第4講 自分流《ことわざ解釈学》のすすめ 04
【空腹にまずいものなし】
はたしてほんとうにそうなのだろうか。たまたま朝食を抜いてしまった日の午前中、慌ただしく仕事に追われ、気付けば午後1時過ぎ、というようなことがある。とてもお腹が空いている。飢えていると言ってもいい。ランチに行き、客もすっかり引いた後の店で口に入れるまずいカレーライスが、化学反応を起こしておいしくなるだろうか。まずいものはまずい! この諺の「空腹」は想像を絶するほどの空腹なのに違いない。あるいは、こう言い換えてはどうだろう、【満腹にうまいものなし】。むしろこちらに信憑性がありそうだ。
但し、「空脳(くうのう)にムダな知識なし」は成り立つ、いや、これを成り立たせなくてはいけない。空脳とは「偏見すらない、ハングリーなアタマ」であるから、どんな知識も吸収できる。知識の値踏みをすることもない。もともと大した知識がない状態なのだから、贅沢を言わずに何でも学べるはず。身につくかどうかはわからないが、無能の歯止めになれば御の字ではないか。
【苦は楽の種】
この諺を見るにつけ、いつもアリとキリギリスを連想する。キリギリスは最初に〈楽〉を取るので、後でツケを払うことになる。ツケとは「苦の貨幣」である。ゆえに「楽は苦の種」になる。他方、アリは〈苦〉を通じて蓄える。蓄えは「楽の貨幣」になってくれる。ゆえに「苦は楽の種」である。
キリギリスの宿命はその通りだろう。だが、アリに関してはどうか。勤勉に働くことがアリにとって〈苦〉であるとはかぎらない。嬉々として働いているのかもしれないではないか。すると、「楽は楽の種」になる。これが一番いい。
この諺を「蒔かぬ種は生えぬ」とともに噛みしめておきたい。練習転じて好記録となる。抱かない卵は孵化しない。数百の階段を上りつめないと、鳥たちが楽々と俯瞰している絶景を楽しめない。硬い殻を割らなければクルミの実にありつけない。
【好きこそ物の上手なれ】
好きなことには一所懸命に取り組む。寝食を忘れるほど三昧境地に入れる。結果的には長い時間を好きな対象に注ぐことになるので、上達する可能性はある。けれども、「好き」というのは上手になるための一要因にすぎない。上手を約束する要因がたった一つであるはずはないだろう。
アリストテレスが次のようなことを言った。「(・・・・・・)人は一番よく好む事柄に対して、一番よく好む能力を働かせて活動するとき、活動が愉しみとなり、追求する人生を完成させる(・・・・・・)」(『ニコマコス倫理学』)。好きなことだけでは不十分で、好きで自信のある能力や技能を用いなければならないということだ。つまり、絵が好きで観察眼にすぐれ手先が器用というように、能力や技能が伴わなければならないのである。好きになる情熱を燃やさねば話にならないが、これは最初の第一歩である。
【名物にうまいものなし】
ブランドや権威は、たいてい上げ底されているか、過剰かつ異常に増幅されているものである。有名か無名であるかは、実質価値とあまり関係はない。名物とはブランドである。うまいものとは実質価値である。もちろん名物として評判になるまでには、信頼の積み重ねがあったことを認めよう。だが、評判が時として実質価値を上回る。名物の作り手の責任ではなく、市場による過剰評価のせいである。そこに安住していると、名物への空回りの期待値だけが大きくなる。その結果、「思ったほどではないな」というつぶやきになるのである。がっかり名物、がっかり名所、がっかり名士・・・・・・あちこちに存在している。
【残りものに福あり】
残りものとは世間一般が価値を見出ださないものだ。つまり、残念ながら、ひとまず選ばれなかったのである。しかし、まだ選ばれていないのは、選ばれる可能性を秘めているということである。選ばれてしまって、もはや残っていないものに「のりしろ」はない。残りものであることの劣等感さえ捨てきることができれば、マイナーゆえの未来は明るいのである。
今という時代に適合できない価値ほど、明日に出番があるかもしれないではないか。こんなことを未婚のアラフォーに話してあげたら、「慰めはやめてください」と言われた。せっかく〈福〉であることを認めてあげたのに、自分で諦めていてはいけない。
【論語読みの論語知らず】
この諺ほど真理を照射しているものはめずらしい。論語の内容が時代の価値観や自分の生き様と大きくずれているなら、いくら論語を読んでも身につかないだろう。共感することと実感することは違うのである。
勉強はほどほどに。百を学んで十を知り、一しか実行できないようでは、知的赤字人間、破産人間である。学びが学びのための学びに堕した瞬間、人はたちの悪いバカになる。スペシャリストのためのスペシャリストが典型的な例だ。
《続く》