IDEATION RECIPESの最近のブログ記事

問題、そして解決

2010年2月18日 15:00

 問題と解決が一体化して「問題解決」という四字熟語になってから久しい。心理学の主題として始まりすでに1世紀が過ぎた。ぼくの場合、問題解決というテーマとの付き合いは30年前に遡る。ちょうど広告業界に転職した頃で、製品訴求メッセージにどのように問題解決便益を盛り込むかを思案していた。一番最初に読んだ本が『問題解決の方法』(岡山誠司)。本棚に残っていた。奥付には昭和五十六年十二月二〇日第一刷発行とある。

 久々に傍線部のみ目で追ってみた。少しずつ記憶が甦ってきて、数ヵ所ほど現在も拠り所になっている文章に出くわした。たとえば「なぜ人間は、問題を解こうとするのか。これについては、『人間とは環境の中で生き残り、うまく機能していこうと努力する生きもの』であると仮定することによって、基本的には理解できるようである」という箇所。あれ、これは最近どこかで使ったぞと思い出す。昨年の私塾の『解決の手法』で紹介している。最初に読んだときにメモしていたカードから引用していたのである。

 次の一文も現在のぼくの考えの一部を支えている。「情報を取りこむのは、保有する知識と多少異なっているばあいであり、取り入れ(同化)られると、その情報は知識の一部を変形し修正(調節)する。こうして知識は、一段と洗練(再構造化)され、よりよく生きるのに役立つものとなる。」 強引に読むと、持ちネタが足りなければ、ぼくたちは外部の情報を取り込んで問題解決に役立てる、ということだ。新しい問題に対しては、定番の解法では不十分であり、その問題と共時的に発生している人間的・社会的現象に目を向ける必要がある。

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 問題解決という、こなれた四字熟語を一度解体してみる。それがタイトルの「問題、そして解決」の意図である。問題と解決を切り離してみてはじめて気づくことがあるものだ。たとえば、問題がなければ(問題に気づかなければ)、解決の必要性に迫られない・・・・・・問題が起きたら、解決しようとする、少なくとも解決しなければならないと思う・・・・・・自分の責任で問題を起こしてしまったら、当然のことながら解決すべきである・・・・・・未曾有の問題なら解決すべきであると十分に認識しても、うまく解決できるとはかぎらない・・・・・・。まあ、こんな具合に、「問題と解決」のいろいろな構図が見えてくる。

 要するに、四字熟語として問題解決を眺めてばかりいると、問題と解決の間の距離に鈍感になってしまうのである(ぼくはかねてから"ソリューション"という便利なことばにその鈍感さが潜んでいると思っていた)。ところが、上記のように「問題、そして解決」と切り離してみれば、問題を認知し原因を探り当てることと、それを解決することが大きく乖離していることに気づく。前に、ヴィトゲンシュタインのことばを引いて「およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」と書いた。問いと問題には類似する点もあるから、「問題が見つかれば、解決することができる」と言えなくもない。しかし、問題の大きさと質による。問題を見つけるノウハウと解決するノウハウは、たいていの場合、まったく異質である。

 問題解決で手柄を立てるには、放火魔消防士になるのが手っ取り早い。自分で火をつけ(問題を起こし)、第一発見者となって火を消し止める(問題を解決する)。本来問題でも何でもないのに、やたら問題視して処方するのがやぶ医者だけとはかぎらず、あなたの周辺やあなたの会社にもそんな連中がいるかもしれない。しかし、もっと手に負えないのは、自ら問題を引き起こしていながら、そのことに気づかず、解決の手立てを講じない輩だ。まるでお漏らしをしてただ泣いているだけの乳幼児である。

 世の中には解決しなくてもいい問題もある。それは単なる現象であって、「問題」と呼ぶこと自体が間違っているのだ。問題を見て、「解決できそうだ」、「解決すべきだ」、「(何が何でも)解決したい」という三つの知覚が鮮明になるとき、鋭利なソリューションへの道が開ける。さもなければ、解決の機が熟していないか、尻に火がつく問題でないかのどちらかである。    

取ることと捨てること

2010年2月16日 11:00

 取り上げて用い、捨ててしまって用いない。今さらながらというテーマなのだが、これがなかなか奥深い。「取捨」は選択や択一という表現を随えて四字熟語にもなる。情報編集や企画の仕事にはきまってつきまとう作業である。取るか捨てるかのどちらに頭を悩ますかは人それぞれ。適当に取り適当に捨てるならば、取るのも捨てるのも気楽である。だが、最終段階で「何か」を取り「何か」を捨てるとなると、取捨の対象を絞る勇断が要求され、この作業は途端にきつくなる。

 だいぶニュアンスは違ってくるが、捨てるを"give"の変形だと考えると、取捨は(順番を変えると)"give and take"に通じなくもない。徳の教えによるとギブのほうがむずかしいようである。これまたニュアンスは変わるが、取捨を「保存と処分」としてみれば、大掃除や引っ越しの際の処分へのためらいを思い起こす。取捨選択をしているつもりが、気がつけば何も捨てられなくなっている自分に気づく。捨てようと思ったら、精細な選別などしていてはいけないのかもしれない。

 ぼくの場合も同様だ。「二日研修のカリキュラムを一日用にアレンジしてほしい」という要望が時折りある。二日から一日だから当然報酬は半分になる。依頼する側も二日間のネタを半分に削るのだから朝飯前だと思っている。どっこいそうはいかないのだ。一日研修を二日研修に「希釈したり間延びさせたり」するほうがうんと楽なのである。いや、ぼくが水増しをするということではないが、一般論としてダウンサイズ化は技量もエネルギーも要する。ちょうど真空管からトランジスタ、トランジスタからIC、ICからLSIへとハイテクが進んだように。

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 ぼく自身にまつわるエピソードをもう一つ紹介しておく。これは二日を一日ではなく、一日内の時間短縮。実施していたのは一日7時間の研修で、この報酬の指数を10としておく。翌年、同じ内容のテーマでタイムテーブルを午後からの3時間半に設定したいとの申し出があった。そして、報酬も「5」でお願いしたいと言うのである。ぼくだって講師歴30年以上のプロの端くれ。時給ベースだけで評価されては困る。なにしろ新幹線を使わねばならない遠方なのである。しかも、講義を計算づくめで縮減するには少なくとも一両日はかかるのである。捨てる編集は単純引き算などではない。一日所要という意味では、報酬は7でも8でもなく10に値する。「知の売人」に成り下がらないための必死の抵抗と言えば、ちょっと構え過ぎるか。 

 学ぶ側からの話。「取る」を「学習」になぞらえると、「捨てる」のほうは「離学」または「脱学」と呼べるだろう。実際、ぼくは何十年も前から脱学という造語を使ってきた。もっとも簡単なのが「不学」。まったく学ばないことである。無学とは少し違う。無学は不学の結果、陥ってしまった状態だ。これに比べれば学習は辛抱を要する。「勉学」という用語などはそれを如実に表している。しかし、である。学びには何がしかの偏見が含まれているもので、組み合わせによっては性悪な固定観念につながる。だから時々「異型性知識」を切除するメンテナンスが必要なのだ。これが脱学で、一番むずかしい。

 ちなみに学習は知識の習得を目指す。習得とは固定化のことなので、すべての学習はある種の固定観念形成であるとも言える。なお、脱学だからと言って、完全忘却するのではない。いったん記憶域に刷り込まれた知識を完全消去することなどできない。脱学とは、固定観念化してにっちもさっちもいかない知から離脱して新しい知へ向かう、学びの再編だ。言うまでもなく、新しい知は未来だけにあるのではなく、遠い過去にもある。それを温故知新と呼ぶ。  

拠り所は出典不詳の知識

2010年2月12日 08:00

  出典を承知している知識とそうでない知識を天秤にかける。言うまでもないが、圧倒的に後者の知識のほうが重い。ぼくなど、どこで仕入れてきたかわからない雑学的知識が生命線になっている。学者と呼ばれている友人や知人は二十人やそこらいるが、彼らでも同じだろうと推理する。とりわけ知識が格言や名言である場合、手元に書物やノートがなければ、典拠を明らかにしたうえで正確に引用することなどままならないだろう。

 しかし、論文を書いたり本を著そうと思えば、精度が問われる。当然どうにかして調べ上げねばならない。「どこで知ったか覚えていないし、正確に引用はできないが・・・・・・」などという文章を学者が綴ることは許されないのだ。いや、ぼくだって適当であっていいはずはないと自覚しているが、学者のように神経質になる必要はない。不確かな、詠み人知らずの知識を軽いトーク調で紹介することが許される。

 もちろん許されるからと言って、平気な顔して事足りるわけではない。ノートにきちんと引用して出典も書いておくべきだった後悔すること、絶えずである。たとえば、とても気に入っている、アイデアに関する古いメモ書き。

 「アイデアは小声で話すので、喧騒の中では聞き取りにくい」

 「期限が近づくと、つまらないアイデアを使い回ししなければならなくなる」

 この二つの文章の出典はわかっている。本ではなく、(おそらく)ジム・ボーグマンのイラストに添えられたものだ。それはあるアメリカの大学の卒業記念に配られたファイル一式のうちの2枚である。ところが、出典である、その肝心のファイルがどこにあるのかわからない。だから、英語の原文と照合できない。上記の文章はぼくが訳してメモしたものだが、きちんと訳したのかどうか、今となってはうろ覚えなのである。

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 もう一つ。こちらは数年前までは研修のテキストにも使っていた。「発明は頭脳と素材の融合である。頭脳をうんと使えば素材は少なくてすむ」という、(おそらく)チャールズ・ケタリングのことばだ。ケタリングは生涯特許1300件とも言われるエジソンほど有名ではないが、特許300件を誇る、知る人ぞ知る発明家であった。ここまでは確かだと思うのだが、どこでこの情報を仕入れたのか判然としない(ロボット工学博士の森政弘の著書で読んだような記憶があるがわからない。残念ながら、調べる気力がない)。

 出典を不確かなままにしながらも、ぼくは「発明は頭脳と素材の融合である」という、方程式のようなこのことばを名言だと思っている。そして、《創造性=思考×情報》という公式を勝手に作ってしまった。信憑性のほどはいかに? いろんな人に出会うたびに、その人の創造性指数をひそかにチェックするが、この公式は生きている! 但し、「思考×情報」としているが、これら両要素を同時に大きくするのはきわめて難しい。この公式では、情報大のとき思考が小、情報小のとき思考が大になる傾向があるのだ。極論すると、創造性においては《思考≒1/情報》が成り立ってしまう。

 「頭脳をうんと使えば素材は少なくてすむ」というケタリング。この文脈には、「知識や情報ばかり集めていると頭を使わなくなるぞ」という警鐘が隠れている。考えないから本を読んだりネット検索ばかりしなければならなくなるのだ。もっと言えば、簡単に情報が手に入らない、どこにもヒントがないという状況に追い込まれたら、人は必然的に頭を使うようになるものなのだ。ろくに考えもしていないくせに、調べているだけで創造的な気分になることもあるから気をつけよう。

無策ゆえに精神主義

2010年2月 2日 11:20

 これまで多種多様な企画を手掛けてきて、自分なりにある種の確信を抱くようになった。目的・願望と手段・方策の関係には、人間の弱さからくる法則があるようなのだ。この法則は仕事だけに限らず、人生全般にも通じるように思われる。

 一つのゴールに対して手段が多いとき、人は数ある選択肢を前に決断に悩む。将棋の専門棋士が語っていたが、手が多く、しかもどの手を指しても良さそうなときほど迷うらしい。アイデアが浮かびすぎて困るというケースが実際にはありうるのだ。これとよく似た経験がぼくにもある。ディベートで相手の論点が脆弱であったりゆゆしき矛盾を抱えているとき、「どんな切り口でも論法でも容易に論破できそうだ」と直観する。ところが、豊富な選択肢は最上級思考へと流れて、結果的に決断を遅らせることになってしまう。AかBかの二者択一なら、比較級思考するしかないからそれほど逡巡しない。

 もっといいのは、一つの目的に一つの手段、一つの願望に一つの手立てだろう。できるできないはともかく、方法が明確な一つの場合、ぼくたちはそこに集中することができる。但し、一つの小さくて具体的な目的・願望が条件である。小さくて具体的だから、講じるべき手段も取るべき行動も明確になって功を奏しやすくなるのだ。「立派な人間になる」とか「幸せになる」などの、茫洋として掴みどころのない願いが、一つの具体的な策で叶うはずもない。

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 いいのか悪いのかよくわからないが、ぼくたちはおおむね大小様々な目的を定めたがる。あれもこれもしたいという願いはどんどん膨らむ。試みに、これまでしようと思ってできなかったこと、これからやってみたいと思うことをリストアップしてみればよろしい。あっという間に一枚の紙が埋まってしまうだろう。大はマイホームから小はランチで食べたいものまで、枚挙に暇がないはずだ。同時に、目的や願望を威勢よく掲げるわりには、日々の努力が足りず、先送りしている自分に気づくに違いない。

 仮に十ほどの目的や願望を列挙したとして、それぞれに「対症療法」がありうるならば、時間はかかるかもしれないが、早晩達成や実現に近づいていける可能性はある。しかし、そもそもうわべだけ「したつもりやその気になるだけの」対症療法だ、成果はたかが知れているだろう。それに、十の対症療法を小器用に使いこなして日々施していくほどの根気が続くかと問えば、大いに疑問である。

 そう、願望が大きくなったり増えたりするのに比べて、それらを叶えていく手段や方策を思いつかないのが人間というものなのだ。「したいけれど怠けてしまう」あるいは「したかったけれど熱が冷めた」という万人共通の性(さが)言い換えれば、願望にアイデアがついていかないのである。したがって、理想と現実の埋まりそうもない乖離を一気に何とかしようとして、「為せば成る!」と叫んだり「何が何でも頑張るぞ!」と精神主義に陥ってしまう。具体策があれば確実に実行する。無策だから実行のしようがない。ゆえに精神主義でごまかす。何ともならないのは、「やる気」の欠如よりも「具体的方策」の不在に負うところが大きい。

「してはいけない」という方法

2010年1月22日 12:30

 幼児教育に詳しいわけではないが、「~したらダメ!」と躾けるよりも「~しようね」と煽(おだ)てるほうがよさそうに思える。ぼく自身は当事者として一顧だにしなかったが、他所の親を見ていると、明けても暮れても禁止文ばかり使っていると子どもが萎縮してしまうのではないか、などと感じたものである。躾けの効果についてはムチとアメは拮抗すると察するが、「廊下で走ってはいけません」や「そんなふうに食べてはいけません」などの否定表現に対して、窘(たしな)められたほうが微笑み返すことはむずかしい。つまり、空気が翳る。

 ところが、道徳規範にまつわる何ヵ条かの教えなどが未だに功を奏していないのを見ると、呼びかけを「何々しよう」とポジティブにするくらいでは人は決して変わらないのだろう。「お客さまに笑顔で接しよう」「大きな声で挨拶しよう」「感謝の気持で日々を過ごそう」など、今さら成人にオルグしてもしかたがないではないか。いや、言わぬよりはましだとしても、陰気な表情でぶつくさ喋ってきた大人に効き目をもたらすとは到底思えない。墨で直筆した《食事の五観文》を自宅の台所に貼ってあるが、あの種の偈文(げぶん)は、だいたいが気休めにすぎない(もちろん、気休めも何がしかの功ではある)。

 昨日、一昨日と二日連続で「愚かなこと」について書いてみると、愚者には「してはいけない」という禁止もやむをえないという気になってきた。別に性悪説に乗り換えるつもりはないが、差し障りのない道徳的教訓の香りを充満させるよりも、少々皮相的に "Don't" を突きつけるほうが身に沁みるかもしれない。他人はともかく、まずは己に「してはいけない」を自覚させる。テオプラストス(アリストテレスの愛弟子)は古代ギリシアの人々を三十もの辛辣な形容詞で揶揄しているが、こういうタッチのほうがぼくなどは大いに反省を促される。

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 博愛・慈善・孝行などを呼びかける何ヵ条かの徳目はたしかにポジティブである。しかし、あれもこれもそれもと箇条書きが増えるにしたがい、一つひとつの教えの可動力が弱まるのではないか。論理学でもそうだが、「かつ(AND)」で概念を結んでいくと矛盾発生の可能性が高まるのだ。第一に、第二に、第三に・・・・・・と励行すべきことを並列に置くと、ドサクサにまぎれて個々の教えを蔑(ないがし)ろにしてしまう危険がある。いろんなことを前向きにやろうと言うワンパターンだけではなく、もっとも悪しきことのみを戒めて一意専心の思いで正す方法が再考されてよい。

 よき資質があるのに、悪しき一つの習慣や性向が資質の開花を妨げる。多才であってもグズは才を潰す。大人物も保身過剰によって小さな俗物と化す。ぼくは事業にあっては、かたくなに長所強化の立場を貫くが、人間においてはまず悪しき欠点を退治すべきだと思う。一芸に秀でていれば、どんな奇人変人でも許されるというのは特殊な業界の話であって、日常生活や仕事ではとりあえず足を引っ張っている愚劣を「してはいけない」と心得るべきだろう。

 ちなみに、論理的に書こうと思えば、否定文が増えてくるものだ。「あれかこれか」の岐路でどちらかを消し去らなければ、限定的領域内で論理的展開ができないからである。「あれもこれも」と足し算して書き連ねていくと、いったい何を言いたいのかわからなくなる。つまり、どんどん概念が拡散していくのである。したがって、意見を明快に述べようとすれば、要所要所で無意識的に否定文を用いることになる。Aではなく、またBでもなくというふうに積荷を下ろしていき、結局残るのはCという具合に。自分が書いたり話したりしているのを振り返ってみると、「してはいけない」という方法が目立ってきたと気づく。

やめられないこと、続かないこと

2009年12月15日 16:45

 一ヵ月ほど前の日経のコラム記事に、劇作家の別役実が随筆に書いた話が紹介されていた。それによると、別役は毎日186回タバコをやめようと考えるらしい。どんな計算でこの微妙な数字になるのか。一日3箱60本吸うのだそうである。ポケットから箱を出し一本取り出すときに「やめよう」と思い、くわえるときにも「やめよう」と思い、火をつけるときにもう一度「やめよう」と思う。一本につき三回やめようと思うのだ。それが60本だから180回。あとは、店でタバコ代を払うときと品物を受け取るときの2回で、これが3箱なので計6回。

 一年で67,890回もやめようと考えるのだからすごい。さらに、それだけ考えるにもかかわらずやめないのがもっとすごい。タバコや酒などの嗜好品の常習性は周知の通りだが、やめようとしてやめられない習慣は誰にもある。やめようとかやめたいと思いながら続けてしまう執着力と言うかエネルギーが、続けたいと思いながら続かない対象にはなぜ働かないのだろう。やるぞと決めたストレッチ体操が続かないのに、かっぱえびせんはなぜ「やめられない、止まらない」のだろうか。不思議である。

 「あきらめましたよ どうあきらめた あきらめきれぬとあきらめた」という都都逸があった。未練心をユーモラスに紡いでいるではないか。タバコか酒か博打か忘れたが、「やめました ○○○やめるの やめました」というパロディも何かで読んだことがある。ぼくたちは欲望に満ちていて、新たにチャレンジしたいことがあれこれとありそうなのだが、そっち方面は続きにくく、また最初の第一歩が重くて踏み出せない。他方、悪しき習慣と自認していることがなかなかやめられない。「や~めた、真面目に働くの、や~めた」というのはありそうだが・・・・・・。

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 このブログで時々取り上げる読書やノート、さらには語学や音読訓練などの習慣形成について、よくコツを聞かれる。習慣形成全般について語る資格はぼくにはない。続けていることよりも挫折経験のほうが多いからだ。夏場になると毎年ヨガを取り入れた経絡体操を三ヵ月くらい朝夕やってみるのだが、秋が深まると億劫になって挫折する。こんなサイクルが数年続いている。その他いろいろ、うまくいかない。

 世間では軽々と《継続は力なり》と言うが、毎日5分、一日1ページを甘く見てはいけない。そんなに易々と達成できるなら、この格言の発案者は「継続は力なり」などとは言わず、「継続は誰でもできる」と語ったか何も言わなかっただろう。継続にはある日の一頓挫がつきものである。その一日を例外として処理できれば、継続心を「断続的(切れたり続いたりの)状態」に止めることができる。問題は、その一つの例外が二つ、三つとなって常態化してしまうことだ。つまり、「たまたまできなかったという反省」から「やっぱりできそうもないという信念」への変化が起こるのがまずい。

 だから、三日坊主は最初から「継続は力なり」などと力まないほうがいい。いきなり晴天を望むのではなく、「晴れ時々曇り」あたりからスタートすればよろしい。《切れたり続けたりは、何もしないよりもまし》という心得である。以上がぼくなりのコツの薀蓄である。いや、実はコツなどではない。マズローの欲求階層的に言えば、最上位である「自己実現の欲求」などを持たないのが賢明だ。むしろ、最下位の「生理的欲求」にしてしまうほうがいい。そう、トイレに行くように続けるのである。 

アイデアの鉱脈はどこにある?

2009年12月 9日 12:00

 塾生のTさんが『アイデアは尽きないのか?』というタイトルでブログを書いていて、しかも記事の最後に「結論。アイデアは尽きない」と締めくくっている(ブログの更新が滞り気味なので、もしかするとアイデアが尽きているのかもしれないが・・・・・・)。とにかく、師匠筋としてはこれを読んで知らん顔しているわけにはいかない。もちろんイチャモンをつけるために沈黙を破るのではない。その逆で、この種のテーマが常日頃考えていることを整理するいいきっかけになってくれるのだ。なにしろ、ぼくのブログには"IDEATION RECIPES"というカテゴリがある。当然これから書くこの記事はそこに収まる。

 アイデアは尽きないのか? 「アイデアは尽きない」という意見に同意したいものの、正しく言えば、この問いへの答えは不可能なのだろう。アイデアは誰かが何かについて生み出すものである。そのかぎりにおいてアイデアが尽きるか尽きないかは、人とテーマ次第ゆえ結論は定まらない。当たり前だが、アイデアマンはどんどんアイデアを出す。しかし、その人ですら不案内のテーマを与えられたらすぐに降参するかもしれない。

 たとえば「世界」についてアイデアを出す。これなら無尽蔵に出せそうな気がする。世界という要素以外にいかなる制約も制限もないからである。時間が許されるかぎりアイデアが出続ける予感がする。但し、ここで言うアイデアには単なる「観念」も多く含まれ、必ずしも「おもしろい」とか「価値ある」という条件を満たすものばかりではない。

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 世界というテーマはあまりにも大きすぎるので、身近な例を取り上げよう。たとえば「開く」。「開く」からひらめくアイデアは、「開閉する」についてのアイデアよりも出やすいだろう。「ドア」という具体的なテーマになると、「開閉する」にまつわるアイデアよりも少なくなってくるだろう。「ドアのデザイン」まで絞り込むと、アイデアはさらに少なくなることが予想される。「アイデアは尽きないか否か」という命題は質にはこだわっていないようだから、量だけに絞って論じるならば、テーマが具体的であればあるほど、また要素が複合化すればするほど、アイデアは出にくくなると言えそうだ。

 「10-□=3の□を求めなさい」というテーマで、□に入る答えをアイデアの一種と見なすなら、「7」が唯一のアイデアとなり、これ一つで「尽きてしまう」。極端な例でありアイデアという言い方にも語弊があるが、テーマが小さく具体的になり制約する要素が増えれば増えるほど、アイデアは尽き果てることを意味している。つまり、下流に行けば行くほど、求められるのは「1+1」のアイデアのように、量でも質でもなく、「正しさ」のみになってしまうのだ。最近の企画術や発想法はかぎりなくこの方向に流れている。つまり、おもしろくない。

 テーマを提示する側が、自分が評価しうるレベルに命題表現を設定してしまう。アイデアを出そうと張り切っても、大胆なアイディエーションへの冒険をさせないのである。「何かいいアイデアはないか?」と聞くくせに、尋ねた本人がすでに「正解の方向性」を定めているのである。こういう状況では「アイデアは尽きる」。Tさんの「アイデアが尽きない」という結論を証明するためには、テーマの上流に遡らねばならない。そこで、時間のみ制限枠にして、ただアイデアの量だけを目指して知恵を蕩尽(とうじん)してみるのだ。いいアイデアは、このようにして出し尽くされたおびただしいアイデア群から生まれるものだろう。

根源的なヒューマンスキルとは?

2009年11月27日 13:30

 気に入っている笑話がある。Cレベルの差別用語が含まれており、「十分に注意」して使う必要があるものの、出版されている本からそのまま引用するので寛容のほどお願いしたい。題して「シェアNo.1を目指して」というジョークだ。

 ある乞食の前に神が降り立ち、一つだけ願いを叶えてやろうと言った。乞食は懇願した。「お願いです。最近物乞いの競争が激しくなっています。どうか私をこの町でたった一人の乞食にしてください。」

 抱腹絶倒の笑いではないが、人間臭い可笑(おか)しみが漂う。気がつけば、謙虚さとプロフェッショナル意識に感心してしまっている。生涯たった一度の願い事を叶えるチャンスなのに、「私を億万長者にしてください」と嘆願せずに、「オンリーワンにしてくれ」と頼む。当該市場でのオンリーワンはそのまま占有率ナンバーワンになる(但し、ナンバーワンはオンリーワンとはかぎらない)。競合相手がいなくなって市場独占が実現する。しかし、競合相手の取り分が自分に回ってくる保証はない。もしかすると、それぞれにお得意さんがいたかもしれないからだ。「あいつには恵んだけれど、お前にはやらん」というケースもありうる。したがって、市場でのオンリーワンが確定してもなお、彼はこれからも営業努力を続けることになるだろう。

 もちろん「大統領」や「マンションオーナー」や「宝くじ一等当選」を願ってもよかった。しかし、彼は「業界トップ」になることを望んだ。名実ともに現業を究めたいという彼の思いを尊いものと感じるのは異様なのだろうか。どこか彼に共感するのはぼくだけなのか。自分は億万長者などになりたいのではなく、またそうなるために現在の職業を選んだのではない。一番になれるか固有の存在になれるかどうかはわからないが、プロフェッショナルを究めたい―そう考えている職業人は少なくないはずだ。

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 最高善を「幸福」としたアリストテレスに随(したが)えば、「私を幸せな人間にしてください」とお願いすればすべてが叶う(厚かましく「世界一幸せな」などと言うことなかれ)。アリストテレスによれば、財産であろうが友人であろうが愛であろうが、何を求めようとも、究極は「幸福のため」なのだそうだ。幸福に対して、「何のための幸福?」とは問えない。いくら幸福以上の価値を探しても、「幸福は幸福のため」という無限連鎖が続くのだ。人は幸福になるために仕事に従事し生活を営んでいる。アマノジャクなぼくは大っぴらに「幸福」を掲げるのを好まないので、「愉快」や「上機嫌」に言い換えている。

 ある日、幸運なあなたの前に神が降り立つとしよう。そして「何でも叶えてやる」ではなく、「一つだけお前が望むヒューマンスキルを授けてやろう」と告げるとしよう。あなたはどんなヒューマンスキルを乞うだろうか(物乞いではなく「技乞い」や「能乞い」や「力乞い」)。これまで挑戦し学び続けてきたが、未だ道遠しにあるスキルをお願いする? それとも、ありとあらゆる能力を発揮できる手綱のようなスキルを望むのか? あるいは、もっとも得意とするスキルにさらに磨きをかけるべく、敢えて自信のあるスキルを授けてもらうのか?

 もう一度確認しておこう。神が降り立って絶対に叶えてくれるスキルなのである。後にも先にも一度きりの願掛けのチャンスなのである。ぼく自身の願掛けは今日のところは伏せておくが、お節介を承知の上で、ぼくよりも一回り以上若い人々には助言しておきたい。「想像力」または「言語力」のいずれかを乞うのがいいだろう。想像力は経験と合体して他のスキルを起動させる核となり、言語力は他者や世界との関係を深め知を広げてくれるエンジンになる。いずれも人間資質の根源であり、幸福が最高善であるのと同様に、「なぜ想像力と言語力なのか」とは問いようのない、人間固有の最高次なヒューマンスキルだとぼくは考えている。

アナログ記録が記憶にいい

2009年11月12日 11:45

 7月に鳥取へ講演に行った。テーマは「マーケティング」と「プロフェッショナル」の二本立て。レトロな昭和三十年代の場末の映画館みたいだが、ぼく生来のサービスマインドのつもりである。「せっかくの機会だから」という思いだった。ついでに発想やエピソードや読書の印象などを書き込むノート習慣についても披露した。私塾の塾生にもずっと推奨してきているが、継続実行できる人はおそらく一割にも満たない。

 その一割に入った、あるいは今後脱落しないだろうと思われる旧知のTさんから昨日メールをもらった。本ブログでもいつぞや取り上げた「鰻の薀蓄家」である。メールの内容は次の通り(原文のまま)。

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 7月18日(土)に147円で購入し、「特になし」のページも3枚ぐらいありますが、めでたく1冊目完了。先週末に2冊目を購入済ですから、今から2冊目です。

 今日の天気は大荒れですが、結構さわやかな気持ちになっています。

 ノートをつけるようになって特に感じたことは、「本を読んでもほとんど頭に残っていない」です。マーカーで線を引いても、ほとんど記憶に残っていませんでした。

 岡野先生がおっしゃるように、二度読んで、ノートにつけると内容の理解や受け取り方が全く違ってきます。と、思うようになると、ノートにつけることが楽しくなってきました。まだ、4ヵ月の1冊目ですので、今後の気づきが楽しみです。

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 ぼくより三つばかり年下(つまり五十代半ば)なのだが、とても偉いと思う。ノートの習慣というのは、ぼくのように二十代から始めていないとなかなか続くものではない。「衰脳」にムチ打って五十を過ぎてから一念発起するのは大変なのだ。しかも、動機づけが「ついでの話」。ぼく自身しっかりと効能や手法を開示したわけではなかった。

 ご本人が爽やかさを感じたように、ノート仲間が増えたことにぼくも久々に爽やかな気分である。ノリがよくて純朴なTさんゆえに4ヵ月続いたのだろう。おそらく生涯続くような予感がある。Tさんもメールに書いているが、手頃な文庫本サイズのメモ帳がいい。別に147円にこだわることはなく、無印良品ならアクリルの表紙がついた結構いいものを250円くらいでも売っている。ずっと同じメモ帳を使えばいいが、ぼくには飽き性な面もあるので、サイズは変えずとも体裁の違うメモ帳をつねに物色している。メリットがあって、表紙が変われば直近の6ヵ月のメモ帳(たとえば3、4冊)の新旧がわかりやすい。また、紙質も微妙に変わるから、万年筆にしたり水性ボールペンにしたりと変化も生まれる。

 しかし、そんなことは瑣末なことである。何よりもメモ帳には、四囲の情報環境へのまなざしを強化してくれる効能がある。それが発想の源になる。見えていなかった変化に気づき、変わらざる普遍にも気づく。エピソードを発見して自分なりに薀蓄を傾けるうちに、アイデアの一つや二つが生まれてくる。大袈裟に言えば、《いま・ここ》にしかない知との真剣な出会いに幸せになるのである。一日の時間が濃密になる。何をしても自分の存在と他者・世界との関わりを強く意識するようになる。だらしないぼくが、辛くも自分の好きな仕事に恵まれているのは三十年間のノート習慣の賜物だと思っている。

 Tさん、そして、これまでぼくのノート論を聞いてくれた皆さん、一緒に続けて行こう。途中半ばで意志が折れたりサボっている人、リセットして早速今日から再出発しようではないか。 

単位や数字の奇妙

2009年10月28日 13:00

 最近めっきり行かなくなったが、銭湯には体重を測定する秤が置いてある。ほとんど電子体重計に置き換わったようだが、ぼくが幼少の頃はもちろんアナログ。おまけに「貫と匁(もんめ」で目方を表示する尺貫法名残りの秤だった。ちなみに貨幣単位では円の下の位の銭(せん)も使っていた。昭和31年に生まれた弟を産院に見に行った帰りにポン煎餅を買ったら、差し出した十円硬貨のお釣りが白く輝く5枚の一円玉だったので驚いた記憶がある。つまり、それまでは一円札を使っていたのだ。

 親の世代は尺や寸に馴染んでいたが、長さに関してはぼくの世代ではすでにメートル法だった。とはいえ、普請や着物の裾上げの際に、専門家と客が尺寸で会話を交わすのを聞いていた。やがて貫と匁はキログラム・グラムに移行する。慣れないうちは、3.75キログラムを1貫に「翻訳」したものである。こうして、いつの間にか、メートルと同じくキログラムが自分の世界を測る長さと重さの基準になっていった。

 ところが、単位の変換作業はこれで終わらなかった。英語を学習し始めると、ドルという通貨があって、どうやらそれが世界の基準になっていることを知る。変動為替相場ではなかったから1ドル=360円を覚えた。もっとも海外とは無縁な環境ゆえ、そんな話題はハワイに嵌まっていた叔父の話に出てくる程度だった。次いでヤードやフィート、それにポンドという単位の存在も知る(ポンドはボクシングの試合で「145ポンド5分の1」と独特の節回しで告げるので聞き慣れてはいた。ただ何分の一というのが奇妙に響いた)。

☆ ☆ ☆

 世界にはおびただしい通貨の単位がある。同時に固有の計測体系が相変わらず存在している。知られざるさまざまな呼称もあるに違いない(わが国の一羽、一個、一匹などもその類である)。学問としての数学の世界に限定すれば、そこには客観的な統一表現があるように思われるが、日常生活世界ではものの見方がいかに文化的慣習的に多様かがわかる。本日の会読会で取り上げるマイケル・ポランニー(『暗黙知の次元』)のことばに「私は科学を感覚的認識の一変種と考える」というのがあるが、まさに「単位や数字は人々の感覚的認識の一変種」と言えるかもしれない。

 ドルとユーロの価値を「1ドル、1ユーロ」という情報だけによってぼくたちは評価しえない。円という基準に照らし合わせないかぎりどれほどの価値なのかを理解できないのだ。1ドル=91円、1ユーロ=135円(今日の正午現在)と相対化して初めて価値を知る。もちろんこの価値は変動するから、明日になると価値に変動が生じるだろうが、それも円換算によってのみ感じることができる。しかし、国際比較を必要としない個々の市場にあっては、1ドルは1ドルであり、1ユーロは1ユーロである。わが国にあっても100円は100円である。

 話を元に戻す。単位や数字というものは主観的な世界観の反映らしい。比較文化的視点だけではなく、一人の人間がある対象を数字でとらえるのも主観的であることがわかる。たとえしっかりした評価基準が設けられていても、フィギュアスケートや体操競技は審査員の主観によって点数化される。数字は物事の多様な見方のうちの「一変種」にすぎないのだ。ペットボトルの水を500mlととらえたり硬度29mg/Lと表記しているのも一つの見方、富士山3776メートルも台風985ヘクトパスカルも地震マグニチュード4.5というのもすべて主観的な認識の一つなのである。「駅から1キロ」と「徒歩12分」には視点の違いがある。給与や業績やテストはなぜ数字至上主義を貫いているのか・・・・・・。   

 明日は続編として「数字信奉の危うさ」をテーマに書いてみようと思う。

プロフィール

岡野勝志(おかのかつし)
1951年大阪生まれ

企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長
企画アイディエーター
岡野塾主宰

ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。
マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人材の課題に対して、「即答即決アイディエーティング」をおこなっている。

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