「2011年3月」アーカイブ

▼ 終わりなき学び=インプットだけの切なさ

小学校6年、中学校と高校、いずれも3年、大学4年・・・・・・教育機関には「履修期間」があり、それを修了すれば「卒業」というものがあります。あなたは、あるテーマについて何かを学ぶとき、履修期間や卒業を想定していますか?

世の中、知らないことのほうが知っていることよりも圧倒的に多いのです。《未知:既知=:1》と類比してもいいくらいです。未知のうちに領域や期間を決めなければ、ぼくたちの学びは永久にさまよい続けるでしょう。未来永劫学び続ける姿勢は尊いですが、それだけでは不十分なのです。

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 自分の考えをコンパクトなメッセージに織り込むことができれば、どんなに気持がすっきりすることでしょう。たとえば「能ある鷹は爪を隠す」という格言があります。ここには、聡明さに加えて、腹黒さや計算高さも暗示されています。対偶的に表現すると、「爪を隠さないなら、能ある鷹ではない」となります。つまり、「能なき鷹は爪を露にする」ということ。昔、この諺をもじって次のような格言をつくってみたことがあります。

 「技求む鷹は爪を磨く。知求む鷹は爪を隠す。芸求む鷹は爪を捨てる」

 最初はパロディやもじりでいいのです。

 「人は理解力不足で結婚し、忍耐力不足で離婚し、記憶力不足で再婚する」は、ぼくのお気に入りの「名言(迷言)」です。この種の三拍子はホップ・ステップ・ジャンプの効果があって、わかりやすくかつ印象に残ります。

 愛憎と言ってもピンとこない。そこで、次のように表現してみます。

 「愛というコインの裏側はいつも憎しみである」

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『発想とコミュニケーションに悩む人たちへの処方箋』

 

 まず「見たまま、感じたまま」をことばに変えてみましょう、ちょうど一枚の写真を見せながら説明するように・・・・・・。これ、コミュニケーションの達人になる第一歩なのです。

 表現に困ったとき、ありきたりな形容詞に安易に頼らないで、じっと我慢して即物的なことばを使うように努めること。疲れますが、丹念にことばを選ぶ習慣をまずは身につけないと・・・・・・。

 「沈黙は金」という教訓は、「口は禍のもとだぞ」と戒めなければならないほどことばに過剰依存する風土でこそ垂れるべきもの。こんなことを奨励していると、日本では誰も喋らなくなってしまいます。日本社会では、まだまだ「寡黙よりも多弁」を教訓にすべきだし、うんと議論しなければならないテーマが一杯あります。

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 マジカルコミュニケーションの最後に控えるのはトーク、話すことです。

 ▼  「巧みな話術」と「話が伝わること」は別

 音声を発するという意味での喋ることなら誰でもできます。縁日で輪投げをしたり鉄砲で的当てしたりすることくらい誰でもできるのと同じ。下手な輪投げをしていてもコルク玉をでたらめに打っていても、いつかは景品をゲットできるかもしれません。しかし、コミュニケーションでは「いつかは当たる」では話になりません。意味を伝えねばならないコミュニケーションでは、十中八九的を射止めなければならないのです。

 相手のことなどおかまいなく喋る人がいます。しかも、そんな人を「巧みな話術の持ち主」などと持ち上げていた時代があります。「あの人は口達者で立て板に水のごとしだ」などと褒める。しかし、そんな話術は何の自慢にもなりません。話しぶりは少々たどたどしくても、きっちりとメッセージを伝えきるほうがいい。聴き手は、たとえ一方通行のコミュニケーションであっても、自分に話が伝わってくれば、そこに強い「双方向性」を感じるものです。

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 書評というのは奥深いものです。いや、単純なものです、と言ってもいいかもしれません。芸術評でもそうですが、評というのはパーソナルなものであっていい、と思います。書評に「しかるべき基準」があったら、感想も縛られることになる。これは読書の愉しみをほとんど奪うことにほかなりません。

 新刊書の書評と古い本の書評は違います。新刊書の場合は、一般の読者に先駆けて読み、それを要約するなり批評するなり、未来の読者のための何がしかの道標の役割を担います。ぼくたちが集まっている会読会でも新刊書が紹介されることはありますが、書評者は推薦しているわけではありません。「こんな本を読んでみました。こんな内容でした。こんなことを感じました。以上」です。刺激を受けて、同じ本を読むか、もう君の書評で十分と判断するかは、聞き手次第です。

Savilna会読会