第6講 ロジカルスキル入門 03

 

論理思考の基本(1

 

論理的であるということ

 「あなたは論理的ですね」と言えば、段階を踏んで話したり書いたりしている、あるいは筋が通っているという意味になります。しかし、同時に、「ことばに敏感ですね」という、暗黙の意味も込められています。ことばをいい加減に使う人、語感や表現差異に鈍感な人が論理的になることはありえません。論理(Logic)とことば(Language)は同源なのです。

 

観察の眼、傾聴の耳を鍛えよう

 自分のことばにも他人のことばにも敏感であること。ことばを選んで熱弁するものの、人の話に知らん顔では言語感受性不十分と言わざるをえません。いや、本を読んだり話を聴いたりするときのほうが、むしろ感度をアップすべきなのです。「聞き流し」から「耳をそばだてる」へと傾聴力に磨きをかけること。これは、「ぼんやり眺める」から「しっかり見つめる」へという、観察力にも当てはまります。

 

事実に精通しよう

 ものと出来事は違います。あるいは、概念としての家族と、ある具体的な一つの家族は、同じ家族ということばを使っても同じではありません。概念化は論理思考の重要な要素ですが、その前にぼくたちは個々の事実を知っておく必要があります。ただ、事実は一筋縄ではいきません。客観的事実と主観的事実があるからです。客観的事実と言うと、すぐに「何かいいこと」と考え、主観的事実が危ういと思ってしまう傾向がありますが、必ずしもそうではありません。事実認識のむずかしさはこの点にあります。

 

ことばと事実・概念を一致させよう

 事実も概念も、つまるところ、ことばになってはじめて認識できるものです。言語と事実・概念の関係は悩ましく、同じ事実の表現でも、「交通事故を目撃した」で終わるのか、「トラックが横転した」と言うかによってイメージが変わってしまいます。結局、事実を見たり概念を浮かべたりしている自分が、何を言いたいか、その言いたいことをどのように表現するかということが重要になるのです。

 

多義のことばを遠ざける

 論理の落とし穴は、ほとんどの場合、ことばの意味の誤解あるいは誤用から生じるものです。とりわけ用語の多義性が論理をぼやかせてしまいます。コミュニケーションは定義了解の上に成り立つものなので、《前提→結論》という論理の筋道(演繹的導出)においては、形容詞のような人それぞれに感覚してしまう語彙を避けるべきなのです。

 少々極論すると、「~ではないでしょうか」や「~という考え方もなきにしもあらず」などという、抑制のつもりの婉曲表現も誤解のもとになります。論理的であろうとすれば、単刀直入に論じなければなりません。事実や概念を共有したり真偽を議論したりしようとするときに、はぐらかしている暇はありません。

 

論理思考は最短・最速思考

 論理は思考のスタートライン(前提)とゴール(結論)を直線的に結びます。たとえば、意見交換を重視した会議、説明・説得を目的としたプレゼンテーション、戦略を立案する場合には論理軸がぶれてはいけません。次のようなポイントがよく強調されます。

 1.スタートラインを前提に置く(テーマや課題をはっきりさせる)

 2.ゴールを忘れない(しかるべき理想や成果をつねに念頭に置いておく)

 3.重複しない(特に事実の分析と対応策をチャンポンにしない)

 4.ズレをなくす(前言者に接合する、自身の前段階の思考をリレーする)

 5.脱線しない、不必要な寄り道をしない(本題からそれない、雑音を入れない)

 

全体と部分、主体とラベル

 「XYである」と主張したり事実を述べたりするとき、主部Xと述部Yの関係性をよく見極めることです。「私は会社員です」と言うとき、「私=会社員」と認識してはいけません。「私という主体の属性の一つが会社員」という意味です。私が全体で会社員が部分です。私という存在の中に会社員という要素が含まれるということです。私は、父であったり通行人であったり選挙民であったりします。私はパジャマを着てごろごろする人をも兼ねています。私という主体に、たまたま「会社員」というラベルが貼られているというわけです。

 

《続く》

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