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楽なように見えてきついこと

2010年6月24日 10:30

 私塾大阪講座の今年度第1講が今日の午後に始まる。昨年までは午前10時から午後5時半までだった。ぼくにとってはまったく長丁場ではないが、昼食を挟んでの7時間半の思考鍛錬は慣れない人にはきつい。というわけで、本年の全6講は午後1時半スタート、6時半終了の5時間に変更した。午後からという気楽さ、二度か三度の休憩を挟んでの5時間は取り組みやすい。

 しかし、この変更は「気楽にやれて、取り組みやすそうだ」というカモフラージュにすぎない。時間短縮は時間密度の高まりを意味する。なにしろ、ぼくの場合、時間量に合わせて講座を企画し話しているのではない。こんな講座でこういう学びと鍛錬機会を得てほしいと構想して、その内容をすべて盛り込むのが流儀(?)なのだ。したがって、時間の多寡で内容は大きく変わらない。短時間になればそれだけきついというわけである。

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 道具は便利である。カンナは木材の表面を滑らかにしてくれたし、自動車は徒歩一日かかる場所へほんの一、二時間で連れて行ってくれるようになった。いろんな便利があるが、最たるものは出来の良さ、負担軽減、そして時間の効率だろう。とりわけ携帯電話や最新IT機器がこれら三つに関わる不便を便利に変えたのは間違いない。

 ところが、便利になった一方で、人間から何かを引き算するのも近年の道具に共通する特性だ。カンナあたりで止まっている道具のほとんどは、見事な出来映えを可能にし、使い手の作業の負担軽減とスピードアップに寄与している。他方、携帯やIT機器はどうか。これらを使わなかった時代の人々に比べて現代人が格段にいい仕事をしているとは思えない。また、仕事を楽々こなしているようにも見えないし、短時間労働で切り上げて余暇を楽しんでいる様子もうかがえない。

 ぼくは楽になるためだけに道具を使うまいと心に決めた。道具は自分一人で達成できない仕事の質や生活の質の向上に用いるべきだろう。道具の価値を効率的便利だけに置くのをそろそろやめたほうがよさそうだ。道具に囲まれて送る日々の仕事や生活は、逆説的にとてもきついのである。

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 「きみが何をしたいのか?」を問うことは、「きみが他者、ひいては世間に何を施したいのか?」を問うことと同じである―こう言っておいて、あとは知らん顔したら、彼は意味がわからないようで苦悶していた。

 「何をしたいのか」は願望である。この願望が現実に叶うためには、好き勝手であっていいはずがない。その願望が行動になることを他者が求めてくれないかぎり、願望が実現する場所はない。人間社会というのはそうなっているのである。自分のしたいことは他人が求めることと同じであり、願望と施しは表裏一体でなければならない。

 これは他者や世間のニーズに合った願望を持てということではない。そういう迎合的・反応的行き方をするならば、もはや願望ではない。「自分のしたいこと」が始めにありきでいいのである。その願望が他者や世間への施しにつながるように実現させる努力をするのだ。「夢や希望を持て」と訓を垂れるのは簡単だが、したいことをすることは実はとてもきついことなのである。

無策ゆえに精神主義

2010年2月 2日 11:20

 これまで多種多様な企画を手掛けてきて、自分なりにある種の確信を抱くようになった。目的・願望と手段・方策の関係には、人間の弱さからくる法則があるようなのだ。この法則は仕事だけに限らず、人生全般にも通じるように思われる。

 一つのゴールに対して手段が多いとき、人は数ある選択肢を前に決断に悩む。将棋の専門棋士が語っていたが、手が多く、しかもどの手を指しても良さそうなときほど迷うらしい。アイデアが浮かびすぎて困るというケースが実際にはありうるのだ。これとよく似た経験がぼくにもある。ディベートで相手の論点が脆弱であったりゆゆしき矛盾を抱えているとき、「どんな切り口でも論法でも容易に論破できそうだ」と直観する。ところが、豊富な選択肢は最上級思考へと流れて、結果的に決断を遅らせることになってしまう。AかBかの二者択一なら、比較級思考するしかないからそれほど逡巡しない。

 もっといいのは、一つの目的に一つの手段、一つの願望に一つの手立てだろう。できるできないはともかく、方法が明確な一つの場合、ぼくたちはそこに集中することができる。但し、一つの小さくて具体的な目的・願望が条件である。小さくて具体的だから、講じるべき手段も取るべき行動も明確になって功を奏しやすくなるのだ。「立派な人間になる」とか「幸せになる」などの、茫洋として掴みどころのない願いが、一つの具体的な策で叶うはずもない。

☆ ☆ ☆

 いいのか悪いのかよくわからないが、ぼくたちはおおむね大小様々な目的を定めたがる。あれもこれもしたいという願いはどんどん膨らむ。試みに、これまでしようと思ってできなかったこと、これからやってみたいと思うことをリストアップしてみればよろしい。あっという間に一枚の紙が埋まってしまうだろう。大はマイホームから小はランチで食べたいものまで、枚挙に暇がないはずだ。同時に、目的や願望を威勢よく掲げるわりには、日々の努力が足りず、先送りしている自分に気づくに違いない。

 仮に十ほどの目的や願望を列挙したとして、それぞれに「対症療法」がありうるならば、時間はかかるかもしれないが、早晩達成や実現に近づいていける可能性はある。しかし、そもそもうわべだけ「したつもりやその気になるだけの」対症療法だ、成果はたかが知れているだろう。それに、十の対症療法を小器用に使いこなして日々施していくほどの根気が続くかと問えば、大いに疑問である。

 そう、願望が大きくなったり増えたりするのに比べて、それらを叶えていく手段や方策を思いつかないのが人間というものなのだ。「したいけれど怠けてしまう」あるいは「したかったけれど熱が冷めた」という万人共通の性(さが)言い換えれば、願望にアイデアがついていかないのである。したがって、理想と現実の埋まりそうもない乖離を一気に何とかしようとして、「為せば成る!」と叫んだり「何が何でも頑張るぞ!」と精神主義に陥ってしまう。具体策があれば確実に実行する。無策だから実行のしようがない。ゆえに精神主義でごまかす。何ともならないのは、「やる気」の欠如よりも「具体的方策」の不在に負うところが大きい。

プロフィール

岡野勝志(おかのかつし)
1951年大阪生まれ

企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長
企画アイディエーター
岡野塾主宰

ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。
マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人材の課題に対して、「即答即決アイディエーティング」をおこなっている。

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