第1講 マジカルコミュニケーションの06 「トーク」

 マジカルコミュニケーションの最後に控えるのはトーク、話すことです。

 ▼  「巧みな話術」と「話が伝わること」は別

 音声を発するという意味での喋ることなら誰でもできます。縁日で輪投げをしたり鉄砲で的当てしたりすることくらい誰でもできるのと同じ。下手な輪投げをしていてもコルク玉をでたらめに打っていても、いつかは景品をゲットできるかもしれません。しかし、コミュニケーションでは「いつかは当たる」では話になりません。意味を伝えねばならないコミュニケーションでは、十中八九的を射止めなければならないのです。

 相手のことなどおかまいなく喋る人がいます。しかも、そんな人を「巧みな話術の持ち主」などと持ち上げていた時代があります。「あの人は口達者で立て板に水のごとしだ」などと褒める。しかし、そんな話術は何の自慢にもなりません。話しぶりは少々たどたどしくても、きっちりとメッセージを伝えきるほうがいい。聴き手は、たとえ一方通行のコミュニケーションであっても、自分に話が伝わってくれば、そこに強い「双方向性」を感じるものです。

 ▼  「たとえば」の力

 斉藤孝著『コミュニケーション力』に次のようなくだりがあります。

  「知的な会話に聞こえるものも、構造は意外にシンプルであることが多い。簡略化して言えば、具体化と抽象化の運動の往復を二人でやるということだ。抽象的な言い方をしたあとには、『たとえば・・・・・・』と具体化する方向へ動く」

  意見というものはおおむね理屈をこねることが多くなりがちです。したがって、抽象的になるのもやむをえません。抽象的になると肩が凝るし、ギクシャクすることもあります。そこで、会話の相手が例証を求めると話がスムーズに進みます。たとえば、こんなふうに。

 「後世畏るべし、ということなんだよね」

 「たとえば・・・・・・」

 「わかりやすく言うと、私なんぞに比べて、歳も若く気力も充実しているH君などは、どんな潜在能力をもっているか計り知れない。破られそうにない記録が破られるというのは、まさに後世の力です」

 阿吽の呼吸みたいなものですが、話し手も聞き手も双方が知的会話を楽しもうという自覚があってはじめてできることです。

 ▼  「言い換えれば」の力

 「パラフレーズ」ということばを聞いたことがあるでしょう。たとえば、商品開発の現場では、言い換えや強制連想という創造技法を用いることがよくあります。既製の商品を既製のことばでネーミングしているかぎり新しい発想が浮かばないからです。

 唐突ですが、「時計」って何でしょう? 辞書では「時刻を示し時間を計る器械」などと書かれています。しかし、「時刻を知る小道具」ではおもしろくも何ともないし、それ以上発想は広がりません。そこで、「手首のベルト」とか「薄くて丸い(あるいは、角張っている)針箱」などと言い換えてやるのです。こんなことをやっているうちに、「あなたのその腕時計、実は、あなたよりも他人のほうがよく見つめている装置です」というような発想が生まれます。時刻よりもデザイン性をアピールする言い換えです。

 ▼ 陳腐な言い回し、常套句を避けよ

 「(ボールが)当たったバッターも痛いでしょうが、当てたほうのピッチャーも痛いでしょう」。この常套句、何度も野球解説者に聞かされてきました。もう耳にタコができました。よくも抜け抜けと同じことを毎度毎度繰り返せるものですね。表現力に乏しいとはこういうことを言うのです。

 他にも、「趣味と実益を兼ねた」などと言われた瞬間、ぞくっと寒くなります。他人のそんな表現に嫌気をさすような言語感性がほしいものです。

 何かの本に載っていましたが、「この道は、唐傘をさして踊りながら歩ける道だよ」という表現に創造性を感じたことがあります。さほど教養もなかった江戸時代にこんな新鮮な表現が、それこそ当意即妙で生み出されたとは・・・・・・。大いに見習いたいものです。恥ずかしいことに、先日書店で『中世のなぞなぞ』という本を立ち読みしていたら、ほとんど解けなくてがっかりしました。ことば遊びのハイレベルなこと、足元にも及びません。

 創造的表現を駆使することに躊躇してはいけません。時にはアヴァンギャルドすぎて眉をひそめられることもあるでしょうが、遠慮することはありません。独自の言語体系をもつ、ことばの発明家を目指そうではありませんか。

 ▼ 身近な話、親しみやすいトーン

 フォーマルで形式的な話しぶりは、コミュニケーションの流れに壁をつくります。過度の婉曲表現や社交辞令も同様です。だいたい堅苦しい喋り方に「魔法のことば」の出番などありません。

 自由闊達、カジュアルでいいと思います。そのほうが冒険できます。決して大言壮語はいりません。新聞の一面に載る大事件ばかりに目を奪われることなく、身近な小さなエピソードを題材にしたり例証にしたりすれば愉快で具体的なトークができるようになります。

 ▼ 現象や物象を描ければ、心象を描く力(表現力)もついてくる

 目に見えているものを描けないのに、心やアタマの中の概念を描けるはずもありません。どんな流派の画家でも、一流のアーチストはおびただしいデッサンやスケッチをこなしました。また、そうでなければ、イメージしている世界を自分の流儀でキャンバスの上に描いたりなどできないのです。

 ▼ 人は主張よりも理由に惚れる

 極論を唱えると共感性を失ってしまう。それは恐い、ゆえに無難な主張や差し障りのないことば遣いでお茶を濁すのです。こんなことをしているかぎり、魔法の力はやってきません。

 よく考えてみてください。すべての格言は一方的で極論ではありませんか。例の首相の「自民党をぶっ壊せ!」も極論だったし、太郎画伯の「芸術は爆発だ!」も極論でした。これらの言を言いっ放しにしていれば、ただの変人という烙印しか押されません。有名人はそれでいいでしょうが、ぼくたちの場合、その極端な意見に一目を置いてもらおうとすれば、鮮やかな理由づけをしなければならないのです。理由は主張よりも重要な説得要因なのです。

 下記はいずれも極論めいたメッセージです。これらのメッセージに理由づけをしたり、「たとえば」という例証を使ったりして補足してみましょう。

 1. 「所詮、世の中は男と女だ」

 2. 「信じる者は救われる」

 3.「人生なんてつかの間の花火にすぎない」

 次に、自分の部屋にあるもの、何でもいいから一つ選んで、言い換えてみましょう。時間内にできるだけ多くのフレーズを編み出してみるのです。

 語感と言語感受性。それは、語源を探ったり、ことばの潜在力を見つけたり、変に気づくことから始まります。  《第1講 終わり》

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