五感な街・アート・スローライフの最近のブログ記事
カフェの話(3) 苦味の魅力
2010年3月 7日 14:30
左の写真は、その名も"Espresso"という題名の本の表紙だ。香りの小史やカップ一杯の朝という項目が目次に並ぶ。コーヒー文化とエスプレッソのバリエーションに関する薀蓄が散りばめられており、高品質の写真もふんだんに使われている。この中に詩人でノンフィクションライターのダイアン・アッカーマンのことばが紹介されている(『感覚の自然史』からの引用)。曰く、「つまるところ、コーヒーは苦く、禁じられた危険な王国の味がする」。う~ん、どんな味なんだろう。何となくわかるような気がして、喉元までそれらしい表現が出てきそうで出てこない。ことばでは描き切れない味だ。
紀元前から醸造されてきた長い歴史を誇るワインに比べれば、コーヒー栽培の起源はかなり新しい。自生種を栽培種として育て始めたのが13世紀頃だし、ヨーロッパの一部で流行の兆しを見せたのが17世紀だ。アッカーマンが比喩している「危険な王国」とはどこの国なのだろうか。エチオピア? それともアラビア半島のどこか? 野暮な類推だ。仮想の国に決まっているではないか。
いずれにせよ、ぼくたちは「禁じられた味」をすでに知ってしまった。だから、大っぴらに飲んではいけないと言い伝えられたかもしれない頃の禁断のイメージを、今さら浮かべることは容易ではない。ただ、高校を卒業した頃に喫茶店で飲んだ最初の一杯からは、たしかにレッドゾーンに属する飲料のような印象を受けた。コーヒーの味は誰にとっても苦い。子どもだから苦くて、大人だから苦くないわけではない。「おいしい? おいしくない?」と子どもに聞けば、おいしいと言うはずがない。子どもに気に入ってもらうためには、コーヒーの量をうんと減らしミルクと砂糖をたっぷり加えてコーヒー牛乳に仕立てなければならない。
苦味が格別強いエスプレッソには、ブラック党でもふつうは砂糖を入れる。イタリアのバールでは、小さなカップにスプーン一杯の砂糖を入れて掻き混ぜ立ち飲みしている。話しこまないかぎり、さっと注文してさっと飲んで出て行く。なにしろ立ち飲みなら一杯100円からせいぜい150円の料金だ。ところで、砂糖を入れるのは苦味を抑えるためなのか。苦味を少々抑えたければミルクの泡たっぷりのカプチーノのほうが効果がある(カプチーノを頼んでも30円ほどアップするだけ)。実は、砂糖を入れても苦味はさほど緩和しない。むしろ砂糖の甘みが、ストレートの苦味とは異なる別の苦味を引き出すような気がする。説明しがたいが、何となくそんな気がする。
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(左)エスプレッソのダブル(シエナのカンポ広場)。イタリアのバールでは"カッフェ・ドッピオ"と注文する。(右)パリのカフェの店内。パリのカフェでは通常一杯のエスプレッソがイタリアのダブルよりも分量が多い。
(左)シニョリーア広場のカフェ(フィレンツェ)。観光客が朝から夜まで絶えない有名な広場だが、光景を眺めているだけで飽きることはない。このようにテラスのテーブル席に座ると、コーヒーの値段は3倍になる。
カフェの話(2) BGMとコーヒー
2010年3月 3日 11:20
コーヒーと音楽は切っても切れない関係にある。カフェとくれば洋楽だが、常連ばかりが集まる場末の喫茶店では稀に演歌がかかっていたりする。コーヒーの香りが「炙ったイカ」に変じるわけではないが、味わいが微妙になるのは否めない。そう言えば、ボサノバのCDをかけているイタリア料理店でも違和感が漂う。かつてよく通ったその店で「カンツォーネを流さないの?」と尋ねれば、「正確に言うと、うちは地中海料理なので」とオーナーシェフ。地中海だからボサノバというのがよくわからない。店名がイタリア語だからシャンソンも合わないだろう。素直に「ぼくはボサノバが好きなんです」と答えておけばいいのに。
入りびたるほどではないが、月に一、二度行く喫茶店はプレスリー専門。オーナーが長年のファンで詳しい。どちらかと言えば、バラード調を中心に編集している。ところで、お気に入りの音楽には聞き耳を立てる。お気に入りでなくても、一人でコーヒーを啜っているときは音楽がよく耳に入る。読書に注意が向いているときは、BGMは途切れ途切れにしか聞こえない。しかし、本からふと目をそらしたりペンを休めたりする瞬間、メロディへと注意が向く。昔のジャズ喫茶ではコーヒーよりも音楽が主役だったのだろう。あるいはタバコをくゆらすためのコーヒーだったかもしれない。行ったことはないが、歌声喫茶ではみんな一緒に歌ったと聞く。コーヒーの味など二の次だったのではないか。
ヨーロッパのカフェやバールではあまりBGMを流さない。会話の邪魔になるから? かもしれない。生演奏のカフェで印象的だったのは、ヴェネツィアはサンマルコ広場のカッフェ・フローリアン(Caffè Florian)。創業者のファーストネームであるフロリアーノ(Floriano)に由来する、ヴェネツィア随一の老舗カフェだ。なにしろ創業が1720年。広場の一隅のオープンテラスでカフェラテかカプチーノかを飲みながら四重奏風仕立ての旋律に耳を傾けた。ふつうのバールならエスプレッソ10杯分に相当する値段。せっかくの旅なのだから、けち臭いことは言わないほうがいいか。
晴朗きわまる空と海、世界一美しいと評判のサンマルコ広場と寺院、聳え立つ鐘楼、ドゥカーレ宮殿、行き交う観光客・・・・・・ゆったりと目で追いながら音色を楽しみコーヒーを口に運ぶ。昼間の屋外のカフェは実にのんびりできる。春でも秋でも夜になると急激に冷え込んでくるが、黄昏時の広場にはラグーナからの海の匂いが入り込み、散策気分を演出してくれる。テーブルに座らず(つまりコーヒーを飲まず)広場に佇めば、カフェの生演奏の競演をただで楽しむことができる。題目の大半はイージーリスニング系だ。
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(左)広場の一角を占めるカッフェ・フローリアンのテラス。もちろん室内でもコーヒーを飲める。右手の回廊から建物内に入れば、古典色の強い調度品に囲まれて喫茶を楽しめる。(右)見ての通りのパイプづくりのテーブルに椅子。座り心地は決してよくないが、タキシードを着用した男前のカメリエールにはチップをはずむことになる。
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(左)ラグーナ側から見るサンマルコ広場付近。建物と建物の間のアプローチを抜けると広場が広がる。カッフェ・フローリアンは鐘楼のすぐそば。ご覧のような海際との位置関係だから、高潮(アックア・アルタ)になると膝下まで海水が溢れることがある。そんなとき軽量のパイプ椅子やパイプテーブルだと片付けが楽なのだ。(右)夜になっても生演奏が続く。これはカッフェ・フローリアンの向かいのカフェ。広場に面するカフェは同時に演奏しない約束になっているようである。
カフェの話(1) エスプレッソの香り
2010年2月28日 22:30
数年前に家庭用のエスプレッソマシンを買った。どういうわけか、冬の時期にはあまり使わない。少し暖かさを感じ始める頃から一日に一杯飲むようになる。それが秋の深まる季節まで続く。自宅で飲まない日でも外で飲む。必ずというわけではないが、オフィス近くのカフェで飲む。ランチの後はだいたいエスプレッソ。朝一番の場合はカプチーノかカフェラテにすることもある。ただエスプレッソ至上主義ではないので、ふつうのブレンドコーヒーも二、三杯飲む。
寒い時期は、知らず知らずのうちに大きなカップ一杯の熱いコーヒーで温まろうとしているのだろう。ご存知のようにエスプレッソはごく少量の濃いコーヒーで、器もそれに応じて小さい。出来上がってから30秒でも時間を置こうものなら、あっという間に温度が下がる。自分で作っても店で出されても、好みの分量の砂糖をさっと入れ素早くかき混ぜてぐいっと飲み干すのがいい。
エスプレッソの焙煎・熟成は微妙だ。同程度に微妙なのが挽き具合。蒸気を噴きつけるのでできるかぎり細かく挽くのがいい。家庭で飲む分には、市販で挽いてあるのが便利だが、封を開けてからの劣化が早い。だから自前でそのつど挽くのがいいのだが、市販のように細かく挽くのがむずかしい。
ぼくにとってのエスプレッソの季節がやってきた。昨日たまたま通りかかった、輸入品を多種扱う有名スーパーで豆を買い、レジで挽いてもらった。「これはいい豆だ」と直感した。まったくその通り、自宅で封を開けたら濃厚な香りがたつ。いつものようにいったんイリィの缶に入れ替えた。久々に秀逸のエスプレッソに巡り合った。なお、イリィとは、1930年代にエスプレッソマシンを開発したフランチェスコ・イリィゆかりの名称。バールで飲むエスプレッソと同じように挽いた粉が缶入りで売られている。何度か買ったが値が張るので、リーズナブルでおいしいものをいつも探している。
(左)イリィのバール(ヴェネツィア)。カウンターの中で手際よくエスプレッソを作る。注文してから待たせないのが職人バリスタの腕の見せ所だ。(右)店と歩道の境目がないカフェ(パリ)。季節が暖かくなってくるとカフェのテラス部分にはテーブルが置かれ、客たちは競って通路そばのテーブルに陣取る。
フンデルトヴァッサー・ハウスの遊び心
2010年1月17日 18:00
昨日アサヒビールの大山崎山荘美術館に行った。大正時代から昭和初期にかけて建てられた英国風の洋館。地中に展示室がある新館は安藤忠雄の設計で、そこに睡蓮を含むクロード・モネの5作品が展示されている。年季の入った本館は見所が多々あって興味深い。帰路に立ち寄った古書店で『見える家と見えない家』という本を見つけた。著者の一人が先般亡くなった動物行動学の日高敏隆だ。この人の本は3冊ほど読んでいる。買って帰った。
長年住み慣れた郊外のマンションを売却し、現在ぼくは交通至便な大阪都心の一室に仮住まいしている。腰を据える住居を探さねばならない身ではあるが、だいたいが暮らしに贅を求めない性分なので、寝食さえできれば十分という住宅観しか持ち合わせていない。ところが、古い建築や他人が住んでいる住居には目を配る。実際に生活してみたいとまでは思わないが、見ているだけで何がしかの主題を訴えてくる佇まいにすこぶる強い関心を抱く。その最たる存在は、ウィーン都心のフンデルトヴァッサー・ハウス(Hundertwasserhaus)だろう。
ハウスはフリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー(1928 - 2000)の手になる公共住宅だ。彼はもともと画家であり、やがて建築家となった。その建築思想や住宅ビジョンを哲学的と称する評論家もいる。フンデルトヴァッサーはハウスの設計を1977年に受託したものの、その設計そのものや建築理論を巡って意見や批判が噴出し、建築施工に着手するまでに6年も要してしまった。自然との共生をテーマにした住宅は、ついに1986年に完成した。いろいろあったが、ハウスの人気は入居倍率の高さによって市民が証明することとなった。
シティ・エア・ターミナルであるウィーン・ミッテ駅から東へ徒歩10分のエリアに立地している。すぐそばにドナウ運河、その外にドナウ川、新ドナウ川、旧ドナウ川が流れている(ドナウと呼ばれる川がこんなにあることをウィーンに行って初めて知った)。余談になるが、この場所から北西に直線で4キロメートルのシュピッテラウに、フンデルトヴァッサーが手掛けたゴミ焼却場(1991年)がある。これを先行範例として建設したのが、舞洲の大阪市環境局のゴミ処理工場(2001年)である。
フンデルトヴァッサー・ハウスは類い稀な公共住宅だ。難しい多色を使って遊びながら、植物と住宅を合体させている外観はどこから見ても斬新な現代作品である。にもかかわらず、どんなきっかけかは覚えていないが、恥ずかしいことにぼくはハウスが19世紀の終わりか20世紀初頭の建築だと思い込んでいた。そして、後日1980年代の建築と知って少なからず驚いた。完全な認識間違いであるが、錯誤ついでに居直るならば、フンデルトヴァッサー・ハウスは19世紀末に建つこともできたと今でも思っている。カラフルでリズミカルで遊び心をモチーフにした住宅の出現が遅すぎただけの話である。
ウィーンの寒い朝の思い出
2009年12月27日 22:00
大阪の寒さなどたかが知れている。明日は冷え込むと天気予報が報じるので備えて外出すれば、何のことはない、日向ではポカポカしていたりする。講演や研修で全国に赴くが、冬場はだいたいシーズンオフになる。とりわけ雪国への真冬の出張はほとんどない。山陰や北陸で豪雪に見舞われて列車遅れを経験した程度だろうか。ぼくは厳冬の雪降る北国をまったく知らないのである。
ぼくがもっとも凍てついたのは3月上旬のウィーンの朝だ。前日の午後5時頃に街に入った。時差のせいか感覚が鈍っていたのだろう、さほど寒さを感じることなく街をうろついていた。ところが、翌朝、ホテルの窓外の光景が白へと一変していた。ビュッフェで腹ごしらえした後に外に出てみたら、昨夜の気温とはまったく違う。ありったけの服を重ね着して万全の防寒態勢で地下鉄駅へ向かった。
目指したのは8駅か9駅西南西方向に位置する、ハプスブルク王朝の離宮「シェーンブルン宮殿」。同名の地下鉄駅を降りて雪道を歩く。宮殿の入口までほんの数分なのだが、この時に感じた凍えがぼくの生涯一番である。ウィーンは北緯43度の札幌より5度も北に位置する。つまり、北海道最北端よりもさらに北である。にもかかわらず、3月のウィーンの平均気温は3.5℃(最低)、10.2℃(最高)で、札幌の-4.0℃(最低)、4.0℃(最高)よりもはるかに暖かい。しかし、あの凍えようは尋常ではなかった。
☆ ☆ ☆
シェーンブルンとはドイツ語で「美しい泉」を意味する。マリア・テレジアの時代の1693年に完成している。この宮殿内では美しく花が咲き誇るので、ほとんどの写真や絵葉書は春先から夏にかけて撮影しているのだろう。実際、手元に残っている入場券には緑に囲まれた宮殿が写っている。それはそうだ、ここは「夏の離宮」なのだから。しかし、ぼくにとってシェーンブルン宮殿はすっかり冬のイメージと連動してしまっているかのようだ。
凍てついた分、宮殿内のカフェで飲んだミルクたっぷりのメランジェ(ウィーン版カプチーノ)は温かくて格別にうまかった。
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(左)早朝、ホテルの窓を開けてみた。透明な冷気に触れると同時に、一変した冬景色が目に飛び込んできた。
(右)地下鉄駅への道すがら。歩道に雪は積もっていないが、静けさと相まって突き刺すような寒さが襲ってくる。
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(左)宮殿の入口。
(左)噴水も花壇も真っ白になっている宮殿の裏手。小高い丘の上にグロリエッテがある。ここにはレストランとカフェがあるらしく、また屋上から俯瞰する宮殿方面の景観が絶景らしい。さすがにこの雪では歩けない。夏場に坂を上がった人は、猛暑でばてたと言う。寒すぎるのも暑すぎるのも困る。
ドビュッシーとパリ近郊の街
2009年9月23日 09:00
一昨日のことである。ふと旋律が浮かんだ。ドビュッシーの『夢』。題名を知らなくても、誰もが一度や二度は耳にしたことのあるメロディだ。ドビュッシーには、他によく知られた作品として『月の光』や『アラベスク』がある。テレビドラマの挿入歌としても使われていたらしい。たしかに、クラシック音楽としてはイージーリスニング系に属すのだろう。肩の凝らない小曲だからBGMにも向いている。
二年近く前のバージョンのiPodも持っているのだけれど、ほとんど使っていない。最近はあまり音楽を聴かないし、聴くときは気まぐれに取り出したCDをかけている。ジャンル分けもせずに適当に収納しているCDがおよそ600枚。本は買って一度も読んでいないのが5冊に一冊くらいあるが、CDは買った直後に聴く。どんなにハズレのCDでも一度は聴いているので、縁あってもう一度聴けばだいたい旋律を覚えている。読書に比べたら聴覚記憶はだいぶよさそうな気がする。
たしかあったはずのドビュッシーのCDがどこにも見当たらない。この場所以外にまぎれこむ可能性などない。もしかしてオムニバス編集のうちの数曲だったのだろうか。いや、そんなことはない・・・・・・。やがて思い出し、ひとつの確信を得た。中学高校時代に買い集めたレコードのうちの一枚だったのだ。中学二年生のときに、クラシック音楽好きの友人に誘われて《コンサートホール》なる頒布会に入会し、数年間で数十枚ほどLPを買い漁った。コレクションはすでにとうの昔に処分してしまった。
☆ ☆ ☆
昨年3月1日、土曜日。パリ11区はサンタンブロワーズ(St-Ambroise)のアパートを午前10時に出て地下鉄経由でリヨン駅(Gare de Lyon)へ向かった。そこで高速郊外鉄道(RER)に乗り換えて一路西北西へ。わずか半時間ほどのうちにパリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レー(St-Germain-en-Laye)に到着した。あのルイ14世ゆかりの垢抜けた近郊の街。セーヌ川が流れている。
ドビュッシーも1862年ここに生まれ、パリ音楽院に入学する10歳までここで育った。駅から教会に向かって歩いてすぐのところにドビュッシーの像がある。小ぢんまりとした街中の通りを歩いてみた。色合いも佇まいもセンスのいい街だ。小さな避暑地のような観光風情もある。通りを隔てたすぐそばに城があり、現在は国立考古学博物館に転用されている。店頭で売られていた小さなパンを口に運び、カフェに寄って濃厚な一杯を楽しむ。
ドビュッシーの旋律から一年半前のパリ近郊の街へタイムスリップしてしまった。
考古学博物館の外観(左)と中庭からの景観。
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RER線を走る列車。フランス国旗のトリコロールをモチーフにしたデザイン。
週刊イタリア紀行No.54 「ローマ(12) アリヴェデルチ、ローマ」
2009年9月 6日 09:45
通りの名もわからない、場所も定かではない。名所であれ無名の街角であれ、ぼくは歩きカメラを構え、時々バールに入って地図を確認する。写真ファイルを見ていると、まったく思い出せない光景が、まるで勝手に撮り収められたかのように現れてくる。これはローマに限った話ではない。自分の記憶と照合できない対象―珍しいもの、おもしろいもの、落ち着いて見えるもの、何となくいいもの―は無意識のうちに写真として取り込んでしまっている。
アルケオバスでアッピア街道を二周したあと、バールでエスプレッソ。アパートに戻ってしばらくリフレッシュしてから再度外出した。目指す先は、市内を眺望できるジャニコロの丘。数年前、ローマ在住の知人に車で連れてきてもらった。晴天に恵まれ、ローマ市街地とその彼方に広がる郊外を一望して感嘆した。その時の再現を目論んだ。アパートを出てサンピエトロ広場を横切り、さらに裏道の坂を上って遊歩道を進むこと小一時間、やっと丘の上に到着した。しばらくして大きな虹が出た。
ローマを唄う、バラード調で少しペーソスのきいたカンツォーネがある。"Arrivederci, Roma"(アリヴェデルチ、ローマ)という題名だ。「さようなら、ローマ」。語りの出だしがあって、そのあと"♪Arrivederci, Roma. Goodbye, au revoir"と唄い始める。イタリア語と英語とフランス語の「さようなら」を並べている。テーマは「さようなら」だが、想い出を記憶にとどめて「あなた(ローマ)のことを決して忘れない」と締めくくる。
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ヴァチカン地区クレシェンツィオ通りに面した建物。大きな門を入ると、この敷地の一角に一週間快適に滞在したアパートがある。どこに行くにも便利なロケーションだった。
出発の日の朝7時すぎ。アパートの責任者のフランチェスコが、とても上品なお父さんを伴って見送りにきてくれた。銀行家でシスティーナ礼拝堂の仕事にも関与しているそうだ。システィーナを紹介するポジ写真が入ったプレゼンテーションキットをプレゼントしてくれた。
旅から帰って再び旅をする。帰った直後に旅をして、半年後にまた旅をする。そして、ローマの旅から一年半経った今、また旅をしている。一回の旅で、繰り返し何度も記憶の旅を楽しめる。そして、そのつど「アリヴェデルチ、ローマ。グッバイ、オルヴォワー」と口ずさむ。トレヴィの泉で硬貨を投げてこなかったが、ぼくは再びローマに「戻れる」だろうか。 《ローマ完》
ローマの最終回、そして「週刊イタリア紀行」の最終回です。訪れながらもまだ取り上げていないイタリアの都市もあります。これからは週刊にはならないかもしれませんが、気の向くまま折を見て写真を選び文章にし続ける予定です。
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(左)ぼくの写真にはこの種の構図が多い。(中央)遠近法に忠実な、こんな無名の通りも気に入っている。(右)ジャニコロの遊歩道へ。これはガリバルディの騎馬像だろうか(やや無責任)。
ヴァチカンから南へ1.5km行くと、そこがジャニコロの丘。上りはきつく散歩感覚どころではない。(左)この日の夕景は幻想的に刻一刻変化した。(右)ジャニコロの丘はローマ市民の散歩道になっている。![]()
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遊歩道を上りつめると小高い丘のガリバルディ広場に出る。ここが絶好の展望位置。前に来たときのパノラマに惹かれて、再び一望する街。旅立ちの前日、黄昏前の雨上がりの空にローマからのプレゼント。
週刊イタリア紀行No.53 「ローマ(11) アルケオバス二周目」
2009年8月30日 17:00
アッピア街道を巡るアルケオバスは、停留所で手を上げて乗車し、降りたい場所をサインで知らせる、"Stop and Go"方式。サン・カッリストのカタコンベで下車して軽く見学。バスは20分毎に来る。再乗車してチェチーリア・メテッラの墓で下車する。復路はまったく同じではないが、牧歌的な風景の中、狭い道路も勢いよくアルケオバスは走り抜ける。このまま終点のテルミニ駅まで行くか、それともカラカラ浴場あたりでもう一度下車するか・・・・・・。
迷うまでもない。ポケットに入っているのは一日乗車券である。当時はユーロ高につき、バス代€13は2100円くらい。結構な料金である。アッピア街道を一周して、ハイおしまい、ではもったいない。というわけで、復路の途中、カラカラ浴場の停留所で降りることにした。テレビや雑誌の古代ローマ特集では必ず取り上げられる遺跡。カラカラ帝によっておよそ千八百年前に築造された。内部見学するかどうかしばし思案したが、意外に広大なのであきらめた。ややロングショットに眺めても見応え十分である。
ふと耳を澄ませば、遠くから鐘と太鼓の音が聞こえてくる。赤っぽい衣装に身を纏って行進する人たちが見えてきた。やがてカラカラ浴場外壁前の緑地帯までやって来て行進が止まる。どうやら小休止のようである。聞けば「ローマ文化保存協会」会員によるPR・啓発パレードであった。所望すれば、生け捕った敵に見立てて短剣を首に突きつけて撮影シーンを演出してくれる。
カラカラ浴場からアルケオバスに再乗車して、アッピア街道を見納めようともう一巡りすることにした。不思議なもので、一周目にはあまり目配りできなかった風景や、ロムルスの廟、チェチーリア・メテッラの墓などがしっかりと見えてくる。街道沿いの遺跡は半壊したり劣化しているが、チェチーリア・メテッラの墓はよく整った建造物の佇まいを今に残している。春を告げるミモザを眺め、さわやかな風を受けながらの二周目。復路は真実の口経由で終着点のテルミニ鉄道駅まで乗り続けた。
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(左)カラカラ浴場の外壁。(右)緑地帯を挟んで見渡す遺跡は古代を偲ばせる。
(左)沿道の光景。(右)マクセンティウス帝が息子ロムルスのために造営した廟。![]()
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(左)チェチーリア・メテッラの墓の前の街道。(右)中世に増築された建物。![]()
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(左)サン・ニコラ教会跡。(右2点)チェチーリア・メテッラの墓とミモザの木。3月8日の《女性の日》にはミモザの花束を贈る。
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(左2点)古代ローマ軍人や当時の市民の衣装を本格的に纏った保存協会員たち。
週刊イタリア紀行No.52 「ローマ(10) アッピア旧街道へ」
2009年8月23日 12:45
雨が多かったこの年のローマ。あまり天気予報も当たっていなかったような気がする。ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂見学の日は雨時々曇。コロッセオ見学の日も強めの雨。その翌日のオルヴィエートへの遠出は運よく晴天。でも、翌日の日曜日は雨。残る二日のうち月曜日にアッピア旧街道へ行くことにした。朝方に雨が降っていたようだが、好天になった。最終滞在日の火曜日は雨と雷で散々な日だったので、結果的にはラストチャンスだった。
アパートからゆっくり20分ほど歩いてナヴォナ広場へ。この一角に〔i〕のマークのついた観光案内所を探す。アッピア旧街道を巡るアルケオバス(archeobus)の切符を買うためだ。小ぶりなブースのような案内所にはすでに女性スタッフが一人いた。ドアには鍵がかかっている。ドアの前に立ったぼくに気づかないので、トントンと叩いた。こっちに顔を向けたので「アルケオバスのチケットを買いたい」と言おうとしたら、口を開こうとするぼくを制して、壁の時計を示し「まだ営業時間じゃない」とジェスチャー。「では、どこで買い求めればいいのか?」と聞こうとしても、あとは知らん顔で、取り付く島もない。
皆がみなこうではないが、公務員や観光関係にはつっけんどんな女性が目立つ。一見(いちげん)さんには愛想のよくない振る舞いをするという説、クールに規則に従っているだけという説、いやイタリア女性は見た目は強そうだが、実はシャイなのだという説・・・・・・いろいろあると聞いた。にこにこ顔のホスピタリティが目立ってしまうイタリア人男性だが、あくまでも女性と対比するからそう見えるのであって、イタリア人には男女ともに人見知りする傾向があるようにぼくは思う。
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しかたなくアルケオバスのルートになっているヴェネツィア広場の停車場へ行く。乗り放題一日券が€13(これが通常料金。ガイドブックには€8と書いてあったが、何がしかの優待カード所有者のみ)。しばらく待って黄緑色のバスが来た。乗車時に配られるイヤホンで8ヵ国語のオーディオガイドが聞ける。固有名詞チェックも兼ねて、とりあえずイタリア語にチャンネルを合わせた。アルケオバスは真実の口の広場からチルコ・マッシモを経てカラカラ浴場へ。乗車時に少し会話を交わしたぼくと同年代の日本人男性は早速ここで下車した。
彼のように丹念にバスの乗降を繰り返し、そこに旧跡見学と散策を交えるのが正しいアッピア旧街道の辿り方なのだろう。あるいは、思い切ってレンタサイクルを借りて、まだ石畳がそのまま残っている旧街道を巡ってみればさぞかし満喫できるだろう。ぼくはと言えば、地下墓地(カタコンベ)や教会・聖堂などよりも、原始的な街道を紀元前312年から改修し延伸して敷設したこの旧街道そのものをこの目で見たかった。だからバスの周回だけで十分だったのである。それでもなお、衝動的に何度か途中下車することにはなった。
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(左)カラカラ浴場前。(右)城壁のサン・セバスティアーノ門。ここがアッピア旧街道の起点。
(左2点)門をくぐるとローマ市内とは思えない牧歌的な風景が広がる。サン・カッリストのカタコンベ近く。
(上5点)アッピア旧街道の風景は変化に富んでいる。唐笠松の街道が続き、少しそれると糸杉の小径がずっと続く。
週刊イタリア紀行No.51 「ローマ(9) 古代ローマの時空間」
2009年8月16日 11:00
コロッセオから見ると、東にドムス・アウレア(皇帝ネロの地下黄金宮殿)、西にパラティーノの丘とフォロ・ロマーノ、北西に公共広場群のフォーリ・インペリアーリ、そして南西にはローマ時代の円形競技場チルコ・マッシモが広がる。チルコ・マッシモは映画『ベン・ハー』で知られた舞台。観客30万人を集めて馬車競走が繰り広げられた。ここから北西にすぐのところに有名な「真実の口」がある。
ローマにはそこかしこに古代遺跡が存在する。だが、極めつけはこの地域だろう。大半の建造物は半壊し劣化しているものの、どこかの国がロープを張って立入禁止にするのとは違って、この遺跡に足を踏み入れることができるのだ。周辺は交通量の多い喧騒通りだが、いったんこのエリアに入ってしまうと、静寂空間の中で古代ローマの息遣いが聞こえてくる。
コロッセオの入場券と共通になっているパラティーノの丘に入る。雨に濡れた遺跡が点在し、高台が何ヵ所かあり庭園もある。今では見る影もないが、古代ローマ時代には政治経済の力を握っていた貴族たちが居を構える「高級邸宅地」だった。遺跡になる前のフォロ・ロマーノやコロッセオやローマの街全体をこの場所から見渡せば、さぞかし壮観だったに違いない。いや、毎日眺めていたから飽き飽きしただろうか。
フォロ・ロマーノは古代ローマの中心地であった。「フォロ(Foro)」は英語の"forum"と同じで「広場」を意味する。だから、フォロ・ロマーノは「ローマの広場」である。ただ、そこらにある広場とは違い、祭事・政治・行政・司法・商業機能を一極集中させた公共空間だったのだ。商取引市場あり、神殿あり、議会や裁判所あり、記念碑あり。しかも、一般民衆と無縁の存在だったのではなく、市民広場としても活気を帯びていた。
カエサルが議員たちに語りかけた元老院議会場「クリア」は何度か建立され直したが、現在は復元されフォロ・ロマーノの一画にあって当時の政治熱をうかがわせる。共和政の特徴として、このクリア、市民広場、演説のための演壇場が三点セットになっていた。ちなみにクリア(Curia)はラテン語に由来し、「人民とともに」という意味である。これこそ共和政の精神。その名残りは、今もローマ市内で見かける"SPQR"の四文字に示されている。これもラテン語で"Senatus Populusque Romanus"を略したもので、「元老院とローマ市民」という意味である。
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(左)パラティーノの丘の入口。(右)フォロ・ロマーノ側から見た丘一帯。この奥に高台が広がる。
(左2点)パラティーノの丘から眺望するフォロ・ロマーノとさらに向こうの遠景。
(左)ティトゥスの凱旋門。紀元70年の戦勝を記念したもの。ティトゥスは当時のローマ皇帝。(中央)元老院議会場「クリア」。(右)サトゥルヌスの神殿。円柱が8本、その柱頭はイオニア式で装飾されている。サトゥルヌスは農耕の神。聖なる場所とされている。
(左2点)セヴェルスの凱旋門。大小三つのアーチが特徴。ここがローマの中心点とされた。
(左)このSPQRは、カンピドーリオの丘、あのミケランジェロが設計した広場の階段近くに掲げられている。古代ローマ共和政の成立を記念したことばで、現在はローマ市のモットーになっている。


