第4講 自分流《ことわざ解釈学》のすすめ 03

 

【十人十色】

人はみな違い、人にはみな固有の価値があるということ。当たり前と言われそうだが、実際にこのことは強く認識されているのか。もし認識されているのなら、「きみ、人間なんてみんな同じなんだ」と説教する者がそこらじゅうにいるのはどういうわけだろう。

十人十色の潜在的な可能性が賦与されているにもかかわらず、ぼくたちはその可能性に開かれた生き方を拒んでしまう。ともすれば、〈十人一色〉や〈金太郎飴的個性〉に安住してしまうのだ。人は生物学的にはみな同じなのだろうが、精神的にはみな違っているのである。

 

【彼も人なら我も人なり】

〈アレキサンダー大王も泣き虫ベイビーだった〉とも言う。十人十色と正反対なのだが、実は十人十色という基本を踏まえるからこそ、人類が本質においてそれほど大差がないことにも理を認めるようになるのである。

ヨーロッパを基点にすれば、当時の世界には中国も南北大陸もなかった。きわめて狭い世界ではあったのだが、アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)は世界を制覇した。このマケドニアの王は33歳の若さで世を去った。ちなみに、アリストテレスが家庭教師だったこと、それにトランプのハートのキングのモデルであることはよく知られている。

 

【勝って兜の緒を締めよ】

敢えて勝負の世界に身を置くのなら、「勝てば官軍」とともにこの心得を肝に銘じて、潔くかつ謙虚でありたい。古今東西を問わず、敗者に鞭を打つよりも、勝者や成功者に警鐘を鳴らすものが多い。タキトゥスの『年代記』には「地位が高くなるほど足元が滑りやすくなる」という、耳の痛い箴言も見える。勝利の直後が一番危ういのである。

なお、「勝って傲(おご)らず、負けて倦(う)まず」も勝負事の基本精神として覚えておきたい。負けたからといって自暴自棄になってヤケ酒を飲んでいたら、負け癖のついている人間はいくら金があっても足りなくなるだろう。

 

【聞くは一時の恥、聞かぬは末代までの恥】

この諺を通じて、虚栄心がいかに学びの精神を曇らせ、創造から人を遠ざけていることかを思い知る。但し、この諺には全面的に賛同しかねる。聞くことは一時の恥どころか、とてもすばらしい良識だということである。知らないから聞く、関心があるから問うのは自然な好奇心の発露であって、一時的であっても恥じることなどまったくない。と同時に、「聞かぬは末代までの恥」という後段の恥も恥などではない。それをただの無知と呼ぶのである。

 

【弘法筆を選ばず】

いつになっても自分だけに有利な、完全な条件など整わない。だからこそ、時には「弘法も筆の誤り」なのである。少しことばを補うと、時々誤っていてはこの諺は成り立たない。ましては、「弘法もよく筆の誤り」などと勝手な解釈をしてはいけない。名人や錬達の士だって間違ってしまうが、それは千や万に一度くらいでないと話にならないのである。なお、空海には失礼な比喩になるが、サルも千や万に一回しかミスしないので「サルも木から落ちる」なのである。ぼくは決して木から落ちない。なぜなら、木に登らないからである。

さて、「弘法筆を選ばず」とは言うものの、弘法だって小さな文字を書くときにペンキの刷毛だったら困ったに違いない。弘法にはお気に入りの筆があったと推察できる。しかし、その筆がないからといって、ぶつくさ言わないということだ。与えられた道具や環境で虚心に仕事をして生きていく―こんなふうに読むのが正しい。

 

【思い立ったが吉日】

昔ながらの暦には大安、仏滅、友引などと日付に印刷されている(念のために使っているビジネス手帳を見たら、そこにも印刷されていた。カレンダーの体裁の新旧とは関係なさそうだ)。この諺の教えによると、絶対的な吉日などないということである。何か(言うまでもなく、良いこと)を思い立つその瞬間が行動のタイミングなのだ。「鉄は熱いうちに打て」もよく似た意味である。どんなに物質的に有利な条件も、時宜を得た「思い」というエネルギーには勝てない。但し、吉日ではあるけれど、成功まで保証はされていない。失敗の可能性だってある。それでも、「遅い失敗より早い失敗」のほうがいいのである。結果を心配する前に、良いことを思い付けばグズグズせずにさっさと行動してしまえばいいのである。

《続く》

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