第4講 自分流《ことわざ解釈学》のすすめ 05
【習慣は第二の天性なり】
生まれつき備わっている性質や能力が天性である。優劣いろいろあるが、意思や努力と無関係なものだから、威張るのも嘆くのもいただけない。ただ「これが天性だ」と見つめるのみである。
但し、放っておいても芽が勝手に出てくるものではない。潜在的なものなので、芽が出るように育て上げなければならない。顕在化しない天性を「天性」だと気付くことはできないのである。潜在力を顕在力に変えるのが「習慣」である。天性の配分に不満がある者ほど、この第二の天性の形成に努めるべきだ。いい習慣を身につけると、いい知恵が生まれ、いい仕事ができるようになる。
生来の天性同様に、第二の天性も良くも悪くもなる。ちなみに、いい習慣が身につくには何百日、何千日もかかるが、好ましくない習慣は一日もあれば十分に身についてしまうので注意が必要だ。
【住めば都】
この諺の「都」はいい意味である。「こんな場所は嫌だなあ、暮らしにくそうだなあ」と思っていても、しばらく住んでいると慣れてくる。「ここは案外快適でいい場所かもしれない」となるわけである。
適材適所という便利な熟語がある。企業経営、スポーツ、舞台・・・・・・何でもこの四字で済ますことができる。しかし、はじめに「適材」などがありうるはずもない。総じて人は環境に適応する。だから、はじめに場があって、その場に順応するべく人が適材になっていくのである。そう、場所が人間をつくる、すなわち「適所適材」なのである。日本で生まれるから日本語を喋る適材になり、アメリカで生まれるから英語を喋る適材になったのである。したがって、「おい、お前、明日から首相になってみろ」と言われれば、たいがいの人間にその役が勤まるだろう。
【宝の持ち腐れ】
西洋にはたしか「閉じられた本はレンガである」という表現があった。まったくその通りだが、レンガで家を建てることはできるが、閉じられた本は家の建築資材にはならない。つまり、レンガ以下の価値しかないことになる。めったに抜かなくても「伝家の宝刀」がブランドになりうるのに対して、持ち腐れになるような宝はもともとあまり価値がないのだろう。
年に一回しか見せてもらえない宝物があったり見学すら許されない史跡があったりする。使いもせずに独占所有する姿勢に見切りをつけてもらいたい。ぐだぐだ言わずに、宝を生かそう。できればみんな一緒に共有共用しよう。そのほうがたぶん宝の値打ちは大きくなる。
【足ることを知れ】
充足することを学べないのは人間だけなのだろう。お腹一杯になったライオンは、目の前を疾駆する草食動物に目もくれない。遅めに奈良公園にやってきた観光客は鹿せんべいを食べてもらえない。鹿たちはすでにお腹いっぱいなのである。
深夜まで宴会で盛んに飲み食いしていたくせに、旅館の朝食バイキングで早朝から腹一杯になるのは恥ずかしいことである。一泊二日の小旅行に何着も何足も着替えというのも滑稽だ。海を渡ってくる燕は、翼以外に一切の旅行用品を携帯していないではないか。足ることを知るとは持たぬことを学ぶことにほかならない。
【罪を憎んで人を憎まず】
フェアなゲームスピリットの精神である。意見に反論しても人格否定をしてはいけない。袈裟が嫌いでも坊主を憎んではいけないのである。そうは言うものの、意見も服装も人間とは不可分の属性に見えてしまう。だから、嫌いな人間の意見を嫌い、嫌いな坊主の袈裟を嫌うのはやむをえないように思える。憎い人間の罪を憎み、愛すべき人間の罪を許すのが人の常ではないか。だからこそ、この諺は努力目標を設定しているのである、「罪を憎んで人を憎まないような人間になりましょう」と。
【柳の枝に雪折れなし】
硬くするからポキッと折れる。遊びをつくらないから歯車が回らない。しっかり作ったロボットは歩けない。固定は死なり。柔よく剛を制すとも言う。ただ、柳の枝が重い雪に対して折れることなく耐えているのを見たことがないので、この諺の信憑性は不明である。「柳の枝は桜の枝に比べれば雪折れしにくい」というのが妥当だろうか。
【よく学びよく遊べ】
なにしろ「遊びをせんとや生れけむ」(梁塵秘抄)なのである。おそらく学びと遊びに境界線などなかった。そんなものは近代的教育制度が生まれる以前にはまったくなかったと思われる。人には、ただ何事かを「よく」することがあるのみである。
遊んでいるつもりが、実はまったく遊べていないというのは「よく遊び」に反している。芸や仕事のこやしになっていない遊びも偽物である。そんな遊びは学びの成果をも吸引してしまう。学んでいることが遊びのように楽しく、遊んでいることが学びのように意義深いというのが理想だろう。
《終り》