第4講 自分流《ことわざ解釈学》のすすめ 02
【郷に入りては郷に従え】
所変われば品も変わる。変わるのは品だけではない。国境を越えれば、価値体系も変わり、ものの見方も変わり、習慣やルールも変わる。ゆえに「郷に入りては郷に従え」なのだ。ところで、「郷」とはいったい何のことだろうか。これは、国境と言うときの「国」という概念なのだろうか。白川郷などの「郷」はかつて行政区画の単位であり、いくつかの村の集合体のことであった。よそ者がどこかの郷に入るとは、そこに「住む」こと。だから風俗や習慣に従わねばならないのは当たり前である。
英語では "When in Rome, do as the Romans do." と表現する。「ローマに行けば(住めば)、ローマ人のように振舞いなさい」である。しかし、「郷に入りては郷に従わねばならない」という強制条件と考えないほうがいい。せっかくの異郷、ふだんの自分の生き方とは違う絶好の機会として見るべきだろう。すなわち、「郷に入りては郷に従うほうが楽しい」だ。
【否認する者にではなく、主張する者に立証の責任がある】
これは裁判やディベートに流用される教えの一つ。主張する者には「なぜそうなのか」を説得する義務がある。「これを買ってください」というのは売り手の懇願だが、「これを買うべきである」という主張として読み替えることもできる。売り手は「買えばこれだけの利点がある」ということを買い手に証明する責任があるのだ。買い手は「買わない理由」を陳述する必要などない。いらないのなら、「いらない」と言えば事足りる。ゆえに、否認する者に否認の立証責任など伴わない。
【人を見て法を説け】
人によって波長も違えばイメージも違う。それを模索しながらコミュニケーションすることがたいせつだ。よく「わかりやすく、やさしく説明しなさい」と諭す人がいるが、絶対的な「わかりやすさ」や「やさしさ」などそう易々と見つからない。
かつて有名な評論家がこれを孔子の言だと書いていたが、間違いである。ここで言う法とは「仏法」のことだ。ゆえに釈迦の教えである。これから法を説く対象となる人の本質をろくに知りもせずに、口火の切りようがない。普遍的であるはずの仏法ですら、相手次第でトーンが変わる。何でもかんでもわかりやすくやさしければいいというものではない。
【人は見かけによらぬもの】
『人は見た目が9割』というようなバカらしい本がある。仮にこれが事実であっても、「見た目」など人それぞれではないか。これが絶対真理であるとしても、他人を見て評価する人間の見る目がそもそも危ういのである。見た目が本質の9割であるならば、もう入学試験や入試試験をやめて面接だけにすればいい。
第一印象は不確かなのである。眼力ある人事部長などめったにいないのである。「この目で間違いなく見た」ということのいい加減さ、人の価値判断の無能ぶりを知るべし。同じ極論をするのなら、「人はことば遣いが9割」や「人は言語能力で決まる」のほうがうんと信憑性があると思う。
【一を聞いて十を知る】
一を聞いて勝手に十を解釈し、十を聞いているのに一しか学ばない人たちが多い時世にあって、これは貴重な意気投合の精神訓である。この諺は波長や「打てば響く」のようなツーカーを重視すると同時に、知に関するぼくたちの成長について密かに暗示しているように思われる。
青春時代なら、十を聞いて一しか学べないのもやむをえない。壮年期に入れば十を聞いて半分程度は残したい。熟年を過ぎれば、この諺のようになりたいものである。ぼくの目指すのは、「何も聞かずに何でも知る」という、無から有を生じるような境地である。夢は叶わぬかもしれないが、そうなりたいと思っている。
【急がば回れ】
「急いては事を仕損じる」に通じる。真反対ではないが、これに相反するのが「善は急げ」や「思い立ったが吉日」だろう。よいことやよくなるということが事前にわかっているのなら、急ぐことを躊躇することはない。新幹線に乗り遅れそうなときや救急車が人命救助に向かうときは、迂回などしてはいけない。何をさておいても急ぐべきだろう。
この諺の尊さは、「正道は遠回りするものだ」という教えにある。本物を求めたければ、安直な方法をやめなさいと読み替えてほしい。但し、ビジョンのないユックリズムではただのノロマになってしまう。ちなみに、世界の生き方は、《ファーストライフvs スローライフ》の構図になってきたが、ぼくは《ファーストビジネス&スローライフ》のよき実践者でありたいと願っている。
《続く》