばならない。これも自由ではない。競争に敗れてずっと立ち続けるのは、どう考えても不自由である。英語の"non reserved"は「無予約」だからよくわかる。わが日本語はなぜ「自由」と呼んでいるのだろうか。

 翻って、たくさんある席からたった一つ、そこに座ることを強制されるのが「指定」である。指定席を求めたのは確かにこのぼくではあるが、実際、その一席を指定したのはJRだ。条件の付けられた指定席にもかかわらず、こちらのほうが気分は自由になれる。

☆ ☆ ☆

 『翻訳語成立事情』(柳父章)に「自由」という語の厄介さが紹介されている。明治時代になって、英語で言えば"liberty"や"freedom"に「自由」を当てはめた。もちろん造語ではなく、それまでも知識階級では自由ということばが二種類の意味で使われていた。ふつうは「勝手気ままに振る舞うこと」を自由と呼んだ。決して好ましいニュアンスではない。他方、仏教では、「自らに由(よ)る」と読めるように、独立自存ないしは自律的、ひいては「とらわれない境地」をも意味した。こちらには好ましい語意が備わっている。

 翻訳語としての自由は権利と結びついて独自の意味を醸し出すようになった。但し、独自と言いながらも、たかだか百年ちょっとの歴史しか担っていないから、ぼくたちはまだ十分に使いこなしていないようなのだ。先の書物の著者は「(自由ということばの)意味があまりよく分っていないのである。そして、意味がよく分らないことばだからこそ、好んで口にされ、流行するのである」と述べている。

 広辞苑も手元の英語の辞書も、それぞれ「自由」と"free(-dom)"という単語にスペースを割き、多義性を象徴するような解説を延々と連ねている。辞書編纂者の苦労が読み取れる。「自由席」とはどうやら「特別料金の負担のない」という意味のようである。「わたし、自由になりたい」はどうやら「わがまま三昧」のようである。身近な語句でありながら、未だに用いる人の間に語感のズレのある自由。さて、あなたの求める自由とは何か、あなたはほんとうに自由になりたいのか? 「暇な(free)」折に一度考えてみる価値がありそうだ。

比喩や類比の使いどころ

2011年9月 6日 18:00

 メタフォーやアナロジーなど、カタカナの魅力にほだされて、ことばの表現は修辞にありと錯覚したことがあった。弁論術や説得術を学んだ人たちにもよく似た経験があるに違いない。比喩は楽しいし、見事にはまれば効果的である。比喩は直喩や換喩や隠喩などに分類されるが、とりわけ隠喩の芸が細かい。この隠喩がメタフォーと呼ばれるものだ。

 「うちには手足がいないんだよねえ」とこぼす経営者は隠喩を使っている。経営者が語るから手足は社員のことである(自分は頭だ)。社員は社員でも、おそらく機動力ないしは実働部隊を意味しているのだろう。なるほど、比喩はわかりやすさを目指すが、テーマとは別の参照の枠組みを使うので、意図に誤差が生じる場合も当然ありうる。隠喩と似ているのが、類比(アナロジー)である。類比は《A:B=C:D》という構造を持つ。「サル:木=弘法:筆」という具合だ。「サルも木から落ちる」と「弘法も筆の誤り」が類比されている。

 「可愛いお子さん」と言いにくいときに「元気なお子さん」とか、「美人」と言いがたいときに「気立てのよい娘さん」とか言うのも、ある種の比喩だろう。あまりにも使い古されたので、婉曲のつもりで「気立てがよい」と言ってしまうと、「不細工」が暗示されてしまう。気をつけなければいけない。比喩や類比を総称して弁論の世界や文学では修辞法(レトリック)と呼ぶ。古代ギリシアから受け継がれてきた伝統的な言論技法である。効果的だが適材適所の技もいる。つい最近、新総理がいきなり「比喩のデパート」と形容したくなるほど三連発したので、正直驚いた。

☆ ☆ ☆

 まずは「ノーサイドにしましょう、もう」から始まった。ラグビーをよく知らないぼくでも一応わかる。しかし、「もう終わりにして握手をしましょう」という表現に比べて、どれほどわかりやすくなったのか説得力が増したのか疑問が残る。「ノーサイド」という語感に何となくスマートさを覚えた知り合いもいるが、これがラグビーの試合終了のことであり、試合が終了した時点で敵味方は関係ないという知識を持ち合わせている老若男女がどれほどいるのか。仮に意味がわかるにしても、党内に敵味方を想定しての比喩を国民に聞かせるべきではない。

 この比喩に続いて登場したのが「泥臭いドジョウが金魚のまねをしてもしょうがないじゃん」である。相田みつをにそれらしい一文があると本人が言った。相田みつをの作意は知らないが、これも自身とドジョウの類比に惚れ込んだ結果の勇み足と言わざるをえない(〔注〕「勇み足」は相撲の比喩)。ドジョウは泥の中に棲んでいるが別に泥臭くはないし、金魚を食糧にする気はないがドジョウなら食ってもいい。

 ドジョウが金魚よりも下位もしくは劣等という意味で使っているようだが、それなら金魚が誰なのか、どんな存在なのかを明らかにしないと、比喩は完結しない。つまり、金魚を特定しないのならわざわざ金魚を引き合いに出す必要はなかったわけで、単に「私はドジョウのように泥にまみれるつもりで政治に責任を取っていく」という、直喩一本で十分だった。

 最後に繰り出した比喩が「党幹事ミッドフィルダー論」である。ノーサイドを使ったのだから、ずっとラグビーで押し通せばいいのに、今度はサッカーだ。攻守兼備のミッドフィルダーにたとえていてほんとうにいいのだろうか。「局所ばかりでなく全体を見渡せる政治手腕を発揮してもらいたい」とストレートに表現すればすむ。野球の監督が「土俵際でうっちゃりました」と相撲用語を使うのに違和感があるように、政治家がラグビーだの、ドジョウだの、サッカーだのとたとえるのは場違いだ。もしかすると、党内にラグビー好き、ドジョウ鍋好き、サッカー好きがいたため、党内融和のためにバランスよく比喩を使ったのかもしれない。

 新総理はレトリック過剰な弁論術を学んだのだろう。だが、政治は比喩の前に現実であることを強調しておこう。なお、本ブログは政治論ではない。あくまでもレトリックの適材適所の話である。念のため。

ことばの毒性

2011年9月 3日 23:30

 ぼくたちは自分が発することばの威力と無力に関して勘違いすることが多い。

 軽口を叩いたつもりが、軽妙な話として受け取ってもらえず、わざわいになることがある。舌禍の震源はたいてい悪口や中傷誹謗である。悪意はなかったものの歯に衣着せぬ物言いのために招く舌禍もあるし、無知ゆえについ口を滑らせてしまう場合もある。

 二十歳の頃から論争術に染まってきたし、外国人とも激論を交わしてきたから、ことばの毒性については重々承知している。かと言って、この毒性を怖がっていると言語による説得が成り立たなくなるのも事実だ。ことばにはハイリスク・ハイリターンの要素がある。毒性という威力に怯えて甘いことばばかりささやけば、今度はことばが無力化することになる。どうでもいい話を交わしたり関係を潤滑させようとするだけの、無機的なメディアに堕してしまうのだ。ノーリスクだがノーリターン。

 さりげないことばのつもりが相手を傷つけ、意気込んで伝えようとしたことばが相手に響かない。メッセージは誤解され、あるいは異様に増幅され、あるいは過小に評価される。舌禍を招く人々には毒舌・極論・断言傾向が強い。「地位が高くなるほど足元が滑りやすくなる」(タキトゥス)―つい忘れがちな名言だが、誰かが転んだ直後に要人たちは口を慎むようになる。骨抜きされた論争に妙味はない。

☆ ☆ ☆

 荀子に「人と与(とも)に言を善くするは布帛(ふはく)よりも暖かに、人を傷つけるの言は矛戟(ぼうげき)よりも深し」ということばがある。荀子と言えば性悪説で有名だが、ここではそんな先入観なしに素朴に読んでおきたい。ことばはきちんと用いれば衣服となって身体を温めてくれるが、ことばが引き金になる傷は矛(ほこ)よりも深くなるということだ。

 こんな比喩もある。「コトバは、美しくみごとに心の想いを彫刻するペンテリコン大理石であると同時に、『ピストル』でもある」(向坂寛『対話のレトリック』)。このピストルの比喩は、サルトルの「ことばは充填されたピストルだ」を踏まえている。さて、功罪はことばから派生するのか。いや、ことばを使う者によって大理石かピストルに分岐する。

 本音でズバズバとものを言うことと、驕り昂ぶって失言するのは同じではない。激論を交わすことと、相手の人格を否定するのは同じではない。節度とルールをわきまえるならば、ことばが矛やピストルになるのを防ぐことばできる。舌禍はよろしくない。しかし、過敏症もいただけない。揚げ足を取られないようにと慎重に表現を選び、やや寡黙気味に差し障りのないことばかりを語るようになるからだ。

 重要な意思決定の場面でことばをぼかし意見をぼかす人たちが増えてきた気がする。異種意見間で交流しようとすれば、小さな棘が刺さることくらい覚悟すべきだろう。

語句の断章(15)

2011年8月27日 12:00

 【一般(いっぱん)】

 つい聞き流し読みとばしてしまいそうな、何の変哲もないことば。それでもわざわざ取り上げるのは、ぼくなりにささやかな気づきがあったからだ。

 この語は「ごく当たり前」という、普通の意味で使うことが多い。たとえば「このコースなら、普通はデザートがつくはず」と言うように。もしデザートがつかなかったら、それは「特殊」ということになる。特殊は一般の対義語である。

 「一般的」や「一般化」という言い方もよくする。「弘法大師は空海という名で一般的に知られている」とか「急がば回れという教えを一般化するのは危ない」という具合だ。広く認知される、あるいはおおむね成り立つというほどの意味になる。

 まったく関心などないが、再々婚する大物タレントの相手が「一般女性」であると紹介された。また、つい四日前に引退を表明した大物芸人が「一般人になる」と言い放った。さて、ぼくたちが用いる一般と、芸能人が用いる一般、はたして同じ意味だろうか。ノーである。芸能レポーターは、一般女性を「非芸能界的女性」の意味で使っている。芸能人どうしの結婚の話題性に比べれば、一般女性との結婚は記事ネタとしては妙味がない。「お相手は一般女性」という表現に、彼らのがっかり感を窺い知ることができる。

 「一般人」も異様に響く。知名度抜群の大物芸人がある日突然一般人になれば、芸人ゆえに差し控えていた訴訟も辞さないというのは奇妙な論理だ。一般人になってもなお中傷誹謗に巻き込まれることを前提にしている。そもそも芸能界に君臨した人物が一般人へとUターンできるのか。「普通の女の子になる」と言ってもなかなか戻り切れないのが現実だ。てっぺんから転落したと本人が言い、明日から一般人であると言った。明らかに落ちぶれるというニュアンスである。天上界の人よ、ようこそ下界へ。

 言うまでもなく、特殊が優位で一般が劣位などという決め事はない。一般席、一般職、その他一般、一般教養、ソシュールの『一般言語学講義』、アインシュタインの『一般相対性理論』・・・・・・一般、大いに結構ではないか。一般には、等しくすべてのケースに当てはまるという普遍価値を見い出せる。

「座右の銘」考

2011年8月16日 07:00

 二ヵ月ほど前に、本ブログで座右の銘について一行だけさらりと書いた。「忍耐と寛容は、三、四番目にランクしているぼくの座右の銘・・・・・・」というのがそれだ。明らかに複数の座右の銘を想定している。ところが、この直後に「これはキーボードを打った勢いだ」と反省した。座右の銘が複数あると辻褄が合わなくなるのである。

 そこで、フェースブックのクエスチョン機能を使って、さほど多くない友達に聞いてみたのである。「座右の銘は一つでなければならないのか、それとも複数あってもよいのか?」という問いだ。回答は18人。このうち10人が「一つ」、さらに、うち4人が「一つだが、変わってもよい」と答えた。残りのうち6人が「複数でもオーケー」、あと二人が「ケースバイケース」であった。念のために記しておくと、『新明解』には「常に自分を高めようと心がける人が、折に触れて思い出し、自分のはげまし・戒めとする言葉」とある。この定義によれば、一つでも複数でもよさそうなので、ケースバイケースも含めて全回答が妥当ということになる。

 三方よしで終わらせてしまうとせっかくのクエスチョンが生かされない。というわけで、初出とされている『文選(もんぜん)』に再度あたってみた。古(いにしえ)のお偉方たちは、鐘や金や石碑などの器物に、新明解が定義するようなことばを「刻んだ」のが由来である。銘は簡潔な一文もあれば、一篇の詩句体裁の場合もあった。座右であるか「座左」であるかは、この際あまり重要ではない。

☆ ☆ ☆

 さて、銘は唯一不変か、唯一可変か、それとも種々あってよいものか。単純に考えれば、器物に刻むのは終生変わらないと覚悟したからに違いない。そうでなければ、メモ用紙か何かに書いておけばいい。もっといいのは鉛筆で書いておけばいつでも消せる。しかし、この時点ですでに銘の精神に反している。ある人に座右の銘を揮毫したものの、数年後に人生観が変わったという理由で別の銘を揮毫していては、「いったいどこが座右の銘なのか」と茶化されてもしかたがない。

 相手に応じてそのつど座右の銘を変幻自在に書き分けたり唱え分けたりするのも奇妙である。複数の座右の銘を掲げていれば、揮毫を求めてきた相手に応じていずれかを選択することになる。まるで日替わりであるから、良識ある他人は言うだろう、「いったいあなたの正真正銘の座右の銘はどれか?」と。いや、他人の意見などどうでもいい。座右の銘は己への言い聞かせだ。銘として刻もうと心に誓ったのならば、そう易々と取り替えたりキャンセルしたり品揃えしたりしていいはずがない。

 もし座右の銘を変えるとなれば、結果的にそれは座右の銘に値しなかったことになる。また、複数あれば銘どうしの間で諸矛盾やニュアンスの相違も起こるだろうから、それらは流動的な好きなことばの域を出ていない。どうやら人生道半ばの若輩にとっては、座右の銘などは不変的に定まりそうもない。「もうオレの人生の教訓は、ただ一つ、これしかない。何が何でも生涯これで生きるぞ」と覚悟を決めた者こそが、座右の銘を刻み謳うことができるのではないか。まだ変わるかもしれぬ、一つに絞り切れぬという状況では、座右の銘は時期尚早なのだ。

 未熟なぼくなどは目先の金言格言にのべつまくなしに目を奪われるので、めったなことでは座右の銘などと口走ってはいけないことがわかった。これまで座右の銘だと思っていた教えの数々を、今日から「座周辺のお気に入り」と呼ぶことにする。座右の銘、未だ定まらずである。

プロフィール

岡野勝志(おかのかつし)
1951年大阪生まれ

企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長
企画アイディエーター
岡野塾主宰

ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。
マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人材の課題に対して、「即答即決アイディエーティング」をおこなっている。

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