第6講 ロジカルスキル入門 01

 

プロローグ

 

 ロジック(論理)についてぼくなりの見解を示すことはできますが、それが明快であり安定していると言える自信はありません。ずいぶん長く「論理的な話し方」だとか「論理的な文章」などの言い方を平気でしてきましたが、さらっと使っているわりには、意味がぼくの中に十分に浸透しているようには思えないのです。考察するたびに「論理とは何か」への答えが少しずつ変化します。

 ふつうに考えれば、思考に筋道をつけ、思考力を効果的にしてくれるものが論理なのでしょう。話すこと、書くことは間違いなく論理に関係があります。しかし、論理的(ロジカル)であることが理屈っぽいなどと受け取られることもよくあります。目的や状況次第では、たしかにロジカルであることが無意味であったり場違いであったり屁理屈になったりすることは否定できません。

 ぼくの考える論理は、みんなが敬遠するような骨太でもなく複雑なものではありません。「Aである。ゆえにBである」―ただこれだけのことです。「Aである」という前提があって、その前提をしっかりと認識して踏まえてやると、「Bである」という結論が導かれる、というわけです。そして、論理というのは、この《前提→結論》という型の正しさや有効性に関わるものなのです。AB自体の現実世界での真偽はどうでもいいことで、論理の持ち分ではありません。その種の事実認定は実社会論争でおこなわれるものです。

  ぼくは論理のおもしろさを「前提を見つけること」に置いています。変な言い方ですが、「よい前提」を見つけると「よい結論」を導きやすいのです。よい前提からよい結論へと、よい筋を通すことが論理の仕事です。これは「よい問い」が「よい答え」を誘うのに似ています。たとえば、「玄関の前にゴミが落ちている」という情報が前提されるとき、常識を働かせれば、結論は「ゴミを拾おう」になります。そう、前提の中にすでに結論が潜んでいるのです。

 長年の実感からすると、論理の出番はそんなに多くないと思います。ダイヤモンドや金銀にまったく関心のない顧客に対して、貴金属がまったく意味を持たないのと同様に、自分の周辺にいる人々が《前提→結論》という論理構造になじみがなければ、論理的話し方は意味を持ちません。このことをよくわきまえておかないと、仲間内で浮いてしまいます。但し、論理の出番は少ないけれど、思考の筋道のブレや誤謬チェックには欠かせません。

 一人の人間が黙って論理的思考をしていても、周囲が筋道を知るすべはありません。論理は議論やメッセージをコミュニケーションしてみないとわからないのです。自分駅から他人駅へと「論理列車」が走らなければ、論理形式の正しさも有効性も見えてきません。なお、ロジカルシンキングは型を身につけることです。型を身につければいちいち考えなくてもよくなります。したがって、思考の省略もしくはスピードシンキングを可能にします。

 わが国ではロジックもディベートも人気のない概念です。百年以上も前に福沢諭吉は『学問のすゝめ』の中で重要性を説いているのですが、残念なことに、思考や言語に負荷がかかるので、あまりやりたがらないのですね。ところが、今日のような「現象変数の時代」にあっては、分析も予測も解決も容易ではなく、専門家も誤りがちです。前提が見えない、ゆえに結論も見えない、仮に見えてもつながっていないという場面が多すぎるのです。推論下手では解決策をひねり出せないし、意思決定もままならないでしょう。

 古代ギリシア時代からのLOGOS(理性・知性)は、英語でLOGIC(論理)とLANGUAGE(言語)に分化して今日も使われています。すなわち論理と言語は一体であり、それが理性や知性の源泉になるのです。しかし、昨今、言語は軽はずみに一人歩きし、思考はその軽さに同調して非論理的に用いられる傾向が強くなっています。話していることがわからない、筋が通らないという場面が目につくのです。今日からのWeb講話は、ある意味で「論理欠如を嘆く憂国論」です。

 

《続く》

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