Memorandom At Randomの最近のブログ記事
立つか座るか
2011年12月 7日 17:15
ブログを始めてから三年半。これまでは最長でも五日ほどしか空かなかったが、初めて一ヵ月もごぶさたしてしまった。海外に出てiPadからアップすればいいと気軽に思っていたが、思ったほどうまくタイピング(タッピング?)できない。そもそも長い記事を書くタイプなので、二、三行書いて「ハイ、おしまい」で片付けられない。億劫になって、手軽に投稿できるfacebookになってしまった。
帰国後ずいぶん反省して一念発起したのだが、それからすでに一週間以上も経っている。ネタ不足か、行き詰まりかと自問するも、そうでもない。書きたいことや少考してみたいことはいくらでもあるのだ。よくよく考えて、どうやら息の長い文章を綴る習慣が元に戻らないという結論に落ち着いた。徐々に取り戻そうと思うが、同時に、この機会にあっさりと書くスタイルに変えてもよさそうな気もしている。
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閑話休題。イタリアでもフランスでもそうだが、喫茶店(バールやカフェ)でコーヒーを飲むときに、立って飲むか座って飲むかという選択肢がある。カウンター内のバリスタに注文し、カウンターの上に出されたエスプレッソやカフェラテをその場で飲むのが立ち飲み。座って飲むのは、日本の通常の喫茶店のスタイルと同じ。まず気に入ったテーブルに座り、注文して運んでもらう。
同じものを飲んでも、座って飲めば料金は立ち飲みの2.5倍か3倍になる。テーブルでは席料が加算されるシステムなのだ。観光名所近くのカフェに入ると、強引に観光客にテーブル席を勧めてくる。店にとっては当然の作戦。カウンターで飲めば180円ほどのカフェ・クレームがテーブルでは520円になる。というわけで、よほどゆっくりとくつろぐ気がないときは、ぼくはカウンターに直行して注文する。
パリ3区のボーマルシェ通りに面したカフェの看板。一行目には「カウンターでのプチ・デジュネ」とあって2ユーロ。ホットドリンクとトーストとジュースのモーニングセットをカウンターで飲んで食べれば210円とは格安だ。トーストがクロワッサンかブリオッシュに、ジュースがしぼりたてのオレンジに少々格上げされるものの、ほとんど同じメニューをテーブル席で注文すると6ユーロと3倍になる(ちなみに一番下の8.9ユーロのメニューは、ビュッフェ、すなわち食べ放題)。
毎日同じカフェにやってくる常連は、仕事の前にさっと立ち飲みして1ユーロ前後を置いて出ていく。観光客やカップルはだいたい座っている。座って通りを眺めたりお喋りしたり本を読んだりしても、普通のカフェなら250円か300円だから、日本の喫茶店よりもだいぶ安い。なお、チップを置いていくという習慣もここ数年でだいぶ薄れてきたような印象がある。
人口爆発!
2011年11月 4日 15:00
ぼくが生まれ、小学低学年時代を送った1950年代、日本の人口は世界5位だった。社会科で教わった中国、インド、アメリカ、ソ連、日本という順位をよく覚えている。現在に至るまで、上位の三国は変わっていない。ソビエト連邦が解体してからはインドネシアがずっと4位。ブラジル、パキスタン、バングラデシュ、ナイジェリアなどが追い越し、日本は現在10位である。ランキングマニアはどう言うか知らないが、ぼくはこの数字を見てすごいと思っている。FIFAのランクより上だ。
初めて「人口爆発」を耳にしたときは物騒な表現だと感じたものの、人間の数など一気に増えるものではない、仕掛けた爆弾が爆発するのとはわけが違うという受け止め方だった。ところが、産業革命の頃からではなく、有史以来からのグラフを見てみると、「右肩上がり」などは悠長な表現であることがわかる。ぼくの生まれた1950年代から急激に垂直と言ってもいいほどの方向に向かい始めているのだ。
そして、ついにと言うべきか、予想通りと言うべきか、わずかこの半世紀で2倍以上に膨らんだ人口が、去る10月31日に記念すべき(?)70億人に達したのである。少子化の懸念が強いわが国にしても昭和初期から見れば倍増している。予測では7、80年後にはその水準に戻るらしいが、それでも現在のフランス、イギリス、イタリアなどと同じ6000万人前後だ。そうなる頃、これらの国の人口はさらに減少しているはずである。
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西暦1800年の頃の世界人口は10億人だったそうだ。二百年で7倍である。紀元前、人口が1億人増えるのに要したのは2500年。ところが、今では10億人増えるのにわずか12年という爆発ぶりである。人類が70億人をカウントした翌日の11月1日の午前8時、すでに25万人近くが増えていた。人口増加とは「誕生者-死亡者」であるから、実際はもっと大勢の赤ん坊が生まれていることになる。
文化の日の昨日の午前8時には70億にプラス61万人だった。4日の今日の午前中に見たら、80万人を超えていた。明朝には100万人を超えているはずである。関心がおありなら、http://arkot.com/jinkou/ を覗かれるといい。《世界人口時計》なるものだ。その時々の心理によるが、刻々と増えていく数値を見ていると不思議な気分になってくる。また、何事かを考えようとしている自分に気づく。なお、人ではなく、お金が湯水にように流されていく刻一刻を体感したければ、こちらの《日本借金時計》。馬鹿らしさを通りすぎて笑ってしまうだろう。http://debt.blogp.jp/
苦情の語調
2011年9月25日 09:00
十日前に焼鳥屋の日替りランチを食べた。ランチの話題はふつう味云々ということになるのだろうが、そうではない。もう一度書くが、食べたのは日替りランチである。カラアゲ定食ではない。ぼくと知人男性の二人で行った。知人はカラアゲが好物である。その日替りランチを注文した。鶏のカラアゲ、豚肉とオクラの炒めもの(スパゲッティ添え)、コロッケの三品がワンプレート。これに小鉢一品。もちろん、ご飯と味噌汁とお新香もついている。以上がプロット。
ぼくたち二人より2、3分後に入店してきた男性三人が隣のテーブルにつき日替りを注文し、彼らに先に配膳された。時間差なくサーブされる可能性があるので、まあいい。これくらいのことで文句は言わない。言わないでよかった、ほどなくして日替りが来たから。しかし、持って来たのは一人前のみ。ぼくの前に置いた。同じものを頼んだのだから、当然すぐに来ると思って「じゃあ、お先」とゆっくり食べ始めた。
だが、待つこと数分、あと一人分が来ない。「よし、ここで一言しておくか」と思ったちょうどその時に来た。女性店員は知人の前にランチを置いてそそくさと去る。その盛り付けを見て呆れた。キャベツの上にカラアゲが寂しそうにポツンと1個! ぼくのは3個だ。メニューの日替りランチの内訳の一つ目にカラアゲと書いてあるのだ。味噌汁の多少ならともかく、カラアゲの個数を人によって変えてはいけないだろう。これで三度目、店員を呼びつけようとしたら、知人がぼくの殺気を感じたのか、「あ、自分で言います」とつぶやいたので、任せた。
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後ろを通りかかった別の店員を呼び止め、人のいい知人はまだ手をつけていないカラアゲ1個を指差して、「すみません、これちょっと少ないんですけど・・・・・・」と言った。とても上品だが、こんな文句の言い方では話にならない。間髪を入れずに、「同じランチを注文して、こっちがカラアゲ3個で、今来たのが1個というのはおかしいだろ!?」とぼくが追い打ちをかけた。店員の顔に錯綜した「しまった」と「どうしよう」が浮かんでいる。
結論から言うと、厨房の男性が小皿にカラアゲ2個を持って来て詫びた。「なんでこんなことになるんでしょうね?」と知人は怒る様子もなく、ぼくにつぶやく。「店ぐるみの準確信犯だよ、これは」とぼく。「その時間ごとにおかずの増減が起こるから、グループが違えばおかずの量を調整する。カラアゲが足りなくなって1個にした。その穴埋めのつもりで、きみの豚肉とオクラの量を多めにしたんだろう」。
同じグループだが、何かの拍子に厨房への注文が別扱いになった。運んできた店員は一人客だと思っていたが、二人連れで、しかも先に一人前がサーブされているのに気づいた。だが、カラアゲ1個はやばいと思いながらも、そのまま置いていったに違いない・・・・・・ というようなことを知人に話したら、「ただの凡ミスではないですかね?」と鷹揚である。物分りがよすぎるのも困ったものである。
店員の顔には、「カラアゲ1個はまずいが、ええい、ままよ、何か言われたらその時はその時」という表情が明らかに浮かんでいた。「きみね、クレームのつけ方がおだやかすぎる。化け物のようなクレーマーになってはいけないが、毅然とした語気の強さを欠いてはいけない」とぼくは知人に言った。「これちょっと少ないんですけど・・・・・・」はない。学校給食と違うんだから。店を出る頃、店の対応よりも知人の対応にぼくは苛立っていた。
時には見て見ぬふり
2011年9月20日 08:30
バッグが落ちた。「堕ちぶれたバッグ」ではなく、文字通りの「落ちたバッグ」。しかも、他人のバッグ。
特急列車に乗ると、膝の前あたり(つまり前席の背面)に網袋がある。上部の口がゴムになっているから、ペットボトルや雑誌をはさんでも落ちてこない。弁当をタテにしてはさむこともある。最近の弁当箱は細かく仕切りられているので、おかずの位置はあまり乱れない。
たいていの特急は通路をはさんで左右が二席ずつ。進行方向に向かって、左から窓側A、通路側B、通路側C、窓側D。その日座ったのはD席だった。しばらくして、二十代前半らしき女性三人組が乗ってきた。二人が通路向こうのA席とB席、そして一人がぼくの隣のC席に座った。最初の数分間、彼女らは通路をはさんで楽しそうに話していたが、通路向こうのどちらかが「私、寝ようっと」と言ってからは静かになった。
ぼくは読書に集中していた。隣の女性(仮にC嬢)はしばらく携帯でメールをしていた。別に携帯ディスプレイを覗き見したわけではない。否応無しにぼくの視界に入ってくる。なにしろ、本の左ページの端とC嬢の右手の距離はほんの30センチほどしかない。突然、C嬢は携帯を閉じて膝の上に置いていたバッグに入れた(そんな動作すらわかってしまう)。バッグはマチのない柔らかそうな皮製で、おそらく40×50センチくらいの大きさだ(もう一度書くが、ぼくは何一つ細かく観察などしていない。「隣人の動作」が勝手に視界に入ってきたのである)。
☆ ☆ ☆
C嬢は前方の網袋に、絶対入り切りそうもないそのバッグを「はさんだ」。はさんだだけなので、全体の8割ほどがゴムの口の上方にはみ出ている。バッグをそんな状態にしたまま、C嬢はトイレに立った。列車は揺れる。案の定、ほんの十秒も経たないうちにバッグが床に落ちた。ぼくは通路向こうのA嬢とB嬢のほうに目をやったが、二人ともすでに安眠態勢に入っていて、気づくはずもない。
自分の前を歩く人が財布を落としたら、その財布を拾って歩み寄り、「落ちていましたよ」と言える。しかし、この場合、バッグは落ちたが本人がそこにいない。隣の見知らぬ男がそのバッグを拾い上げて、座席に置くとしよう。戻ってきたC嬢は本を読み耽っているように見えるぼくを怪しむに違いない。最悪は、バッグを手にしているちょうどその時に目撃される場合だ。どんなに正当な理由をつけようとも、言い逃れはできない。
拾って座席に置いてあげても、C嬢が戻ってきたら自分から状況説明するしかない。「あなたが席を離れた後にバッグが床に落ちました。拾って座席に置いておきました」とわざわざ言うのか。ただ隣に座っているだけの、見も知らずの男のそのような言をぼくなら信用しない。要するに、本人不在のこのような状況で落ちたバッグに絶対に触れてはいけないのである。ゆえに、ぼくは見て見ぬふりをして本を読み続けていた。戻ってきたC嬢は落ちているバッグを見て、その後にぼくの横顔を睨んだに違いない。当然バッグの中を丹念にチェックしていた。やむをえない。ぼくだってそうしただろう。
あることを知りながら気づかなかったふりをするのは耐えがたい。だが、これしかすべはなかった。「見て見ぬふり」はけしからんと思っていたが、やむをえない自己防衛なのかもしれない。ぼくの中ではややすっきりしないものが残っているが、「知らなかったくせに気づいていたふりをする」よりはましかもしれない。
一番つながりの怪
2011年9月13日 21:50
車を運転しない。所有していて運転しないのではない。車を持っていないのである。もっと正確に言うと、運転免許を取得したことがないのである。別にアンチオートモービリズム(反自動車主義?)の思想家でも運動家でもない。人生において何百分の一かの偶然によって縁がなかっただけの話である。
「車がなくて困ったことはないか?」とよく聞かれてきたが、車がないこと、つまり「車の欠乏」が常態であるから困りようがない。いや、困っていることを想像することすらできない。だってそうだろう、無酸素で生きることができる人間に「酸素がなくて困ったことはないか?」と聞いているようなものではないか。但し、「車があれば・・・・・・」と想像できないほどアタマは固くない。「もし手元に自由になる百万円があれば・・・・・・」を仮想するのと同じ程度に「もし車があれば・・・・・・」と仮想することはできる。
というわけで、真性の車オンチである。車オンチではあるが、広告やマーケティングのお手伝いも少々しているので、仕事柄テレビコマーシャルはよく見るし、その中に自動車も含まれる。だが、傾向としては、他商品に比べると淡白な見方になっているのは否めない。メーカー名も車種も覚える気がないので、コマーシャルの構成やプロットも流すようにしか見ていない。だから、狂言師の野村萬斎がいい声でホンダのフィットを持ち上げているのを耳にしても、「ふ~ん」という無関心ぶりであった。
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ところが、先日、数度にわたってじっくり見てしまったのである。そして、見てしまった結果、「これはダメでしょう、ホンダさん!?」とつぶやいたのである。「たとえばケーキだと、一番売れてるケーキがやっぱり一番おいしいはず」という命題はどうにもいただけないのである(広告コピーに命題とはなんと大げさなと言うなかれ。英語では"selling proposition"、売りの命題と言う)。
販売至上主義やナンバーワンがどうのこうのと道徳論を持ち出すつもりなどない。一番は二番よりもいいことくらいわかっている。言いたいのは、「一番売れてるケーキ」が何を意味しているか不明であること。ケーキの種類なのか、特定パティシエが創作するケーキなのか、お店やベーカリーを暗示しているのか、さっぱりわからない。仮にイチゴショートが一番売れているのなら、それが一番うまいということになる。そして、秋には栗たっぷりのモンブランにおいしさ一位の座を奪われるというわけだ。
次に問題なのは、あることの一番が自動的に別のことの一番になるという、無茶苦茶な論法である。一番売れてる◯◯は一番流通上手、一番宣伝上手、一番安い・・・・・・など何とでも言えるではないか。ケーキだから「おいしい」がぴったり嵌っているように見えるが、「一番売れてる本」なら「一番何」と言うのだろうか。一番売れてる本がやっぱり一番おもしろいはず? 一番ためになるはず? 一番話題性があるはず? 一番読みやすいはず? どれでもオーケー、自由に選べる。命題はまったく証明されていない。たかがコマーシャルだけれど、そう言って終われない後味の悪さがある。
「一番売れるケーキが一番おいしいはず」という仮説を持ち出した手前、この広告は「日本で一番売れているフィットが10周年。これまたおいしそう」で締めくくらざるをえなくなった。いや、ケーキを持ち出したのだから、「一番おいしいつながり」以外に終わりようがない。おいしいケーキは想像がつくが、おいしい車にぼくの味覚は反応しない。狂言が好きだし、従妹もホンダアメリカにいるので大目に見たいが、わざわざケーキをモチーフに使った意味が響いてこない。ケーキと車がどうにもフィットしないのである。
ほっと一息の、その直後
2011年8月19日 16:45
明日からの一週間は断続的に出張、ほとんどオフィスに顔を出さない。仕事柄、もともと夏休みはあってないようなもので、今年も楽しく仕事三昧している。いま「楽しく」と書いたが、少々やせ我慢しているかもしれない。ひとまず「ねばならないこと」はやり終えたし、今月いっぱいの仕事のメドもついた。というわけで、ほっと一息ついている。しかしながら、経験上、このような安心感は曲者だ。ほっとした瞬間から、妙なことに胃のあたりが少々キリキリし始めた。つい半時間ほど前までは何ともなかったのに・・・・・・。
ところで、企画を指導していると、初心者が選ぶテーマによく「安心」ということばが登場する。危機管理の世相を反映しているのかどうかわからないが、たとえば核家族化時代の家庭のキーワードに「安心」「安全」が使われる。受講生の企画内容にはいっさい立ち入らないが、助言やヒントは授ける。あるとき、「あくまでもぼくの主観だけれど、安心、安全ときたら、もう一つ加えて『三安』にしてみたら?」と言ったことがある。軽い気持ちだったが、そのグループはえらく真剣に受け止めて、あと一つの「安」を探すのに必死になった。
安寧(あんねい)はどうかと聞いてきたが、「それはちょっと。安心、安全と並べるには違和感がある」と答えた。安堵、安眠、安産まで捻り出したが、時間も迫ってきたので、結局彼らは「安息」で手を打った。ちなみに、安心は気持ちや気分の落ち着き、安全は生命が事故・災害に脅(おびや)かされないこと、安息は(やや宗教めくが)リラックスしている状態というニュアンスだ。
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これをきっっかけにして、特に安心と安全という用語の使い方を注視してきたが、頻繁にセットで使われ、場合によっては平然と互換されることに気づく。ちょっと待てよ、安心と安全に意味の重なる部分などないのではないか。数冊の辞書に目を通してみたが、安心は個人的・精神的な概念であり、安全は社会的・身体的な概念のはずである。
「安全神話」ということばが示す通り、「安全です」と宣言されれば安心感は強まる。安全は安心を誘い出すようだ。かと言って、可逆的に安心が安全を確約することはありそうもない。安全にしても基準次第て度合に強弱が生まれる。つまり、安心という意識と安全という状態は「似たものどうし」なのではなく、本来相互乗り入れできない概念なのだ。
安全神話が破綻している今日、安全確認にピリオドを打ちにくくなった。それでも、ある動作なり状況の安全確認には一区切りはつく。そして、次の動作や状況の安全確認に入る前に、ぼくたちは一息つく。この瞬間に緊張がほぐれ、ある種の弛緩状態を迎える。安全であることに安心するのは当然のことながら、安心できているからといって安全とはかぎらないにもかかわらず・・・・・・。
誤解なきよう。一瞬たりとも安心するななどと言うつもりはない。ただ、「安全確保は自己責任」という自覚と引き換えの安心でなければならない。ふと思い出した。このオフィスから10分ほど北へ歩くと交差点があって、そこに標語が掲げられている。「青信号 安心したら 大間違い」。言いたかったことは、これだ。
蒼ざめる彼がいた
2011年7月27日 09:00
地下鉄の車内。ぼくの前、一列の座席に6人か7人が座っている。そのうちの半数が携帯電話を触っている。車内をざっと見渡せば、3、4割が画面を見ているようだ。メールかゲームかツイッターかのいずれかに違いない。リベラルに考えるほうなので、マナーがどうのこうのと目くじらを立てない。一人で移動中なら本を読むのも瞑想するのも携帯を操るのも大差はないと思っている。
少々残念に思うのは、家族連れなのに、子どもそっちのけでメールに没頭している親の姿。それに、二人でいるのにそれぞれが携帯を眺めているという光景。会話することもないのなら、一緒にいる必要などないだろう。かく言うぼくは、出張で長距離・長時間の車中ではほとんど読書をするか何かを書いている。時々うたたねをし、時々携帯で将棋をする(アプリの対戦相手であるコンピュータは上級モードでもあまり強くないので、すぐに飽きてしまう)。
相談をよく受ける。ぼくから招くことはほとんどなく、たいて相手から相談事があると言ってオフィスにやってくる。ほんの半時間のうちに相手の携帯が二度三度と鳴る。メールの音、着信の音。「ちょっとすみません」と言って部屋を出て応答しても、ぼくは顔色一つ変えないで戻るのを待つ。着信音が鳴り遠慮して応答しなければ、「電話に出てくださいよ」と促す。話に熱が入って予定の時間を過ぎると、相手は部屋の時計にちょくちょく目をやる。おそらく次の予定の時間が迫っているのだろう。「今ここに集中できない、気の散る人だなあ」とは思うが、知らん顔している。
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電源オフかマナーモードに設定するのを失念して、講演や研修の最中に携帯を鳴らせてしまう人もいる。案外多いもので、三回に一回の割合だろうか。こんなときもポーカーフェースで話し続ける。携帯の音に負けないようにほんの少し地声のボリュームを上げる。と、こんな話を知人にしていたら、その知人もほとんどの場合意に介さないと言う。ぼくも知人も寛容の人なのである。但し、この知人は同一人物に対しては二度までしか許容しないと付け足した。
業者さんの一人で、若手だがなかなか見所のある男がいたらしい。気に入ったので応接室に招き、談話をした。かかってきた電話にその彼はそのつど応対したらしい。知人は別に何とも思わなかったと言う。次に会ったときにランチに誘った。そのときも一度だけだが、席を立ってレストランの外へ出て電話に応答したようだ。ランチの最中に数分間中座したので、「食事に誘われていながら・・・・・・」とは思ったが、「まあ、いいか」と思い直した。
後日。いい仕事もしてくれるので、行きつけの、ちょっと高級感のある小料理店に連れて行った。知人は極力仕事とは関係のない世間話や自分の経験談を肴にした。若い男も料理の三品目くらいまでは問いかけたり身の上話をしたりしたそうだ。しかし、ふいにiphoneを取り出して、「すみません、ここは何という店ですか?」と尋ねて、ツイッターをし始めたというのである。三度目の正直、知人は切れた。「顧客と飯食って会話しているときに、携帯に触るな!」と一喝した。状況を飲み込めず、呆然と蒼ざめる彼。
その後の取引関係がどうなったのか知らないが、知人は「過去形」で語っていたので、だいたいの見当はつく。ぼくは同じような場面でこのような一事が万事の行為をめったに取らないが、知人の対応に理不尽を唱えることはできない。いや、むしろ共感する次第である。携帯やスマートフォンが悪いのではない。「心ここにあらず」が目の前の人に失礼なのだ。
生レバーの行方
2011年7月14日 09:50
「厚生労働省は6日、飲食店が牛肉の生レバーを客に当面提供しないよう求める通知を都道府県に出した。(・・・・・・)厚労省の食中毒・乳肉水産食品合同部会が、食中毒発生の多い『レバ刺し』などについても法的規制を含め検討することを決めたため。生食用牛レバーの提供が禁止される可能性もある」(7月7日付 毎日新聞)。
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ホル男 「また! 不粋というか野暮というか、余計なことをしてくれるもんだな」
モン太 「オレにとっては、生レバーのない焼肉店はクリープのないコーヒーみたいや」
ホル男 「比喩が古いね。要するに、焼肉を食べに行っても、いきなり肉を焼き始めない。まずは、ユッケかレバ刺し、それにキムチで生ビールだろ」
モン太 「なんで牛ばっかり責めるんや!」
ホル男 「生食用の牛レバーが原因で発生した食中毒は、1998年から2010年の13年間で116件らしい。牛刺しやユッケはわずかに5件だった。厚労省は牛レバーの食中毒が多すぎると判断した」
モン太 「おいおい、ちょっと待って! それマジで!?」
ホル男 「驚く数字だったかい?」
モン太 「驚くも驚かんも、牛刺しにユッケはほとんど安全牌やないか。おまけに生レバーも、年に9件やろ。そんなもん、生ガキより安全と違うか!?」
ホル男 「証拠のないことを言わないように。でも、きみに理ありだな。豆腐でも牛乳でも魚でも、生ものに食中毒はつきものだからね。ちょっと不注意すると、生野菜でも起こりうる」
モン太 「フランスでは牛肉のタルタルステーキを食べとるぞ! ニュージーランドは羊のタルタルや!」
ホル男 「フランスのタルタルはユッケよりだいぶどす黒かったよ。ともあれ、大腸菌が内臓に付着しやすいことぐらいわかっている。それでも、素人考えでは、新鮮なものをしっかり咀嚼していたら問題ないような気がするな」
モン太 「絶望的・・・・・・これからどないして生きていったらええんや!?」
ホル男 「大袈裟な! お上が決めたら仕方がない。レバ刺しの代わりに上等の牛刺しにすればいいじゃないか」
モン太 「あかん、生レバーがないと、焼肉屋に行く意味あらへん。あんたは平気か?」
ホル男 「ここだけの話、馬のキモのほうが血生臭くなく、コリコリしていてうまい。馬に鞍替えするよ」
モン太 「牛がダメなら、馬に乗るって? ダジャレ言うてる場合やないわ。宣誓書を書くから、オレだけ自己責任で生レバー食べさせてくれ!」
効果を見極める
2011年6月25日 18:00
一つの原因から一つの結果が生まれるようになれば、分析も予測も誰がやっても同じになるに違いない。たぶんものの見方もアタマの使い方も簡単明快であるはず。科学至上主義への懐疑も霧消して、科学は完璧主義という地位を獲得する。いや、運命決定論的にすべてを支配することも夢ではない。同時にそのことは、ハプニングや意外性やユーモアやジョークのない、さぞかしおもしろくない世界になるだろう。
ぼくのような浅学の身でも、少しでも考えようとアタマに鞭打つのは、原因と結果の関係が定まらないからだ。直接・間接の原因、遠因に近因があるし、アリストテレスによれば質料因、作用因、形相因、目的因も考慮せねばならない。さらに、これらが相俟って一つの結果が生まれているわけではない。結果も複合的であることがほとんどだ。因果がぴったり対応しないからこそ、固定観念を反省したり創意工夫をする気になったりもする。原因も結果もよくわからないのは不安定だが、苦労せずによくわかってしまうよりもずっと精神衛生上はいいはずである。
医者に行く。「どうされましたか?」と聞かれ、「ちょっと熱があるんです」と答える。「咳は?」「時々出ます」などのやりとりの後に胸と背中に聴診器が当てられて、やがて「どうやら風邪ですね」と所見が下されて納得する。だが、なぜ風邪を引いたのかまで深く顧みることはない。仮にここ数日間を振り返ってみたところで、原因はわかりそうもないし、一つともかぎらないだろう。二、三日して体調が戻る。よくなった原因が薬だったのか、よく睡眠を取って休息したからか、あるいは自然治癒したのかは不明である。
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一度お試しサプリメントを注文したら、その後しばらくDMが送られてくる。以前、そんなDMの一つにグルコサミンとコンドロイチン配合のサプリメントやサメのコラーゲンの案内があった。足首や膝に痛みを感じたり階段を上り下りしたりするときに思うように動けない、脚力や関節に不安がある、そんな方にぜひ」というふれこみである。無料お試しを申し込んだのも、たしか同じような文言に反応してのことであった。
テレビにもDMにも折り込みチラシにも消費者の声が紹介されている。「歩くのも階段の上り下りも楽になった」と異口同音の摂取体験談。足に「何だか」力が入るようになり、痛みも「気にならなく」なってきたと言う。はたしてサプリメントは効いたのか。それとも、サプリメント摂取を機に、よく歩くようになり軽い運動すら始めるようになったからか。関節の痛みが改善されたのが、健康食品か新しい生活習慣なのかはわからない。
サプリメントや薬物には自己暗示を促す効果があるのかもしれない。プラシーボ効果である。ところで、こんなことを考えていくと、落ち込んでいたので買物をしたら気分がよくなったという因果関係にも同じことが言えるかもしれない。ふと、ぼくの研修もプラシーボなのではないかとの思いがよぎる。おっと、とんだヤブヘビになってしまった。残念ながら、直接効果のほどは証明のしようがない。ただ、改善や向上に努めようとするきっかけの一つになっていてほしいと願うばかりである。
嗚呼、商売センス
2011年6月23日 07:15
職住ともに大阪市中央区である。大阪城から徒歩10分圏内、行政機関が集中している地域だ。歴史のある街で、かつては熊野参詣の起点として栄えた。八軒家浜の名残があり、この船着場に京洛からの産品が届けられていた。その大川では七月の天神祭に船渡御(ふなとぎょ)がとりおこなわれる。『プリンセストヨトミ』(ぼくは観ていない)のロケ地にもなった空堀(からほり)商店街もこのエリアにある。ところが、マンションもテナントビルも、空堀ならぬ「空洞化」の気配が漂い始めた。
これで行政機関が大挙して移転でもしたら泣き面に蜂である。すでにテナントオーナーの皆さんは対策を講じるべく勉強会を立ち上げたりしている。起業してオフィスを構えてから24年、住まいを移してから5年半が過ぎた。変遷を目の当たりにしてきて、繁栄よりも凋落のトレンドを肌身で感じる今日この頃だ。ランチタイムで出掛ける200メートル四方にかぎってみると、二十年以上続いている店はおそらく十指かそこらだろう。
威張れるような経営をしてきたわけではないし、商売のセンスがいいとも思えない。誠実に仕事をしているのでどうにかこうにか生き残っているが、血眼になって商売をしてきたと胸を張れない。しかし、消費者としては賢明であると自負しているし、顧客として店や商売人を見る目はあると思う。その視点からすると、このマーケットで立地して失敗してきた飲食業の典型が浮かび上がる。オーナーたちはあまり研究していないのである。集約すると、(1)夜と土曜日で苦戦する、(2)地下で苦戦する、(3) メニューで苦戦するの三つの要因だ。
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当該エリアは官庁・ビジネス街だから、昼間人口は多い。良心的にやっていれば、昼は常連客がつく。健闘している店なら、800円のランチを百人にさばいているだろう。問題は(1)の夜間である。大半の仕事人は、飲むなら帰路になるキタかミナミへ行く。まずまず頑張っている店は、夜のターゲットを地元住民に定め、夜に飲食してもらえるよう工夫している。そんな店には土曜日の夜もお客さんが入る。次いで(2)だが、成功例は二、三軒のみ。ビル地下では何度も店が替わっている。それでも、什器備品がそのまま使えることもあって、しばらくすると次の店ができる。
最後に(3)。ターゲットを絞り込んでいないからメニュー戦略を誤ってしまう。昼にアボガド丼やエスニックはダメである。また、夜のご馳走過剰もダメである。ビル地下で夜をメインにした鯨料理店があったが、あえなく三ヵ月で「反捕鯨状態」。絵に描いたような三つの苦戦ぶりであった。飲食業のアイディエーティング(アイデアを出す相談)を何度か頼まれたが、総じて頑固なオーナーが多い。アドバイスを求めているくせに、アイデアを提供すると、「そうは言うものの・・・・・・」と守りを固めて前例を踏襲する。
頑固とこだわりは商売人のDNAだから、やみくもに否定はしない。それならそれで、もう少し個性的なスタイル―たとえば無愛想と偏屈を売りにする職人芸など―を見せてほしいものである。ミスター・ビーンでおなじみの著名なコメディアン、ローワン・アトキンソンが英国の商売人についてこう書いている―「小さな事業をしているのに、お客が来るのを嫌うのはイギリス的なんだ」。これは逆説的に読まなければならない。ヨーロッパではこんな商売人をよく見かける。うわべのお愛想を振りまくよりもよほどましで、さほど悪い気がしない。おそらく、お客さんを徹底的に絞り込んで、抑制のきいた商売をしているからに違いない。



