第5講 スピーチとエッセイの技法01
基本の話(上)
「スピーチ」ということばはずいぶん色褪せてしまいました。結婚式や儀礼的な総会以外にあまり出番のない、古色蒼然とした技術のように見えてきます。スピーチには、おもしろくない話を相手にお構いなく披露するというイメージがつきまとっています。
演説やあいさつの技術を磨こうという講座ではありません。複数の人々を相手に話すとはどういうことなのかを考えて、話しことばの最大公約数的な技術についておさらいしてみたいと思います。
話法をできるかぎり一対一の対話に近づければ、自ずから理想のスピーチになります。たとえそこに大勢の人たちがいても、大言壮語せず自己陶酔に陥らず、普段着のことばでメッセージを伝えればいいのです。自分の個性からかけ離れてはいけません。スピーチの本には「ジョークをはさめ」と書いてありますが、ジョークの苦手な人はそんな無理をしてはいけないのです。
なお、話すことも書くことも大きな違いはありません。したがって、スピーチの技法の大半はエッセイの技法にも通じます。エッセイについても何回目かに取り上げるつもりです。
基本の心得が1ダースほどありますが、今日はその半分の6箇条について。
1 「見たまま、感じたまま」をことばに
話法の基本は写実です。絵画と同じくスケッチです。ちょうど一枚の写真を見せながら説明するように、イメージとことばをきちんとつなぐのです。これは誰もが通らねばならない道ですが、いい加減に済ませてしまっています。
但し、見ること感じることを適切に細密に表現できるようになるには、逆説的ですが、ことばを試行錯誤しながら使わねばならないのです。ことばを浪費してこそ、写実が可能になります。
2 即物的なことばを使う
表現に困ったとき、適当な用語でごまかさないこと。とりわけ、ありきたりな形容詞に安易に頼らないで、じっと我慢してイメージを見つめるように努めます。これはきわめて大きな労力を要しますが、丹念にことばを選ぶ習慣は不可欠です。話すときに黙って単語を探しているわけにはいかないので、書くときにこの適語探しをするのです。
ことばは便利な道具であり、かつ有用な武器ですが、意識しなければアバウトに使ってしまいます。語彙が少なければ少ないなりに適語探しをせねばなりません。
3 寡黙よりも多弁
「沈黙は金」という教訓は、「口は禍(わざわい)のもとだぞ」と戒めなければならないほどことばに過剰依存する風土でこそ垂れるべきものです。わが国はまだそんな段階に達していません。日本人は駄弁は多いが、まともに論理の線で話すことはめったにありません。喋るばかりで、伝えようとしていないからです。
この国では、お偉い方々の世界も身近な場面も、御座なりなコミュニケーションで凌いでいるフシがあります。まだまだ言語未成熟社会と言わざるをえないのです。
4 言語理性と感受性
何事にも敏感でありたい。とりわけことばの感受性(語感)を研ぎ澄ましたいと誰もが思っています。感受性とは「気づき」のことです。変化には気づくけれど、無変化には気づかないというのでは本物の感受性とは言えません。同様に、ことばの類似と差異にも気づく。どんなことにも耳目を開き、ことばの違い、語感の違いを感知しましょう。
しかし、感受性というのは理性に根ざしたものです。表現先行していては、メッセージは誰にも伝わりません。
5 なぜちょっとしたことに気づけないのか
自分勝手に「こうに決まっている」と決めつけて見聞していると、情報感受性は鈍くなります。つまり偏見や先入観が視野を狭め、その結果、実際は見えたり聞こえたりしている物事に気づかなくなってしまうのです。
しかし、「こうに決まっている」と考えるのが原因なのだから、その原因を変えればよろしい。そう、「何事も決まっていない」という意識訓練です。たとえ知っていることでも、すべてを未知としてとらえる姿勢です。
自分は分かっているつもり、相手は分かっているだろう―こんな安直な読みや甘えがコミュニケーション不活性の重大な原因になっています。
6 情報を伝えることのむずかしさ
知っていることを他人に伝える、共有してもらう―実はたいへんなことだということを再認識してください。伝えたい思いとその思いを表現することばのギャップはつねについてまわります。しかし、たいていことばのほうが不足します。
《続く》