IDEATION RECIPESの最近のブログ記事

見えるもの、見えないもの

2011年10月31日 17:45

 辞書にはまだ収められていないが、ぼくがよく用いることばに《偶察》がある。文字通り「偶然に察知すること」で、観察とは対照的な意味をもつ。注意深く何かへ意識を向け、その対象をしかと見るのが観察だ。偶察とは、その観察の結果、意識を向けた対象以外のものに気づくことである。観察と偶察、決してやさしい話ではない。週末の私塾ではこれをテーマにして、「見えざるを見る着眼力」について話をした。

 ぼくたちは何かを見ているつもりだろうが、実は、いつもじっくりと見ているわけではない。見慣れた対象における小さな変化に気づかないし、インパクトのある"X"に気を取られているときは、すぐそばの目立ちにくい"Y"が見えていない。体力や気力が消沈すると目線が外部に向かう余裕を失う。まなざしは自分の内面ばかりに向かうことになる。

 ところが、さほど意識も強くないのに、心身の具合がいいとよく見えよく気づく。主観的かつ自覚的に観察するぞなどと意気込まなくても、自然体でものが見えてくる。暗黙知を極めたプロフェッショナルはそんな軽やかな観察に加えて、偶察にも恵まれるのだろう。たしかに、ある店の主人は顧客の立ち居振る舞いをよく見ているし、服装や髪型の変化に気づいていそうだ。しかし、逆に、これでよしと主人が考えている店の装いの不自然さに顧客のほうが気づいていることもあるだろう。

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 どの本に書いてあったのか忘れたが、「森を横切って長い散歩をした時、私は空を発見した」というロダンのことばをぼくはノートにメモしている。いい歳をして、ロダンはそのとき初めて空を見た? そんなバカなことはない。何度も空を見ていたはずである。この文章は次のように続く。

 「それまでは、私は毎日この空を見ていると思っていた。だが、ある日、はじめてそれを見たのだった。」

 あることを以前見たつもり、あることを毎日見ているつもり。それでも、ある日突然、それまでの観察はまったく観察の名に値しないことを知る。今見ている空に比べれば、ぼくがこれまで見てきた空など空ではなかったという、愕然としつつも、身体に漲る爽快な感覚。見ることだけでなく、味わうことにも考えることにもわかることにも生じる、「目から鱗の瞬間」だ。そして、見えたり見えなかったりという能力に喘ぎ、見たり見なかったりという気まぐれを繰り返しているかぎり、目から鱗は剥がれ続けるのだろう。

キーワードの差し替え

2011年7月 1日 08:20

 とあるお店のトイレに貼り紙がしてあった。「もう一歩前へ」という野暮な注意書きではない。そこにはこう書かれていた。

 「心を開いて"Yes"って言ってごらん。すべてを肯定してみると答えが見つかるものだよ。」

 このことばの上に、あのあまりにも有名な歌手の写真が添えられている。いや、その写真にこのことばが付け加えられているというのが正しい。ファンなら瞬時にジョン・レノンと言い当てるに違いない。この文言、見たか聞いたかした気はするのだが、おおよそでも再生できそうにないので、知らないと言わざるをえない。世間ではビートルズ世代の一員とされるのだろうが、恥ずかしながら、ぼくはビートルズ音痴である(別に恥ずかしがることはないか。歌なら数曲程度は知っているし、唄える)。

 二十年程前に主宰していた勉強会で、当時大学の助教授だった二歳年長のY助教授に『ビートルズの社会学』と題してカジュアルな話をしてもらったことがある。熱狂的であるとはこういうことなのだと思い知った。ビートルズのことを何でも知っていたし見事な薀蓄の傾けようだった。ぼくの目からはウロコが何枚も落ちた。これに比べれば、ぼくには熱狂するテーマなり対象なりがほとんどなく、根っからのなまくらな雑学人間なんだと自覚したものである。

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 但し、アマノジャクなので、「心を開いて"Yes"って言ってごらん。すべてを肯定してみると答えが見つかるものだよ」という文章などに出合うと、それがジョン・レノンであろうと他の有名人であろうと、その場でメッセージに共感して「ハイ、おしまい」にはしない。立ち止まってみる。時には一種偏執的に真意をまさぐり考えてみる。「ほんとうにそうなのか?」と。

 手っ取り早く考えるために、文中のキーワードを二項対立の他方に置き換えて読み返してみる。キーワードは"Yes"と「肯定」だ。二項対立の概念は"No"と「否定」である。すると、ジョン・レノンのオリジナルは、次のように置き換わる。

 「心を開いて"No"って言ってごらん。すべてを否定してみると答えが見つかるものだよ。」

 "No"と言うために心を開かねばならないときがある。親しいからという理由だけで何でも"Yes"ではなく、親しいからこそ「心を開いて(=偏見を拭い去って)"No"と言ってみる」のだ。自分の価値観、他人との過去の関係、前例というものをすべて否定してみると、見えなかったものが見えてくる。すべてを否定していた人間がすべてを肯定するのは、固定観念を脱しようとする挑戦である。そうであるなら、すべてを肯定していた人間がすべてを否定してみるのも、同じく脱固定観念への試みなのではないか。

 全肯定と全否定が同じ働きに見えてしまうのは、やっぱりぼくが逆説的人間だからかもしれない。だが、安易なYesのやりとりの末の共感は心もとない。真摯なNoのやりとりあってこその共感だろう。軽はずみなYesは厳しいNoよりも人に迷惑をかけるし破綻もしやすい―これはぼくにとって身にしみる経験則の一つになっている。

観察は個性を投影する

2011年6月21日 09:45

 企画力というと、情報収集や編集や構成ばかりがクローズアップされる。ところが、こうした技術に先立つものがある。カントが経験的認識の前に《ア・プリオリ》な概念として時間と空間を置いたように、企画者は企画に先立って時間的空間的な日常に目配りする必要がある。考えることに先立つこと、考えることよりもたいせつなことは、習慣形成された観察なのである。

 しかし、観察、とりわけ視覚に強く依存した観察では見誤りが生じやすくなる(そうでなければ、たとえばエッシャーのだまし絵などは成立しなくなるだろう)。ぼくたちはよく見ているようで実は見ていない。「百聞は一見にしかず」と言うけれど、一見そのものが危ういのである。見慣れた対象を流していることが多いし、あまり強く意識することもない。だから、普段の気づきは鋭敏ではなく、かなりいい加減なものになっている。「この目で見た」という確信ほど危ういものはないのである。

 それでも、環境適応しなければならない宿命を背負っているかぎり、感覚を研ぎ澄まして観察するしかない。周辺の物事に目を凝らすこと、なじみのある街中の光景に目を配ること、ありふれた人の動きを注視することが観察行動であり、こうした行動を抜きにして何かに着眼することなどできるはずもない。ぼくの知るかぎり、よき観察者でない者がよき企画者になったためしはないのである。こういう話をすると、素直な人は観察することの意義を理解してくれる。だが、観察の話はこれでおしまいというほど浅くはない。

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 「ようし、観察するぞ」と力(りき)む企画の初学者は、「ありのままの現実を正しくとらえること」が観察だと思ってしまうのである。観察が現実の細密な写実画であると勘違いする。よくよく考えてみれば、写実画にしてもありのままの現実の投影であるはずもない。現実と観察にはつねに誤差が存在する。そして、この誤差は決して排除すべきものではなく、存在して当然なのである。

 それゆえに、現実と観察の誤差を恐れる必要などさらさらない。繰り返すが、実像とイメージで再現された像の間には誤差やズレがある。誰が観察しても同じなら、その仕事を誰かに一任すればいい。しかし、そんな観察など何の値打ちもないだろう。個性は観察に介入し、観察時点で観察対象と自分は一つになろうとしているのだ。

 写実的観察という、ありもしない仕事にこだわるのをやめよう。観察結果は印象的でも抽象的でもいい。勇気をもって主体的かつ個性的に観察すればいい。独自の解釈や表現なくして、そもそも観察行為などありえないのである。よく「客観的な観察」と言われるが、異口同音に「そうだ!」という観察などは数値の中にしかない。それでもなお、その数値がありのままの現実の一部始終を示している保証はない。数値でさえ、対象を好都合に切り取っていることが多いからである。

コンセプトと属性

2011年5月29日 18:30

 使用頻度が高いにもかかわらず、適訳がないため原語のまま使っている術語がある。ぼくの仕事関係では《コンセプト(concept)》がその最たるものだろう。ちなみに社名の「プロコンセプト研究所」の中でも使っている。近いのは「概念」ということばだが、これでは響きが哲学的に過ぎる。「核となる概念」や「構想の根源」などは的確に意味を示せているものの、こなれた日本語とは言えない。やむなくコンセプトをそのまま流用することになる。

 商品コンセプトや企画コンセプト、さらには広告コンセプトなどとも使われる。多分にイメージを含んではいるが、イメージとは呼ばない。「こんな感じ」と言って誰かと共有するのもむずかしい。"Conceive"という動詞から派生したのだから、やっぱり「考えたり思いついたりすること」である。ならば、その商品で、その企画で、その広告で一番伝えたい考えや命題を言い表わすものでなければならない。ことばに凝縮表現できてはじめてコンセプトなのである。

 企画を指導するとき、コンセプトは欠かせないキーワードになる。「もっとも重要な考え」という意味では"big idea"(ビッグアイデア)と呼んでもいい。「この企画で一番言いたいこと、伝えたいことは何か?」とぼくはしょっちゅう質問している。言いたいこと、伝えたいことがぼんやりしているうちは、まだコンセプトが見つかっていない、あるいは作り込まれていないということだ。企画をモノにたとえたら、モノの最重要属性を決めかねているなら、「これがコンセプト!」と答えることはできない。

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 リンゴとは何か? 定義を知りたければ辞書を引けばいい。手元の『広辞苑』には「バラ科の落葉高木、およびその果実」と書いてある。さらに読む進むと、「春、白色の五弁の花を開き、果実は円形、夏・秋に熟し、味は甘酸っぱく、食用(・・・・・・)」とある。だが、企画において「リンゴとは何か?」と尋ねるときは、リンゴのコンセプトを聞いている。「リンゴの最重要属性は何か?」、または「リンゴの売りは何だ?」とずばり問うているのである。定義はコンセプトと同じではない。

 リンゴには形があり、色があり、味がある。場合によっては、好敵手のミカンと対比されたうえでの「関係性」もある。半分に切れば、そこに断面が現れるし、そのまま皮を剥けば白い果実に変身する。黒い鉛筆で描いたモノクロのリンゴの絵を二歳の子に見せたら、「リンゴ」と言った。では、ただの赤い円を見せても「リンゴ」と言うだろうか。いや、言わない。幼児にとって、リンゴの最重要属性は色ではなく、ミカンやイチゴとは異なる、あのリンゴ特有の形なのである。

 赤い色は大半のリンゴに共通する属性の一つである。しかし、同時に、赤い色はリンゴ固有の属性ではない。リンゴをリンゴたらしめているのは色や味ではなく、どうやら他の果物とは異なる形状のようである。話を企画に戻す。企画のコンセプトもかくあらねばならない。もっともよく差異化され固有であると言いうる属性をコンセプトに仕立てるのである。「際立った、それらしい特性」を抽象して言語化したもの―それがコンセプトだ。抽象とは引き出すことであるが、この作業には「それらしくない性質」の捨象(しゃしょう)伴う。何かを「抽(ぬ)く」ことは別のものを「捨てる」ことにほかならない。

遠近にとらわれない記憶

2011年5月24日 20:45

 誰もが記憶に遠近感があることに気付いている。脳には遠い記憶と近い記憶が入り混じって同居している。直近の事件や事故は大きく見え即座に想起できるが、実質的にはより深刻だった過去の事件や事故が小さく見え意識に上ってこない。高齢になると例外的に逆の現象が起こるが、病理的な原因もあるだろうし、最近の出来事への関心が薄れるという理由もあるだろう。美空ひばりの思い出が強く、AKB48には興味がないという場合などだ。直近の事柄が記憶にすら入っていないから、想起できないのもやむをえない。

 数百年前の人々が生涯に見聞してきた情報量に、現代人はほんの数日もあれば曝されてしまう。日々忙しく生きているから、「点情報」を動態的に追い掛ける。憎しみや悲しみはさっさと忘れてしまいたいという心情もある。しかし、忘れることができても、憎しみや悲しみはいくらでも更新される。マスコミは情報を垂れ流すし、ぼくたちも最新の事件ばかりに目がくらむ。大震災があって津波があって原発事故があった。悲惨である。しかし、すべての媒体が「悲しい色」に染まるべきではなかった。NHK教育テレビぐらいは子ども向け番組を編成してずっと放送し続けてもよかったのではないか。

 直近の悲劇を深刻に受け止める代わりに、その直前までに起こっていた大小様々の問題や怠慢や失態を忘れる。もっと恐いのは、やがて一段落すると、次なる目先の「どうでもいい芸能ニュース」が復活し始めることである。実際、そうなりつつある。熱しやすく冷めやすいと揶揄され続けてきた国民性だ。何度も見てきた「喉元過ぎれば熱さを忘れる」がまた蘇りそうな空気が漂う。執念や執着のプラス側にも目を向けておきたい。同時に、どんな悲劇があっても、それまでの幸福や恵みを忘れてはならない。

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 口の中に入った瞬間は熱くてたまらないから身に染みる。しかし、いったん飲み込んでしまえば、喉を火傷していないかぎり、ついさっきの熱さもすぐに忘れてしまう。苦い経験も苦痛も、過ぎ去れば忘れる。嫌なことをいつまでも覚えているのはストレス因になるから、忘却は脳生理学的には健全であるとも言える。人間は「忘却の生き物」なのである。しかし、よいことも忘れる。恩も忘れる。学んだことも教訓も忘れる。あれほどまでに憤り憎しんだ記憶も彼方に消える。カレー事件はすぐに思い浮かぶか、耐震強度偽装問題はどうか、食品偽装の数々は・・・・・・。裁判で結審の報道があるたびに、「そう言えば、そんな事件があったなあ」という始末である。

 記憶全体の地図上で行き先の一点のみを見ているようなものだ。直近の外部からの刺激に過剰反応して行動するのは、「目の前のエサしか見えないカエル」と同じである。カエルをバカにするわけにはいかない。あまりにも多種多様な情報が飛び交っているから、同時にあれこれと想起し考えられなくなっている。やむなく一つずつ処理する。目の前の事柄のみに日々追われる。まるで情報浮浪民である。

 点しか見ないから、昨日の点を忘れる。点と点がつながらない。過去からの経験が連続体として生かされず、今日の記憶から過去の記憶が排除されてしまっている。記憶の線が途切れれば、論理的思考どころではなく、刹那的発想しかできなくなる。一見すると、《いま・ここ》の生き方をしているようだが、《いま・ここ》を通り過ぎるばかりで、《いま・ここ》に集中し注力しているわけではない。遠近両用の記憶を保つためには、もっと頻繁に過去や歴史への振り返りをするほかない。場合によっては、瑣末な最新情報に目をつぶることも必要だろう。

大量、集中、高速、反復

2011年5月15日 21:50

 「重厚長大(じゅうこうちょうだい」が遠い昔の幻影のごとく虚ろに見える。重くて分厚くて長くて大きいものが日本経済を支えた時代があった。造船、鉄鋼、セメント、化学などの産業が重厚長大の代名詞。半世紀前のこの国では「大きいことはいいこと」だったのである。しかし、高度成長時代の終焉とともに、そしてエレクトロニクスやサービス業の台頭もあって、重厚長大産業は急激に人気も業績もかんばしくなくなった。

 代わりに主役に躍り出たのが「軽薄短小(けいはくたんしょう」だ。多分に語呂合わせの要素もあるので、何もかもが軽く薄く短く小さくなったわけではない。省エネルギーや環境負荷の軽減の掛け声には軽薄短小のリズムがよく合ったようである。実際、身近な商品は多分にその方向にデザインされ製造された。とはいえ、どれが軽薄短小かと自宅の中を見渡してみても、薄型テレビ、携帯電話、ノートパソコンくらいなものである。冷蔵庫や洗濯機は間違いなく大型化している。思うに、軽薄短小は目に見えない電子部品やソフトウェアを強く象徴したのだろう。

 それはともかく、頼もしい雰囲気、語感という点で重厚長大に軍配を上げたい。「きみは軽薄短小な人だね」と形容されては喜べないだろう。環境負荷が大きくてエネルギーを食う重厚長大よりも「優れている」つもりで命名したはずの軽薄短小。なのに、なぜこんな響きの四字で命名してしまったのか。重-軽、厚-薄、長-短、大-小と、一文字ずつの漢字の単純反語を並べたのはいいが、もう少し知的に響かせる工夫があってもよかったのではないか。

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 ノスタルジックに重厚長大を志向する経済社会の復活を願うものではない。資源は希少であるから軽薄短小的に使うほうがいいだろう。ただ、ヒューマンリソースを同じように扱うことはない。個人の知的生産活動にあたっては軽薄短小に落ち着いてしまってはいけないと思う。読書も語学もその他の趣味も、大量かつ集中的に高速でおこなうのがよく、できれば何度も何度も繰り返すのがよい。何かに精通して生産的になるためには、大量、集中、高速、反復の要素が欠かせない。才能の有無にかかわらず、である。

 大量、集中、高速、反復は、ムダな資源をダラダラと長時間浪費しないための心得だ。長時間取れないという前提、少なくとも決めた時間内だけの知的活動という前提に立っての条件なのである。大量とは、素材、すなわち情報に関わる条件である。多品種でも少品種でもいい、できるだけ多く扱い触れるようにする。以前三時間かけていたところを一時間でおこなう。これができれば、同時に集中と高速が実現していることになる。ぼくは速読の理解効果に関しては半信半疑の立場にあるが、速読の大量・集中・高速の効果を否定はしない。

 しかし、勇ましい大量・集中・高速だけで終われば、バブリーな重厚長大の二の舞を演じてしまう。知的生産活動には忍耐というものが必要だ。忍耐とは飽くことなく繰り返すことにほかならない。反復という単純行為は、大量・集中・高速で触れた素材を確実に記憶庫に落とす最上の方法なのである。記憶媒体や電子機器のなかった時代によく実践されたのは、音読であり紙に書くという身体的トレーニングであった。結局、読書にしても語学にしても、短時間で反復するほうが効果が上がっている。「継続反復は力なり」という格言を作ってもいいと思う。

真偽を確かめる方法

2011年4月29日 18:15

 推論や証明は直球で論じると不粋なテーマになってしまう。そうならないよう、肩の凝らない、気楽なエピソードを紹介しよう(最後に少々教訓めいた結論を導くことになりそうだ)。

 初心者対象のディベートの勉強会をしていた頃、英国で出版された"Make Your Point"という中学生向けのテキストを参考にしていたことがある。議論の演習を目的としたもので、30の命題が設けられている。「美か知か」や「学生はアルバイトをすべきか」や「自動車―祝福か呪いか」などのテーマについて、質疑応答をおこない、賛否を考え、最終的にフリーディスカッションをする体裁に編まれている。英文もやさしく、よくできた本である(初版は1975年。手元にあるのは1987年版の11刷)。その本から「若い科学者: 残酷、それとも好奇心?」というテーマを取り上げてみる。次のような導入が書かれている。

 蜘蛛にとても興味のある生徒がいた。「蜘蛛には耳がないようである」と「蜘蛛にはたくさんの足がある」という二点が気に掛かっていた。ある日、「蜘蛛には特別な足があり、それで聞いているに違いない」とひらめいた。そして、生物の先生にこのことを話してみたのである。「それはおもしろい理論だね。でも証明するには実験をやってみないと」と先生は言った。少年は実験をすることにした。

☆ ☆ ☆

 その実験が常軌を逸しているのだが、フィクションだと思えば許せる。少年が試みた実験の手順は下記の通りであった。

 実験目的: 蜘蛛が足で聞いているかどうかを調べる。

 使用器具: 鋭利なナイフ、蜘蛛、テーブル。

 実験(i):  テーブルの中央に蜘蛛を置き、「跳べ!」と命じた。

 結果(i):  蜘蛛は跳んだ。

 実験(ii):  蜘蛛の足をナイフで切り落とし、蜘蛛をテーブルに戻し、「跳べ!」と命じた。

 結果(ii):  蜘蛛は跳ばなかった。

 さて、以上の実験と結果から少年はどのように推論して結論を導いたのだろうか。彼の仮説「蜘蛛には特別な足があり、それで聞いているに違いない」は次のように証明されたのである。

 結論: (足を切り落とした二度目の実験で)蜘蛛が跳ばなかったのは、「跳べ!」という指示が聞こえなかったからである。ゆえに、蜘蛛の足には聴覚がある。

☆ ☆ ☆

 残念ながら、少年が試みた証明は事実に反している。専門家やぼくたち一般人が承知している事実に、である。蜘蛛は足で音を聞いていないことをぼくたちは知っている。いや、それが事実かそうでないかを棚上げしても、この実験では不備が多すぎることを感知できる。蜘蛛は人間が発する「跳べ!」を解せるのか、「跳べ!」に対して跳んだのは偶然ではないのか、仮に「跳べ!」を聞いて意味を解しても、足を切り落とされたら跳びたくても跳べないではないか・・・・・・。

 ぼくたちの素朴な疑問に対して少年は必死に答えるだろう。ぼくたちが執拗に検証すれば少年は反論もするだろう。しかし、彼の証明は空しい。実験は不完全であり、既知の事実を覆すだけの新説を打ち立てるには到っていないからである。

 ぼくたちが少年の証明を認めないのは、蜘蛛について、聴覚について、足について、跳ぶことについてすでに知っているからである。ぼくたちには経験と知識において、少年よりも一日の長があるように思われる。しかし、まったく経験も知識も持ち合わせないテーマの実験に対してはお手上げである。自力で真偽を確かめるすべはないから、真偽を権威に委ねざるをえない。そして、ぼくたちが頼りにしている権威が専門分野に関して何でもかんでもお見通しというわけではないことを知っておくべきだろう。教訓「よく知っていることについて真偽を確かめることはできる。あまりよく知らないことについては確かめるのが困難である。」

どんな脳にしたいのか?

2011年4月26日 11:00

 人にはそれぞれのスタイルがある。歩き方、食べ方、装い方、話し方、眠り方・・・・・・など数え上げればキリがない。自然と身についたものもあれば、意識して自分流にしてきたものもあるだろう。遠目に米粒ほどの大きさにしか見えないのに、歩き方だけで誰々と特定できたりする。その他もろもろの型が組み合わさって本人独自のスタイルが生まれる。

 ぼくたちは生まれてきたままでは留まらず、年を追って見た目や行動を変えていく。やがて一定の年齢に達すると、ありとあらゆる営みがカスタマイズされた状態になる。ところで、「どんな人になりたいか?」と若者に聞くと、「◯◯のような人」と答える。◯◯には有名人や身近で尊敬できる人が入る(ちなみに、「◯◯のようになりたい」と言うのは簡単だが、「◯◯のどんなところ」や「どんな◯◯」に落とし込まなければ意味がない)。

 次に、「あなたは自分の脳をどんな脳にしたいですか、育てたいですか?」と聞いてみよう。実際、ぼくはこんな質問をよくしたものである。するとどうだろう、たいていの人は即答しない(たぶん、できない)。おもむろに口を開けて、「処理能力の高い脳」や「考える脳」や「創造的な脳」などと答える。一つにくくれば「賢い脳」を求める人が多い。そこで、もう一度聞く。「個性のある賢い脳にしようと意識して励んでいるか?」 ヘアスタイルや服装や趣味やグルメに比べれば、望む脳へのこだわりがほとんどないことがわかる。賢い脳などと、漠然と期待しているようでは、まず賢くなれない。

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 脳に固定的なスタイルを期待するのはやめたほうがよい。衣装や振る舞い以上に、脳はTPOに柔軟に順応できるのだ。TPOに応じて千変万化してくれる脳が個性的な脳なのである。もっと具体的な脳の働きをイメージしてみれば、その方向に動いてくれる。たとえば、ある目的へ一目散に向かってばかりいると、脳は見えないもの、気づかないものを増やしてしまう。そこで、《寄り道する脳》や《脱線する脳》へと鍛え直す。

 《Before脳》と《After脳》をセットで使う。前者は過去(使用前)を見る分析的な脳、後者は未来(使用後)をシミュレーションする脳。どちらも見ないと、目の前のエサしか見えない「刹那脳」になる。いずれか一方だけ見るのも偏りである。BeforeとAfterを同時に視界にとらえれば、脳が勇躍する。他に、知の気前がよくお節介な《サービス脳》がある。発想豊かでジャンプ力を秘めた《飛び石伝い脳》もあり、何でもすぐに出てくる《引き出し脳》もある。

 脳を縦横無尽に働かせるためには、知のインプット時点が重要である。インプットは印象的に。少々デフォルメしたインデックスをつける。イメージとことばを組み合わせて情報を仕入れる。できれば異種どうしがいい。一情報だけを孤立させて詰め込むのではなく、他の情報といつでもドッキングできるよう住所不定にしておく。浮遊状態かつ具材がよく見える寄せ鍋のように。積んではいけない。広げておかなければならない。単機能ではなく、複合機能として脳を働かせようとすれば、インプットのスタイルを硬直化してはいけないのである。

生活と仕事の密接な関係

2011年4月22日 14:50

 理論武装できるほどの論拠を持ち合わせていないが、生活の現実はおおむね仕事ぶりに反映されると考えている。ダラダラと生きていたらダラダラと仕事をしてしまう。だらしない日常はだらしない仕事に直結する。無為徒食の日々を送っていれば、ろくな仕事をしないで給料をもらうことに平気になる。明けても暮れても遊んでいる者は仕事すらしないだろうし、流されるような惰性的生き様は、左から右へとただ流すだけの仕事に直結するのではないか。

 生活を置き去り等閑(なおざり)にしたままで、いい仕事ができるはずがないのである。休日に運動し過ぎて身体を壊す。かと思えば、別の日には昼過ぎまで爆睡。アフターファイブは元気溌剌と友人と暴飲暴食、翌日はぼんやりアタマで遅々として進まぬ仕事に向き合っている。暮らしぶりを見たらぞっとする、しかし表向きだけプロフェッショナルを装っている人間は結構いるものだ。「遊びは芸の肥やし」などと、まったく実証性のない自己弁護でふんぞり返っている芸能人もそこらじゅうにいる。二十代半ばで放蕩三昧から足をきっぱり洗って聖職に就いたのはアッシジのフランチェスコだ。悪しきライフスタイルとの決別は、一気にやり遂げねばならない。凡人にはなかなかむずかしいことだが、実は、少しずつ変革するほうがもっとむずかしいのである。

 やわらかい発想を身につける方法やアイデア脳の育て方について、講演もしているし相談もよく受ける。ぼく自身、決して威張れるような日常生活を送っているわけではないが、クオリティオブライフとクオリティオブビジネスを一致させるべく努力はしている。ふだんぼんやり暮らしているくせに、仕事の場だけ上手にアタマを使おうというのは虫のいい話なのである。相談してきた人には「恥じないようなライフスタイルへと向かいなさい」と言う。素直な人は「わかりました。明日からそうします」と決意を示すが、すぐさま「ダメ! 今すぐです!」と追い打ちをかける。今日できることを明日に先延ばしするメリットなどどこにもない。決断と行動は同時でなければ意味がない。

☆ ☆ ☆

 様子を見てから・・・・・・、状況に照らしながら・・・・・・、相手の出方次第で・・・・・・、諸般の動向を睨んで・・・・・・などはすべてペンディング動作にほかならない。「アメリカの動きを見て・・・・・・」などと言っているから先手で意思決定もできず政策も打ち出せないのである。自分が自分でどうするかをなかなか決めない。状況や条件ばかり気にして、自発的かつ主体的に動かない。条件にあまり縛られない日常生活でこんな調子なら、本舞台の仕事では身動き一つ取れなくなるのが当たり前だ。

 杜撰なライフスタイルは脳を怠惰にする。怠惰な脳は意思決定を躊躇する。反応的にしか働かなくなるのである。アタマを使う仕事がはかどらなくなると、どうなるか。人は考えなくてもいい作業ばかりに目を向け、無機的な時間に異様な執着を示し始めるのである。その最たる作業が会議だろう。「昼過ぎて まだ朝礼中 あの会社」という川柳を冗談で作ったことがあるが、あながち非現実的なジョークでもない。緊張感のない生活価値観は必ず仕事に影響を及ぼす。顧客と無縁な作業―社内の人事考課、業務レポート、朝礼、その他諸々の管理業務―がどんどん増えていく。

 かつて公私混同するなとよく言われた。その通りである。しかし、精神性や脳の働きに公私の区別が付くはずもない。気持ちもアタマもゆるゆるの生活者が、家を出て会社に着くまでの間にものの見事にきびきびとした仕事人に変身できるわけがないのである。〈私〉の姿をいくら包み隠そうとしても、〈公〉の場で仕事の出来や姿勢に本性が露呈してしまうのだ。ビジネススキルの前にヒューマンスキルがあり、さらにヒューマンスキルの前に胸を張れるようなライフスタイルを築かねばならない。要するに、「生活下手は仕事下手」と言いたかったのだが、はたして大勢の人々に当てはまるだろうか。

  仕事上の能力開発のアドバイスをするために、生活態度や日々の暮らしぶりにまで介入して口はばったいことを言わねばならなくなった。必ずしも歓迎材料ではないが、日常の習慣形成を棚上げしたままでは、ぼく自身の教育へのコミットメントが完結しないのである。こんな姿勢を示すと、都合の悪い人が去ってしまうことになりかねないが、それもやむをえない。

脳と刷り込み

2011年3月11日 08:30

 口も達者でアタマの回転もそこそこいい「彼」が、その日、人前で「あのう」や「ええと」を連発していた。宴席に場を変えて軽いよもやま話をしていても、なかなか固有名詞が出てこない。だいたい男性の物忘れは、「名前を忘れる→顔を忘れる→小用の後にファスナーを上げ忘れる→小用の前にファスナーを下ろし忘れる」という順で深刻度を増す。だから、名前を忘れるのは顔を忘れるよりも症状が軽い。それに、人の名前を忘れるくらい誰にだってある。

 しかし、「彼」の場合、短時間に複数回症状が見られた。言及しようとしている人物の名前がことごとく出てこないのである。「ちょっと気をつけたほうがいいよ」とぼくはいろいろと助言した。最近、このようなケースは決して稀ではなくなった。ぼくより一回りも二十ほども年下の、働き盛りの若い連中に目立ってきているのである。幸い、ぼくは年齢以上に物覚えがいいし、物忘れもしない。ただ、脳を酷使する傾向があるので、「来るとき」は一気に来るのかもしれない。

 別の男性が若年性認知症ではないかと気になったので、名の知れた専門家がいる病院に診断予約を取ろうとした。ところが、「一年待ち」と告げられたらしい。一年も待っていたら、それこそ脳のヤキが回ってしまう。科学的根拠はないが、ことばからイメージ、イメージからことばを連想するトレーニングが脳の劣化を食い止めるとぼくは考えているので、そのようなアドバイスをした。簡単に言うと、ことばとイメージがつながるような覚え方・使い方である。但し、ことばとイメージのつながり方は柔軟的でなければならない。

☆ ☆ ☆

 習慣や知識を短時間に集中的に覚えこんでしまえば、その後も長い年月にわたって忘れない。動物に顕著な《刷り込み(インプリンティング)》がこれだ。偶然親鳥と別れることになったアヒルやカモなどのヒナが、世話をしてくれる人間を親と見なして習慣形成していく。人の場合もよく似ているが、刷り込みは若い時期だけに限って起こるわけでもない。たとえば、中年になってからでも外国語にどっぷりと集中的に一、二年間浸ると、基礎語彙や基本構文は終生身についてくれる(もちろん、個人差も相当あるが・・・・・・)。

 刷り込みはとてもありがたい学習現象である。このお陰で、ある程度習慣的な事柄をそのつど慎重に取り扱わなくても、自動的かつ反射的にこなしていくことができている。要するに、いちいち立ち止まって考えなくても、刷り込まれた情報が勝手に何とかしてくれるのだ。だが、これは功罪の「功」のほうであって、刷り込みは融通のきかない、例の四字熟語と同じ「罪」をもたらす。そう、固定観念である。刷り込まれたものがその後の社会適応で不都合になってくる。

 あることの強い刷り込みは、別のことの空白化だということを忘れてはいけない。博学的に器用に学習できない普通人の場合、ある時期に世界史ばかり勉強すれば日本史の空白化が起こっている。昨日瞑想三昧したら今日は言語の空白化が生じる。ツボにはまれば流暢に話せる人が、別のテーマになると口を噤(つぐ)むか、「あのう」と「ええと」を連発するのがこれである。どう対処すればいいか。自己否定とまでは言わないが、定期的に適度な自己批判と自己変革をおこなうしかない。

 「五十歳にもなって、そんなこと今さら・・・・・・」と言う人がいる。その通り。固定観念は加齢とともに強くなる。だから、ことば遣いが怪しくなり発想が滞ってきたと自覚したら、一日でも早く自己検証を始めるべきである。

プロフィール

岡野勝志(おかのかつし)
1951年大阪生まれ

企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長
企画アイディエーター
岡野塾主宰

ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。
マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人材の課題に対して、「即答即決アイディエーティング」をおこなっている。

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