IDEATION RECIPESの最近のブログ記事
発想を鍛える手軽な方法
2008年8月19日 11:00
「うちの社員は型通りな発想しかできない。何か妙案はないだろうか?」 一年に何度かこんな質問がある。「たとえ型通りであれ、発想できるならひとまず良しとすべきでしょう」と答えることにしている。
何かを思い浮かべることができる、しかし出てくるアイデアがで「どこにでも転がっていて平凡」――こんなことはアイデアマンと呼ばれる人にもしょっちゅう起こる。何十回、何百回発想しても99%は型通りであることがほとんどだ。だが、アイデアマンが凡人との違うのは、型を自ら崩したり壊したりして新しい発想に転換できる点である。
発想法や創造技法をいろいろと試してみた。試してみたうえで実際の企画研修でも演習に使っている。ブレーンストーミング、チェックリスト法、強制連想法、シネクティクス、NM法・・・・・・。収束向きと拡散向きがあるので、何でも使えばいいというわけではない。ほとんどすべての技法に共通するのは、「いま知っていること」から「未だ知らないこと」を導くという点だ。「既知から未知へ」を可能にする、あの手この手の人為的仕掛けの法則化である。
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日常茶飯事手軽に発想を鍛える方法がある。それは、テーゼに対するノーを敢えて意識する「アンチテーゼ発想」。ある種の常識、価値観、慣習、意見、視点に対して対極からアマノジャクな揺さぶりをかけたり茶化してみたりするのである。ホンネは棚に上げておく。
たとえば、メダルに手が届かなかった五輪選手が、この四年間苦しかったこともあったと振り返る。「辛かっただろうなあ」といったんはこのコメントを素直に受容する。そして、しばし腕を組んでから「ちょっと待てよ」。「過去四年間も振り返ったら、誰だって苦しいことくらいあるさ。ぼくにだってあった。ただマスコミがその苦しみを聞いてくれないだけ」とひねくれてみる。
たとえば、菜食主義者がいる。他人に自説を押しつける偏狭な心の持ち主ではない。豆腐と野菜を巧みにアレンジして仕立てた「ハンバーグ」が好物だと言う。「鰹節でダシをとった味噌汁もタマゴも口にしない徹底した菜食主義。忍耐強いなあ」と褒めてあげる。そのうえで、「肉食をとことん断つのなら、わざわざハンバーグ風にしなくてもいいじゃないか。やっぱりまだ未練があるに違いない」と皮肉ってみる。
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たわいもない「くすぐり」である。高等な批判精神とは無縁だ。ちょっと口をはさむだけの話。それを意識してやってみるうちに、絶対と思えたものが絶対でなくなり、ダメなものがダメではなく、時代遅れが実はオシャレだったり・・・・・・というようなことが浮かび上がってくる。
ぼくたちがふだん見ているものはたぶん偏っている。立場によって、思想によって、好みによって偏っている。コインの表側だけしか見ていない。振り子が左右に思い切り振れている様子が見えていない。アマノジャクなアンチテーゼ発想は、実は見えないところを無理に見ようとする想像力の源泉なのである。
小さく縮めて考える
2008年8月12日 10:30
昨今は研修や講演を主な仕事にしているが、本業は企画である。ざくっと言うと、企画は価値を高めたり付け加えたりする仕事であるため、大きくとらえたり足し算で進めていくものだと思いがちだ。たしかに初期の段階ではそういう要素もある。マクロな見方の企画。それをぼくは"ANDの企画"と呼ぶ。
しかし、冷静に考えれば、ぼくたちのアタマはあまり遠大向きではない。天の川とアンドロメダ星雲が30億年後に一つになるという説を聞いてもピンと来ない。何億光年の未来が見えたらすばらしいだろうけど、一年、いや一寸先も怪しい視界しか持ち合わせないのが凡人だ。大きく構想するのはたいせつだが、小さなことを見失ってしまうリスクのほうが大きい。
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今から7、8年前、アメリカのある中学の先生が発端となった、世界を100人の村に縮小する話を覚えているだろうか。この村は57人のアジア人、21人のヨーロッパ人、14人の南北アメリカ人、8人のアフリカ人で構成されている。有色人種が70人で白人が30人。この村の6人が富の59%を所有し、50人が栄養失調に苦しみ、1人が瀕死の状態にある。この村で大学教育を受けたのはわずか1人。周辺ではこんなに普及しているパソコンだが、実はこの村には一台しかないという話。
比喩ではあるが、現実を何かに大きくなぞらえる比喩ではない。現実よりも極端に縮小する比喩であり、これにより本質がより見えやすくなる。スポーツもゲームも起源においておそらく何かの象徴であり、縮小版だったのだろう。ある経済学者は麻雀を「閉じた経済における4ヵ国貿易」という具合にたとえていた。
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少々粗っぽくても、何かをはしょって思い切りわかりやすくしてみる。足すのではなく引き、膨らますよりも縮めてみる。こういうミニチュア化を"ORの企画"と呼ぶ。この種の発想は比喩と相性がいい。
世界の66億9358万の人口(8月12日午前10時現在)を100人と仮定するように、地球の歴史46億年を1年365日のカレンダーにたとえる。つまり、元旦に地球が誕生し、いまちょうど大晦日でまもなく新年を迎えるところ。
人類の歴史500万年。これは地球の1年カレンダーの0.4日に相当する。人類は大晦日の午後2時~3時の間に生まれ、いま除夜の鐘を聞いている。新参者もいいとこだ。ちなみに恐竜の祖先は12月10日前後の生まれで、12月26日に滅びたことになる。
とてもマニアックなシミュレーションだ。しかし、漠然と大きなことを考えるよりはよく見える。発想のきっかけになってくれるかもしれない。「こんなことをして何の意味があるのか?」という問いを発する人は企画という仕事に不向きである。
シニフィアンとシニフィエ
2008年8月 6日 10:00
難解なソシュール言語学の話をするつもりはない。ただ、マーケティングにおける記号(ひいてはネーミングやブランド)の意味について一考してみようと思う。
シニフィアンとシニフィエ? 響きは、児童文学に出てくる少年少女の名前みたいだ。実は、そうではない。シニフィアンとは記号表現、シニフィエとは記号内容のことであり、それぞれ専門的には「能記」、「所記」と呼ばれる。
ぼくはメガネをかけている。このメガネというものは、①聴覚がとらえる「メ、ガ、ネ」という音(シニフィアン)と②「眼鏡」という概念(シニフィエ)の二つが一つの記号となって、実際に手に取ったり掛けたりする「$(眼鏡)」を表わしている。
身近なことばに置き換えると、ことばとモノが表裏一体ということ。「((電話)」という実体のモノを、日本語では「デ、ン、ワ」と発音することばで、英語では"telephone"(テレフォン)と発音することばで、それぞれ名付けている。元来、モノとしての「(」と「デンワ」または「テレフォン」との間には、こうでなければいけないという理由などなかったはずだ。それでも長い歴史の中で繰り返され、さも必然であるかのようにモノに音声が染み渡っている。
御法川法男(みのりかわのりお)と聞いて、その人物の顔が浮かばなかったらシニフィアンとシニフィエが表裏一体になっていない。顔をモノと言っては失礼だが、この場合、ことばからモノを参照できないのだ。「この名前の人、だ~あれ? えっ、みのもんた? な~んだ」。これでやっと表裏一体になる。モノとことば、つまり人と名、場所と地名、商品とネーム、企業と社名などは、シニフィアンとシニフィエが一つの記号を醸し出している。
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もともとは必然ではなかったのに、繰り返し使っているうちに内容と表現がしっくりと融合してくる。いま椅子に座っているが、この「イ、ス」という音と物体の一体感はどうだ。とてもよくなじんでいる。「尻置き」でも「腰休め」でも「スワール」でも違和感がある。
使いこんでいるうちに名が体を表わすようになる成功パターンがある一方で、繰り返し使っても何年経ってもしっくりこない場合がある。マーケティング的にはネーミングやブランディングの失敗ということだ。男性かつらに「バレーヌ」や「ズレニクイーノ」はダメだろうし、「ゲリラ特攻隊」という整腸剤は遊びすぎだろうし、「酔ったついでに・・・」という焼酎はいろんな意味でやばいだろう。
ユニークな記号が注意を喚起し訴求力をもつのは事実だが、同時にネーミングには共通DNAみたいなものがあって、そこから逸脱すると受け入れてもらえなくなるのだ。
シニフィエに対してこれ以上ないシニフィアンを探し当てる。これがコンセプトの言語化であり、商品のネーミングであり、メッセージのコピー表現なのである。とらわれぬ発想、すぐれた語感、そして膨大な語彙がこの仕事のバックボーンになる。
最多質問グランプリ
2008年7月17日 09:20
ざくっと数えてみたら、これまで実施した研修・セミナーは1500回以上、講演や勉強会を含めると2000回を超えていた。
自慢しているのではない。しかし、ささやかな自信にはなっている。これらの体験から導けるぼくなりのセオリーがあるとすれば、たとえそれが世間の標準と異なっていても、少しは真理の一部を照射しているかもしれないという自信である。
二十代から四十代の人々が抱えているヒューマンスキルの悩みはいろいろだ。悩みと直結するかどうかはわからないが、もっともよく耳にした質問。それは、「どうすれば自分の考えていることをうまく伝えることができるのか?」である。
この質問は、ここ二十年間ぼくが立ててきた仮説――「二大ヒューマンスキルとは思考とコミュニケーション」――と重なる。コミュニケーションにはさまざまな含みがあるが、ここでは「伝える」に重きを置いている。コミュニケーションのラテン語の原義「意味の共有化」(考えていることを他人にもわかってもらうこと)に近い。
よく考えよく伝える。多くの人がこの壁にぶつかっており、なかなか突破口を見つけるに至っていないのである。どうすればいいか? どうしてあげればいいか?
結論から言えば、一生かかっても突破口は見つからない。思考とコミュニケーションに到達点や終着駅などないからである。「昨年よりうまくなった」とか「前回のプレゼンテーション時よりはまし」という実感は持てるだろう。
しかし、考えていることを消化不良のまま発話したり、核心部分の言い残しがあったり、適切な表現が見つからないまま思いと裏腹な伝え方をしてしまったり・・・・・・こんなふうに切歯扼腕するのは常である。いま、勢い余って「せっしやくわん」などという難解な四字熟語を使ったが、あまり適切な伝え方ではないとつくづく思う。
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ともあれ、最高頻度の質問に対して「突破口はない」とは不親切極まりない。そこで、「少しでもうまくなりたい」と言い換えてヒントを示したい。
思考という主観的メッセージをいきなり伝達という客観的表現に変換しようとするから、「考えていることをうまく伝えられない」のだ。したがって、考えていることをいきなり他者に伝える前に、まずもっとも身近なコミュニケーション相手である「自分自身」に伝えてみること。そのためには主観的に考えていることを客観的に再構成して、「思考を明快」にせねばならない。
思考の深さ・浅さではない。明快さである。こっちを押さえれば、それに見合った適切な伝達表現が絞られてくる。
あまり上等な比喩でないかもしれないが、「プレゼントの中身と包装・手渡し方」の関係に似ている。プレゼント(=思考)も定まっていないのに、包み紙とリボン(=伝達)の選択に迷うからわけがわからなくなる。贈るべきプレゼントさえ明快に決まれば、大きくはずれた趣向を凝らすことはないだろう。
以上がヒントである。しかしソリューションではない。なぜなら、包み紙とリボンの種類、すなわち表現語彙が少なければ悩みは解消しないからだ。
遠くの記憶と近くの忘却
2008年7月15日 13:15
五十歳前後になってから記憶が衰えたという話をよく聞く。実は、五十歳という数字に特別な根拠があるわけではなく、これは四十歳前後にも、場合によっては三十歳前後にも当てはまる。どうやら「昔に比べて現在の記憶力が低下してきた」という意味らしい。
考えてみれば当たり前のことである。いつの時代も昨日の情報よりも今日の情報のほうが多く、十年前と現在を比較すれば、情報量の出し入れには天文学的な差がある。仮に記憶力や記憶容量が一定であっても、記憶すべき情報だけは増える。どうしても記憶が情報に追いつかない事態に遭遇する。それゆえに、相対的に衰えた気がするわけだ。
何度も繰り返し見聞したことは記憶域の深いところに入る。だから、十年前や二十年前の思い出はしっかりと刻印されている。ところが、昨日や今日に接した初めての情報は記憶域の浅瀬にとどまっている。繰り返しがなければ、すぐに揮発してしまう。
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「昔のことほどよく覚えていて、最近のことはすぐに忘れてしまう」という現象は、どの世代にも共通するものだ。たとえば、時代が「平成」であるとしっかり認識していても、今年が十九年か二十年かをふと失念する。あるいは、何度も通院した医院の名称と場所は覚えているが、何の具合が悪くて今朝この病院へ来たのかを思い出せない。
仕事柄、同年代の友人知人に比較して記憶力はすぐれていると自負するぼくも、数分前に何かしようとしたことをどうしても思い出せないことがよくある。数時間してから、それが「目薬をさす」ことであったと知る。たいていその時点で目薬の必要性はなくなっている。
対策はただ一つである。新しい事柄に出合ったら、その時点ですぐに記憶域の底辺に刷り込むことだ。思い立ったが吉日、すぐにしっかりと記録し記憶する。できればアクションも同時に起こしておく。後回し・先送りは絶対しない。気に入った新聞記事はその場で切り抜く。後で切り抜こうとサボったら、記事の内容を忘れることはもちろん、切り抜こうと思ったことすら忘れてしまう。
記憶と繰り返しの関係は密接だ。繰り返し、すなわち「習慣形成」こそが末永く精度の高い記憶力を維持する絶対法則である。
ズボンのジッパーの閉め忘れなども習慣形成で防げる。トイレの直後、椅子から立ち上がった直後、歩き始めた直後に反射的にベルトのバックルに手をあてがう癖をつける。そしてジッパーのつまみに接するよう小指の先を伸ばす。そこにつまみがあればオーケー、つまみがなければヤバい。他人には、ジッパーをチェックしているようには見えないから好都合である。
但し、言うまでもないことだが、ベルトに手をあてがうのを忘れてしまってはならない。腹部のあたりに手をあてがうことは忘れなかったが、そこにあるべきベルトがなかったというのは論外である。
アイデアを探るツール~入門編
2008年6月27日 21:52
「お客さま、新大阪ですよ」
乗務員さんの声がよく聞き取れなかった。「えっ、何とおっしゃいました?」 「あのう、新大阪に到着しています」
駅に停車しているのは、窓の外を見ていたのでわかっている。ぼくはその駅をてっきり京都だと思っていて、微動だにしていなかった。
今日の午後、東京からの下りの新幹線のぞみの車中だ。名古屋を出たのは覚えているが、完全に京都が抜けている。熟睡していたのではない。熟考していたのだ。集中していて完全に我を忘れていた。新大阪止まりの列車だったので、乗り過ごさずに済んだ。
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しょっちゅうこんなことは起こらない。複雑思考のときほど起こらない。複雑すぎると意識が散漫になって集中できなくなる。ネタが少なくて単純思考しているときほど案外のめり込む。
今日は「座標軸思考」をしていた。AとBという二項対立、XとYという別の二項対立を単純に組み合わせるだけだ。
「A→有言」とすると、「B→不言」。「X→実行」とすると、「Y→不実行」。AB軸をタテに、XY軸をヨコに十字を描けば、4つの組み合わせができる。すなわち、有言実行、有言不実行、不言実行、不言不実行。それぞれについて、真面目にかつ不真面目に思いを巡らしていたら、京都駅が抜けるほど深いところに入っていたというわけである。ざっとこんなふうに――
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ちょっとひねってみたい気はするけれど、やっぱり有言実行が一番でしかたがないか。道徳論者みたいかな? でも言葉というシナリオにしたがってアクションを起こしているのだから、他者は理解しやすいだろう。午前11時にうかがいますと約束して、その時間に来るなら、ひとまずいい人と評価できる・・・・・・。
有言不実行はよくやり玉にあがる。「口ばっかり」と呆れられる。周囲にも結構いるもんだ。みんな6時に来てくれよと言っておきながら、自分だけ来ないヤツ、いるなあ。でも、評論家のほとんどはこれで生計を立てているのだからおいしい生き方かもしれん・・・・・・。
不言実行。「男は黙って何々」という逞しさがあるが、思いつき・デタラメの可能性もある。約束もしていないのに、突然やって来られては困る。無断拝借というのもこの部類か。何も言わずに事を運ぶのだから、危ない匂いもする・・・・・・。
約束もしないし、やって来ることもない。可否の判断とは無縁か。ちょっと待てよ、何も言わず何もしないという不言不実行は、ミスをすると罰せられる職業においては完璧な方法論ではないか。いや、死人だって何も言わず何もしないぞ。あ、そうか、不言不実行な仕事ぶりの連中は「生ける屍(しかばね)」なんだ・・・・・・。
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とまあ、こんなふうに考えるわけである。アイデアが出るとはかぎらないが、アイデアマンを志願するビギナーにとっては思考習慣につながるはずだ。AとB、XとYのそれぞれに対立または並立するキーワードを入れるだけ。
就寝前にこれをやると眠れなくなるので注意していただきたい。それと、列車の終着駅周辺に住んでいない人は乗り過ごすことがあるので気をつけたほうがよい。
三日坊主が試される一冊のアイデアノート
2008年6月11日 16:07
「三日坊主」をどう評価すればいいだろうか?
常識的には、三日坊主は飽き性の別名である。「あいつは何をやっても、三日坊主だからな」というコメントが褒め言葉とは思えない。三日坊主は「石の上にも三年坊主」に比べて、365分の1の忍耐力というのが相場だろう。
しかし、そういう対比的な見方をするならば、即席焼きそばが出来上がる3分間に苛立つ人間よりは忍耐強いと言える。「よくぞ三日も続けたもんだ」と褒めてあげてもいいし、「マンネリズムに陥らない君の見切り力はすばらしい」と感嘆してあげてもいい。
十年は経つだろうか、昨年閉塾した私塾『談論風発塾』で、日記を書き込める文庫本サイズの手帳を塾生約20名に配ったことがある。1月スタートで誰が年末まで続けられるかという、三日坊主フィルター実験だ。「零日坊主」という厚かましい鈍感君もいたが、おおよそ半数が三日坊主から一週間坊主に終わった。二、三名が3月頃まで頑張り、最終的には一名だけが6月まで続いたように記憶している。
断続的にではあるが、二十代後半から約30年間、アイデアや気づきや観察内容をノートにしてきた。ことノートに関するかぎり、三日坊主は何の価値も生まない。それなら零日坊主のほうがうんとましだ。なぜか? 三日間をムダにし、手帳の残りページを破棄し、飽き性な自分への嫌悪感が残るからである。
ノートという習慣が形成できない人へのアドバイス。
1.ノートを脳の外部メモリと考える(このメモリなら、紛失しないかぎり記憶は消えない)。 脳図 「のうと=ノート」とはこれなのだ。脳の出先機関である。日々の記録が、単なる足し算ではなく、シナプス回路のように変幻自在に文脈をつくってくれる。
2.学習量と記憶率と活用度を損得で考える(学んだことを忘れたら損、覚えたことを使わなかったら損という、やらし~いそろばん勘定)。
「アイデア創造のためには、たくさんの情報や知識を手元に置いておく」――月並みだが、発想技法に共通するセオリーである。
コンセプトをアイディエーションへと結実させる
2008年6月 9日 10:41
「アイディエーターって何ですか?」
本ブログのぼくのプロフィールを見て、こう尋ねてきた人がいる。
実は、名刺には、代表取締役、企画コンサルタント、ワークショップレクチャラーと三種類の肩書きが印刷されている。その人は、名刺とブログ上での肩書きの違いに気づいたようだ(この名刺はまだ千枚以上残っているので、もったいないの精神であと二年は使うつもり)。
さて、30年近く企画の仕事をしてきた。また、企画発想をテーマにしたセミナーや研修を20年近く数百回させてもらっている。コンセプト(concept) またはコンセプション(conception) は企画がらみで頻出する用語だが、アイディエーション(ideation)ということばはあまり見聞きすることがないだろう。いずれも概念(化)や観念(化)という意味を共有している。調べていただければわかるが、英和辞書では厳密に峻別した定義にはなっていない。
ぼくは、コンセプトを企画の拡散段階の働き、アイディエーションを企画の収束段階の働きとして勝手に位置づけてきた。「何かいいコンセプトはないか?」という場合は発想を広げている。しかし、「見つかったコンセプトはどこに落とし込めばいいのか?」となると、形にすることが課題になっている。
コンセプターという和製英語が気に入らないので、これまで企画コンサルタントと自称してきた。だが、相談に乗り、課題を自社に持ち帰って熟考し、新しい提案をするという一連のコンサルティングは、こと企画に関しては賞味期限が切れてしまうと判断した。
古代ローマの剣闘士グラディエーター(gladiator) をふと思い出し、英語のネイティブスタッフに「アイディエーションということばがあるのだから、アイディエーター(ideator) は絶対OKだろ?」と問えば、直感的に彼は「ノープロブラム」と言い、念のために調べてくれた。まだまだニッチなことばだが、使用事例もあることがわかった。それなら、コンサルティングからアイディエーティングへと自分のサービスを変えてみようと思い立った次第。
アイディエーターは、現場で課題と闘う人である。斬れば血の出るような実践的アイデアを、問われたその場で一番搾りして提供する。「この企画どう思います?」に対して、複数オプションを即答して、有力アイデアを即決する。とても大変だが、真剣勝負である。
「知の剣闘士」よろしくアイディエーターという肩書きがとても気に入っているのだが、即答即決したらお金にならないのではないかという不安が横切る。その仕組みは、これからコンセプトをアイディエーションに落とし込んで考えていかねばならない。「お願い、誰か相談に乗って!」と泣き言はこぼせない。
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